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自閉症の嘘と遅すぎた悔い

自閉症の嘘と遅すぎた悔い

Oleh:  干物一匹Tamat
Bahasa: Japanese
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私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)の亡くなった初恋の女性――小山由香(こやま ゆか)を、実の母親だと思い込むようになった。 直輝の病状をどうにか抑えるために、私は六年ものあいだ、夫の初恋を演じ続けてきた。 好きでもない服を身につけ、鏡の前で何度も由香の笑い方や仕草をなぞる。そうしているうちに、私はすっかり自分を失い、彼女の残像の中に自分を埋もれさせていた。 ところがある日、私は思いがけず暁人と直輝の会話を聞いてしまった。 「やっぱりパパの作戦ってすごいよね。僕が自閉症のふりをしてれば、おばさんは僕に気を遣って、ちゃんとママみたいになってくれるんだもん」 「いつまでもおばさんなんて呼ぶなよ。お前は俺と由香の体外受精で生まれたにしても、実際に腹を痛めて産んだのは秋穂なんだ」 六年間も私を縛りつけてきた自閉症は、最初から存在しなかった。それどころか、十か月もお腹で育てて産んだこの子でさえ、私の子どもじゃなかったのだ。 全身が一気に冷え込み、私は震える指で、大富豪の息子に電話をかけた。 「あなた、前に『ママになってほしい』って言ってたわよね。いいわ、なってあげる」

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Bab 1

第1話

私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)の亡くなった初恋の女性――小山由香(こやま ゆか)を、実の母親だと思い込むようになった。

直輝の病状をどうにか抑えるために、私は六年ものあいだ、夫の初恋を演じ続けてきた。

好きでもない服を身につけ、鏡の前で何度も由香の笑い方や仕草をなぞる。そうしているうちに、私はすっかり自分を失い、彼女の残像の中に自分を埋もれさせていた。

ところがある日、私は思いがけず暁人と直輝の会話を聞いてしまった。

「やっぱりパパの作戦ってすごいよね。僕が自閉症のふりをしてれば、おばさんは僕に気を遣って、ちゃんとママみたいになってくれるんだもん」

「いつまでもおばさんなんて呼ぶなよ。お前は俺と由香の体外受精で生まれたにしても、実際に腹を痛めて産んだのは秋穂なんだ」

六年間も私を縛りつけてきた自閉症は、最初から存在しなかった。それどころか、十か月もお腹で育てて産んだこの子でさえ、私の子どもじゃなかったのだ。

そのすぐあと、暁人の気だるげな声がまた聞こえてくる。

「お前はこのまま病気のふりをしてろ。秋穂を、お前の母さんそっくりの女に作り替えるんだ。

そうだ、一か月後はお前の母さんの誕生日だ。秋穂を使って派手な結婚式を挙げて、昔お前の母さんが願っていた俺との結婚って夢を、きっちり叶えてやらないと。

誕生日が終わったら、おばさんじゃなくて、ちゃんと恩をわきまえて、ママって呼べよ」

人は悲しみの極みに達すると、もう泣くことすらできない。膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちる。こみ上げる吐き気を必死に手で押さえたとき、その音に気づいたのか、中から男の声が飛んできた。

「誰だ?そこにいるのは」

刃物のような鋭い視線が、警戒心むき出しのまま私を貫く。

父子の前に出ていくと、「今来たばかりで、何も聞いていないのか」と何度も確かめられた。

私が同じ答えを何度も繰り返したあとで、暁人はようやく胸をなでおろした。

「どうした?転んだのか?」

「うっかり足をくじいただけ……」

そして、彼は私の膝をすくうように腕を差し入れ、そのまま軽々と抱き上げて、捻った足首の手当てをしに連れて行った。

何千億円もの売り上げを誇る会社の社長が、こんなふうに自分の手で世話を焼いてくれることを、以前の私は幸せだと錯覚していた。けれど今は、胸の奥がむかつくだけだ。

直輝が良くなりそうな治療の糸口を見つけるたびに、暁人は必ずそれを止めに入った。

「自閉症は病気じゃない。生まれつきの神経発達の問題で、簡単に治るものじゃないんだ。お前がそんなことで無理をすると、俺のほうがつらくなる。

直輝がどうであっても、俺はあいつを愛してる。俺たちの愛の証だからな。一生かけて、俺が守ってやる」

あの自閉症にほころびがあったことなど、ずっと前から気づけたはずだ。

でも私は、甘い恋の夢に浸っていた。暁人がつくり上げた嘘を疑おうともしなかった。

「今回のことが片付いたら、もう外には出るな。家で直輝の面倒だけ見ていればいい。

怪我なんかしていたら、由香みたいに見えないだろ。直輝が見たらショックを受ける」

しゃがみ込んだ暁人が、そっと私の足に靴を履かせる。そのまま見上げてくるまなざしは、まるで神様でも拝むように熱くて、深い愛情と執着が混じっている。

けれど、私の胸に浮かんでくるのは、ただ一つの問いだけ――あなたが怖いのは、本当に直輝がショックを受けること?それとも、私が由香の輪郭から外れるのが怖いだけ?

「暁人、あなた、本当に私のことを愛してるの?

まだ……亡くなった由香を想ってるんじゃないの?」

私がそんなことを口にするとは、暁人も思っていなかったのだろう。これまで私は、彼の「愛してる」という言葉を、一度も疑ったことがなかったのだから。

少し間をおいてから、暁人は少し拗ねたような色を帯びた視線で私を見つめる。

「俺が愛してるのはお前だよ。もうこの世にいない人間なんて、比べるまでもないだろ。

この何年、俺がどうお前に向き合ってきたか見てきたはずだろ?それでもまだ、俺の愛が信じられないのか?」

暁人が私に一目惚れしたのは、二十歳のときだった。

母のお墓の前で、誰にも言えない愚痴をぶちまけて、ひとりで帰り道を歩いていたとき、突然、空が裂けるような土砂降りの雨が降り出した。

理由もなく、私は涙が止まらなくなっていた。

そのとき、不意にひとつの影が視界に飛び込んできた。顔を上げると、そこには若く気品をまとった暁人が立っていた。失っていたものをようやく取り戻したような視線が、まっすぐに私を捉えていた。

女の子をどう慰めていいのか分からなかったのだろう。彼はポケットや鞄をまさぐり、差し出せるものを探した。そして、ようやく見つけた傘と花を、そっと私へ差し出した。

「その目は、とてもきれいだ。だからもう泣かないで」

その日を境に、暁人は、容赦がないほど熱心に私を追いかけてきた。ギャンブルに溺れた父の借金を一人で背負っていた私を、何度となく救い上げてくれた。
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第1話
私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)の亡くなった初恋の女性――小山由香(こやま ゆか)を、実の母親だと思い込むようになった。直輝の病状をどうにか抑えるために、私は六年ものあいだ、夫の初恋を演じ続けてきた。好きでもない服を身につけ、鏡の前で何度も由香の笑い方や仕草をなぞる。そうしているうちに、私はすっかり自分を失い、彼女の残像の中に自分を埋もれさせていた。ところがある日、私は思いがけず暁人と直輝の会話を聞いてしまった。「やっぱりパパの作戦ってすごいよね。僕が自閉症のふりをしてれば、おばさんは僕に気を遣って、ちゃんとママみたいになってくれるんだもん」「いつまでもおばさんなんて呼ぶなよ。お前は俺と由香の体外受精で生まれたにしても、実際に腹を痛めて産んだのは秋穂なんだ」六年間も私を縛りつけてきた自閉症は、最初から存在しなかった。それどころか、十か月もお腹で育てて産んだこの子でさえ、私の子どもじゃなかったのだ。そのすぐあと、暁人の気だるげな声がまた聞こえてくる。「お前はこのまま病気のふりをしてろ。秋穂を、お前の母さんそっくりの女に作り替えるんだ。そうだ、一か月後はお前の母さんの誕生日だ。秋穂を使って派手な結婚式を挙げて、昔お前の母さんが願っていた俺との結婚って夢を、きっちり叶えてやらないと。誕生日が終わったら、おばさんじゃなくて、ちゃんと恩をわきまえて、ママって呼べよ」人は悲しみの極みに達すると、もう泣くことすらできない。膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちる。こみ上げる吐き気を必死に手で押さえたとき、その音に気づいたのか、中から男の声が飛んできた。「誰だ?そこにいるのは」刃物のような鋭い視線が、警戒心むき出しのまま私を貫く。父子の前に出ていくと、「今来たばかりで、何も聞いていないのか」と何度も確かめられた。私が同じ答えを何度も繰り返したあとで、暁人はようやく胸をなでおろした。「どうした?転んだのか?」「うっかり足をくじいただけ……」そして、彼は私の膝をすくうように腕を差し入れ、そのまま軽々と抱き上げて、捻った足首の手当てをしに連れて行った。何千億円もの売り上げを誇る会社の社長が、こんなふうに自分の手で
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第2話
私たちは、ごく自然な流れで結婚した。結婚してからも、暁人の私への情熱は冷めるどころか、増す一方だった。私と目がそっくりだという初恋の人の存在を知ったとき、暁人は一切ためらわず、由香にまつわるものを全部消し去った。さらに、車の事故では、身を張って私への愛を示した。もし直輝の自閉症がなければ、もしあの子が、暁人の手元に残っていた由香の最後の写真を見つけなければ。私はきっと、世界でいちばん幸せな女だった。けれど、世の中にもしもなんて存在しない。溢れるほどの愛だと思っていたものは、すべて暁人が綿密に仕掛けた罠にすぎなかった。すべては、彼の初恋を蘇らせるためだ。私の腹で、由香との子を産ませるためだ。「悪かった。俺が不安にさせたんだよな。来月、お前のために世間が羨むような盛大な結婚式をしてやる。そのときになったら、もう俺の気持ちを疑ったりしないだろ?」私がしばらく黙り込んでいると、暁人はそっと立ち上がり、なだめるように軽くキスをしてきた。彼はキスが上手い。ひやりとした感触が鼻先に触れた瞬間、抑えようとしていた鼓動が、一気に速くなっていく。「ここに、ホクロをひとつつけようか。お前の鼻、すごくきれいだからさ」バケツ一杯の冷水をぶちまけられたような気がして、私は勢いよく暁人を突き飛ばした。由香の鼻先には、人を惹きつける小さな美人ほくろがあったのだ。その瞬間、私は暁人に対して、きれいさっぱり心が死んだ。頭に浮かぶのは離婚の二文字だけだ。それでも、直輝のことだけは、心のどこかで手放せずにいた。さっき滑らかに言葉を話す彼を実際に見たって、焦点の定まらない目のまま一言も発せずにいた直輝の姿が、やはり焼きついたまま頭から離れない。私は、海外でようやく手に入れた高級パズルを抱え、涙を拭って直輝の病室に入った。「直輝、見て。ママ、こんなの買ってきたんだ。一緒に遊ぼう」直輝は私を一瞥することもなく、ベッドの上で黙々とルービックキューブをいじっている。キューブを揃えるその速さは、とても普通の自閉症の子どもにできるものとは思えなかった。前の私は、直輝は高機能自閉症なんだと信じていて、いつかきっと治ると期待していた。けれど今は、はっきり分かっていた。芝居じみた病気には、もともと治しようがない。私がどれだけ必死に頑張っても、
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第3話
私は直輝の肩を持つように、自分に言い聞かせた。悪いのは、服を間違えた私だと。いつもなら、彼に会う前にちゃんと白いワンピースに着替えていたのに。けれど、読み進めるうちに、物語の文面とともに私の顔色はどんどん青ざめていく。「パパはママのことが恋しすぎて、毎日ママのお墓に通っていた。そして、ある日、パパは、ママに目がそっくりな女の人を見つけた……」直輝が持ってきた日記帳にあるその物語は、「パパ」が「ママ」をどれだけ愛しているかで埋め尽くされ、さらに、私という「おばさん」が子どもを産むためだけの替え玉だともはっきり書き込まれていた。もうどうしても読み続けることはできないのだ。直輝が、私の二の腕に青あざができるほど力をこめてつねり上げても、もう無理だ。私は本を閉じて立ち上がり、その場を離れようとした。だが、直輝が私の腕をつかむ。どこか壊れたような、ねじれた響きの声で、まるで私の運命を宣告するかのように物語の結末を告げる。「最後はね、おばさんが交通事故で記憶をなくすの。おばさんは自分のことを全部忘れちゃう。そしたらやっと、『ママ』が僕たちのところに帰って来るんだよ!」悪魔だ!私は恐怖と戦慄で、全身の震えが止まらない。直輝に対してかすかに残っていた期待も、その瞬間に完全にすり減って消えた。私は、逃げ出すようにその私立病院を後にした。直輝はきっと、私がすべてを聞いていたことに気づいている。そうなれば、暁人の耳に届くのも時間の問題だ。――今すぐ、この親子から逃げなければならない。私は、ファレン国一の大富豪の息子に電話をかけた。「凛斗、前に言ってたお礼、まだ有効かな?」ファレン国で直輝の主治医になってくれそうな医者を探していたとき、私は地震に巻き込まれた星野凛斗(ほしの りんと)の命を救った。それ以来、彼はずっと私に「僕のママになってほしい」とねだってくるのだ。私からすれば、あれはほんのささいな親切にすぎない。だから彼が申し出てくる恩返しは、これまで全部断ってきた。今になってその恩にすがろうとするなんて、さすがに自分でも図々しすぎるんじゃないかと思う。「じゃあ、汐見おばさん、僕のママになってくれるってこと?」私はしばらく黙り込み、凛斗の父とはまったく縁もゆかりもないことを思い出して、結局、離婚を手伝ってほしいな
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第4話
まさか直輝に突き飛ばされるとは思ってもみなかった。平手打ちが雨あられのように体に降り注いだとき、私を真っ先に襲ったのは、肌に走る鋭い痛みではなく、胸の内側をかきむしられるような激しい心の痛みだった。「おばさんは優しくもないし、従順でもない。少しでも思いどおりにならないと、すぐ逃げ出そうとする。自分のことしか考えてなくて、いつまでたっても直らない!そんなおばさんなんか、ぼくのママじゃない!」この体から産み落としたはずの子が、またしても言葉で私の古傷を容赦なくえぐり返す。もう、前みたいに黙って我慢なんかしていられない。私は起き上がって、馬乗りになっていた直輝を押しのけた。「私なんか、あなたのママにふさわしくないよ。だったら、もう放して!どうして、そこまでして無理やり連れ戻したりしたの?」床に倒れ込んだ直輝は、呆然とした顔で私を見上げた。自分を何より大事にしてきたこの私が、反撃してくるとは思いもしなかったのだろう。けれど、彼が逆上するより早く、暁人が私の下腹を容赦なく蹴りつけてきた。その衝撃で、私は床に転がる。「よくも直輝を傷つけたな!直輝は、由香がこの世に残していったたったひとつの形見なんだぞ。それをお前が傷つけるなんて、許せるわけがない!」暁人の目の奥に渦巻く激しい怒りと、愛した女への未練を見ていると、蹴られて悪化した持病の胃の痙攣さえ、もうほとんど感じなくなっている。私はただ呆然としたまま、暁人が執事に「代償を払わせろ」と言いつけるのを見ていた。そして、箸ほどの太さの針が指先に突き立てられ、バットが何度も背中に振り下ろされても、そのすべてを、成り行きに任せるように受け入れるしかなかった。「なぜ声も上げないの?痛いよね?」罰が終わると、暁人はまた、あの見せかけだけの優しさをまとった声でそう言った。けれど、私はもう取り繕う余裕なんて一ミリも残っていない。「痛いなんて叫んだら、由香のことを思い出して、かわいそうになって手が止まるからでしょ?ねえ、暁人、あなたは私を何だと思ってるの?出来損ないの代役?それとも、あなたと由香の子どもを宿すためだけの器?」暁人の表情に、ほんのわずかな動揺が走った。あの日、本当のことを私が全部聞いていたなんて、想像もしていなかったのだろう。彼はしばらく言葉を失って、黙
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第5話
ファレン国で私が助け出したあの子――凛斗が、その国一の富豪と名高い父の星野一成(ほしの かずなり)を引き連れて、ドアを蹴破るように飛び込んできた。そのすぐ後ろからボディーガードたちがなだれ込み、暁人と直輝を四方からがっちりと取り囲む。「倉沢製薬の社長が、今ご自分の妻に何をしているつもりなんだろうね。よければ、倉沢製薬が今回どんな新薬を開発してるのか、こっちで世間に全部公開してあげようか。消費者の皆さんも、大喜びだろう」私設記者たちのカメラとマイクが一斉に暁人へ向けられる。暁人はとっさに私の前へ出て、視界を遮り、平然と口を開く。「妻の体調を整えるための、ちょっとした秘伝の療法にすぎない。それより星野社長、あなたほどの方が、こうして他人の家に無断で踏み込むなんて……世間に何を言われても、まったく気にならないのか?」一成は、暁人と口喧嘩をする気などかけらもないというふうに、つまらなそうに片手を振った。その合図ひとつで、ボディーガードたちが一斉に動き、倉沢父子を床に押し伏せ、強引に跪かせた。そして、私の手足を締めつけていた拘束帯を素早く外してくれた。凛斗は、私の体中にハリネズミみたいに針が刺さっているのも構わず、勢いよく抱きついてきて、「わっ」と声を上げて泣き出した。「ごめんなさい、汐見おばさん……助けに来るの、遅れちゃった」子どもの熱い涙が胸の奥にじんと染みて、くたびれ切っていた身体に、また力が戻ってきた。私は凛斗をぎゅっと抱きしめて、「大丈夫だよ」と、何度も何度もやわらかく囁いた。「お前、いつ星野一成とつながったんだ?」「どうして、よその子どもなんかに優しくしてるんだよ?」床に膝をついたままの暁人と直輝が、怒りで震える声を揃えて私を責め立てる。けれど私は、もうあの二人の怒りなどどうでもよかった。凛斗の手を引き、一成のもとへ行き、丁寧にお礼を告げた。「取引にしましょう、倉沢社長。汐見秋穂さんと離婚していただきたい。好きに条件を出しなさい」直輝が真っ先に言い返す。「ママとパパは、ずっと一緒にやってきたんだよ!お金でどうにかできることじゃないよ!」しかし振り返った彼が見たのは、真っ黒な表情で黙り込んだままの暁人の姿だ。一成はふっと笑い、彼らが私への拷問じみた所業を収めた映像と、倉沢製薬が関わる大型プロジェ
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第6話
それから、暁人は由香の家族に執拗な報復を始めた。ほとんど一家を破滅寸前にまで追い込んで、ただ彼女を自ら姿を現させるためだけに。けれど、彼のもとに届いたのは、やけに軽い骨壷ひとつと、由香の胃がんを告げる診断書だけだった。――由香は暁人の足手まといになりたくなくて、彼の前から消えたのだ。――由香は、彼にきっぱり諦めさせるために、あえて傷つける役を選んだのだ。亡くなった人間は、残された者の記憶の中でいくらでも美化されていく。そうして由香は、ようやく暁人にとっての忘れられない初恋になった。そして、人づての美談の中では、直輝にとっての天使みたいなママにまで仕立て上げられていった。だが今や、暁人の顔色は幽霊でも見たように顔面蒼白で、直輝も腹を押さえて何度も吐き気をこらえている。彼らが神様みたいに崇めてきたその女は、映像の中で、違うパトロンたちの腕の中に身を預け、ありとあらゆる手で男たちを喜ばせていた。一成は、別の音声データを再生する。そこから聞こえてきたのは、由香の母の苛立った声だ。「あんたのあの狂犬みたいな彼氏のせいで、うちは毎日めちゃくちゃなのよ!いい加減、何とかしなさいよ!」それに応える由香の声は、行為のあと特有の甘ったるい余韻を引きずっていた。「そんなの簡単よ。犬の骨でも拾ってきて、骨壷に入れたら、私の遺灰だって渡しときゃいいのよ。それから、そのへんの流れ女の卵子でも渡しておいて、好きに遊ばせときなさいよ。暁人なんて、犬みたいなもんよ。何かお仕事を与えておけば、家をぶっ壊す元気なんて残らないんだから」どれだけ解析しても映像にも音声にも合成の痕跡は見つからず、倉沢父子にとっては、まるで世界が一気に崩れ落ちたようだった。二人とも、顔を青ざめさせて固まっている。ひとりは、忘れられない初恋が、実は男を渡り歩く金目当ての女だったことを受け入れられず。もうひとりは、自分の遺伝上の母が、いったいどんな人間なのかさえ分からなくなっていた。「僕、ママを連れ戻してくる!」直輝は暁人を突き飛ばし、振り向きもせずに駆け出していった。私が直輝と再会したのは、特別支援学校でボランティアをしていたときだ。一成が私のそばにガードをつけてくれていて、特別支援学校には障害のない子どもはまず入れないはずなのに、それでも直輝は、見事な変装
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第7話
彼は言い出したら一切曲げない人で、資源もお金も「必要だ」と決めたら容赦なくつぎ込む。そのおかげで、募金サイトはあっという間に立ち上がった。学校の先生たちの顔には、前よりもずっと笑顔が増え、「汐見さんは本当に運のいい人だね、すごいご縁に恵まれてる」と、口々に私を褒めそやした。私には、その厚意に見合うお礼なんて、何一つ返せない。だからせめて、凛斗にだけは、できる限り優しくしようと思った。「汐見おばさん、学校のみんな、あなたのことを天使ママって呼んでるよ。僕もママって呼んでいい?」私が止めても凛斗はママと呼ぶのをやめず、そのうち私は好きに呼ばせるようになっていた。まさか直輝が、ちょうど凛斗が私を「ママ」と呼んでいるときに現れるとは思わなかった。ちょうど凛斗が私の首に腕を回し、甘えるように抱きついてきたときだった。「シンデレラと王子さまは、そのあと幸せに暮らしました……その続きは?ねえ、ママ、もうひとつお話して」直輝はあまりに勢いよく走り去り、継ぎはぎだらけのミントグリーンのワンピースだけが残された。あの子は、もう二度と来ないのだと私は思っていた。まさか、暁人を連れて戻ってくるなんて、夢にも思わなかった。「お前、星野一成と結婚したのか?俺から離れて、まだそんなに経ってないだろ。そんなに早く他の男を好きになれるもんか?」暁人は一歩距離を詰めて、私の手を取ろうとする。私はその手を身を引いてかわした。途端に、彼の目に痛むような影が差す。「あいつとは別れてくれないか?彼はお前に結婚式ひとつしてやろうともしない。俺のところへ戻ってこい。俺たちの結婚式、まだ間に合う」私は、再婚なんて考えたこともない、とわざわざ説明する気にもなれなかった。「暁人、忘れたの?何日か後のあの結婚式は、由香の誕生日に合わせたものでしょう?私に関係することなんて、ひとつもないわ」暁人の顔から、すうっと血の気が引く。「違う。日取りは変えた。俺たちが初めて出会った日にしたんだ。由香の本性は、もう分かった。ちゃんと償いもさせた」思わず、胸の奥がざわつく。七年もかけて何一つ見抜けなかったくせに、今さら悟りを開いたみたいな顔で何を言っているのだろう。「この何年も、悪いのは全部俺だ。俺はずっと由香を理想の女みたいに思い上げて、そのぶんお前を傷つ
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第8話
一成は否定するでもなく、ふっと口元に笑みを浮かべた。「僕、結構いろいろ力になってあげたよね?君の言うことも、言うこともちゃんと聞いてるしさ、汐見先生から、何かご褒美はないの?」彼は、私が学校で子どもにどんなご褒美をあげているのか、よく知っているらしい。どうやら凛斗が、こっそり偵察役をしていたらしい。それでも、彼に対しては少しも嫌な気持ちにはならなくて、私は思わず笑って、バッグの中をごそごそ探り、飴玉と、赤いお花のご褒美シールを取り出して差し出す。「はいはい、わかったよ」一成は少ししょんぼりしたような顔をした。私が一瞬だけ不安になったところで、彼は続ける。「でもさ、お花のシール、凛斗よりずっと少なくない?僕が子どもじゃないから手加減してる?」私は思わず吹き出してしまう。結局バッグの中に残っていたお花のシールを全部、彼に渡してしまった。そのすぐ後ろで、追いついてきた暁人が、嫉妬で目のふちを真っ赤にしていることには気づきもしないままだ。倉沢父子は、私のきっぱりとした拒絶に引き下がることなく、それからも毎日のように現れては、しつこいほど謝罪と償いの言葉を重ねてきた。私に胃の持病があると知っているので、暁人は一日三食、きっちり時間を合わせて食事を運んでくる。私の部屋の前には、いつも色とりどりの花束が置かれ、子どもの拙い文字で書かれた「ごめんなさい」と「ありがとう」のカードが添えられている。それだけではない。学校の募金サイトには、ある日突然、何百億にのぼる匿名の寄付が入った。それは、離婚後の倉沢家の財産のほとんどに相当する金額だった。暁人はすっかり意気地を失い、自分は一歩も出てこず、いつも直輝だけを私の前に押し出してくる。「マ、ママ、ちょっとは、嬉しくなった?ねえ、少しだけでいいから、僕たちのことを許してくれた?」私は答えず、部屋の隅に置いておいたゴミ箱を引き寄せた。中には、萎れた花と、破られたカードの残骸。そして、樟の木の陰に隠れてこちらを窺っている暁人に、淡々と告げる。「ご飯は、学校の子たちで分けて食べさせた。あなたたちのしていることは、私にとっては迷惑でしかない。もう関わらないで」うんざりしていたのは私だけではない。学校の子どもたちも、二人の姿を見るだけで嫌な顔になる。加えて、約束を平気で破る人間に対
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第9話
「みんな、君のこと好きになる」この言葉は、私より、一成と凛斗に当てはまるのだと思う。二人は、生まれつきまっすぐで、本当にいい人たちなのだから。空港へ向かう日、倉沢父子は、結局それでも追いかけてきた。「ママ、本当に僕のこと、いらなくなっちゃったの?僕、まだ分からないことだらけで、何もちゃんとできない。お願いだから、帰ってきて、もっと色々教えてよ」暁人は直輝の涙を拭いながら、縋るような視線を私へ向ける。「許しなんて望まない。ただ、ここに残ってほしいんだ。俺たちは一生かけて償う。お願いだ、もう一度だけチャンスをくれないか?」凛斗が、即座に言い返す。「彼女はあなたのママじゃない。僕のママだ」一成は、さらに容赦なく言い放つ。「お前らの償いって、いまさら何の値打ちがある?」ちょうど自分の気持ちをはっきり伝えようと口を開いた、その瞬間だった。突然、地面が激しく揺れ出し、意識が途切れる直前――崩れ落ちてきた大きな岩から、誰かが私をかばってくれた。再び目を開けたとき、私の視界に飛び込んできたのは、背中も額も血まみれになった暁人の姿だ。「秋穂、お前が今、どれほど俺を嫌っているかは分かってる。でも、俺が死ぬ前に、ひとつだけ頼みを聞いてくれないか?」私は必死に首を振った。それでも暁人は、ぼんやりとした目のまま、絞り出すように続ける。「確かに、お前を、あいつの代わりみたいに扱っていたところはある。でもな、俺が本当に愛していたのは、最初からお前で、由香じゃない。ただ、あいつがあんな形で消えたことが悔しくて、どうしても納得できなくて……ほんとは、お前を見るたびにどうしようもなく惹かれていたのに、その気持ちからも、ずっと目をそらしていたんだ。お前が緑を着ていると、どうしようもなく目で追ってしまった。お前の優しさも、あったかさも、俺は全部好きだったんだ。なのに、俺は自分の気持ちが何かも分からないまま、全部ごちゃ混ぜにして……お前がいなくなって、やっと分かった。俺は、命を差し出してもいいと思うくらい、お前を愛している」私はようやく口を開く。「そんなことを今さら並べ立てたところで、あなたが私につけた傷がなかったことになるとでも思ってるの?私はあなたを許さない。それに、あなたのために何かしてあげるつもりなんて、これっぽっちもな
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