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第5話

Author: 苺タルト
その夜、澪奈は住まいに戻るや否や、高熱にうなされた。

喉は炎に焼かれるように痛み、寝返りを打ちながら手探りで枕元のコップを探す。

だが指先が弾き飛ばし、床に「ガシャリ」と割れた音が響いた。

必死に身を起こそうとしたそのとき――骨ばった大きな手が、温かな水を差し出した。

顔を上げた澪奈は凍りつく。

「颯真?」

ここにいるはずがない彼の姿。

現実か幻か、判別がつかなくなる。

ベッドの縁に腰掛けた颯真は、かつてと変わらぬ柔らかさで彼女の髪を撫で、囁いた。

「澪奈……これからは、自分でちゃんと生きていけるようにしてくれ」

その声が、張り詰めていた糸を断ち切る。

澪奈の目から涙が一気に溢れ出した。

積もり積もった恨みと哀しみが爆発するように、拳で彼の胸を叩く。

「いらないって言ったくせに、なぜ戻ってくるの!あんたが死んだと聞いて、私は気が狂いそうだったのよ!

鬱になったのよ!なのに……あんな言葉で私を罵って!

颯真、私はあんたが憎い、大嫌い!もう二度と愛さない!出ていって!」

颯真の目が赤く滲む。

彼はされるがままに彼女を抱き締め、繰り返す。

「澪奈……すまない、すまない……」

涙に濡れ、体力を使い果たした澪奈は、嗚咽しながら彼の胸に崩れ落ちる。

彼は強く抱き寄せ、熱を帯びた彼女の額に指先を触れさせる。

その声はかすかに掠れていた。

「澪奈……生きろ。ちゃんと生きるんだ。

生きろ……」

澪奈ははっと目を開けた。

――そこに誰もいない。

床には砕けたガラス片だけが残り、静まり返った部屋。

自嘲の笑みが浮かぶ。

立ち上がろうとした瞬間、寝室の扉が乱暴に開かれた。

怒号が叩きつけられる。

「久遠澪奈!美桜に何をした!」

颯真が立っていた。怒りに燃える眼差し。

澪奈は一瞬呆然とし、次いで枕を掴んで投げつけた。

「出て行け!」

身をかわした颯真は彼女の顎を強く掴み、低く唸る。

「昨夜、美桜は交通事故に遭った。まだ生死の境をさまよっている……お前の仕業か!」

顎を押さえつけられ、涙が勝手に零れ落ちる。

だが言葉を挟む間もなく、彼の携帯が鳴り響いた。

受け取った報告に表情を変えた颯真は、澪奈の手首を乱暴に掴み、引きずるように病院へ向かった。

採血室。

彼は袖をまくり、椅子に座る。

「俺はO型だ。まずは俺から抜け。不足なら彼女からだ」

澪奈の体が硬直する。逃げようとしたが、手首は鋼のように掴まれた。

「お前がやったことだ。責任を取れ」

「違う!私じゃない!」

澪奈は必死に叫ぶ。だが颯真は耳を貸さない。

血液バッグが膨らんでいく。

看護師が警告する。

「もう800mlです。これ以上は危険です」

顔面蒼白になりながらも、颯真は歯を食いしばる。

「続けろ」

澪奈は、彼の血が次々と袋に吸い取られていくのを見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。思わず身を引こうとしたが、その手首は彼にさらに強く握られた。

やがて看護師はさらに400mlを採り終えると、ついに首を振り、きっぱりと手を止めた。

「これ以上は命に関わります!」

颯真は澪奈を椅子に乱暴に押しつけ、彼女の手首を掴んで強引に後ろへ捻じ曲げた。看護師に向けた声は、有無を言わせぬ迫力に満ちていた。

「必要量まで必ず採れ。足りないなら、俺がまだ続ければいい」

「いやよ!」澪奈は目に涙をにじませ、必死に抵抗しながら叫んだ。

「颯真、狂ってるんじゃないの!

放して!あんな汚らわしい人間に、私の血なんて渡したくない!」

彼は身を屈め、澪奈の身体をがっちりと押さえ込む。微動だにできぬほどの力で抑えつけ、漆黒の瞳で彼女を射抜きながら、一字一句を噛みしめるように告げた――

「俺は狂っちゃいない。だが――美桜が死ねば、俺は本当に狂う。

彼女のためなら、一命を差し出しても構わない」

その一言一言が鋭い針となり、澪奈の心臓に突き刺さる。

声を上げようとしても、喉が塞がれ、何も言えなかった。

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