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その想いは、もう消えていく
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天野希一（あまの きいち）の義妹である塚本京美（つかもと ことみ）が救出された時、頭部を強打して記憶をすべて失っていた。 彼女は希一の服の裾を必死に握りしめ、澄んだ瞳を不安に揺らしてつぶやく。「あなた、怖い人たちが……」 その姿を、本物の妻である小野寺千佳（おのでら ちか）は、影の中から夫のこわばった横顔を見つめていた。 やがて希一は静かに京美の手を握り返す。「大丈夫だ、俺がいる」 京美が完全に眠りに落ちたのを確かめてから、ようやく彼の視線は千佳に向けられる。 「医者の話では、損傷した部位はかなり重要な場所だ。今の状態は脳の防御反応で起きている記憶喪失なんだ。無理に思い出させたり、大きな刺激を与えれば……」 一度言葉を切り、彼は低く続ける。「千佳、しばらくの間は彼女をこのまま信じさせておいてくれないか」 千佳はゆっくりと俯き、左手の薬指に視線を落とした。
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第1話
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その想いは、もう消えていく 第25話
千佳は京市の新聞の一面で、希一が故意殺人の罪で懲役十五年の判決を受けたことを見た。分厚いガラスが、二つの世界をはっきりと隔てている。希一はぶかぶかの囚人服を着て、やつれ切った姿で目の下は深く落ちくぼみ、かつての勢いは跡形もない。彼は受話器を握る手をわずかに震わせながら、ガラスの向こうの、かつて自分が手に入れ、そして自ら壊した女、千佳をむさぼるように見つめている。千佳は体に沿うベージュのトレンチコートをまとい、整ったメイクを施し、その瞳は波ひとつ立たない。彼女がここに来たのは懐かしさからではなく、過去にきちんとけじめをつけるためだった。「千佳、来てくれたんだ……」彼の声は涙声に濡れている。「ここにいる間、毎日悔いてばかりだ。ずっとお前のことを考えている。お願いだ、もう一度だけ許してくれ。出られたら、命をかけておあめに償うって誓うよ！」しかし千佳の視線には微塵の揺らぎもなかった。憎しみすら感じさせない。彼女は静かにバッグを開け、公正証書を取り出す。それを、指先でそっとガラス窓の下の小さな台に滑らせた。「希一、今日ここに来たのは、法的な手続きがすべて終わったことを伝えるため。これは公正証書よ。これで私たちは何の縁もない。もう一切関わりはない」希一の視線はその証書に釘づけになり、恐怖と絶望が一気に押し寄せる。「いや……嫌だ、千佳！そんなのやめてくれ！お願いだ、もう一度チャンスを！お前なしじゃ生きられない……」彼はガラスに飛びつき、両手で狂ったように冷たい仕切りを叩きながら涙と鼻水を垂らす。千佳は、彼が崩れ落ち泣き叫ぶ姿を見ても、心に波紋も生まれなかった。彼女は静かに受話器を置き、きっぱりと立ち上がって背を向ける。二年後。陽光が大きな窓から差し込み、整えられつつある広い空間に降り注いでいた。ここは千佳の「羽化」心理カウンセリングルームになる予定の場所だ。彼女は備品リストを確認することに集中し、その眉間には落ち着いた自信が宿っている。心理学修士の学位証明書は丁寧に額装され、壁の一番目立つ場所に掛けられていた。彼女は自分との約束を果たしていた。ここを、心の傷や困難を抱える人々に無料で開放し、あたたかな港のような場所にするのだ。親しみを帯びた声が入り口から響く。「千佳社長、開業おめでとう！」
その想いは、もう消えていく 第24話
千佳は秀樹を見つめ、張りつめていた心がその瞬間ふっと緩んだ。言葉は出なかった。ただ、彼をまっすぐに見つめるだけ。秀樹も拍手をやめ、背筋を伸ばして彼女を見返す。千佳の唇がゆるやかに上がり、壊れてなお生まれ変わったような笑みを浮かべる。その控えめな笑みとは対照的に、秀樹の笑みは明るく、真っ直ぐだった。「ほらな、あなたならできるって思ってた」千佳は彼の前まで歩み寄る。「どうしてここに？」「やっぱり心配でね。海外で落ち着かないなら、ここであなたのそばにいる方がいいと思った」そう言うと、先ほどの彼女の壮挙を大げさに身振りで語り出す。「来てよかったよ。本当に。でなきゃあんな痛快な場面、見逃すところだった」その時、希一が魂の抜けたようにレストランからよろめき出てきた。一瞬で視線は路肩に立つ二人を捉える。千佳が秀樹に向ける笑顔。鋭く彼の心臓に突き刺さった。「千佳！」彼は数歩で駆け寄り、秀樹を指差す。「お前たち、どういう関係だ！」千佳は冷然と見返す。「私たちがどうであれ、あなたには関係ない」彼は必死に千佳の手首を掴もうとする。「千佳、俺を怒らせたいだけだろ？」だがその手は、すぐに別の手に払われる。秀樹が彼女の前に立ちはだかり、隠そうともしない嘲りの目を向けた。「人は物じゃない。誰と一緒にいるかは千佳自身の自由だ」希一の怒りが爆発する。「てめぇ何様だ！俺に説教する気か！」歯に衣着せぬ罵声が続く。「俺が捨てた女を抱えて誇らしいか？」その卑劣な言葉に、千佳は怒りで震え上がる。だが口を開く前に、秀樹の声が鋭く割り込んだ。彼は嘲笑を吐いた。「捨てた？ふん。お前こそ、塚本なんて女とズルズルした関係でいながら、千佳の気持ちを考えたことがあったか？」ズルズルという言葉は、希一の最後の隠れ蓑を鋭く突き破った。希一の顔は一瞬で赤色に染まり、怒鳴り散らす。「デタラメ言うな！」拳を振り上げ、秀樹の顔面めがけて力任せに殴りつける。「ぶっ殺してやる！」だが秀樹はすっと身をかわし、拳は空を切った。勢い余った希一の身体が前のめりに傾いた。秀樹の右フックが彼の顎を正確に撃ち抜いた。希一の視界が真っ黒に弾け、耳鳴りが響き渡る。彼は声を上げる間もなく背中から歩道へ叩きつけられた。千佳はその背後で、かつて
その想いは、もう消えていく 第23話
「また植えればいい！最高の庭師を呼んでこい！」千佳は口元を引きつらせて笑い、静かに告げる。「希一、枯れたバラはもう二度と咲かない。私とあなたにも未来はない」ドサッと鈍い音を立て、希一はその場に真っ直ぐ跪き込んだ。顔を上げると、目の縁は赤く滲んでいる。「千佳、ごめん、本当にごめん！」彼の声はかすれ、鼻声に震えていた。膝の上に置かれた彼女の手を掴もうとするが、冷ややかに避けられる。まるで汚れたものを拒むかのように。「俺は騙されていたんだ、全部京美のせいだ！彼女がお前を貶め、俺を誤解させたんだ！ほんの一時の気の迷いで、惑わされて信じてしまっただけなんだ！」希一の言葉は早口で、責任を押し付けようとする必死さが滲む。かつて甘やかしていた女に、すべての罪を背負わせるかのように。「彼女の芝居に騙されただけだ。千佳、俺が愛しているのはずっとお前だ！許してくれ、やり直そう！」涙と嗚咽にまみれ、プライドを投げ捨てて懇願する。だが千佳の表情は揺れず、瞳には怒りもなく、ただすべてを見抜いたような嘲りが浮かぶ。「ふふ……」唇から漏れたのは、あまりに軽やかな冷笑。彼女は静かに立ち上がり、跪く希一を見下ろす。「希一」その声は澄み切っていた。「その見え透いた涙も、卑しい言い訳もやめなさい」泣き声が途切れ、彼は呆然と顔を上げる。千佳の口元には皮肉な笑みが浮かぶ。「騙されていた？」「自分の胸に手を当てて思い出して。私をおりに閉じ込め、服を剥いだのは誰？その言葉を口にしたのは誰？その手を動かしたのは誰？」千佳の声が一気に張り上げられ、抑えていた怒りが鋭い刃となって突き刺さる。「二人の女に奪い合われる快感を楽しんでいたじゃない！王様気取りで！女を競わせて悦んでたのよ！」彼女の瞳は激しい軽蔑に燃える。「あなたの本性はそこにある！女を周りに置き、自分の魅力を誇示し、征服欲を満たすための戦利品にしてる！」希一の顔色は一瞬で蒼白に変わり、唇が震える。「ち、千佳……違う、俺は……」「違う？何が違うの！」雷鳴のような声が遮る。「女を無形のリングに並べて点数をつけ、どちらがよりあなたを満足させるかを見て笑っていたじゃない！」彼女は深く息を吸い、冷ややかな決意をその瞳に宿す。「希一、あなたの偽善には吐き気がする
その想いは、もう消えていく 第22話
希一は、千佳から突然電話がかかってきて、会おうと誘われるとは夢にも思っていなかった。「希一、話があるの」耳に届いたその声に、希一の胸が高鳴る。「千佳はやっぱり俺を忘れられないんだ！急げ、一番高価なジュエリーを買ってこい！」彼はイタリア製のオーダーメイドスーツに身を包み、口笛を吹きながら髭を整え、髪を撫でつける。だが鏡に映る自分のやつれた顔を見て、思わず後悔が込み上げる。「千佳は……今の俺を嫌ったりしないだろうか」秘書がスーツの襟を直しながら言う。「奥さまはそんな浅はかな方じゃありません」彼は期待と不安に押し潰されそうになりながら、約束の場所へ向かう。「この期間、千佳はどんなふうに過ごしていたんだろう。俺がそばにいないせいで、きっと苦労したはずだ。絶対に償わなきゃ！」数十億円はするジュエリーと、99本の赤いバラを抱え、京市で一番の洋食レストランに現れる。店に入った瞬間、窓辺に座る千佳の姿が目に飛び込む。彼女は少し痩せたようで、夕陽を見つめながら淡い微笑を浮かべていた。「千佳！」希一の声が震える。「やっと帰ってきてくれたんだな！」彼は宝物を差し出すようにジュエリーと花束を渡す。「好きなピンクダイヤのフルセットだ。花も好きな赤にした」しかし千佳は手を伸ばさず、ただ目で「座って」と示す。言われるまま向かいに座り、彼女の近況を矢継ぎ早に尋ねる。「千佳、どれだけ心配したか分からないよ！海外まで探しに行ったんだ。だけど……いや、もういい。戻ってきてくれたんだから！さあ、家に帰ろう！」だが千佳はずっと窓の外を眺めていた。夕陽が完全に夜に飲み込まれるまで。そして、静かに顔を戻し、かつて深く愛した男を真っ直ぐ見つめる。「希一、ここを覚えてる？」彼は戸惑い、必死に店内を見回し、記憶を掘り起こそうとする。けれど何も思い出せない。千佳は予想していたように、コーヒーをかき混ぜながら言う。「ここはあなたが私にプロポーズしたレストラン。しかも、今私たちが座っているこの席で。その日、あなたはひどく緊張して、指輪を持つ手が震えていた。あなたは一生私を守り、愛すると言った」その瞬間、記憶が押し寄せる。あの日も彼は身なりを整え、脚が震えるほど緊張していた。友人たちは冷やかす。「女遊びばかりの
その想いは、もう消えていく 第21話
京美は獣の檻の中で、食べて、排泄して、寝るすべてをそこでこなしている。体中は野犬の唾と自身の汚れでべったりと汚れている。十メートルほど離れただけで、生臭い匂いが鼻を突く。希一の指示で、使用人は毎日ひと度だけ食事を運んでくるが、どれも腐ったものばかりだ。最初のうちは京美も喚き散らし、たとえ希一家に嫁いでいないとしても天野家の養女なのだと強弁する。「実の父と天野おじさんは命を懸けた仲だったのよ。死の間際に彼が私を天野家に託したんだから、天野家はきちんと面倒を見る義務がある」差し出された食事を全部ひっくり返し、使用人に罵詈雑言を浴びせて脅す。「お兄さんが正気に戻れば、きっと放してくれるわ。そのときにはあなたたちを思い知らせてやる」だが威勢は長く続かず、飢えに苦しめられて見る影もなくなる。次に運ばれた食事のときには、彼女は地面にうずくまり、腐った飯すら貪るようにかき込む。かつて彼女が虐げていた使用人たちは溜飲を下げるように嘲笑う。「はあ、天野家に嫁ぐだなんて、寝言を言うな」「天野夫人が可愛がっても、旦那様の命令がなければ出せるわけがない」「そのまま死ねばいい」京美は噛みしめながら食べているうちに、涙が止まらなくなる。彼女は希一が千佳をどれほど愛しているかを見誤っていた。だが悔しくてたまらない。希一はこれまで甘やかし、求めるものは何でも買い与えてくれたのに、なぜ突然変わってしまったのか。自分はどこで負けたのか？最後の一歩が足りなかっただけで、天野家の正妻になれたはずだ。鉄の檻を拳で打ち鳴らし、喉から低いうめき声を漏らす。遠目に立つ希一は冷ややかに見下ろす。「千佳が俺を許すと言わない限り、京美は一生檻の中だ」秘書は良心が咎め、これ以上閉じ込めておけば命に関わるのではないかと恐れる。彼は思いやりから言う。「社長、いったん京美さんを出してはどうでしょうか。奥様を見つけてから、改めて始末しても遅くはありません」だが希一の瞳に冷たい光が差し込む。「それは自業自得だ。檻の中で反省させればいい。死ぬか生きるかは彼女の運命だ」秘書はもう言い返せない。希一は実家へ戻ると、母が数日間にわたり体調不良だと電話をかけてきたことを思い出す。だが以前の騒動があるため、彼は母の言葉を本気にしなかった。
その想いは、もう消えていく 第20話
二か月後。千佳は秀樹の助けを借りて、ついに心理カウンセラーの資格を取得した。証書を手にした瞬間、胸の奥が熱く揺れる。秀樹は真紅のバラを抱えてフレンチレストランで祝ってくれる。「千佳、あなたなら必ずできると思ってたよ。本当にすごい」彼女は恥ずかしそうに花束を受け取り、「あなたのように、心理学を通じてもっと多くの人を助けたい」と答える。「秀樹、私、帰国することにした」秀樹の笑顔が一瞬で固まる。「な……なんで？」千佳は空の向こうに浮かぶ雲を見つめ、淡い笑みを浮かべる。「あなたの言う通り、あの人は私の心の魔物。でもそれを乗り越える唯一の方法は、正面から向き合うこと。今こそ勇気を出すとき。多くのこと、多くの言葉は面と向かって伝えなければ、本当に手放したとは言えないから」秀樹は心の中で賛成しつつも、不安が拭えない。「千佳、そんなに急がなくても……もう少し待ってもいいんじゃないかな」彼女は首を振る。「もう覚悟はできてるの。大丈夫」秀樹はグラスを掲げる。「じゃあ、順風満帆であるよう祈るよ」カチン。シャンパンのグラスが澄んだ音を立て、まるで出発の号令のように響く。秀樹は搭乗口で姿が消えるまで見送った。胸はずっと締め付けられている。「千佳、本当はそばにいたい、でも邪魔になりそうで」その時、千佳が半身をひょいと出し、手を振って別れを告げる。「秀樹、待っててね、必ず帰ってくるから！」彼はすぐに不安を拭い去り、大きく手を振り返す。「頑張れ！あなたならできる！」同じ便、同じ乗務員。ただ二か月前とは客室乗務員の視線がまるで違った。あの時は傷だらけで逃げ出すように去って行った。今は自信を取り戻し、晴れやかな笑顔で帰ってくる。京市に到着すると、彼女は真っ先に墓地へ向かった。両親の墓前に立ち、千佳の目に涙を浮かべる。「お父さん、お母さん、帰ってきたよ。今の私は大丈夫。新しい夢も、新しい自分の居場所も見つけた」墓石を掃除しようとすると、供えられた花がまだ萎れていない。ここに来るのは彼女以外では希一しかいない。今回戻ってきたのは、希一に直接けじめをつけるためだけではない。両親の墓を故郷に移したいという思いもあった。最近よく夢に両親が現れ「家に帰りたい」と呟く。見栄を張
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