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所詮、すべては泡沫の夢

所詮、すべては泡沫の夢

Par:  芽吹きComplété
Langue: Japanese
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陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。 奈津美はパスポートを再発行してもらうため市役所へと戸籍抄本をもらいに行った。キーボードを少し叩いていた窓口の職員が、ふと顔を上げて彼女に言った。「ご結婚されてるとおっしゃっていましたが、戸籍上は未婚になっております……」 聞き間違いかと思い、奈津美は呆気に取られた。「そんなはずありません。夫とは3年前に、ここで婚姻届を出しましたから」 職員はもう一度記録を確認すると、気まずそうに言った。「システム上、高橋さんは確かに未婚ですが、旦那さんだとおっしゃられる陣内勇太さんはご結婚されおります……」 そして、言葉を濁しながら続ける。「奥様として登録されているのは、陣内明里(じんない あかり)さんという別の方ですが……お知り合いでしょうか?」 その言葉に、奈津美の頭は真っ白になった。キーンという鋭い耳鳴が響く。

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Chapitre 1

第1話

陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。

奈津美はパスポートを再発行してもらうため市役所へと戸籍抄本をもらいに行った。キーボードを少し叩いていた窓口の職員が、ふと顔を上げて彼女に言った。「ご結婚されてるとおっしゃっていましたが、戸籍上は未婚になっております……」

聞き間違いかと思い、奈津美は呆気に取られた。「そんなはずありません。夫とは3年前に、ここで婚姻届を出しましたから」

職員はもう一度記録を確認すると、気まずそうに言った。「システム上、高橋さんは確かに独身ですが、旦那さんだとおっしゃられる陣内勇太さんはご結婚されおります……」

そして、言葉を濁しながら続ける。「奥様として登録されているのは、陣内明里(じんない あかり)さんという別の方ですが……お知り合いでしょうか?」

その言葉に、奈津美の頭は真っ白になった。キーンという鋭い耳鳴が響く。

奈津美と勇太が幼なじみだということは周知の事実だった。

奈津美は勇太の初恋の人で、勇太が少年時代から大切に守り続けてきた存在だった。

そして、明里は奈津美が留学していた2年間、奈津美に会いたくてたまらなかった勇太が、寂しさを紛らわすために見つけてきた「奈津美の代わり」だったのだ。

……

奈津美は新しく発行してもらった未婚と記された戸籍抄本を握りしめながら、呆然としたまま車に乗り込んだ。

突然携帯が震え、勇太からのメッセージが表示された。

【奈津美。少しでも早く君に会いたかったから、2000億円規模の契約を蹴って、君の大好きなバラとショートケーキを買ってきたよ。君も俺に会いたいと思ってくれてるかな?】

奈津美はそのメッセージを見つめながら、ふっと笑い声を漏らす。

笑っていた奈津美だったが、次第に涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。

この3年間、勇太は毎日こうやって、言葉で愛を伝えてくれていた。

それなのに……本当は別の人と法的な夫婦になっていたなんて。

子供のころ、木に引っかかった凧を取ろうとした勇太は、3メートルほどの高さから落ちたことがあった。その時、彼は右腕を骨折したというのに、笑いながら凧を渡してこう言った。「奈津美、泣かないで。僕は痛くないから」

15歳の誕生日には、奈津美へ一番に「誕生日おめでとう」と言うためだけに、彼女の家の前で一晩中雨に打たれていたこともあった。

18歳の誕生日に至っては、勇太は遊園地を丸ごと貸し切って、夜空いっぱいの花火の下で片膝をつきながらこう言ってくれた。「奈津美。俺が22歳になったら結婚しよう」

奈津美が留学に立つ日、目を真っ赤にした勇太は、空港の壁に奈津美を押し付け、震える声で言った。「2年だ。君にあげられる時間は2年だけ。2年経ったら、無理やりにでも連れ戻しに行くからな」

留学中の2年間、勇太はほとんど毎日ビデオ通話をかけてきた。

一度、奈津美が論文に追われて3日間電話に出なかったことがあるのだが、やっと連絡が取れた時には、勇太は飲み過ぎで入院していた。

ビデオ通話の向こうで、勇太が真っ赤な目をして言った。「奈津美、君がいないと生きていけないんだ」

そんな時、奈津美はいつも勇太を宥めるのだった。「もうすぐ帰るから。もう少しだけ待ってて」

帰国する日、奈津美は勇太に内緒でサプライズをしようと考えていた。

サプライズで行ったクラブの個室のドアを開ける。すると、勇太が知らない女を抱きしめ、情熱的にキスをしているのが見えた。

しかも、その女の横顔は、奈津美によく似ていたのだった。

奈津美の手から鞄が滑り落ちたが、彼女はそのまま踵を返して走り去った。

それに気づいた勇太が必死になって追いかけてきた。その後も、幾度となく奈津美に電話をかけた勇太だったが、奈津美が電話に出なかったので、メッセージを大量に送った。それでも、奈津美が会うことを拒んだので、勇太は彼女の家の前で雨に打たれながら、何度も何度も弁明をしていた。

「君が思っているようなことじゃないんだ!

この数年、君は会いに来るなって言っただろ……でも、どうしても君に会いたくて、それで君の代わりに……

でも、抱きしめたりキスしたりしてただけなんだ。それ以上のことは何もしてない!

奈津美、本当にごめん。でも、君に会いたすぎて、俺はどうかしてたんだよ……」

結局、雨の中で3日間も立ち続けた勇太は、高熱で肺炎を起こして倒れてしまった。病院に運ばれてもまだ奈津美に会おうとする勇太を見て、奈津美はとうとう許してしまった。

その後、勇太は以前と同じように奈津美に優しくしてくれた。

しかし結婚後、勇太の秘書が明里に変わっていたのだった。

勇太がもう縁を切ったと言っていた、あの「奈津美の代わり」だ。

勇太はまたもや弁明をした。「俺は明里たち家族に別の土地で暮らすように言ったんだ。だけど、両親は体調を崩すし、本人も新しい環境に馴染めなかったらしくて……泣きながら東都に帰りたいって頼んできたんだ……

でも、明里が秘書の面接を受けてたなんて、俺は全く知らなかった。

だから、あいつはちゃんとした選考で選ばれたんだし、仕事もできるから、簡単にクビにはできないよ」

結局、奈津美はまた我慢することにしたのだった。

しかし、我慢を重ねた結果がこうなるなんて。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

車が高級住宅街に入った頃には、奈津美の涙はもう乾いていた。

奈津美は深く息を吸い込んでから、ドアを開けようとした。その時、リビングから勇太と彼の友人の会話が聞こえてきた。

「さっき病院に行ってきたけど、明里さんは大丈夫だったぞ。ただのかすり傷だから、お前は安心して奈津美さんと一緒にいてやれ」

ソファにもたれている勇太は、黒いシャツのボタンを二つ外し、長い脚を組んでいた。

すると、勇太は眉を顰めて親友が持つ煙草を灰皿に押し付け、低く冷たい声で言った。「何回言ったら分かるんだよ。うちでは煙草は吸うなって言っただろ?奈津美は煙草の匂いが嫌いなんだ」

「はいはい、奥さん愛が強いねぇ」親友が笑って揶揄う。「でも正直よく分かんねぇんだよな。お前はこんなに奈津美さんを愛してるのに、なんで明里さんと籍を入れたんだ?もしかして、ただの代わりってだけじゃないのか?」

数秒間、空気が静まり返った。

やがて、勇太の低い声が響く――

「だとしたら、なんだっていうんだ?

俺も昔は、明里はただの替え玉だと思ってたよ。奈津美が帰ってきたら、もう必要ないって。

でも、明里と別れてから、ほとんど毎晩のように明里の夢を見たんだ。

それで結局、あいつが傍にいないことに耐えられなくなって、秘書としてそばに置くことにした。

俺には奈津美が必要だ。でも明里も……もう手放せないんだよ。

奈津美には、表立って俺の愛情を全部注いでやれるけど、明里との関係は公にはできない。だから、せめてもの償いに籍を入れてやったんだ。それのどこが悪い?」

親友はため息をついた。「奈津美さんに知られたらとかは思わないのか?あの人の性格だぞ。もし知られたら、お前が目の前で死んだって、二度と振り向いてくれないって」

勇太は少し黙り込み、喉を鳴らす。「だったら、永遠に知られなければいいさ」

ドアの外に立っていた奈津美は、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。

こういう時は泣き崩れるものかと思っていたが、涙一滴出てこない。

これが本当の痛みを感じた時の反応なのか。

心臓を抉り取られたようなのに、それでも動き続けている感覚。

今朝、出かける前に勇太が優しくおでこにキスをしてくれたこと、接待で酔って帰ってくると、いつも自分を抱きしめて「奈津美、君がいないとダメだ」と呟いていたこと、奈津美の手を彼の胸に当てて、「この心臓は君のためにだけ動いてる」と言ってくれたこと……

その全てが嘘だったなんて。

ここへ帰ってくる途中は、勇太にも何かやむにやまれぬ事情があるのかもしれない、などと考えていた。

しかし、今やっとはっきりした。勇太はただ、二人を同時に愛してしまっただけなのだ。

勇太にあったのは、二者択一ではなく、一人は初恋の人として、もう一人は心に深く刻まれた忘れられない存在として、両方手に入れたかったのだ。

そうなら、それでいい。

勇太は自分に知られたくないのだ。だったら教えてあげよう。本当の意味で「二度と振り向かない」というのがどういうことかを……

奈津美は踵を返し、その足で二つのことをしに行った。
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第1話
陣内勇太(じんない ゆうた)と結婚して3年目、高橋奈津美(たかはし なつみ)はうっかりパスポートを無くしてしまった。奈津美はパスポートを再発行してもらうため市役所へと戸籍抄本をもらいに行った。キーボードを少し叩いていた窓口の職員が、ふと顔を上げて彼女に言った。「ご結婚されてるとおっしゃっていましたが、戸籍上は未婚になっております……」聞き間違いかと思い、奈津美は呆気に取られた。「そんなはずありません。夫とは3年前に、ここで婚姻届を出しましたから」職員はもう一度記録を確認すると、気まずそうに言った。「システム上、高橋さんは確かに独身ですが、旦那さんだとおっしゃられる陣内勇太さんはご結婚されおります……」そして、言葉を濁しながら続ける。「奥様として登録されているのは、陣内明里(じんない あかり)さんという別の方ですが……お知り合いでしょうか?」その言葉に、奈津美の頭は真っ白になった。キーンという鋭い耳鳴が響く。奈津美と勇太が幼なじみだということは周知の事実だった。奈津美は勇太の初恋の人で、勇太が少年時代から大切に守り続けてきた存在だった。そして、明里は奈津美が留学していた2年間、奈津美に会いたくてたまらなかった勇太が、寂しさを紛らわすために見つけてきた「奈津美の代わり」だったのだ。……奈津美は新しく発行してもらった未婚と記された戸籍抄本を握りしめながら、呆然としたまま車に乗り込んだ。突然携帯が震え、勇太からのメッセージが表示された。【奈津美。少しでも早く君に会いたかったから、2000億円規模の契約を蹴って、君の大好きなバラとショートケーキを買ってきたよ。君も俺に会いたいと思ってくれてるかな?】奈津美はそのメッセージを見つめながら、ふっと笑い声を漏らす。笑っていた奈津美だったが、次第に涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。この3年間、勇太は毎日こうやって、言葉で愛を伝えてくれていた。それなのに……本当は別の人と法的な夫婦になっていたなんて。子供のころ、木に引っかかった凧を取ろうとした勇太は、3メートルほどの高さから落ちたことがあった。その時、彼は右腕を骨折したというのに、笑いながら凧を渡してこう言った。「奈津美、泣かないで。僕は痛くないから」15歳の誕生日には、奈津美へ一番に「誕生日おめでとう」と言
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第2話
まずはじめに、奈津美は自分の個人情報を全て抹消する手続きをとった。そして、名前も変えた。役所の人からは、手続きは全て2週間で終わると言われた。2週間すれば、勇太がいくら血眼になって探しても、もう二度と自分を見つけることはできなくなるのだ。バッグの中では、携帯が狂ったように震えている。全部、勇太からの着信やメッセージだった。しかし、奈津美は携帯を見ることもなく、その場を後にした。家に戻ってきた時には、もう空は真っ暗になっていた。奈津美が家に入ると、勇太がリビングに立っていた。奈津美の顔を見るなり大股で歩み寄ってくる勇太の目には、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。「奈津美、どこに行ってたんだよ?帰ってきたらいないから、もう何時間も待ってたんだ。街中探し回るところだったよ」この勇太の心配は嘘ではなさそうだ。奈津美は勇太を見つめる。なぜだか、心臓を見えない手でぎゅっと掴まれたようだった。ふと、高校生の頃を思い出した。あれは、勇太が数学の大会に出場した時のこと。奈津美が1時間勇太に返信しなかっただけで、彼は大会を放り出して自分を探しに戻ってきた。奈津美になにかあったのではないかと、本気で心配してくれたのだ。あんなにも、自分を愛してくれていた人……しかし、その愛情は自分だけのものではなかった。喉に何かがつまったみたいに、息をする度ちくちくと痛む。だが、奈津美は平静を装って言った。「買い物に行ってたの。言うの忘れちゃって、ごめんね」それを聞いた勇太はほっと息をつき、奈津美を腕の中に抱きしめる。「謝ることなんてないよ。責めてるわけじゃないから。ただ心配だったんだ」勇太は奈津美の髪にそっとキスをして、やさしく言った。「そうだ。一昨日、ハンバーグとポトフが食べたいって言ってたよね?俺が今から作るよ」勇太は奈津美から体を離すと、キッチンへと向かった。奈津美は入り口に立ち、静かに勇太の姿を見つめる。シャツの袖をまくりあげた勇太は、すらりとした指で手際よく野菜を切っていた。暖かい光に照らされたその横顔は、とても優しい。そういえば、とあることを思い出す。3年前、自分が帰国したばかりの頃のこと。不規則な食生活がたたって、奈津美は胃を壊して入院した。あの頃、誰もが知る大企業の社長である勇太は、料理なんて一度もしたことがなか
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第3話
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第4話
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第5話
廊下に出た勇太だったが、そこには誰もいなく、ただ隅っこに茶トラの猫がうずくまって、彼を警戒するように見ていただけだった。「どうやら猫だったみたいね」追ってきた明里が小声で言う。「勇太、早く高橋さんのところに戻ってあげて。私は後でタクシーで帰るから大丈夫」勇太は眉を顰めた。「こんなに雨が降ってるのに、タクシーなんて捕まらないよ。俺と一緒にいればいい」明里は唇を噛み、小さな声で言う。「でも、高橋さんは……」「お前は誰の女だ?」勇太は不意に彼女の顎を掴み、低い声で尋ねた。明里は途端に顔を赤らめる。「……あなた」「なら、俺の言うことを聞け」勇太は明里の手を取り、そのままコンサートホールへと連れ戻した。ドアを開けて中に入ると、奈津美はまだ元の席に座って、静かに演奏を聴いていた。勇太はほっと息をつき、明里を引っ張って奈津美の隣に座らせると、何気なく言った。「外は雨がひどいし、彼女も演奏会が好きだっていうから、ここにいてもらうことにしたよ」奈津美は「うん」とだけ答え、勇太の嘘に気づかないふりをする。演奏会の間、勇太は相変わらず奈津美に細やかな気配りを見せていた。寒くないか尋ねたり、お腹をさすってあげたり。さらには、途中で退席して休むかとまで小声で聞いてきた。でも奈津美は知っていた。勇太の左手は、ずっと明里と指を固く絡ませていたことを。ふと、二人が初めて手を繋いだ時のことを思い出した。それは16歳だった、ある雪の降る冬の夜のこと。勇太はこっそり塀を乗り越え自分の家の前にやってきて、凍えて真っ赤になった手を差し出し、笑って言った。「奈津美、手がすごく冷たいんだ。温めてくれない?」自分が顔を赤らめながらその手を握ると、勇太はすぐに指に力を込め、ずっと離さなかったのだ。あの頃、勇太の目には自分しか映っていなかった。それなのに今は、自分と手を繋ぎながら、他の女の手も握っている。一筋の涙が奈津美の頬を伝った。勇太はすぐにそれに気づき、指の腹でそっと奈津美の頬を拭う。「どうした?」奈津美は微笑んで、小さな声で答える。「音楽があまりにも素晴らしいから、感動しちゃったの」勇太はくすりと笑い、甘やかすような声で言った。「まったく、君は本当に可愛いな。こんなことで感動するなんて」しかし、奈津美は何も言わず、ただ勇太
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第6話
奈津美は、長い夢を見た。夢の中の勇太は、まだ14歳で制服を着ていて、口の端に青あざを作りながらも、その笑顔は不敵に輝いている。自分は目に涙をためながら彼に薬を塗り、怒鳴った。「馬鹿じゃないの?一人で30人も相手にするなんて!スーパーヒーローだってそんな無茶はしないよ!」勇太は平然と眉を上げる。「あいつらが、君から金を奪おうとするのが悪いんだろ?君をいじめるやつは許さない」顔を上げた勇太は、熱く、そして力強い眼差しで言った。「僕がいる限り、君を絶対に傷つけさせない」夢の中の奈津美は涙が止まらず、思わず勇太の名前を叫んだ。「勇太……」しかし彼は、まるで聞こえていないかのように、同じ14歳の自分の手を引いて、背を向けて遠ざかっていく。場面は突然現実に切り替わる――現実の勇太は明里を庇った。そのせいで自分は怪我をし、視界が血で真っ赤に染まった。奈津美がはっと目を開けると、涙で枕が濡れていた。まだ夢うつつでいると、病室で明里が泣きながら勇太の胸に飛び込んでいるのが見えた。「どうしよう、全部私のせい……あのロープを引かなければ、高橋さんもあんなことには……何か、私に罰をちょうだい……」勇太は仕方ないなという顔で彼女の涙を拭う。「本当に罰がほしいのか?」明里がしゃくりあげながら頷いた。「うん。悪いことをしたんだから罰を受けなきゃ。じゃないと、夜も眠れないよ……」勇太は静かに笑い、明里の頬をつまんだ。「じゃあ、俺のこと『旦那様』って呼んでみろ」明里はきょとんとした。「……え?」「呼べ」明里は顔を赤らめ、小声で呟く。「……旦那様」勇太は明里の髪を撫で、優しい声で言った。「俺を『旦那様』と呼んだんだから、俺の言うことを聞くように。この件は俺に考えがあるから、お前はもう気にするな」明里は、素直に部屋を出ていくしかなかった。奈津美は静かにその光景を見つめていたが、無意識に動いてしまった指先で、ベッドサイドのコップを倒してしまう。ガシャンッ――勇太ははっと振り返り、そこで初めて奈津美が目を覚ましていたことに気づいた。彼は足早に駆け寄り、心配そうに尋ねる。「奈津美、大丈夫か?どこか痛むところは?」勇太は奈津美の手を握り、悔やむように言った。「ごめん。あの時は混乱していて、君と明里を間違えてしまった……」
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第10話
飛行機が離陸する時、奈津美は窓の外でだんだん小さくなる街の灯りを眺めていた。ふと、雲の上に18歳の勇太が立ち、こちらに微笑みかけてくる幻を見た。次の瞬間、肋骨のあたりから激痛が走り、幻は消え去った。唇をきつく噛みしめた奈津美の口の中に血の味が広がる。「どうかしましたか?」隣の席に座っていた男は、奈津美の額に冷や汗がにじんでいることに気がつき、手にしていた雑誌を下ろした。奈津美は首を横に振ると、顔をマフラーに深くうずめた。空港の売店で慌てて買った安物のマフラーには、まだ地下室のようなカビ臭さが残っている。「大丈夫です」奈津美はか細い声で答えた。「少し、飛行機に酔っただけですから」藤原達也(ふじわら たつや)は、全身から奇妙な雰囲気を漂わせるその若い女性を見つめた。明らかにサイズの合っていないキャメル色のトレンチコートを着ている女性。それに、左手の薬指には長い間、指輪をはめていた跡があるが、右手は奇妙な形にねじ曲がっていた。何より気になったのは、気温が26度に保たれた機内で、彼女がずっと小刻みに震えていることだった。「実は、医者をしていまして」達也はティッシュを差し出しながら言った。「ひどく顔色が悪いですよ」奈津美がティッシュを受け取った時、達也は彼女の手首の内側にあるあざに気づいた。それは、素人が縛ってできるような痕ではなかった。達也は、奈津美がただの家庭内暴力の被害者ではないと悟った。「ありがとうございます」奈津美はティッシュを手のひらで握りしめただけで、それを使おうとはしなかった。なぜなら、どんな痕跡も残すわけにはいかないのだ。特に、今は……でも、この飛行機が着陸してしまえば、勇太が血眼になって探したって、もう自分を見つけられっこない。突然、腹の底から突き上げるような激痛が走った。奈津美の目の前は真っ暗になり、鼻から生温かい液体がこみ上げてくるのを感じた。無意識に鼻に手をやると、指先はねっとりとした真っ赤な血で染まっていた。達也がとっさにシートベルトを外す。「乗務員さん!救護をお願いします!緊急です!」霞んでいく視界の中、奈津美は達也のすらりと長い指が、素早く自分の服の襟元を緩めるのを見ていた。おかしな話だ。こんな時に、勇太の手を思い出してしまうなんて。昨夜、勇太の手もこんな風に、明里の服のボ
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