INICIAR SESIÓN「まさか。むしろ花澄の初めてを一緒に祝えるなんて、嬉しいよ」 その言葉の選び方が、あまりにも優しくて、私は思わず視線を落とした。 どうしてそんなに優しいんだろう。 初めてを笑われることはあっても、祝ってもらえるなんて思ってもみなかった。 何かを知らないことは恥で、経験がないことは劣等の証だったから。 冷たい目で見下されるのが当たり前だった 可哀想にと憐れむふりをして、その実、優越感に浸るための材料にされる。 壱馬様といると安心すると思える理由が、きっとそれに詰まってる。 決して人を見下さず、こんな不甲斐ない私にも笑顔で接してくださる。 ふと視線を上げると、壱馬様がワインボトルを静かに持ち上げていた。 ボトルの傾き、グラスとの距離、注がれるワインの細い流れ────── どれもが美しく、無駄がない。 私は思わずその手元に見入ってしまい、自分が声をかけるタイミングを逃していたことに気づく。 私は、慌てて口を開いた。 「あ、私が…」 声をかけたものの、すでにワインは注がれていて、その流れを止めるには遅すぎた。 「いいから」 その一言は、私の焦りをすべて包み込むような、やわらかな響きを持っていた。 壱馬様は、微笑みながら、何事もなかったかのようにワインを注ぎ終えた。 「すみません…」 お父様からよく言われていた。 気の利く女になれ。それぐらいしか取り柄がないんだからと。 その言葉は、まるで呪いのように、私の中に染みついている。 何かを言われる前に察して動くこと。 空気を読み、先回りして、誰かの手を煩わせないようにすること。 気が利かない女は、見捨てられる。 そんな声が、今も心の奥で囁いている。 「はい。乾杯」 壱馬様がグラスを軽く持ち上げ、やわらかな声でそう言った瞬間、空気がふわりと変わっ
レストランの入口に立った私は、煌びやかな建物の外観に圧倒されていた。 ガラス張りのファサードに反射する街の灯り、重厚な扉の向こうから漏れる柔らかな光。 まるで異世界の入り口のようで、足元がすくむような感覚に襲われる。 ワンピースの裾をそっと整えながら、私は自分の姿がこの場所にふさわしいのかを考えていた。 「行こうか」 壱馬様の穏やかな声が耳に届いた瞬間、私はハッと我に返った。 彼は私の様子を気遣うように、やさしく微笑んでいた。 その笑顔に少しだけ安心しながらも、胸の高鳴りは収まらない。 私は慌てて頷き、小さく返事をした。 「は、はい」 自分でも分かるほど声が震えていた。 その震えが彼に伝わっていないか、恥ずかしさが胸の奥に広がる。 緊張してるのがバレてないといいけど…。そんなことを思いながら、私は壱馬様の後ろを慎重に歩いていく。 大きな扉が開かれると、中から柔らかな照明と洗練された空気があふれてきた。 ───こんな所、初めてきた。 高い天井、落ち着いた色調のインテリア、大理石の床に反射する光。 私は彼の背中を追いかけるようにして、レストランの中へと足を踏み入れた。 壱馬様が受付に向かい、レストランの係の方と話を進めている。 私は少し離れたところでその姿を見つめていた。 周囲の視線が気になって仕方がない。 チラチラと見られている気がして、胸の奥がざわつく。 被害妄想めいた思いが頭をよぎる。 「こちらへどうぞ」 係の方の穏やかな声に促され、私は壱馬様の後に続いて静かに足を運ぶ。 一歩一歩進むたびに、胸の鼓動が速くなる。 この空間に自分が馴染んでいなさすぎて、今すぐ逃げ出したい衝動を必死に抑えていた。 席に着くと、係の方が丁寧に椅子を引いてくれた。 私は小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言
「お待たせ」 壱馬様が車から降りてきたその瞬間、私は思わず息を呑んだ。 お見合いの時に見た紋付袴の凛とした姿も印象的だったけれど、今目の前にいるスーツ姿の壱馬様は、また違った魅力を放っていた。 シャープなラインのジャケットに、控えめなネクタイの色合い。 シャツの第一ボタンを外した無造作さが、どこか余裕のある大人の男の雰囲気を醸し出している。 私はただ、見惚れることしかできなかった。 鼓動が早まるのを感じながら、私はそっと唇を引き結び、心を落ち着かそうとした。 「…壱馬様。お仕事お疲れ様です」 言葉を発した瞬間、自分の声が少しだけ上ずっているのに気づいた。 でも、それを隠すように、私は微笑んだ。 「ありがとう。どうぞ、」 壱馬様が車のドアを開けてくれたその瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。 こんなふうに、さりげなく気遣ってくれるところが、本当に壱馬様らしい。 私は、軽く会釈をしながら一歩踏み出し、開かれたドアの前に立った。 「ありがとうございます」 乗り込む瞬間、自然と体が壱馬様に近づいた。 その距離はほんのわずかだったけれど、彼の香りがふわりと鼻先をかすめ、胸がきゅっと締めつけられる。 壱馬様は運転席側のドアを開け、ゆったりとした動作で車内に乗り込んだ。 ドアが閉まる音が静かに響き、車内の空気がふたりだけのものになる。 ほんの少しだけ、彼の体温と香りが流れ込んできて、私は思わず背筋を正した。 そのとき、彼がふと口を開いた。 「いつもと雰囲気違うね」 その一言が落ちた瞬間、胸の奥がドクンと大きく跳ねた。 それが褒め言葉なのか、それとも…不安が一気に押し寄せてくる。 私は、そっと自分の服の裾を見下ろした。 このワンピース、やっぱり地味すぎたかな。 髪型も、もっと華やかにした方がよかっただろうか。 メイクも、濃すぎたかもしれない。 壱馬様の隣に立つにはまだまだ頼りなくて、どこか浮いてしまっているんじゃないかと、そんな思いが頭をよぎる。 私は、そっと彼の横顔を盗み見た。 「変ですか…?」 自分でも、こんなに小さな声になるとは思っていなかった。 けれど、胸の奥に広がる不安を抑えきれず、自然と口をついて出てしまった。 壱馬様の目に、私はどう映っているのだ
一通りの家事を終えた私は、ふぅっと小さく息を吐いてソファーにもたれた。 掃除も洗濯も終わり、キッチンも片付いている。 今日の自分にできることは、もうほとんど済ませた。 「あとは夕食の準備が終われば…」 夕食の準備という最後のタスクが、まるで一日の締めくくりの儀式のように、私の中で静かに重みを持っていた。 そのとき、手元のスマホが小さく震えた。 "今夜は、レストランで食事でもどう?" 画面に表示されたその短いメッセージを見た瞬間、胸の奥がふっと跳ねた。 壱馬様と、外で、ふたりきりで食事。 それは、どこか夢のようで、でも確かに、今この手の中に届いた現実だった。 私はスマホを握る手に力が入るのを感じた。 どう返事をすればいいのか、頭の中で何度も言葉を組み立てては崩して、指先がスマホの画面を行ったり来たりした。 ぜひ! そう伝えたいけれど、表現に迷ってしまう それだけでは軽すぎる気がして、壱馬様の誠実さに見合う言葉を探した。 "ありがとうございます!ぜひご一緒させていただきたいです" ようやく打ち込んだメッセージは、少し堅いかもしれないけれど、私なりの精一杯の気持ちだった。 送信ボタンを押したあと、画面を見つめる指先がわずかに震えていた。 "良かった。じゃあ六時に迎えに行くね" 再びスマホが震え、画面に表示されたその言葉を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。 まるで、特別な誰かになれたような気がして、頬がふわりと熱を帯びた。 「迎えに来てくれるなんて…」 ぽつりと漏れたその言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ自然と唇からこぼれた。 私はスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。 その言葉の中に、私を大切に思ってくれている気持ちが込められている気がして、嬉しさと同時にどこかくすぐったいような、夢を見ているような気持ちになった。 私は、そっと深呼吸をし
「…んん、」 アラームの音が静かに部屋に響き、私はまどろみの中でゆっくりと目を開けた。 カーテン越しに差し込む朝の光が、まぶしすぎず、やさしくまぶたを撫でていく。 意識が徐々に覚める感覚に、少しだけ新鮮な気持ちを覚えた。 体を伸ばしながら、深く息を吸い込む。 「こんなにぐっすり眠ったのはいつぶりだろう…」 ベッドがふかふかで、寝心地が良かったのが理由だろうか。 いやきっと、昨夜の壱馬さんの言葉と、あの穏やかな空気が、私の心をほどいてくれたからだ。 部屋全体に感じる穏やかな空気が、心を静かにほぐしていく。 窓の外に目をやると、鮮やかな朝が広がっていた。 雲ひとつない空。その光景に、つい見入ってしまう。 「こんな朝を迎えるなんて…」 思わず、そう呟いていた。 普段の忙しない日常からふっと解き放たれたような、どこか夢の中にいるような感覚だった。 壱馬様が起きる前に、ご飯の準備と、掃除もしておかないと。 私にできることなんて、ほんの些細なことばかり。 特別な才能があるわけでもないし、壱馬様の力になれる何かを持っているわけでもない。 それでも、私なりにできることがあるとしたら、 それは、日々の小さなことを、丁寧に積み重ねていくこと。 目立たなくても、誰にも気づかれなくても、それでもそこに心を込めることなら、私にもできる。 私はゆっくりとベッドを降り、リビングへと向かった。 キッチンの方へ目をやると、テーブルの上に何かが置かれているのが見えた。 近づいてみると、それはピンク色の可愛い付箋紙だった。 "おはよう。本当は9時出勤なんだけど、ゆっくり寝て欲しくて嘘ついちゃった。テレビでも見てゆっくりしててね。行ってきます" その文字を目で追ううちに、壱馬さんの声が耳元で聞こえたような気がして、胸の奥がじんわりと温かくなる。 嘘ついてま
「俺も、好きになってもらえるように、頑張るね」 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。 どんな告白よりも、胸に響いた。 甘い言葉でも、情熱的な口説き文句でもない。 ただ静かに、私の心の奥に届くように、壱馬様はそう言ってくれた。 「…ありがとうございます」 声に出すと、喉の奥が少し震えた。 私は、壱馬様の前で、ようやく少しだけ笑えた気がした。 上手く笑えているかは分からない。 でも、心からの笑顔だった。 「さて、食べよっか」 壱馬様の声が、ふっと空気を和らげた。 その一言で、張り詰めていた感情が少し緩んだ。 彼は、私の涙を引きずらせないように、さりげなく話題を切り替えてくれる。 そのやさしさが、また胸に沁みた。 私は、そっとフォークに手を伸ばした。 「はい、いただきます」 さっきよりも、味がよく分かる気がする。 それは、きっと心が少しだけ落ち着いたからだ。 あ、そういえば… 「あの、明日は何時に朝食をご準備致しましょうか?」 ふと、現実に引き戻されるように、私は口を開いた。 壱馬様の言葉に心が満たされていく一方で、私はここにいる意味を探していた。 ただそばにいるだけでいいと言われても、何か役に立てることをしたい。 そうでなければ、この場所に居続ける資格がないような気がしてしまう。 まだこの家のキッチンには慣れていないから、いつもより早起きしないと。 朝はパンを食べるみたいだから、サンドイッチを作ろうかな。 サンドイッチとサラダとヨーグルト。 私は、頭の中で冷蔵庫の中身を思い出しながら、 明日の朝の段取りを組み立てていた。 少しでも、壱馬様の一日が気持ちよく始まるように。 「朝ごはんぐらい自分で作って食べて行くから、気にしなくていいよ。花澄