Masuk「元カレ?」鋭い追求ではなく、どこか淡々と、けれど私の内面を透かして見るような静かな声だった。「事情があって別れたんですけど、その…」精一杯の声を絞り出したけれど、語尾は情けなく震えてしまった。蓮との別れは、決して嫌いになったからという単純な理由ではなかった。だからこそ、消化しきれない想いが、今も心の底に沈んでいる。それを壱馬さんにどう説明すればいいのか。正直に言えば言うほど、壱馬さんを傷つけてしまう気がした。言い訳を探す自分と、誠実でありたいと思う自分が激しく葛藤し、私はただ視線を落とすことしかできなかった。「よりを戻そうって?」核心を突く問いが降ってきた。壱馬さんの声は相変わらず穏やかだけれど、そこには確かな緊張感が混じっている気がした。「ち、違います。ただ…。お互いが納得する形で別れられるように、話を、したくて」否定の言葉は反射的に口をついて出た。嘘じゃない。復縁なんてこれっぽっちも考えていない。ただ、宙ぶらりんになったままの過去を無理やり蓋をして閉じ込めておくのは、もう限界だった。蓮とちゃんと向き合って、綺麗に終わりを告げたい。それが、今隣にいてくれる壱馬さんに対する、私なりの誠実さだと信じたかった。でも、それが自分のエゴに過ぎないのではないかという疑念が、私の言葉をいっそう自信のないものへと変えていく。「行っておいで」「いいんですか…?」もし壱馬さんが少しでも眉をひそめたなら、私はすぐにでも行くのをやめるだろう。私の最優先は、いつだって壱馬さんなのだから。でも、壱馬さんの表情に嫉妬や苛立ちの欠片は見当たらなかった。「行きたいんでしょ?」優しく諭すような声。「そう、ですけど、でも、壱馬さんが嫌なら断ろうと思ってたので」私のわがままを受け入れてくれる壱馬さんに甘えていいのか。それとも、ここで踏みとどまるべきなのか。答えは出ないまま、
「空いてるよ」承諾の返事をした瞬間、指先にまでじわりと嫌な汗がにじむのを感じた。樹との続きを自分の中で終わらせるための約束。そう言い聞かせてはいるけれど、心の片隅では、あの日の樹の切なげな瞳を思い出して、揺らいでいる自分が確かにいた。「じゃあ、詳しい場所はあとで送るね」樹の返答は、どこか慎重で、私の心をうかがうような優しさを含んでいた。「うん、分かった。ありがとう」努めて淡々と、けれど突き放さないような温度でそう返し、通話を切った。暗転したスマホの画面に、自分のひどく迷ったような顔が映り込んで、すぐに視線を逸らす。廊下の冷気が、リビングから漏れる温かな光と混ざり合う境界線で、私は一度立ち止まった。樹と再会の約束をしてしまった。お互いのための選択と分かっていても、壱馬さんへの罪悪感で胸が押し潰されそうになる。リビングのドアの前に立ち、私は一度深く呼吸を整えた。けれど、手に残ったスマホの熱が、過去と繋がっていた現実を嫌というほど突きつけてくる。意を決してドアを開けると、そこにはさっきと変わらない、穏やかで包み込むような壱馬さんの空気があった。それが今の私には、何よりも眩しくて、そして苦しい。「壱馬さん」リビングのソファに腰掛ける彼の背中に、掠れた声をかけた。「あ、電話終わった?」その屈託のない声が、私の迷いをさらに深くする。「はい。あの…」壱馬さんに、これ以上嘘をつき続けたくない。でも、正直に話せば彼を傷つけてしまうかもしれない。「ん?」壱馬さんは、私の様子を察したのか、優しく首を傾げた。その仕草ひとつが、私のこわばった心を少しずつ解いていく。「その、電話の事なんですけど」 言わなければ、このまま優しい時間に逃げ込むこともできる。でも、今の私にとって一番大切なのは、壱馬さんの前で誠実であることだと思った。「何かあった?」
遮るように電話がなる。その無機質な電子音は、今この場に漂っていた言いようのない空気を強引に引き裂いた。私は反射的に身を固くし、スマートフォンの画面に視線を落とした。「…あ、すみません」気まずさが這い上がり、喉の奥がキュッと締まる。大切な話をしていたはずなのに、タイミングの悪さに申し訳なさが募る。「いいよ。出ておいで」その声はどこまでも優しくて、今の私の迷いを見透かされているような気がした。むしろ良かったのかもしれない。私は今、壱馬さんに自分の本当の気持ちを、危うくすべて伝えてしまうところだったから。私は小さく頷き、スマホを握りしめた。「はい…」重い足取りでリビングから出る。ドアが閉まる音と、静まり返った廊下の冷たい空気が肌に触れた。画面に表示された「樹」の名前を見つめる。樹の存在は、いつも私の心の奥底に沈めたはずの未練を容赦なくかき乱す。大きく一つ深呼吸をして、震える指で通話ボタンをスライドした。「もしもし」自分の声が、静かな廊下に頼りなく響く。「もしもし花澄?今大丈夫?」受話器越しに届く、聞き慣れた樹の声。一度会って言葉を交わしてしまったからこそ、声を聞くだけで彼の表情が、その場の空気感が、ありありと思い浮かんでしまう。「うん。樹、どうしたの?」平然を装おうとしても、どうしても声が上擦ってしまう。「会ってちゃんと話したいと思って」心臓がドクンと大きな音を立てた。あの日、短い言葉を交わしただけでは、私たちの心は到底整理なんてできていなかった。後悔、期待、そして不安。ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が視界を白くさせる。「ちゃんと」という言葉の重みが、私たちの間に残されたままの何かを浮き彫りにする。このまま逃げてはいけない。彼と向き合うことは、私自身と向き合うことでもあるから。「…私も、話がしたい」中途半端な幕引きは、結局誰も幸せにしない。「花澄の家の近くのカフェはどう?」「カフェ…」その単語を聞いた瞬間、今日起きたあの光景がフラッシュバックする。莉沙さんの冷ややかな視線、振り上げられたカップ、焦燥感と恐怖。喉の奥までコーヒーの苦い香りがせり上がってきて、呼吸が浅くなる。「もしかして、他の所がいい?」この察しの良さは、付き合っていた頃から変わらない。断りたい。でも、場所を変えてほしいと説明すれば、今
「迷惑なんて思ったことないよ」 壱馬さんの言葉はあまりにも真っ直ぐで、胸にすっと入り込んでくる。けれど、私の心は簡単には軽くならない。 「ここに来てから、私が湊さんのためにできたことなんて一つもない。いつも助けてもらってばかりで…」 声は震え、胸の奥が痛む。思い返せば、ここに来てからずっと壱馬さんに助けられてばかりだった。 「そんなことない。花澄が気づいてないだけで、俺はたくさんのものをもらってるんだよ」 そんなこと、本当にあるんだろうか。壱馬さんは優しいから、私を安心させるためにそう言ってくれているだけかもしれない。 私が何もできていないことは事実で、彼に助けてもらってばかりなのに、もらってると言われてもどうしても信じ切れない。 「時々、不安になるんです。私、本当にここにいていいのかなって」 心の奥にある不安を吐き出すと、胸が締め付けられる。 壱馬さんの隣にいることが幸せなのに、同時にここにいていいのか迷ってしまう。 自分の存在が重荷になっていないか。そんな思いが繰り返し胸を叩く。 声は小さく震え、俯いたまま彼の反応を待つ。 「…電気がついてるだけで嬉しいんだ」 その言葉に、思わず顔を上げる。 「え?」 何を指しているのか分からず、心臓がどくんと大きく鳴る。 壱馬さんの言葉の真意を知りたくて、私は壱馬さんを見つめ続ける。 「一日の終わりにマンションを見上げて、部屋に灯りがついてると、なんか救われるんだよね。花澄が待っててくれるんだなって実感して、それだけで幸せになれる」 壱馬さんの言葉は、私の心を深く揺さぶる。まるで、私の存在そのものが彼の支えになっているようだった。 思い返せば、壱馬さんはそうだった。 私に何かを求めることはなく、ただ好きなことをして過ごせばいいと言ってくれた。私が幸せでいるだけで十分だと、真っ直ぐに伝えてくれる人だった。 「そんなふうに、思ってくれていたんですね」 声はかすかに震え、胸の奥から溢れる感情を抑えきれない。 「だからさ、離れていかないでよ」 その言葉を聞いた瞬間、胸が強く締め付けられた。心からの願いなのだと思った。 壱馬さんがいちばん望んでいることは、私が何かをして役に立つことでも、完璧に隣にふさわしい存在になることでもない。 ただ、私と一緒にいること。そばにいて、日々を共に過ご
「前にも夕食を作らせてしまったことがあったので、その…」 壱馬さんが仕事を休んでまで私のそばにいてくれた日。嬉しかったけれど、同時に申し訳なかった。夕食を作らせてしまったことが、私の中でずっと引っかかっていた。 「しまったって、別にどっちがするなんて決まってないんだから」 壱馬さんにとっては些細なことなのだろう。夕食を作ることも、私のそばにいることも、きっと負担だとは思ってない。 そう、分かっているけれど。 「それでも、私が…」 頼りにはなれなくても、少しでも支える側でありたい。そう思うほどに、視線は揺れ、彼の顔を見たいのに見られない。 「できる方がすればいいんだよ」 壱馬さんの言葉は優しくて、私を気遣ってくれているのが伝わる。けれど、それはいつも私のことだった。 私は常に家にいて、壱馬さんのように外で働いて疲れて帰ってくるわけじゃない。 それに、あの家にいた時は、当たり前のように私が全てをしてきた。料理も掃除も洗濯も、誰かに任せるなんて考えもしなかった。疑問に思ったことすらなく、それが自分の役割だった。 「壱馬さんは働いてくれてるじゃないですか。だから、私がしないといけないんです」 言葉を吐き出した瞬間、胸の奥がじんわりと痛む。視線は床に落ちたまま。 「花澄、」 名前を呼ばれ、私は恐る恐る顔を上げた。 けれど、壱馬さんの表情は悲しそうで、私の心を強く揺さぶった。どうしてそんな顔をするのだろう。 「せめて、家のことくらいは私がちゃんとやらないと」 私はただ、壱
「んっ…」目を覚ました瞬間、頭に鈍い痛みが走る。沢山泣いたせいで瞼は重く、視界がぼんやりと霞んでいる。記憶を辿ろうとしても途切れ途切れで、気づけばソファーに横たわっていた。「あ、起きた?」壱馬さんの声が耳に届き、心臓が跳ねる。「私いつの間に…」戸惑いながら呟く。自分がいつ眠りに落ちたのか分からないことが恥ずかしくて、胸の奥がざわめく。「泣き疲れて寝ちゃったみたい」壱馬さんはそう言って微笑んだ。その笑みは、責めるでも呆れるでもなく、ただ優しく包み込むような温かさを帯びていた。怒っていないと理解していても、どうしても自分を責める思いが拭えなかった。「すみません」泣いて困らせたうえに、眠ってしまったことが申し訳なかった。視線を落とし、指先をぎゅっと握りしめる。「どうして謝るの?」壱馬さんの問いに、胸がざわめく。「壱馬さんの前で泣いて、困らせて、その上そのまま寝てしまうなんて」大人なのに、感情を抑えられず泣きじゃくって眠ってしまった自分が情けなかった。今までこんなこと一度もなかった。感情に操られるなんて、自分の人生ではあり得ないことだと思っていた。それなのに、よりにもよって壱馬さんの前で…。「俺は嬉しかったよ」その言葉に、思考が一瞬止まる。「え?」「俺に気を許してくれたのかなって思えたから」その言葉に、胸が揺れた。私が気を許すことが、壱馬さんにとって嬉しいことだなんて。「気を許して…ます」小さな声で告白する。心臓が痛いほどに高鳴り、頬が熱くなる。壱馬さんの前だからこそ、抑え込んできた感情を素直に言葉にできたのだと思う。弱さを見せることが怖くて仕方なかったのに、その優しさに触れると、自然と心の扉が開いてしまう。「良かった。やっぱり目腫れちゃ
朝食を食べ終え、お皿をキッチンに運ぼうとした時のことだった。 「皿洗いは俺がするよ」 壱馬様が、私の代わりに皿洗いを…? 胸の奥が、少しだけざわつく。 それは、嬉しさと戸惑いが入り混じった、複雑な感情だった。 「いえ、そんな訳には─────」 私は慌てて言葉を返した。 壱馬様のお役に立てることなんて、ほんのわずかしかない。 だからせめて、家事くらいは自分がやらなければ。そう思っていたのに。 「朝食作ってもらったんだから、これぐら
「じゃあ、いただきます」 壱馬様がフォークを手に取り、オムレツにそっと刃を入れる。 その動作を見守る私は、まるで自分の心まで切り開かれるような気持ちで、息を詰めていた。 焼き加減はどうだっただろう。 味つけは薄すぎなかったか。 壱馬様の口元に運ばれるその一口を、私は祈るような気持ちで見つめていた。 まずいと言って、配膳をひっくり返してしまったらどうしよう…なんて。 もちろん、そんなことを本気で思っているわけじゃない。 心が弱っているときは、
「それは、その…」言葉が、喉の奥で絡まった。何かを言おうとするたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられて、声にならない。壱馬様のまっすぐな視線が、私の目の奥を覗き込むように注がれていて、私は思わず目を逸らしてしまった。壱馬様の言葉が、存在が、心の中の何かを、少しずつ動かしていく。それが何なのか、まだはっきりとは分からない。けれど─────少なくとも、無関心ではいられない。そんな
「口説く…?」私は驚いて聞き返した。あの日から、誰かに好かれることも、誰かを好きになることも、どこか遠い物語の中の出来事のようだった。それなのに、「うん」その声には、迷いがなかった。軽い調子でもなく、重すぎるわけでもなく、ただ、当たり前のことを言うように。口説くって、自分に興味を持ってもらえるようにアプローチするとかって、そういうこと、だよね。そんなものを私が受ける立場になるなんて、想







