All Chapters of その魔法が解ける前に: Chapter 1 - Chapter 10

52 Chapters

プロローグ

「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。
last updateLast Updated : 2025-12-26
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第1話

「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。それが、また裏目に出た。「はい。すみません」それ以上、何も言えなかった。言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。「分かったならさっさと作り直してきなさい」お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。その言葉には、感情のかけらもなかった。「はい」私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。それでも、泣くわけにはいかない。この家では、私に人権なんてものはないのだから。この家は、お姉様がすべてだった。父も母も、いつだってお姉様の味方だった。私は、ただの影。いてもいなくても変わらない存在。いや、むしろ邪魔者として扱われていた。お姉様は何でもできる。美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。一方の私は、料理ひとつまともに作れない。比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。
last updateLast Updated : 2025-12-26
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第2話

「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな未来を、何度も想像したことがある。けれど、それは夢でしかない。現実は、そんなに優しくない。逃げたところで、きっとすぐに見つかる。お姉様は、そういう人だ。どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。その執念深さを、私は誰よりも知っている。「樹様…」名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。私はそれを、もう何度も味わってきた。「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」彼の声が、どこか寂しげだった。私だって、そう呼びたい。昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。でも、今の私は、あの頃の私じゃない。彼の隣に立つ資格なんて、もうない。「すみません…」それが、私にできる精一杯の返事だった。彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。その眼差しが、心の奥を揺さぶる。「俺は、まだ花澄のことが──」その声が、かすかに震えていた。彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。「…お姉様」声がうわずった。心臓が、早鐘のように打ち始める。手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。逃げ場は、どこにもなかった。「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」その場
last updateLast Updated : 2025-12-26
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第3話

「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。それでも、どこかで願っていた。せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。「あら、良かったじゃない」お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。お姉様はいつもそうだった。私が困っているときほど、よく笑う。もう慣れていた。この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。「そうですか」私は感情を押し殺して答えた。声が震えないように、喉の奥に力を込める。目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。拒絶を口にしたところで、何も変わらない。「嫁ぎ先は東条家の所だ」お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。その家に、私が嫁ぐ?なぜ、私が…そんな疑問が頭の中をぐるぐると
last updateLast Updated : 2025-12-29
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第4話

「そうみたいって、そんな人と結婚させられるかもしれないんだよ?」 樹様の声が、少しだけ強くなった。 その怒りは、私のためのものだった。 彼の優しさが、私を縛る。 逃げたいのに、逃げられない。 彼の言葉に応えたい気持ちと、応えてはいけないという理性が、胸の中でせめぎ合っていた。 「覚悟は…していたので」 私は小さく息を吐きながら、そう答えた。 いつか、いつかこんな日が来ると。 覚悟していたはずなのに、心はまだ抗おうとしていた。 ほんのわずかでも、奇跡を信じていた自分がいたことに気づいて、私はそっと唇を噛んだ。 痛みで、余計な感情を押し込めるように。 「そんなのダメだよ。破談にするべきだって俺が──」 彼の言葉が、私の心を大きく揺さぶった。 その真っ直ぐな想いが、私の胸に突き刺さる。 けれど、私はそれを受け止めることができなかった。 彼が動けば動くほど、彼が傷つく。 もう、終わったことなのに。 私のために、これ以上、傷つかないで。 「それはいけません」 私は、思わず彼の言葉を遮っていた。 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。 私の中にある最後の理性が、彼を守ろうとした結果だった。 これ以上、彼に踏み込ませてはいけない。 私のために、彼が傷つくのはもう見たくなかった。 彼が声を上げれば上げるほど、この家の怒りは彼に向かう。 それが、どれほど危ういことか、私は誰よりもよく知っていた。 「どうして…」 樹様の声が、かすかに震えていた。 その響きに、胸が締めつけられる。 彼の目が、まっすぐに私を見ていた。 「頼んでみたところで何も変わりません。それどころか父を刺激すると、樹様がここにはいられなくなってしまいます」 私は、できるだけ冷静に言葉
last updateLast Updated : 2025-12-30
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第5話

お見合いをすることが決まってから、一週間。和室の障子をくぐった瞬間から、心臓の鼓動が速くなり、手のひらにはじっとりと汗が滲んだ。畳の香りが鼻をかすめるたびに、現実を突きつけられるようで、逃げ出したい衝動に駆られる。けれど、逃げる場所などどこにもない。私は静かに膝を折り、用意された座布団の上に身を沈めた。背筋を伸ばし、手を膝の上に揃える。目の前には、東条壱馬様が座っていた。彼は俯いたまま、微動だにしない。顔ははっきりとは見えないけれど、輪郭や首筋の線から察するに、それほど年は離れていないように思えた。けれど、年齢の近さが、親しみやすさに繋がるわけではない。むしろ、彼の沈黙が、私の緊張をさらに煽っていた。私たちは向かい合って座り、言葉ひとつ交わさないまま、時間だけが静かに流れていった。沈黙があまりにも重くて、息が詰まりそうだった。まるで自分がこの場に存在していないような気がしてきて、その不安を振り払うように私は声を発した。「初めまして。藤原花澄と申します」私は、膝の上で組んだ手をそっと解き、両手を畳につけて頭を下げた。その瞬間、背筋に走る緊張が、まるで冷たい水を浴びたように全身を包んだ。声が震えないようにと意識しすぎて、逆に喉が乾いてしまう。頭を下げている間、視界に映るのは自分の膝と、きちんと折りたたまれた袴の裾だけ。その小さな視界の中で、私は自分の存在をできるだけ小さくしようとしていた。それでも、礼儀だけはきちんと果たさなければならない。それが、この家で育った私に課せられた最低限の務めだった。「東条壱馬と申します」彼の声は、低く、よく通る音色だった。けれど、そこに感情の起伏はほとんど感じられなかった。まるで、
last updateLast Updated : 2025-12-31
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第6話

私は小さく息を吐き、胸の奥に溜まっていた緊張を少しだけ外に逃がした。呼吸を整えることで、なんとか自分を保とうとしていた。この場にふさわしい振る舞いをしなければ。そう思えば思うほど、体はこわばってしまう。私は背筋を伸ばし直し、視線をそっと落とした。そのときだった。壱馬様が静かに手を伸ばし、私にハンカチを差し出した。私は思わず彼の顔を見た。「使ってください」声は低く、感情を抑えているように聞こえたけれど、どこか柔らかさがあった。この人は、無関心なのではなかったのか。それとも、ただ表に出さないだけで、実はとても繊細な人なのか。その答えは分からなかったけれど、私はその優しさを、確かに感じていた。私は、彼の無表情に、勝手な印象を重ねていたのかもしれない。「あ、ありがとうございます」思わず口をついて出た言葉は、少しだけ上ずっていた。私はそっと手を伸ばし、彼のハンカチを受け取った。その布地は、思ったよりも柔らかく、そして温かかった。彼の体温がまだそこに残っているような気がして、その感覚を振り払うように、袴の濡れた部分を丁寧に拭き始めた。「洗ってお返しします」私がそう言うと、壱馬様は軽く首を振った。「大丈夫です」彼の声は、相変わらず静かで、感情の起伏はほとんどなかった。私はその言葉に、少しだけ戸惑った。本当に、返さなくていいのだろうか。「でも、」私は思わず言葉を継いでしまった。自分でも、なぜこんなにこだわっているのか分からなかった。ただ、彼の持ち物をそのまま返すことが、どこか落ち着かなかった。「汚れてないですから」
last updateLast Updated : 2026-01-01
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第7話

「花澄の事を気に入って頂けたんですね」 お父様の嬉しそうな声が響く。 あの人が、こんなにも上機嫌になるなんて。 私の記憶の中にあるお父様は、いつも眉間に皺を寄せていて、私を見るたびに不機嫌そうに顔をしかめていた。 「お前は何の役にも立たない」と、何度言われたか分からない。 そんなお父様が、今は目を細めて笑っている。 その笑顔が、かえって不気味に思えるほどだった。 「はい」 その一言が、私の混乱に拍車をかけた。 本当に、私のことを気に入ったというのだろうか。 それとも、何か別の意図があるのだろうか。 彼の表情は相変わらず読めない。 けれど、嘘をついているようには見えなかった。 私は、何の取り柄もない、ただの娘なのに。 家の中では邪魔者扱いされ、外では誰にも気づかれないように生きてきた。 好きにさせてもらうと仰っていたから、私の願いを受け入れてくれたのだと思った。 だから、もう二度と会うことはないと思っていた。 それなのに、今こうして再び向かい合っている。 私は、夢の中にいるのだろうか。 「そうですかそうですか。お前も役に立つ日が来たんだな!」 お父様の上機嫌な声に、私はただ愛想笑いをすることしかできなかった。 けれど、お父様は満足そうに頷いていた。 私が何を思っているかなんて、きっとどうでもいいのだろう。 「他になにか、気になることはありますか」 壱馬さんは、静かにお父様に尋ねた。 けれど、私はその一言に、どこか不思議な緊張を覚えた。 まるで、彼がこの場の主導権を握っていることを、静かに示しているようだった。 お父様の前で、こんなにも堂々と話す人を、私は初めて見た。 「特にないですが…結婚式はいつ挙げるおつもりで?」 その声には、どこか焦りのようなものがにじんでいた
last updateLast Updated : 2026-01-02
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第8話

「そうですか、なら良かったです。では今日からでも」 壱馬様の言葉に、私はさらに驚いた。 まるで、心の準備をする猶予すら与えられないような、そんな急展開に思考が追いつかない。 私は、今この瞬間を境に、あの家を出て、彼と共に暮らし始めるのだ。 嬉しいはずなのに、どこか現実味がなくて、夢の中にいるような気がした。 「きょ、今日からですか?それは…まだ準備が何も…。一度家に帰る必要が…」 お父様が戸惑いながら答える。 その声には、焦りと困惑が滲んでいた。 けれど、私はその言葉に、どこか冷めた気持ちで耳を傾けていた。 準備なんて。私に持ち帰るべき私物など、ほとんど存在しない。 大切にしていたものは、いつの間にか捨てられ、壊され、あるいは姉に奪われていった。 私の部屋には、私のものなど、もう何も残っていない。 だから、帰る理由も、未練もなかった。 「その必要はありませんよ。全てこちらに揃っています。不便は無いと思いますが」 壱馬様の言葉は、静かで、しかし揺るぎなかった。 私のことを考えてくれているのか、私があの家に戻らなくて済むように、すべてを整えてくれていた。 「あぁ、それは有難い」 お父様は、ほっとしたように答えた。 ただ、自分の手間が省けたことへの安堵。 「ありがとうございます…」 私は小さく答えた。 「では、滅多に会えなくなると思いますので、最後に二人でお話でもしてください」 壱馬様の言葉に、私は少し戸惑いながらも頷いた。 話すことなんて、何もない。 けれど、彼のこの提案には何か意味があるのだろう。 きっと、最後のけじめをつける時間をくれたのだ。 「お気遣いありがとうございます」 壱馬様は静かに立ち上がり、音もなく部屋を出て行った。 「随分気にいられたみたいだな。どうやって落と
last updateLast Updated : 2026-01-03
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第9話

壱馬様の家に向かう道中、私は心の中で様々な思いが交錯していた。 車の窓から見える景色は、どこか遠い世界のように感じられた。 見慣れた街並みが、まるで別の国の風景のように流れていく。 同棲に対する不安。 あの家から逃げ出せた喜び。 そして、壱馬様に捨てられるんじゃないかという恐怖。 私は、ただ黙って座っていた。 けれど、沈黙もまた、私を締めつけた。 車内は、エンジンの低い唸り声だけが響いていた。 その音が、私たちの間に流れる気まずい沈黙を埋めている。 窓の外を流れる景色を見つめながら、私は何度も言葉を探した。 でも、何も見つからなかった。 何を言えばいいのか分からない。 感謝か、それとも、ただの雑談か。 どれも、今の私には似合わない気がした。 壱馬様もまた、ハンドルを握りしめたまま、視線を前方に固定している。 その横顔は、相変わらず冷静で、感情を読み取ることができなかった。 私は、彼の中にある本当の気持ちを知りたかった。 けれど、それを尋ねる勇気もなかった。 「…あの、壱馬様」 ようやく口を開いた私の声は、思ったよりも小さく震えていた。 言葉を発するだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。 それでも、この沈黙を破りたかった。 けれど、口を開いた瞬間、頭の中が真っ白になった。 「はい」 壱馬様は一瞬だけこちらを見て、すぐに前方に視線を戻した。 「い、いえ、何でもありません…」 再び沈黙が訪れた。 私は、自分の無力さに苛立ちを覚えた。 私は、何も変わっていない。 あの家を出ても、私はまだ、誰かの顔色をうかがってばかりだ。 もっと気の利いたことを言えればいいのに。 そんなふうに思いながら
last updateLast Updated : 2026-01-04
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