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第3話

Author: 三木林
私は離婚協議書をリビングのテーブルに置いた。

知樹は、それを見たらきっと喜ぶだろう。

九年間暮らした家を本当に離れるとき、やはり名残惜しさはあった。

ポケットの中のスマホが震えた。病院から、再検査に来るようにとの連絡だった。私は気持ちを抑えて片づけた。

タクシーで病院へ向かう途中、どうしても知樹の顔が頭をよぎる。

彼が協議書を目にしたとき、どんな表情をするのだろう。

しかし、私が顔を上げた瞬間、日夜恋い焦がれていたその顔が目に飛び込んできた。

知樹が産婦人科の入口に立っており、その傍らには伊織がいた。

彼は伊織を腕に抱き、甘えるように彼女の鼻先をつついていた。

まるで夫婦そのもののように幸せそうだった。

あまりに熱い視線を送ったせいか、知樹はすぐに私に気づいた。

彼は慌てて伊織を抱く腕を引っ込め、気まずそうにこちらへ歩み寄った。

「望美、どうしてここに?」

彼は緊張のあまり唾を飲み込み、何度も伊織に合図を送っていた。

「仕事が終わって戻ったばかりだ。たまたま伊織に会って、少し体調悪いっていうから、病院に付き添ってあげたんだ。

わかるだろ。俺と伊織はただの友達だ。彼女はこっちに来たばかりで不慣れだから、放っておけなくて。お前も変に考えるなよ……」

彼は言い訳が完璧で、私を騙せると自信満々だ。

以前の私は何も疑わず彼を信じていたが、今はもう決して信じない。

私は信じたふりをして、追及しなかった。

あまりに冷静な態度に、知樹は驚いたように、言いかけてはやめた。

しばらく沈黙していた伊織は、一歩前に出て微笑んだ。

「私と知樹は仲のいい友人なの。望美さんは気にしないよね?

変に考えないで。私がお願いして、付き添ってもらっただけだから」

伊織が話す間、知樹は彼女から視線を離さず、瞳に愛情を隠しもしなかった。

その眼差しを、彼が私に向けてくれたのは、いつが最後だっただろう。

今、喉がひどく乾いているだけだと感じた。私はかすれた声で口を開いた。

「わかってるわ。あなたたちは、友達関係だもの」

私のよそよそしい口調に、知樹は苛立ちを見せた。

彼は私を強く突き飛ばし、険しい声を浴びせかけた。

「望美、何でお前が病院にいるんだ?」

そして何かに思い当たったのか、さらに怒気を含んだ声を張り上げた。

「望美!まさかお前、俺を尾行してたのか?ただの記念日ごときで?」

知樹はそう思っているのか?加害者が先に罪をなすりつけた。

「尾行なんてする暇ないわ。あなたの考えすぎよ」

私の冷たい声に、彼の不満はさらに募った。彼の怒りはどこにもぶつけることができず、口を開きかけては止めた。

私がいつも熱心に彼を支えてきたからこそ、その態度の変化に耐えられないのだろう。

「望美!調子に乗るなよ。俺はこれまで十分に良くしてきただろ!」

彼の声はさらに荒れ、私への不満を一方的にぶつけてきた。

私は深く失望したまま、発行されたばかりの診断書を握りしめていた。

彼の心はすでに伊織のもので、私に向けられることは二度となかっただろう。
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