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深き想いを抱き、薄き冷たさへ

深き想いを抱き、薄き冷たさへ

By:  白団子Completed
Language: Japanese
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「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」 「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」 戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。

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Chapter 1

第1話

「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」

「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」

戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。

冷たい液体が血肉に溶け込む。全身が激しく痙攣し、やがて長い時間ののち、ようやく静けさが戻った。

介護士たちは顔が冷え切っていた。彼らは涼音の足をつかみ、ずるずると引きずって、こざっぱりと温かみのある病室に放り込む。まるで、最初からここが彼女の病室だったとでも言うように。

けれど、真実は違う。今日この瞬間まで、彼女がいたのは光の差さぬ地下室。そこにはベッドすらなかった。

「涼音、ほら、誰が迎えに来たと思う?」さっきまで凶相だった介護士が、甘ったるい声で囁く。さっきとは別人のようだ。

病室のドアが開く。藤瀬西洲(ふじせ さいしゅう)の、しなやかで端正な影が現れた。

逆光の中に立つ彼の深い造作に、光と影が斑に落ちる。理不尽なほど、綺麗だった。

涼音の瞳がかすかに揺れる。焦点の合わない目で、やっとの思いで西洲を見上げる。喉がひくりと鳴ったのに、言葉は一つも出てこない。

おじさん、やっと迎えに来てくれたの?

どうして、今回はこんなに遅かったの?

涼音は西洲に育てられた。だが彼は彼女の血の繋がったおじさんではない。父の友人にすぎない。

彼女が幼い頃、両親は事故で同時にこの世を去った。孤児院にいた彼女を抱き上げ、連れ帰ったのが西洲だった。

あの日、孤児院で。彼は壊れ物でも抱くように、そっと彼女を腕に収めた。

「涼音、やっとお前を見つけた。大丈夫、怖くない。これからおじさんは、誰にもお前を傷つけさせない」

光のない彼女の人生に、その日、一筋の光が差し込んだ。

現実と記憶が重なり、涼音の瞳に微かな涙の光が揺れる。おじさん、やっと迎えに来てくれたんだ。やっぱり、来てくれるって……

その涙がこぼれるより早く、艶やかな声が横から差し込んだ。「西洲、涼音は見つかった?」

そこで初めて、西洲の隣に女がいると気づく。

白石月綺(しらいし つきあや)が西洲の腕に絡みつき、しなやかな体を寄せながら、勝者の微笑を浮かべていた。

涼音はぽかんとした。死にかけの脳が、ようやく軋みを上げて回り出す。そうだ。忘れてた。おじさんには、もう月綺がいるんだ。

以前、おじさんが彼女を精神病院に送ったのも、月綺のためだった。

おじさんは「頭が狂っている」と言って、自らの手で彼女をここへ運び込んだ。ここでちゃんとしつけを受けて、心の雑念を取り除けと……

今の自分は、本当に狂ってしまったのかな。こんな大事なことまで忘れるなんてって涼音は思う。

「涼音、私たち、迎えに来たのよ」月綺がにっこりと歩み寄り、姉妹のように親しげに涼音の手を握る。「ここでの暮らしはどう?お医者さんや介護士さんに、いじめられてない?」

いじめ?それは、どこからがいじめなんだろう。

冬、服をはぎ取られて、他の患者たちと一緒に凍った地面に立たされた。そして、介護士が高圧の水を、冷たい噴流を容赦なく浴びせて、それを「お風呂」と呼んでいた。これは、いじめかな?

言うことを聞かなければ、細い針で指先を刺された。深く刺さりすぎて、あとから抜けなくなった針は、そのまま肉に埋まった。これも、いじめ?

殴打、罵倒、電撃、モラハラ……

これらを「いじめ」とひとくくりにするのは、あまりにも生ぬるい。

ふと我に返ると、月綺の指先で何かがきらりと光り、涼音の目を刺した。

無意識に視線を落とす。月綺の薬指に、見覚えのありすぎるブルーダイヤの指輪が嵌っている。

「やだ、バレちゃった」月綺は頬を染める仕草をしてみせる。「私、あなたのおじさんと婚約したの。来週には結婚よ。この婚約指輪、どこか見覚えない?西洲はね、あなたのデザインしたダイヤの指輪で、私にプロポーズしたの」

ああ、そういうこと。涼音は笑った。道理で見覚えがあるわけだ。

それは、おじさんのために彼女がデザインした、告白の指輪だった。

名は「海枯」。海が枯れ、石が砕けても、愛は微塵も衰えない――そんな意味を込めた指輪。

あのときおじさんは、なんて返したんだっけ。

ああ、そうだ。

「涼音。お前、頭がどうかしてるのか?俺はお前のおじさんだ。お前の法的な保護者だぞ。そんな感情を向けるなんて、背徳で乱倫だ。自分で気持ち悪いと思わないのか?」

もうすぐ死ぬからだろうか。以前なら彼女を完全に打ち砕いたはずの出来事が、今は妙に静かに受け止められる。

「おめでとう」涼音は淡々と言った。悲しみも喜びもない、ただの痺れた声で。「その指輪、サイズは合ってる?合わないなら、私が直す」

何しろ自分の作品だ。デザイナーは、自分の作品を勝手にいじられるのを好まない。

だというのに、西洲の目がすっと冷えた。「誰を馬鹿にしてる?」

自分のプロポーズの指輪に向かって、真っ先にサイズが合うかと訊く。それはつまり、この指輪は月綺のものではなく、自分のものだと暗に言っているのと同じだろう。

まったく、三つ子の魂百まで。本性は変わらない。
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松坂 美枝
あれだけのことがあってのハッピーエンドか 愛は強し お幸せに
2025-08-26 09:51:47
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24 Chapters
第1話
「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。冷たい液体が血肉に溶け込む。全身が激しく痙攣し、やがて長い時間ののち、ようやく静けさが戻った。介護士たちは顔が冷え切っていた。彼らは涼音の足をつかみ、ずるずると引きずって、こざっぱりと温かみのある病室に放り込む。まるで、最初からここが彼女の病室だったとでも言うように。けれど、真実は違う。今日この瞬間まで、彼女がいたのは光の差さぬ地下室。そこにはベッドすらなかった。「涼音、ほら、誰が迎えに来たと思う?」さっきまで凶相だった介護士が、甘ったるい声で囁く。さっきとは別人のようだ。病室のドアが開く。藤瀬西洲(ふじせ さいしゅう)の、しなやかで端正な影が現れた。逆光の中に立つ彼の深い造作に、光と影が斑に落ちる。理不尽なほど、綺麗だった。涼音の瞳がかすかに揺れる。焦点の合わない目で、やっとの思いで西洲を見上げる。喉がひくりと鳴ったのに、言葉は一つも出てこない。おじさん、やっと迎えに来てくれたの?どうして、今回はこんなに遅かったの?涼音は西洲に育てられた。だが彼は彼女の血の繋がったおじさんではない。父の友人にすぎない。彼女が幼い頃、両親は事故で同時にこの世を去った。孤児院にいた彼女を抱き上げ、連れ帰ったのが西洲だった。あの日、孤児院で。彼は壊れ物でも抱くように、そっと彼女を腕に収めた。「涼音、やっとお前を見つけた。大丈夫、怖くない。これからおじさんは、誰にもお前を傷つけさせない」光のない彼女の人生に、その日、一筋の光が差し込んだ。現実と記憶が重なり、涼音の瞳に微かな涙の光が揺れる。おじさん、やっと迎えに来てくれたんだ。やっぱり、来てくれるって……その涙がこぼれるより早く、艶やかな声が横から差し込んだ。「西洲、涼音は見つかった?」そこで初めて、西洲の隣に
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第2話
「お前、ここに三年いたくらいじゃまだ足りないな」西洲は氷のような声で言い放った。「自分の何が間違っていたのか、まるで分かってないじゃないか!」涼音は茫然とした顔をした。薬のせいなのか、それとも三年も狂った人たちと暮らしたせいなのか、もう普通の人の考え方が分からなくなっている。どうしておじさんは、急に怒ったの?自分が、言うことを聞かなかったから?でも、何もしてないのに……「もう、そんな言い方しないで」月綺が慌てて場を収める。「涼音だってもう悪かったって分かってるわ。それに、私たち来週には結婚するじゃない。まさか結婚式にだって、涼音を出席させないつもり?」月綺の取りなしで、西洲はようやく怒りを収めた。だが精神病院を出ると、またたちまち顔が陰った。涼音が、裸足でついて来ていたからだ。真冬、地面には厚く雪が積もっている。けれど涼音は、寒さなど感じないかのように、素足で白い雪を踏みしめていた。「誰に同情でも買うつもりだ?」彼の声は冬の寒風よりも冷たかった。けれど実のところ、彼女は同情を買おうとしていたわけではない。精神病院では、ずっと靴を履かせてもらえなかったのだ。もし西洲に、ほんの少しでも辛抱があって、涼音の足をよく見ていたなら、雪に沈む足の甲いっぱいに、しもやけができているのが分かったはずだ。けれど彼は、二度目の視線を向けることはしなかった。「哀れを売るっていうなら、とことんやれ。一人で歩いて帰れ」冷ややかに言い捨てると、西洲は月綺を連れて、さっさと去っていった。彼は気づきもしなかった。涼音が薄いパジャマ一枚しか身につけていないことに。空にはまだ雪が舞い、吹きつける風は骨の髄まで痛む。涼音は裸足のまま、しびれた足で一歩、一歩、無感覚に前へ進む。寒い……おじさん、絶対に私を置いていかないって言ったよね?どうして、また置いていくの……家に戻ったときには、涼音の体はもう冷え切って何も感じなかった。自分でも驚いた。まだ家への道を覚えていたなんて。けれど、夢にまで見た家は、もうすっかり様変わりしていた。月綺は女主人のように尊大にソファへ腰かけていた。「涼音、西洲は用事で出かけたわ。今、家にいるのは私たちだけ。いい子にして、余計なことは言わないでね。そうしないと西洲が怒って、また精神病
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第3話
「涼音、何してるの?」月綺が慌てて口を開く。「分かってるわよ、今日おじさんが一人で歩いて帰れって罰を与えたから、あなた怒ってるんでしょ……でも、だからってそんなやり方で不満をぶつけるのはダメよ」たった二言三言で、極限の環境で身についた習慣を、故意の挑発にすり替えてみせる。案の定、西洲の顔は暗く陰った。怒りを押し殺すように言い放つ。「涼音。ちゃんと飯が食えないなら食うなよ。部屋に戻って反省してろ。俺の命令があるまで、一歩も部屋から出るな」本当は食べたかった。あの精神病院では、カビたパンに砂の混じった飯……目の前の魚は本当においしい。たとえ、それが月綺の手料理でも。けれどおじさんが「食うな」と言う。涼音は手に掴んでいた魚をそっと皿に戻し、少しだけ悔しさを宿した目でおじさんを見上げた。おじさんは、どうしてまた怒ってるの?子どもの頃は、決して自分に怒らなかったのに。幼い頃、どんな無茶なお願いでも、おじさんは叶えてくれた。暗闇が怖くて一人で眠れないと言えば、ベッドのそばで自分が眠りにつくまで黙って見守ってくれた。おとぎ話の中の姫さまにはみんなお城がある、と言っておじさんの裾を引けば、本当に島をひとつ買って、自分のために城を建ててくれた……いったい何があったの?どうして全部が変わってしまったの?自分を大事にしてくれたおじさんが、どうして今度は自分を地獄へ突き落とすの?そのまま二日二晩、閉じ込められた。その間、使用人が持ってきたのは二杯の水だけ。西洲は本気で彼女を躾けるつもりらしく、水以外のものは一切口にさせなかった。それでも、水があるだけまし。透き通っていて、口に含むと甘い。精神病院にいたときは、水にさえ砂が混ざっていたのだから。飢えでほとんど気を失いかけた頃、ようやく西洲が鍵を開けた。「今度は、ちゃんと食えるようになったか?」男は見下ろすように問いただす。涼音は無表情のまま、こくりと頷く。そして西洲の視線を感じながら、おぼつかない手つきで箸を取り、震える指でおかずを摘もうとした。ああ、思い出した。普通の人は、手づかみで口に押し込んだりしないんだ。やっぱり自分は狂ってしまったんだ。どうりでいつもおじさんを怒らせてしまうわけだ。自分が、もうおかしくなってるから。長く飢えたせいで急に食べたものを胃が受けつけなかった
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第4話
涼音の怯えきった顔が、西洲の心臓を鋭く抉った。もう他のことなんてどうでもいい。彼はそのまま彼女を横抱きにして駆け出す。「車を用意しろ! 病院へ行く!」だが病院で全身検査を終えた医者は、こう告げた。「戸原さんはとても健康です。少し栄養失調気味ではありますが、他に異常はありません」「そんなはずがないだろう」西洲は即座に拒む。「さっき吐血したんだ!」医者は困ったように眉を寄せ、逡巡した末に、重く口を開いた。「藤瀬社長。実は、それは血のパックです」「血の、パック?」西洲は一瞬きょとんとし、漆黒の瞳に驚愕を浮かべる。「ええ」医者は涼音の上着を差し出した。「信じられないなら、匂いを嗅いでみてください。甘くて、鉄の匂いがまったくしないです。これは人工血漿です。本物の血ではありません」この病院は藤瀬家の経営で、検査を担当したのも彼の主治医だ。彼の言葉なら、西洲は信用する。だが、さっきの涼音の、あの怯え切った目が頭から離れない。思わず、もう一つ問いが漏れた。「栄養失調って、最近の数日でなるものじゃないよな?どうしてこんなに痩せ細ってる?」「西洲……全部、私のせいなの」月綺の目が瞬く間に赤くなる。「一年前に病院の院長から連絡があって、涼音が絶食しているって。あなたが会いに来ないなら食べないって、院長を脅したって。本当はその時あなたに言いたかった。でも、あなたは私が涼音の話をするのを嫌がった。少しでも名前を出すと怒るから、結局伝えられなかったの」そう言って、月綺はスマホを取り出し、一本の動画を見せる。動画の中で、涼音は膝を抱えてベッドの端にうずくまっている。その正面のテーブルには、色とりどりのご馳走がずらりと並んでいた。動画は三十分に及ぶ。だがその間、彼女はずっとベッドの端で縮こまり、一度もテーブルには手を伸ばさない。「これ、院長から送られてきたの。毎食、このレベルで用意しているのに……涼音はあなたに会うためにずっと絶食して、何も食べないのよ」月綺はため息を落とした。西洲の怒りは、その瞬間、頂点に達した。ちょうどその時、涼音が病室から出てくる。「涼音。精神病院でどれほど甘やかされていようが、戻ってきた以上は俺のやり方に従え!」西洲は低く冷えた声で脅すように告げる。「くだらない小細工はやめろ。俺には通用しない。これ以上
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第5話
翌朝早く、ウェディングドレス店のスタッフが月綺を迎えにやって来た。「西洲、どうしよう……さっき、ブライズメイドの一人から連絡があって、海外出張で結婚式の日には多分来られないって……」月綺は眉根を寄せて、焦燥感を隠せない様子で言った。「ブライズメイドとアッシャーはペアだから、もうすぐ式なのに、一人足りなくなったらどうすればいいの?」その言葉を聞いて、西洲の視線が涼音の方へと向いた。「涼音、お前が月綺のブライズメイドをやってくれないか?」問いかけのようでいて、拒否を許さない口調だった。涼音はふいに、以前思い描いた自分の願いを思い出した。死ぬ前に、もう一度だけおじさんに抱きしめてもらいたい。おずおずと尋ねる。「涼音、お利口にしたら、ご褒美……もらえる?」子供が甘えるような言い方だった。わざとぶりっ子しているわけじゃない。ただ薬のせいで頭がぼんやりしていて、昔と今がごちゃ混ぜになってしまう。かすかな記憶の中で、小さい頃、自分はおじさんにべったりだった。どこに行くにもついて回って、離れれば泣き叫んで、おじさんも困り果てて、結局膝の上に抱いてあやしてくれた。「涼音、お利口にしてたら、おじさんが帰ってきたときご褒美あげるからな」瀕死の脳が導き出したただひとつの結論――お利口にしていれば、ご褒美がもらえる。もう一度、おじさんに抱きしめてもらいたい。温かいその腕の中で、ひとりきりで冷たく死ぬのは嫌だった。涼音が向けた、怯える子犬のような視線のせいかもしれない。あるいは今、彼女がふわふわのパジャマ姿で、手にミルクを抱えている様子が、西洲に幼い頃の彼女を思い出させたのかもしれない。普段は氷のような男の心に、ふとした隙間風が吹き込んだ。自分でも気づかぬうちに微笑んでいた。「それは涼音の頑張り次第だな」こうして、涼音は月綺のブライズメイドになった。けれど、試着室でドレスを着ようとしたとき、涼音は戸惑いで固まってしまった。頭は霞がかかったようにぼんやりしているのに、それでも分かった。スタッフが渡してきたのは、ブライズメイドドレスじゃない。ウェディングドレスだった。「お姉さん……これ……ウェディングドレス……私、新婦じゃ、ないのに……」言葉を紡ぐのもやっとだったが、それだけははっきり覚えていた。自分は新婦じゃない。おじさんは
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第6話
「涼音、これはウェディングドレスだぞ。お前がウェディングドレスを着て出てきて、一体何をしたいんだ?」我に返った西洲は、怒りを抑えきれず声を荒げた。「今すぐ脱げ!」彼がここまで激怒しているのは、涼音がウェディングドレスを着たからなのか、それとも、自分がつい見惚れてしまったことを抑えられなかったからなのか……本人にも分からなかった。「藤瀬社長、すみません。このドレスは本来、白石さんにお渡しする予定だったのですが、戸原さんがどうしても試着したいと仰って……私たちが断っても聞かなくて、怒り出されて……」スタッフは困惑した顔で説明する。「仕方なく、先に戸原さんに試着してもらったんです」戸原さん?涼音はぽかんと首を傾げる。視線は困惑でいっぱいだ。この戸原さんって、自分のこと?でも、着せたのはそっちなのに。「違う……嘘……彼女が、嘘を……」涼音は震える声で、何とか言葉を絞り出した。「私は……してない……彼女たちが……」薬のせいで、元々ろくに喋れない体になっていたのに、今は極度に緊張していて、言葉がさらにうまく出てこない。そんなタイミングで、月綺が近づく。彼女はぐいっと涼音の手を掴み、涼音に反論する隙も与えない。「涼音、そんなに緊張しなくていいよ。私、分かってる。あなたがわざとじゃないってこと。西洲、そんなに怒らないで。女の子はみんなウェディングドレスが好きなんだから。涼音だって、ただこの特別なドレスに惹かれて、ちょっと着てみたかっただけなんだよ。あなたに見せたくて着たんじゃ絶対ないから」宥めているようで、逆に火に油を注ぐような言い方だった。西洲の顔色はどんどん険しくなっていく。冷たい視線で涼音を見据えたまま、一言一言、心に突き刺さるように言葉を吐き出す。「涼音。お前は何者だ?俺にウェディングドレスを見せる資格があると思ってるのか?何度も言っただろう。俺はお前のおじだ。それ以上でも以下でもない。俺たちがどうにかなることなんて、絶対にない!」その目は、氷のように冷たかった。「三年間、あの病院で過ごせば、お前も分かると思っていた。くだらない妄想は捨てられると……だが、どうやら俺の思い違いだったようだ。明日は俺と月綺の結婚式だ。お前も参加していい。だが、式が終わったら、すぐに出て行け。二度と俺の前に現れるな!」そう言い残し、西洲
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第7話
人々の視線が集まる中、ついに結婚式が始まった。式場は海辺。涼音は海が大好きだった。成人の日、おじさんに「もし将来お嫁に行くなら、海辺で式を挙げたい」と話したことを覚えている。バラの花びらが道を彩り、海面にはピンク色の灯籠が浮かび、豪華なクルーズ船で、真っ昼間に打ち上がる花火……そんな夢を語った。そして、おじさんは、その全てを叶えてくれた。ただ、残念なことに、その結婚式の主役は、自分ではなかった。涼音はシンプルな白いロングドレスに着替え、ブライズメイドとして式に立つ。海風が吹き抜けるたび、スカートの裾が舞い、まるで精霊のように軽やかだった。一方、月綺は豪奢なウェディングドレスに身を包む。その気品と重厚さは、涼音の儚さと対照的だ。西洲は黒のオーダースーツに身を包み、月綺の隣に立つ。その姿は、どこか冷たく威厳に満ち、まるで古の帝王のようだった。「おじさん……」涼音は、そっと声をかけた。「抱きしめて、もらってもいい?」不思議だった。ついこの前まで、毎日血を吐き、言葉もろくに話せないほど弱っていたのに、今日はなぜか、最後の輝きのように意識が冴えて、体も心も軽い。痛くも苦しくもない。「涼音、式の最中に俺に喧嘩を売るな」西洲は低く、怒りを抑えた声で答えた。彼は、彼女がまたわがままを言っているのだと思っていた。まさか、これが彼女の命が尽きる前、最後の願いだとは知らずに。「おじさん……式が終わったら、私、もういなくなるの」涼音の声はか細く、必死だった。「これが、最後の願いなの。本当に、叶えてくれないの?」その瞳はあまりにも哀しげで、西洲の心が微かに揺らぐ。けれど、彼はあえて冷たく言い放つ。「出て行きたいなら、今すぐ出て行け。俺を脅すな」彼は、彼女が自分を置いて去るはずがないと信じていた。涼音も、未練がなかったわけじゃない。けれど、もはや自分の意志でどうにかできる状態ではなかった。今日は、特効薬を飲み続けて七日目。もう、とっくに命の火は燃え尽きていた……案の定、西洲が離れた直後、涼音は喉から鮮血を吐いた。白いドレスは血で真っ赤に染まり、意識も遠のいていく。何が起きているの?周囲は騒がしいのに、声が遠い。何を言っているのか、全然分からない。涼音は頭を叩こうと手を伸ばし、ふと気付く。手が
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第8話
吉時が訪れ、月綺は父に手を引かれながら、バラの花びらが敷き詰められた真紅のバージンロードを一歩一歩進んでいった。父の腕に支えられ、いくつもの美しく飾られた花のアーチをくぐり抜け、彼女は西洲の元へと歩みを進める。もうすぐ、西洲の隣に立ち、彼の花嫁となる――そう思った、その瞬間だった。突然、西洲の様子が一変した。まるで何かに取り憑かれたかのように、真っ赤な瞳で周囲を睨みつけ、彼は目の前の人々を乱暴に押しのけ、そのままくるりと背を向けて宴会場の外へと駆け出していった。あまりの勢いに、テーブルまでひっくり返してしまうほどだったが、彼は全く気にも留めず、ただ必死にその場から逃げ出そうとしていた。ここから離れなければ。涼音を探さなければ。自分が育て、そして壊してしまった、あの少女の元へ戻らなければ……「西洲、どこ行くの?」月綺は、西洲がこのまま自分を置いて行ってしまうのを、黙って見ていられるはずがなかった。彼女は勢いよくベールを跳ね上げ、西洲の前に立ちふさがる。「結婚式はもう始まってるのよ?客もみんな見てるわ。あなた、こんな大勢の前で私を置き去りにして行くつもり?」その問いに、西洲は一瞬だけ申し訳なさそうに月綺を見つめた。「ごめん、でも俺にはどうしても行かなきゃいけない理由がある」そう言うと、彼は容赦なく月綺の手を振り払った。月綺の怒りは頂点に達した。「西洲!私のこと、なんだと思ってるの?今日ここで逃げるなら、この結婚式は終わりよ!私は二度とあなたを待たないし、一生許さないから!」だが、彼女の叫びも西洲の心には響かなかった。彼は一度も振り返ることなく、そのまま会場を後にした。招待客の視線が集中するなか、月綺は婚約者に捨てられ、会場に立ち尽くした。その屈辱は言葉にできないほどだった。「西洲、あなたなんか大嫌い!」月綺は感情を抑えきれず、西洲の背中に向かって泣きながら叫んだ。「行かないで!私、こんなにあなたのこと愛してるのに……どうしてそんな酷いことできるの……」西洲は振り返ることもなく、その声を無視した。今、彼の心は涼音でいっぱいだった。彼は近くに止まっていたウェディングカーを奪うと、アクセルを思いきり踏み込んで車を走らせた。精神病院は海辺のすぐ近くだ。車なら二十分もあれば着くはずだが、それすらもどか
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第9話
西洲が今にも精神病院に突入し、中をひっくり返してやろうとしたその時。精神病院の副院長、小林沢樹(こばやし さわき)がにこやかな顔で現れた。「藤瀬社長、どうされたんですか?今日は社長と白石さんの結婚式の日じゃないですか。うちの院長も朝早くから式に出席しに行きましたよ……こんなめでたい日に、新婦さんを残して、どうしてうちの病院に?」普段だったら、西洲も軽く世間話でも交わす余裕があったかもしれない。彼はいつだって紳士的で、たとえ相手が副院長でも態度を崩したことはなかった。だが、今この瞬間の西洲は、手がわずかに震えていた。心の奥底では、今にも崩れ落ちそうなほどギリギリの状態だった。ただひたすら、彼の涼音がまだ生きているのか、それだけを知りたかった。西洲は、そんな礼儀や体面なんてすべて投げ捨て、まるで檻に追い詰められた獣のように沢樹の襟元を掴み、叫ぶように問い詰めた。「涼音はどこだ?彼女がここにいるのは分かってる!どこに隠したんだ、今すぐ案内しろ!」「藤瀬社長、どうか落ち着いてください……」沢樹は冷や汗をかきながら応じた。「戸原さんをお探しですか?戸原さんは確かに以前うちの病院にいましたが、一週間前、社長が彼女を連れて帰ったんじゃないですか。忘れたんですか?」一週間前、確かに西洲は涼音を家に連れ帰っていた。だが、今日、自分の結婚式の日に、涼音はまた自分からこの病院に戻ってきていた……なぜだ。涼音はあんなにここを嫌っていたはずだ。ずっとこの場所から出たがっていたはずじゃないか。なのに、やっと彼女をここから出してやったのに、どうしてまた自分から戻ってきたのか?「ふざけるな!」西洲はもう理性も何もかも吹き飛んでいた。沢樹の襟をぐっと掴み、低く冷たい声で脅した。「涼音がここにいることは分かってる。今すぐ案内しろ。じゃないと……お前を地獄に落としてやる」沢樹は冷や汗をだらだら流しながらも、必死に耐えて答える。「本当に戸原さんはここにいませんよ。信じられないなら、捜索に同行します!」その言葉を聞き、西洲は沢樹を突き飛ばして冷たく笑った。「お前の言うことは信用しない。俺がこの病院をひっくり返してやる!」そう言い放つと、西洲は精神病院へと突入し、一部屋一部屋、涼音の行方を探し始めた。その最中、彼はアシスタントに電話をかけ、病院全体を包囲
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第10話
薄暗くて息苦しい地下室には、まるで野良犬のように地べたに這いつくばった女たちがいた。彼女たちは不気味に笑いながら、汚れきった食べ物を手で掴み、むさぼっている……その光景を目の当たりにした瞬間、西洲の脳裏に、あの時の涼音の姿がよみがえった。彼女を病院から家に引き取ったばかりの頃、まさにこんなふうだった。幼い頃から名家の令嬢として育てられたはずの涼音が、まるで人間の世界の礼儀をすっかり忘れたかのように、箸もナイフもフォークも使えず、ただ無心に手で食べ物を掴んでいた。その記憶がよぎった瞬間、西洲の表情は凍りついた。まるで鬼神でも見たかのような、恐ろしいほどの険しさだった。「ハハハ……藤瀬社長、この地下室にいる女たちは、もう完全に救いようのない、凶暴な患者ばかりなんです」西洲の顔色の変化に気づいた沢樹は、慌てて言い訳を始めた。「普通は患者をここまで閉じ込めることなんてしません。ただ、どうしても手に負えない人だけは、ちょっとした隙にも周りの医者や介護士に襲いかかるんです。だから、やむを得ず隔離してるんですよ。ご安心ください。戸原さんはここにいる間、ずっと一番良い部屋にいましたし、地下室には一度も入れたことがありません。苦しい思いなんて、させてません」西洲は唇の端を引きつらせ、笑っているのか、それとも怒っているのか分からない表情で呟いた。「そう?」その二文字だけを吐き捨てると、西洲は何も言わなくなった。沢樹は心の中で冷や汗をかきながら、余計なことは言うまいと黙り込むしかなかった。余計に喋れば、それだけ墓穴を掘ることになる。彼はただ心の中で必死に祈るしかない――江川院長、白石さん、早く来てくれ!この疫病神みたいな西洲をどこかへ連れて行ってくれ!この男がいなくならなければ、あの女の死体も処理できない!西洲はこの精神病院を隅々まで捜索したが、涼音の姿は見つからなかった。生きている姿もなければ、死体すらもない。何も発見できなかったはずなのに、西洲の胸には、なぜか強烈な確信があった。涼音は、ここにいる。自分はきっと何かを見落としている。だから、彼女を見つけられないのだ。きっとこの精神病院のどこかに、自分の知らない隠し部屋でもあるのだろう。彼らは涼音を、そこに閉じ込めているのだ。だが、どうやってその密室を見つければいい?西
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