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ただ、古き夢は還らず
ただ、古き夢は還らず
Author: ラフな子犬

第1話

Author: ラフな子犬
資産家の令嬢・白川栞(しらかわ しおり)は、誰もが羨む存在だった。

彼女には大富豪の父と、溺愛してくれる兄・雅人(まさと)がいるだけでなく、父が彼女のために選び抜き、共に育て上げた「三人の完璧な花婿候補」がいたからだ。

速水蓮(はやみ れん)は、その美貌で世界中を熱狂させるトップスター。

瀬名拓実(せな たくみ)は、冷徹で気高い天才デザイナーだが、彼女にだけは優しい笑顔を見せる。

古賀秋彦(こが あきひこ)は、優しく献身的な医師。何よりも彼女を第一に考えてくれる。

彼女が誰を選ぶのか――社交界ではその行方に莫大な賭け金が積まれていた。

そして周囲の予想を裏切り、栞が選んだのは秋彦だった。

結婚から三年。二人は誰もが認める「おしどり夫婦」として、片時も離れず愛し合っていた。

だが、栞の心には誰にも言えない棘が刺さっていた。

なかなか子宝に恵まれず、来る日も来る日も病院に通っていたのだ。

そんな彼女を、秋彦はいつも優しく抱きしめた。

「栞、そんなに自分を追い詰めないでくれ。君さえいれば、子供なんていらないよ。

養子を迎えたっていいんだから」

この人と結婚して本当に良かった――栞は心からそう信じていた。

誕生日のあの日、病院からある検査報告書が届くまでは……

栞はパニックに陥りながら、秋彦が勤務する病院へと急いだ。

息を切らして正面玄関にたどり着いた直後、彼女の足がピタリと止まった。視線の先に、白衣姿の秋彦がいたからだ。彼は、栞の義理の妹である白川美月(しらかわ みづき)を大切そうに支え、産婦人科から出てきたところだった。

美月は少しふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫で、甘ったるい声で言った。「秋彦さん、ありがとう。私に赤ちゃんをくれて」

彼女の目は赤く潤み、今にも泣き出しそうだ。

「でも……もしお姉ちゃんが先にあなたの子供を妊娠したら、私たち母子のこと、捨てちゃう?」

その言葉に、秋彦は優しく彼女の涙を拭う。

「あり得ないよ。彼女との間に子供ができることは、永遠にない」

「どうして?」

秋彦は一瞬沈黙した後、声を潜めて答えた。

「この三年間、あいつの食事にはずっと避妊薬を混ぜていたからな」

その瞬間、栞の頭の中で何かが「ブン」と音を立てて弾けた。全身の血液が凍りつき、指先が震えだす。

美月は安心したように彼の腕に絡みつき、さらに甘えた。

「よかったぁ。やっぱり秋彦さんが一番愛してるのは私なのね。当初、私が白川家にいられるように守るためとはいえ、お姉ちゃんと三年間も偽装結婚させるなんて、辛かったわよね。

でも、あと一ヶ月で三年契約も終わるもの。そうすれば、堂々と私をお嫁さんにしてくれるわよね?」

秋彦は何も答えず、ただ微笑んで彼女を助手席に乗せた。

建物の陰に隠れていた栞は、声も出せずに涙を流していた。

車が走り去るのを見送った栞は、ハッと我に返り、自分の車に飛び乗って彼らの後を追った。

二人が入っていったのは、天宮市でも有数の高級会員制クラブだった。

通された個室のドアの隙間から中を覗くと、そこには栞の実の兄である白川雅人(しらかわ まさと)と、蓮、そして拓実の姿もあった。

栞は唇を噛み締め、呼吸を殺して中の会話に耳を澄ませた。

「美月、妊娠中は大事にしなきゃダメだぞ。一ヶ月後の結婚式は、僕たちが盛大に祝ってやるからな」

雅人が優しい声で言うと、美月は涙ぐんで彼の胸に飛び込んだ。

「お兄ちゃん、ありがとう。私、本当の妹じゃないのに、こんなによくしてもらって……」

雅人は溺愛するペットを撫でるように、彼女の頭を撫でた。

「バカだな。僕たち四人は幼馴染だろ。血が繋がってなくたって、お前は僕たちの大事な妹だ」

「じゃあ、私とお姉ちゃん、どっちが好き?」

「当然、お前だろ。栞は五年前に突然見つかって戻ってきただけだ。二十年も一緒にいたお前と比べられるわけがない」

美月は嬉しそうに涙を拭う。

「お兄ちゃん、拓実さん、蓮さん、秋彦さん、ありがとう……でも」彼女は唇を尖らせて、上目遣いで彼らを見渡した。

「お姉ちゃんがもし、秋彦さんの結婚が私を守るための演技だったって知ったら、私のこと恨むかな?」

その言葉に、部屋が一瞬静まり返った。

沈黙を破ったのは、ソファで足を組んでいた蓮だった。彼は軽く笑いながら、美月の髪をくしゃくしゃにした。

「恨ませとけばいいさ。そもそも彼女が突然戻ってきて被害者ぶるから、親父さんが美月を追い出そうとしたんだろ?僕たちまで家を出る羽目になったしな。

でも、雅人が頑張って三年で白川家の実権を握ったから、もう誰も美月を追い出せない」

拓実も深く頷いた。

「ああ。あの時、僕たちが家を出たら美月があの女にいじめられると思ったから、秋彦が犠牲になって結婚したんだ。すべては美月、お前を守るためだったんだよ」

美月の顔色がパッと明るくなる。彼女は最後に、すがるような目で秋彦を見つめた。

「秋彦さん……この三年間、一度もお姉ちゃんに心を動かされたことはない?」

ドアの外で、栞の心臓は早鐘を打っていた。唇からは、血が滲むほど強く噛み締めていた。

長い沈黙の後、秋彦が淡々と答えた声が聞こえた。

「ない。一度も、ないよ」

その一言が、鋭いナイフのように栞の心臓を突き刺した。息ができない。痛くて、苦しくて、立っていられない。

部屋の中からは、彼らの楽しそうな笑い声が響いてくる。栞はめまいを覚え、世界がぐるぐると回るのを感じた。

思い出すのは、五年前のことだ。白川家に戻ってきたばかりの栞は、まるで居場所のない泥棒のように、彼らが美月に注ぐ愛情をこっそりと盗み見ていた。

国民的スターの蓮は、美月にサイン入りの写真を贈り、自身のコンサートへ連れて行っていた。

デザイナーの拓実は、毎月ハンドメイドのドレスをプレゼントし、彼女のパーティーのエスコート役を務めていた。

医師である秋彦は、美月が体調を崩すと、スプーンで一口ずつ薬を飲ませ、一晩中つきっきりで看病していた。

そして、実の兄である雅人でさえも。彼はあろうことか、本来主役であるはずの栞の「お披露目パーティー」で、美月の手を固く握りしめてこう言ったのだ。「僕が一番愛おしいのは、やはり昔から一緒に育ったこの妹だ」と。

栞は羨ましくてたまらなかった。けれど、それを奪い合う勇気などなく、ただ物陰に隠れて泣くことしかできなかった。

そんなある日、事態は急変した。あんなに冷たかった兄が栞を庇うようになり、他の三人までもが彼女に贈り物をし始めたのだ。

栞は驚き、そして嬉しかった。愛に飢えすぎていた彼女は、その変化を凍えた心が溶かされるように受け入れ、異常なほど大切にした。

とりわけ、秋彦が指輪を取り出してプロポーズしてくれた時の衝撃は、彼女を気絶させんばかりだった。

「栞、僕にチャンスをくれないか。君を愛し、一生守らせてほしい」

あの優しい瞳。恥ずかしそうに頷いた自分。

注目を浴びることを好まないからと結婚式は挙げなかったけれど、栞はそれでも幸せだった。

咳をすれば生姜湯を作ってくれ、夜中に車を2時間走らせておでんを買ってきてくれ、落ち込んでいればピエロの格好をして笑わせてくれた。

他の人たちもそうだった。

兄の雅人は、宝石やブランドものの服、バッグを山のように贈ってくれた。

蓮は、二人の祝福のためにオリジナルのラブソングを書き下ろしてくれた。

拓実に至っては、彼女のために何十着ものウェディングドレスをデザインし、笑顔でこう言ったのだ。「これは僕からの気持ちだ。大切にしてくれよ」

すべてが夢のようだった。栞は、自分が世界一幸せなシンデレラだと思っていた。

けれど――今、壁一枚隔てた向こうで笑う彼らの声が、残酷な真実を突きつける。彼女はシンデレラなんかじゃなかった。ただの、舞い上がった大馬鹿者だったのだ。

誰かが部屋から出てくる気配がして、栞は慌てて踵を返した。涙が溢れて前が見えない。

廊下の角を曲がったところで足がもつれ、派手に転んだ。膝の痛みよりも、心の痛みが勝っていた。栞は床に突っ伏したまま、声を殺して泣いた。

全部、嘘だった。

深情けな夫も、優しい兄も、思いやりのある友人たちも。全員がグルになって、彼女を騙していたんだ。

すべては、あの大切な「お姫様」を守るために。

過呼吸になりそうなほど泣き続け、ようやく涙が枯れた頃。栞は震える手でスマートフォンを取り出し、ある番号に電話をかけた。

「……先生。海外の研究室でやっている新療法、受けさせてください」

電話の向こうから、少し訛りのある言葉が聞こえてきた。

「栞さん、その治療法には副作用があります。記憶を失うリスクが高いですが、本当によろしいですか?」

栞は腫れ上がった目を閉じ、迷いなく答えた。「はい。覚悟はできています」

「わかりました。では、一ヶ月後にお待ちしています」
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