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ただ、古き夢は還らず

ただ、古き夢は還らず

Par:  ラフな子犬Complété
Langue: Japanese
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資産家の令嬢・白川栞(しらかわ しおり)は、誰もが羨む存在だった。 彼女には大富豪の父と、溺愛してくれる兄・雅人(まさと)がいるだけでなく、父が彼女のために選び抜き、共に育て上げた「三人の完璧な花婿候補」がいたからだ。 速水蓮(はやみ れん)は、その美貌で世界中を熱狂させるトップスター。 瀬名拓実(せな たくみ)は、冷徹で気高い天才デザイナーだが、彼女にだけは優しい笑顔を見せる。 古賀秋彦(こが あきひこ)は、優しく献身的な医師。何よりも彼女を第一に考えてくれる。 彼女が誰を選ぶのか――社交界ではその行方に莫大な賭け金が積まれていた。 そして周囲の予想を裏切り、栞が選んだのは秋彦だった。 結婚から三年。二人は誰もが認める「おしどり夫婦」として、片時も離れず愛し合っていた。 だが、栞の心には誰にも言えない棘が刺さっていた。 なかなか子宝に恵まれず、来る日も来る日も病院に通っていたのだ。 そんな彼女を、秋彦はいつも優しく抱きしめた。 「栞、そんなに自分を追い詰めないでくれ。君さえいれば、子供なんていらないよ。 養子を迎えたっていいんだから」 この人と結婚して本当に良かった――栞は心からそう信じていた。 誕生日のあの日、病院からある検査報告書が届くまでは……

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Chapitre 1

第1話

資産家の令嬢・白川栞(しらかわ しおり)は、誰もが羨む存在だった。

彼女には大富豪の父と、溺愛してくれる兄・雅人(まさと)がいるだけでなく、父が彼女のために選び抜き、共に育て上げた「三人の完璧な花婿候補」がいたからだ。

速水蓮(はやみ れん)は、その美貌で世界中を熱狂させるトップスター。

瀬名拓実(せな たくみ)は、冷徹で気高い天才デザイナーだが、彼女にだけは優しい笑顔を見せる。

古賀秋彦(こが あきひこ)は、優しく献身的な医師。何よりも彼女を第一に考えてくれる。

彼女が誰を選ぶのか――社交界ではその行方に莫大な賭け金が積まれていた。

そして周囲の予想を裏切り、栞が選んだのは秋彦だった。

結婚から三年。二人は誰もが認める「おしどり夫婦」として、片時も離れず愛し合っていた。

だが、栞の心には誰にも言えない棘が刺さっていた。

なかなか子宝に恵まれず、来る日も来る日も病院に通っていたのだ。

そんな彼女を、秋彦はいつも優しく抱きしめた。

「栞、そんなに自分を追い詰めないでくれ。君さえいれば、子供なんていらないよ。

養子を迎えたっていいんだから」

この人と結婚して本当に良かった――栞は心からそう信じていた。

誕生日のあの日、病院からある検査報告書が届くまでは……

栞はパニックに陥りながら、秋彦が勤務する病院へと急いだ。

息を切らして正面玄関にたどり着いた直後、彼女の足がピタリと止まった。視線の先に、白衣姿の秋彦がいたからだ。彼は、栞の義理の妹である白川美月(しらかわ みづき)を大切そうに支え、産婦人科から出てきたところだった。

美月は少しふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫で、甘ったるい声で言った。「秋彦さん、ありがとう。私に赤ちゃんをくれて」

彼女の目は赤く潤み、今にも泣き出しそうだ。

「でも……もしお姉ちゃんが先にあなたの子供を妊娠したら、私たち母子のこと、捨てちゃう?」

その言葉に、秋彦は優しく彼女の涙を拭う。

「あり得ないよ。彼女との間に子供ができることは、永遠にない」

「どうして?」

秋彦は一瞬沈黙した後、声を潜めて答えた。

「この三年間、あいつの食事にはずっと避妊薬を混ぜていたからな」

その瞬間、栞の頭の中で何かが「ブン」と音を立てて弾けた。全身の血液が凍りつき、指先が震えだす。

美月は安心したように彼の腕に絡みつき、さらに甘えた。

「よかったぁ。やっぱり秋彦さんが一番愛してるのは私なのね。当初、私が白川家にいられるように守るためとはいえ、お姉ちゃんと三年間も偽装結婚させるなんて、辛かったわよね。

でも、あと一ヶ月で三年契約も終わるもの。そうすれば、堂々と私をお嫁さんにしてくれるわよね?」

秋彦は何も答えず、ただ微笑んで彼女を助手席に乗せた。

建物の陰に隠れていた栞は、声も出せずに涙を流していた。

車が走り去るのを見送った栞は、ハッと我に返り、自分の車に飛び乗って彼らの後を追った。

二人が入っていったのは、天宮市でも有数の高級会員制クラブだった。

通された個室のドアの隙間から中を覗くと、そこには栞の実の兄である白川雅人(しらかわ まさと)と、蓮、そして拓実の姿もあった。

栞は唇を噛み締め、呼吸を殺して中の会話に耳を澄ませた。

「美月、妊娠中は大事にしなきゃダメだぞ。一ヶ月後の結婚式は、僕たちが盛大に祝ってやるからな」

雅人が優しい声で言うと、美月は涙ぐんで彼の胸に飛び込んだ。

「お兄ちゃん、ありがとう。私、本当の妹じゃないのに、こんなによくしてもらって……」

雅人は溺愛するペットを撫でるように、彼女の頭を撫でた。

「バカだな。僕たち四人は幼馴染だろ。血が繋がってなくたって、お前は僕たちの大事な妹だ」

「じゃあ、私とお姉ちゃん、どっちが好き?」

「当然、お前だろ。栞は五年前に突然見つかって戻ってきただけだ。二十年も一緒にいたお前と比べられるわけがない」

美月は嬉しそうに涙を拭う。

「お兄ちゃん、拓実さん、蓮さん、秋彦さん、ありがとう……でも」彼女は唇を尖らせて、上目遣いで彼らを見渡した。

「お姉ちゃんがもし、秋彦さんの結婚が私を守るための演技だったって知ったら、私のこと恨むかな?」

その言葉に、部屋が一瞬静まり返った。

沈黙を破ったのは、ソファで足を組んでいた蓮だった。彼は軽く笑いながら、美月の髪をくしゃくしゃにした。

「恨ませとけばいいさ。そもそも彼女が突然戻ってきて被害者ぶるから、親父さんが美月を追い出そうとしたんだろ?僕たちまで家を出る羽目になったしな。

でも、雅人が頑張って三年で白川家の実権を握ったから、もう誰も美月を追い出せない」

拓実も深く頷いた。

「ああ。あの時、僕たちが家を出たら美月があの女にいじめられると思ったから、秋彦が犠牲になって結婚したんだ。すべては美月、お前を守るためだったんだよ」

美月の顔色がパッと明るくなる。彼女は最後に、すがるような目で秋彦を見つめた。

「秋彦さん……この三年間、一度もお姉ちゃんに心を動かされたことはない?」

ドアの外で、栞の心臓は早鐘を打っていた。唇からは、血が滲むほど強く噛み締めていた。

長い沈黙の後、秋彦が淡々と答えた声が聞こえた。

「ない。一度も、ないよ」

その一言が、鋭いナイフのように栞の心臓を突き刺した。息ができない。痛くて、苦しくて、立っていられない。

部屋の中からは、彼らの楽しそうな笑い声が響いてくる。栞はめまいを覚え、世界がぐるぐると回るのを感じた。

思い出すのは、五年前のことだ。白川家に戻ってきたばかりの栞は、まるで居場所のない泥棒のように、彼らが美月に注ぐ愛情をこっそりと盗み見ていた。

国民的スターの蓮は、美月にサイン入りの写真を贈り、自身のコンサートへ連れて行っていた。

デザイナーの拓実は、毎月ハンドメイドのドレスをプレゼントし、彼女のパーティーのエスコート役を務めていた。

医師である秋彦は、美月が体調を崩すと、スプーンで一口ずつ薬を飲ませ、一晩中つきっきりで看病していた。

そして、実の兄である雅人でさえも。彼はあろうことか、本来主役であるはずの栞の「お披露目パーティー」で、美月の手を固く握りしめてこう言ったのだ。「僕が一番愛おしいのは、やはり昔から一緒に育ったこの妹だ」と。

栞は羨ましくてたまらなかった。けれど、それを奪い合う勇気などなく、ただ物陰に隠れて泣くことしかできなかった。

そんなある日、事態は急変した。あんなに冷たかった兄が栞を庇うようになり、他の三人までもが彼女に贈り物をし始めたのだ。

栞は驚き、そして嬉しかった。愛に飢えすぎていた彼女は、その変化を凍えた心が溶かされるように受け入れ、異常なほど大切にした。

とりわけ、秋彦が指輪を取り出してプロポーズしてくれた時の衝撃は、彼女を気絶させんばかりだった。

「栞、僕にチャンスをくれないか。君を愛し、一生守らせてほしい」

あの優しい瞳。恥ずかしそうに頷いた自分。

注目を浴びることを好まないからと結婚式は挙げなかったけれど、栞はそれでも幸せだった。

咳をすれば生姜湯を作ってくれ、夜中に車を2時間走らせておでんを買ってきてくれ、落ち込んでいればピエロの格好をして笑わせてくれた。

他の人たちもそうだった。

兄の雅人は、宝石やブランドものの服、バッグを山のように贈ってくれた。

蓮は、二人の祝福のためにオリジナルのラブソングを書き下ろしてくれた。

拓実に至っては、彼女のために何十着ものウェディングドレスをデザインし、笑顔でこう言ったのだ。「これは僕からの気持ちだ。大切にしてくれよ」

すべてが夢のようだった。栞は、自分が世界一幸せなシンデレラだと思っていた。

けれど――今、壁一枚隔てた向こうで笑う彼らの声が、残酷な真実を突きつける。彼女はシンデレラなんかじゃなかった。ただの、舞い上がった大馬鹿者だったのだ。

誰かが部屋から出てくる気配がして、栞は慌てて踵を返した。涙が溢れて前が見えない。

廊下の角を曲がったところで足がもつれ、派手に転んだ。膝の痛みよりも、心の痛みが勝っていた。栞は床に突っ伏したまま、声を殺して泣いた。

全部、嘘だった。

深情けな夫も、優しい兄も、思いやりのある友人たちも。全員がグルになって、彼女を騙していたんだ。

すべては、あの大切な「お姫様」を守るために。

過呼吸になりそうなほど泣き続け、ようやく涙が枯れた頃。栞は震える手でスマートフォンを取り出し、ある番号に電話をかけた。

「……先生。海外の研究室でやっている新療法、受けさせてください」

電話の向こうから、少し訛りのある言葉が聞こえてきた。

「栞さん、その治療法には副作用があります。記憶を失うリスクが高いですが、本当によろしいですか?」

栞は腫れ上がった目を閉じ、迷いなく答えた。「はい。覚悟はできています」

「わかりました。では、一ヶ月後にお待ちしています」
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松坂 美枝
松坂 美枝
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2025-12-24 09:35:01
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ノンスケ
ノンスケ
このパターン、多いんだけど、最後スッキリできて良かったかな。
2025-12-25 21:02:20
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第1話
資産家の令嬢・白川栞(しらかわ しおり)は、誰もが羨む存在だった。彼女には大富豪の父と、溺愛してくれる兄・雅人(まさと)がいるだけでなく、父が彼女のために選び抜き、共に育て上げた「三人の完璧な花婿候補」がいたからだ。速水蓮(はやみ れん)は、その美貌で世界中を熱狂させるトップスター。瀬名拓実(せな たくみ)は、冷徹で気高い天才デザイナーだが、彼女にだけは優しい笑顔を見せる。古賀秋彦(こが あきひこ)は、優しく献身的な医師。何よりも彼女を第一に考えてくれる。彼女が誰を選ぶのか――社交界ではその行方に莫大な賭け金が積まれていた。そして周囲の予想を裏切り、栞が選んだのは秋彦だった。結婚から三年。二人は誰もが認める「おしどり夫婦」として、片時も離れず愛し合っていた。だが、栞の心には誰にも言えない棘が刺さっていた。なかなか子宝に恵まれず、来る日も来る日も病院に通っていたのだ。そんな彼女を、秋彦はいつも優しく抱きしめた。「栞、そんなに自分を追い詰めないでくれ。君さえいれば、子供なんていらないよ。養子を迎えたっていいんだから」この人と結婚して本当に良かった――栞は心からそう信じていた。誕生日のあの日、病院からある検査報告書が届くまでは…… *栞はパニックに陥りながら、秋彦が勤務する病院へと急いだ。息を切らして正面玄関にたどり着いた直後、彼女の足がピタリと止まった。視線の先に、白衣姿の秋彦がいたからだ。彼は、栞の義理の妹である白川美月(しらかわ みづき)を大切そうに支え、産婦人科から出てきたところだった。美月は少しふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫で、甘ったるい声で言った。「秋彦さん、ありがとう。私に赤ちゃんをくれて」彼女の目は赤く潤み、今にも泣き出しそうだ。「でも……もしお姉ちゃんが先にあなたの子供を妊娠したら、私たち母子のこと、捨てちゃう?」その言葉に、秋彦は優しく彼女の涙を拭う。「あり得ないよ。彼女との間に子供ができることは、永遠にない」「どうして?」秋彦は一瞬沈黙した後、声を潜めて答えた。「この三年間、あいつの食事にはずっと避妊薬を混ぜていたからな」その瞬間、栞の頭の中で何かが「ブン」と音を立てて弾けた。全身の血液が凍りつき、指先が震えだす。美月は安心したように彼の腕
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第2話
通話を終えると、冷たい風が栞の体を震わせた。彼女は涙を拭い、深く息を吸い込む。あと一ヶ月。それで彼女は去る。すべての嘘と苦痛を忘れるために。この茶番劇は、自分で終わらせるのだ。その時、スマートフォンが鳴り響いた。秋彦からだ。「栞、どこにいるんだ?」相変わらず優しい声。栞は一瞬、先ほどの出来事が夢だったのではないかと錯覚しそうになる。だが次の瞬間、秋彦はその幻想を打ち砕いた。「栞、今日は美月の誕生日だ。彼女が君に来てほしいと言っている。今どこだ?運転手を迎えに行かせるよ」無数の針で刺されたような痛みが、再び全身を這い回る。栞は自嘲気味に、口元を歪めた。栞と美月は同じ誕生日だ。けれど、彼らがそれを覚えていたことなど一度もない。愛されているか否か、その差はあまりにも明白だった。誕生日パーティーの会場に到着すると、そこら中に美月の写真と、彼ら五人の集合写真が貼られていた。栞はそれらを一枚一枚眺め、胸の奥が締め付けられるのを感じる。ステージの中央では、ドレスを身に纏った美月がプレゼントを受け取っていた。雅人が優しい声で口を開く。「美月、お前のために『ズートピア』のテーマパークを建てたぞ。お前が永遠に無邪気なままでいられるように」拓実が赤い布をめくる。そこにはダイヤモンドが散りばめられたウェディングドレスがあった。「美月、これは僕がデザインしたドレスだ。これを着て、最愛の人と結ばれますように」蓮がギフトボックスを開ける。中には2億円は下らないであろうティアラが輝いていた。「美月、お前は僕たちの永遠のお姫様だ。いつまでも幸せでいてくれ」彼はそう言って、美月の頭にティアラを載せた。会場中が拍手に包まれる。ただ一人、栞だけが全身を凍らせ、指先を震わせていた。最後に、夫である秋彦が美月の手を取り、中央へと進み出る。音楽が流れ出し、二人が踊り始める。まるで王子様とお姫様のように。栞の目が赤く染まり、爪が手のひらに食い込む。彼女が二人を凝視していると、不意に美月と目が合った。美月は挑発的に微笑み、秋彦に何かを囁く。次の瞬間、栞は見てしまう。愛する夫が、美月の額に優しくキスをするのを。栞は雷に打たれたように立ち尽くし、顔面蒼白になった。ダンスが終わり、秋彦が栞に気づいて
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第3話
どれくらいの時間が経っただろうか。看護師たちの話し声で、栞は目を覚ました。「美月さんって本当に幸せ者よね。膝を少し擦りむいただけで、イケメン四人がつきっきりなんて」「本当ね。同じ白川家の娘なのに、こっちは焼け死ぬ寸前だったのに誰も見舞いに来ないなんて。実の妹の方が養女より冷たくされるなんて、惨めね」「惨め?愛想がないから嫌われるのよ」看護師たちが去った後、栞は虚ろな目で天井を見つめた。私は本当に愛想がないのだろうか?兄である雅人のために、そして白川家の長女として、できる限りのことはしてきたつもりだ。雅人の会社の上場が阻まれた時、栞は敵対企業の社長と胃から血が出るまで酒を飲み明かし、投資を取り付けて上場を成功させた。蓮がハリウッド進出を目指した時、昼夜を問わず監督たちに推薦メールを送り続け、数百通が無視された末にようやくチャンスを掴み取らせた。あの映画が、彼を国際的なスターにしたのだ。拓実がスランプに陥り、賞を逃し続けていた時、伝説の織物職人の家の前で三日三晩立ち尽くし、最後の反物を譲り受けた。彼があの服で新進気鋭のデザイナーになれたのは、そのおかげだ。そして秋彦。臨床試験が行き詰まり、彼が酒に溺れていた時、彼女はこっそりと被験体となり、薬を試した。実験は成功し、彼は権威ある賞を受賞したが、彼女はその副作用で癌を患った。これだけ尽くしても、まだ私は「愛想がない」と言われるのか。それから数日間、栞は糸の切れた操り人形のようにベッドに横たわっていた。口もきかず、何にも興味を示さない。そんなある日、癌の主治医が病室を訪れた。「栞さん、手続きが完了しました。予定より早く治療に向かえますよ」栞のまつ毛が震えた。そうだ、思い出した。彼女には別の選択肢があったのだ。人生をやり直すという選択肢が。その日から、彼女は治療に協力し、食事も摂るようになった。一週間後、栞は退院の手続きを済ませた。病院の正門を出ると、そこには見覚えのある四台のロールスロイスが停まっていた。ナンバープレートを見て、栞は踵を返そうとした。「お姉ちゃん、乗って。今日は私のピアノリサイタルなの。お兄ちゃんたちにお願いして、待ってもらってたのよ」秋彦の助手席で、美月が得意げに笑っている。栞は平静を装って答えた。「遠慮するわ。
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第4話
蓮は冷たい目で栞を見下ろした。「おい、美月が妊娠してるって知ってんのか?」拓実が眉をひそめる。「ショックで流産でもしたらどうするつもりだ?子供に何かあったら責任取れるのか?」「そうだ」蓮が畳み掛ける。「今回のことで、あいつの心がどれだけ傷ついたと思ってんだよ」心の傷?トラウマだって?笑わせないでほしい。深い傷を負っているのは私の方だ。美月の陰湿な「悪戯」のせいで、私は何年も抗うつ剤を飲み続けているのに。どうして加害者が被害者ぶって、心の傷を語れるの?そう思うと、乾いた笑いが込み上げてきた。その態度が、彼らの怒りに火をつけた。「栞、自分が何をしたか分かってて笑えるのか!?」雅人が激怒する。「僕はお前の兄だ。腐った性根を叩き直してやる義務がある!」彼は控えていたボディガードたちに目配せをし、冷たく言い捨てて三人と共に立ち去った。数人の屈強な男たちが栞を取り囲み、リーダー格の男が一礼する。「悪く思わないでくださいね、お嬢様」「何をする気!?」後ずさる栞の腕が、左右から掴まれる。「放して!やめて!」抵抗も虚しく、男たちが一斉に襲いかかり、彼女の衣服に手をかけた。ビリッ、ビリビリッ――衣服が引き裂かれ、寒空の下、晒された肌に鳥肌が立つ。無数の手が体を這い回り、執拗に下半身にまで伸びる。屈辱が胸の奥からこみ上げ、彼女は死に物狂いで抵抗した。「お願い、放して!」叫び声は誰にも届かない。扱いはますます乱暴になり、栞は涙を流して叫んだ。一糸まとわぬ姿にされるまで、その暴行は続いた。栞は泥のように地面に崩れ落ち、必死に体を丸めて隠そうとした。だが次の瞬間、手首を縛られ、強引に引きずり出された。「やめて……どこへ連れて行くの……?」恐怖で震える彼女を、男たちは会場の入り口へと引きずっていき――あろうことか、そのまま吊るし上げたのだ。冬の鋭い風が、裸の肌をナイフのように切り刻む。寒さと羞恥で栞の唇は紫色になり、歯の根が合わないほど震えた。声を押し殺して泣いた。大声を出せば、人が集まってしまう。こんな惨めな姿、誰にも見られたくない。早く終わってほしい。ただそれだけを願った。その時、無情にも終演を告げるベルが鳴り響いた。栞はパッと目を見開き、全身を硬直させた。
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第5話
コンサート会場に到着すると、拓実はすでに待っていた。栞の姿を見るなり、彼の表情が曇る。「よくもぬけぬけと来られたもんだな。あれだけ美月を傷つけておいて、まだ付きまとう気か?」高熱で顔を赤くし、瞼も重い栞は、彼の言葉に反応する気力さえなかった。すかさず美月が口を挟む。「拓実さん、もういいの。私、お姉ちゃんのこと許したから。一緒に楽しませてあげて?」拓実は不満げに栞を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。席に着くと、男たちは当然のように美月を中央に座らせ、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。「美月、お茶を飲みなさい」「美月、フルーツはどうだ?」「美月、寒いだろう。ブランケットを使いな」……美月の世話を終えた秋彦が、ふと隣を見る。そこには、顔を真っ赤にしてぐったりと座り込む栞がいた。これほどまでに弱々しい彼女を見るのは初めてかもしれない。秋彦の胸に動揺が走り、声色が思わず優しくなる。「栞、大丈夫か?少しの辛抱だ。終わったらすぐに病院へ送るから」彼は自分のマフラーを外し、栞の首に巻こうとした。しかし、栞はわずかに顔を背け、それを避けた。「結構よ。あなたは美月の世話をしてあげて。妊婦なんだから」秋彦の手が止まる。彼が眉を寄せ、何か言いかけたその時、美月の興奮した声が遮った。「秋彦さん、早く!蓮さんの出番よ!」秋彦はすぐに栞から意識を切り替え、美月の方へと体を向けた。演奏が始まる。蓮が登場した瞬間、会場は歓声に包まれた。栞がこれほど近くで彼のステージを見るのは初めてだったが、今の彼女には爆音で頭が割れそうに痛むだけだった。それでも必死に意識を保っていたが、大スクリーンに美月の笑顔が映し出された瞬間、思考が停止した。マイクを握った蓮が、客席の美月に向かって語りかける。「今日は、僕の最愛の妹・美月に感謝を伝えたい。彼女が何百回も武田(たけだ)監督に連絡を取ってくれなかったら、僕は映画『蒼き月』の役を掴めなかったし、主演俳優賞も取れなかった。美月、本当にありがとう!」スクリーンの中の美月が、恥ずかしそうに顔を赤らめる。栞は血の気を失った唇で、呆然とスクリーンを見つめた。あの日々。来る日も来る日もメールを書き、頭を下げ続けたのは私だったのに。誰にも言わず、陰から彼を支えようとしたあの想いさえも、
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第6話
あの日以来、秋彦が姿を見せることはなかった。数日後、栞が退院の準備をしていると、またしても美月が現れた。「お姉ちゃん、もう元気になったでしょ?ねえ、オークションに付き合ってよ」美月は見せつけるようにブラックカードを揺らしてみせた。「お兄ちゃんは私のために海外へ限定バッグを買いに行ってるし、拓実さんはドレスのデザイン中、蓮さんは曲作り、秋彦さんは手術で忙しいの……」彼女はパチパチと瞬きをして、可哀想な自分を演じてみせる。「お姉ちゃん、私一人じゃ怖いの。一緒に行ってくれるわよね?」「断るわ」栞は即座に拒絶した。美月は意地悪く口の端を歪める。「あら、じゃあ彼らに電話しちゃおうかな」栞の脳裏に、彼らから罵倒される光景がフラッシュバックする。またあの屈辱を味わうのか。栞は美月の手からスマートフォンを奪い取り、渋々同意するしかなかった。……オークション会場に到着すると、美月は自分の番号札を栞に渡してきた。「お姉ちゃん、私の代わりに札を挙げてね」栞が警戒心を露わにすると、美月は強引にそれを握らせた。「お姉ちゃん、これが欲しい!あれも欲しい!」十点出品された品物を、美月はそのすべてを落札した。会場中の人々が、冷ややかな目で栞を見ていた。オークションが終了すると、美月はブラックカードを取り出した。「お姉ちゃん、支払いを済ませてきてくれる?」美月の笑顔を見て、栞の背筋に冷たいものが走る。嫌な予感がして手を伸ばせずにいると、美月が小声で囁いた。「私、妊婦なのよ。もし私と赤ちゃんに何かあったら、彼らがどうするか想像つくでしょ?」脅迫だ。もし自分の目の前で、美月やお腹の子の身に何かあれば、彼らは絶対に自分を許さないだろう。彼女はブラックカードを受け取ると、別室へと向かった。支配人は、媚びへつらうような卑屈な笑みを浮かべて彼女を出迎える。「お客様、素晴らしい買いっぷりでございました。合計で64億円になります」栞がカードを渡すと、支配人はPOS端末に通した。ビーッ!エラー音が響く。支配人の顔色が変わり、もう一度通すが、やはり決済できない。栞の額に冷や汗が滲む。「待って……本人を呼んでくるわ……」言い訳をして部屋を出ようとした瞬間、支配人が彼女の頬を思い切り張り飛ばし
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第7話
目を覚ますと、医師が同情に満ちた眼差しで見下ろしていた。「栞さん、怪我のことですが……警察に通報しますか?」警察?そんなことをして何になる?もういい。これ以上、彼らに恥を晒されるのは御免だ。彼女は静かに首を横に振った。医師は小さく溜息をついた。「ビザと航空券の手配は完了しました。出発は明後日です。それから、あなたがこの街にいたという記録データは、すべて消去しました」栞の口元に、微かな笑みが浮かぶ。これほど長い間苦しんで、ようやく訪れた唯一の朗報だった。よかった。やっと解放されるのだ。翌日、栞が退院して自宅に戻ると、リビングから楽しげな話し声が聞こえてきた。ドアを開けると、五人が食卓を囲んで談笑している。秋彦が美月にスープをよそい、他の男たちもプレゼントを見せ合っていた。栞の姿を認めた瞬間、場の空気が凍りついた。「よくもぬけぬけと帰ってこれたな。美月をオークション会場に置き去りにしておいて」雅人が冷ややかな視線を向ける。栞は言い訳する気力もなく、無言で寝室へと向かった。背後で蓮が「悪いことをした自覚もないのかよ」と毒づくのが聞こえた。部屋に入った栞は、荷造りを始めた。かつて宝物だった写真やプレゼントを、迷うことなくゴミ箱へと放り込んでいく。手元に残したのは、亡き父とのツーショット写真だけだ。この家で唯一、心から栞を愛してくれた人。だが半年前に心臓発作で他界してしまった。雅人や秋彦たちの態度が豹変したのは、父が亡くなってからのことだった。写真の中の優しさに満ちた父の顔を指でなぞり、栞は鼻の奥がツンとするのを感じた。「栞、荷造りなんてしてどこへ行くんだ?」いつの間にか秋彦が入ってきていた。彼はゴミ箱の中身を見て、眉をひそめて彼女を見た。「どうして全部捨てるんだ?」ゴミ箱の中には、二人の思い出の写真が捨てられている。彼は得体の知れない不快感を覚えた。「古い物だから、もういらないの」汚れてしまった人間も、一緒に捨てるのだ。栞は手を休めずに冷たく答えた。秋彦の胸に不安がよぎる。彼女がただ拗ねているだけだと思いたい彼は、優しく言い聞かせようとした。「栞、分かってるよ。最近、美月の妊娠にかかりきりで、君を疎かにしていた。だが、僕の妻は君だけだ。だから、そんな風
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第8話
手術室の前の廊下は、重苦しい空気に包まれていた。赤いランプが点滅している。「全部お前のせいだ。栞、お前は美月を殺す気か?」雅人が憎々しげに栞を睨みつける。拓実が栞を壁際まで追い詰める。「栞、美月は君を本当の姉のように慕っていたのに。どうしてそんなに性根が腐ってるんだ?」「突き落としてない。彼女が自分で落ちたのよ。それに美月は妊娠なんてしてない、あの子は……」パチン!言い終わる前に、秋彦の手が栞の頬を打った。「この期に及んでまだ嘘をつくのか!」栞は自分の愚かさを噛み締めた。彼らはいつだって美月の味方だ。私の言葉など、信じるはずがない。その時、医師が出てきた。「美月さんのご家族は?出血多量です、輸血が必要です」四人の視線が一斉に栞に向く。蓮が乱暴に栞の腕を掴んだ。「美月と同じ血液型だろ。輸血しろ!」冷たい針が皮膚に突き刺さり、真っ赤な血液がパックへと流れ出していく。すぐに栞の視界が歪み、めまいが襲ってきた。「多めに抜いておけ。美月のためにストックが必要だ」雅人が冷酷に命じる。唇の色を失った栞のことなど見向きもしない。看護師が四パック分の血を抜いたところで、ようやく雅人がストップをかけた。栞はふらふらと立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、その場に崩れ落ちた。男たちは冷ややかに彼女を見下ろす。「栞、可哀想なフリはやめろ」栞は何も言い返さなかった。ただ、早くここを立ち去りたかった。飛行機の時間が迫っているのだ。その時、手術室のランプが消えた。医師が出てくる。「残念ですが……母体の命は取り留めましたが、お子さんは……ダメでした」四人が凍りつく。病室から、美月の悲痛な叫び声が響いた。「赤ちゃん!私の赤ちゃんが……!」泣き声を聞いた四人は、慌てて病室へと駆け込んだ。「お姉ちゃん、私が嫌いなのは知ってるけど、どうして赤ちゃんまで……この子は無実なのに!」美月は身を裂くように泣き叫ぶ。その姿に、男たちの心は痛んだ。「美月、大丈夫だ。僕たちがついてる。子供ならまた授かるさ」美月は彼らを突き放す。「出てって!みんな出てってよ!みんなが私に優しくするから、お姉ちゃんが嫉妬して……私の赤ちゃんを殺したのよ」秋彦が彼女の手を強く握り締める。「美月、落ち着いてく
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第9話
その頃、美月のベッドの周りは医師や看護師たちで埋め尽くされていた。「先生、妹は無事なんですか?」雅人は緊張した面持ちで尋ねる。「ええ、大丈夫です。ただ、これ以上刺激を与えないように気をつけてください」医師は淡々と答えた。蓮が焦ったように食い下がる。「傷の具合はどうなんです?今回の流産の影響で、今後妊娠できなくなったりしないでしょうか?」「流産?」脇にいた研修医が不思議そうに声を上げた。「そもそも妊娠なんて……」「ゴホン!!」主治医がわざとらしく大きな咳払いをし、研修医を鋭く睨みつけた。研修医はバツが悪そうに口をつぐんだ。「お兄ちゃん、まだ苦しいの……」美月が弱々しく呟く。「人が多くて息が詰まりそう。みんな下がらせてくれない?」苦しげな美月を見て、雅人は胸を痛め、すぐに医師たちを全員退室させた。「お兄ちゃん、帰りたい。お家に帰ろう?」「ああ、帰ろう。僕が連れて帰ってやる」雅人は優しく彼女の手を握りしめた。「昔みたいに、五人で暮らしていたあの家に帰りたいの。お兄ちゃんと、蓮さん、秋彦さん、拓実さん。私たち五人だけの家に」美月は涙声で訴えた。その言葉に、珍しく誰も相槌を打たず、沈黙が流れた。特に秋彦は、美月があからさまに栞を仲間外れにしたことに、胸の奥で奇妙な不快感を覚えた。雅人もまた、美月の熱い視線から目を逸らした。「美月、まずは家に帰ろう。その話は怪我が治ってからだ、な?」さっきまで「栞を追い出す」と言っていた雅人が、今は言葉を濁している。美月は心の中に激しい怒りを覚えた。だが彼女はそれを顔に出さず、シーツを強く握りしめたまま、むしろ儚げに微笑んでみせた。「もちろんお姉ちゃんもよ。お姉ちゃんも一緒に住んでこそ、本当の家族だもの!」その言葉を聞いて、予想通り、男たちの表情が和らいだ。「栞がお前のような良い子ならよかったんだがな」拓実が剥いたリンゴを美月に手渡す。「ところで雅人、本気で栞を追い出すつもりなのか?」問われた雅人は、なぜか胸がざわつくのを感じた。「あいつは僕の実の妹だ。父さんが亡くなって、僕にとってはこの世で一番近い肉親なんだ。本気で追い出すわけないだろう。父さんとも約束したんだ、あいつを守ると。今回はあまりに度が過ぎたから、少しお灸
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第10話
数日後、四人は美月を連れて帰宅した。玄関に入った途端、家政婦が栞の部屋からベッドを運び出しているのが目に入った。「何をしている!」雅人が顔を曇らせて制止する。「誰が栞の物を勝手に動かしていいと言った!」家政婦は怯えたように身を縮め、小声で答えた。「坊ちゃん、これはすべてお嬢様の言いつけです。『私が死んだら、遺品はすべて焼き払って。みんなに不吉な思いをさせたくないから』と……」四人は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。美月の口元だけが、勝利の笑みで歪んでいる。長い沈黙の後、秋彦が震える声で尋ねた。「死?遺品?一体何の話だ?」雅人も声を荒らげる。「誰に許しを得て、そんな縁起でもないことを言っている!」家政婦は震え上がり、慌てて弁解した。「滅相もございません!一ヶ月前、お嬢様は末期癌だと診断されたのです。皆様は……お嬢様がもう助からないと知っているからこそ、あのような仕打ちをなさっているのだとばかり……」その言葉を聞いた瞬間、秋彦の手からボストンバッグが滑り落ち、重い音を立てた。家政婦は不思議そうに秋彦を見た。「秋彦さん、癌と診断された当日、お嬢様はあなたの病院へ向かわれましたが……お会いにならなかったのですか?」四人は顔を見合わせ、その瞳は恐怖に染まっていった。秋彦はよろめきながら、栞の部屋へと駆け込んだ。部屋の中は、すでにもぬけの殻だった。がらんどうになった空間を見て、秋彦の心の一部もごっそりと抉り取られたようだった。彼は不意に、あの日の栞の言葉を思い出した。「古い物だから、もういらないの」そうか。「いらない」と言ったのは、物ではない。自分たちのことだったんだ。自分は何をした?妻が癌に侵されているというのに、支えるどころか、何度も何度も傷つけ続けたのか。「そんな……!」そんなはずはない。彼女があっけなく死ぬわけがない。ただ機嫌を損ねて隠れているだけだ。「栞、必ず見つけ出してやる」秋彦は踵を返し、外へと飛び出した。「秋彦、僕たちも行く!」他の三人も彼の後を追う。「お兄ちゃん、秋彦さん!私を置いていくの?」美月が泣きそうな声で呼び止める。だが今回ばかりは、誰も振り返らなかった。「家に家政婦がいる。面倒を見てもらえ」男たちが
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