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Katsunori Kobayashi
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Novels by Katsunori Kobayashi

にくゑ

にくゑ

母を亡くした十七歳の梓は、母の故郷、山間の小さな村に移り住む。そこは人々が笑顔を絶やさず、古い掟に守られた共同体だった。そこで出会ったのは、氷のように美しい巫女の娘・清音。 冷たい瞳の奥に揺れる優しさに触れた瞬間、梓の凍りついていた心臓は初めて震える。 友情か、恋か――それとももっと危うい感情か。二人の距離は、静かに、しかし確実に近づいていく。 だが、村には言葉にできないものが眠っていた。 「夜道は中央を歩け」「笑顔は三度」――古くからの掟が守られるのはなぜか。 やがて梓は、笑顔の奥に潜む恐怖と、愛が呪いに変わる瞬間を目撃する。 ――少女たちの百合と禁忌が絡み合う、逆神話ホラー。
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Chapter: 第1章 通学路
 ピュールィーーーー! 山鳥の声が、梓の胸の奥を揺さぶる。東京ではもう失われていた感覚。 村へ来て数日。今日から梓は学校に通うことになる。小さな分校で、生徒は三十人ほど。小学生から高校生までが一緒の校舎で学ぶのだそうだ。 舗装道路はところどころひびが入っていて、すきまから雑草が顔をのぞかせている。朝つゆをまとった草が足首に触れるたび、ひやりと冷たさが走る。スカートのすそが濡れて重くなる。山の鳥の声は澄み切っていて、東京で聞いたどんな音よりも大きく、まっすぐ耳に飛びこんでくる。 通学路の途中に、小さな平屋を改装した建物がある。「吉川診療所」と書かれた看板が、少し傾いて掛かっていた。その隣には「榊商店」という古い木の看板を掲げた店がある。 診療所の入り口前では、若い医師が白衣姿で村人たちと話していた。「吉川先生、本当に助かるけぇな」「この辺りは昔からお医者さんがおらんくて、先生がいらしてくださって心強いとよ」 村人たちは口々にお礼を言い、みんなにこにこ笑っている。 吉川と呼ばれた医師は三十歳くらいの若い男性だった。背は高くないが、白衣を着ているせいか きちんとして見える。黒髪は寝癖が少し残っているものの清潔で、黒縁眼鏡の奥の瞳には優しさと同時に、どこか疲れたような影が宿っていた。「ありがとうございます。できることには限りがありますが……」 彼は愛想よく微笑むが、どこかぎこちない。村人との会話も丁寧だが、微妙に間が空いて、慣れていない様子が伝わってくる。「先生、また夜中までお仕事でしたでしょう」 雑貨店の方から、エプロン姿の女性が顔を出した。二十代後半ほどの美しい人で、困ったような優しい笑顔を浮かべている。「千鶴さん、いえ、その……」 吉川は慌てたように手を振る。「電気がついてましたから、心配していたんです。ちゃんと食事とっていますか?」「大丈夫です、ちゃんと……」 彼の答えが曖昧なのを見て、千鶴と呼ばれた女性は小さく溜息をついた。 村人たちはそんな二人のやりとりを見て、微笑んでいる。「千鶴さんがおってくださって、先生も安心じゃな」「そうそう、お一人じゃあ心配じゃったけぇ」 吉川は照れたように頭を掻く。千鶴さん、と呼ばれていたのは商店の人だろうか? 方言がないから、二人もまた移住者なのだろう。でも村の人たちに受け入れられ、溶け
Last Updated: 2025-11-11
Chapter: 第1章 新しい家
 清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。 たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。 それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」 清音は柔らかく言葉を紡ぐ。 玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。 湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンションでは絶対にかげない、重たい空気を作り出している。 懐かしいような、不安になるような、複雑な匂い。「……あれ、扉に鍵がないですね?」「ふふ、小さな村じゃけん、どこも開けっぱなしやね」 清音が小さく笑みを漏らす。すると人形めいた美貌が、不意に人の温度を伴い何とも蠱惑的な色を浮かべた。 思わず赤くなりながら、梓はそうか、ここでは村の人たちは皆家族みたいなもので、家と言っても自宅の部屋のようなものなんだ、と考える。 母の故郷は、不便かも知れないけれど、随分と安心できる場所みたいだ。 梓は靴を脱いで、荷物を置いて廊下を歩く。冷たい板の間にぺたぺたと足音が響く。障子は黄色く変色していて、ところどころ紙が破れている。ふすまの取っ手は長年の使用ですり減って、触るとざらざらした感触が残る。 玄関脇の土間からすぐに流し台があって、そこで料理を煮炊きできるようだ。野菜などは土間に置いておけて合理的なのかも知れない。 流し次第の前に立つと、清音が蛇口をひねってくれた。少し間をおいてから水が出てくる。鉄さびの匂いがして、口に含んだら苦い味がしそう。清音は黙って流し台をふき、小さな急須を取り出す。「……居間で少し待って」 やかんに火をつける音がした。梓は戸惑いながら奥に進む。 土間からすぐに居間があった。 小さなちゃぶ台と、座卓。部屋の隅には石油ストーブ。太い柱に止まっている時計がかけられている。 座卓に座る。台所で清音がお湯を注ぐと、湯気に古いお茶の葉っぱの香りが立ちのぼった。 程なくして清音が盆にのせて、急須と湯飲みを二つ持ってきた。「お茶、入った」「あ、ありがとう
Last Updated: 2025-11-10
Chapter: 第1章 村長の家
 胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。 村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。 門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」 そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。 一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配がひしひしと迫ってくる。 門をくぐると、庭一面に白い砂利が敷き詰められている。立派な松の木が一本、風にゆらゆら揺れている。足音が砂利を踏むたび、じゃりじゃりと音がして、それだけで胸がきゅっと縮こまった。 玄関の引き戸を開けると、土間にひんやりした空気が流れこんでくる。磨きこまれた板の間の奥から、低くて太い声が響く。「弓子さんの娘さんじゃな。よぉ来た。まぁあがりんさい」 姿を現したのは、五十を過ぎたくらいの男の人。背が高くて、顔には深いしわが刻まれている。目もとは優しく微笑んでいて、落ち着いた威厳を感じさせる人物のように見える。「お邪魔します」 玄関を上がると、すぐに広い居間に通された。  畳は新しく張り替えられたばかりらしく青い匂いが立ちのぼっている。壁際には古い箪笥が一つあるだけで、座卓の上にも何も置かれていなかった。 広さのわりに、座布団は三枚だけ。村長は座布団に座り、梓にも座るように勧める。  人の暮らしの跡が見えないせいで、部屋はやけにがらんとして、声を出せば畳の目にまで吸い込まれてしまいそうだった。「矢野梓です。どうかよろしくお願いいたします」 座布団に正座した梓は、村長に向かって頭を下げた。「わしは村長の虚木清一ちゅうもんじゃ。弓子さんとは昔からの馴染みじゃけぇな」 また母親の名前が出た。梓の胸がざわざわつく。でも村長の温かい眼差しに、少しだけ気持ちが和らぐ。「ここはいい村じゃ。あんたが不自由なく暮らせるよう、色々準備してあるけんな」 笑みを浮かべて清一は続ける。「この村は、あんたのふるさとでもあるんじゃけん。気兼ねせず何でもいうてくれ
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 第1章 帰郷(下)
 バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。「おや、新しい人じゃな」 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲がった老婆が立っている。薄汚れた紺の作業着に、色あせた手拭いを頭に巻いている。顔は深いしわに刻まれて、小さな目が優しそうに細められている。しわだらけの手で箱から胡瓜を一本取り出して、にこにこしながら差し出してくれる。「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」 知らない人からいきなり野菜をもらうなんて、東京では考えられない。どうしていいかわからなくて、梓は固まってしまう。「あ、ありがとうございます」 やっとそれだけ言って、胡瓜を受け取った。冷たくて、ざらざらした土の感触が手に残る。 老婆は満足そうに頷くと、「それより」と言った。「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」 そう言うと、さっさと歩き出してしまう。梓は胡瓜を握ったまま、ちょっと困ってしまった。荷物を置く前に、いきなり村長さんのところへ? 東京の常識とは違いすぎて戸惑ったけれど、断るわけにもいかない雰囲気である。 夕方の坂道に、老婆の小さな背中を追いかける梓の影が長く伸びていく。◆ 停留所から歩いていくと、なだらかな坂道に出た。  両側には田んぼが広がっていて、青い稲がそよそよと風に揺れている。「おお、弓子さんのお嬢さんか」 梓の足がぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ねる。どうして母親の名前を知っているの? 田んぼのあぜ道から現れたのは、中年の男。背中に古びた猟銃袋を背負い、片手には羽根の乱れた山鳥をぶら下げている。血と羽毛の匂いが風に乗って漂い、梓は思わず息を詰める。 男はにこりと笑って、鳥を梓に差し
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 第1章 帰郷(上)
 少女はメモを執っていた。揺れ動くバスの座席で。一心不乱に。 スマホの画面を見ると「圏外」の文字が表示されている。これから向かう村は電波が通じていないと聞いていたが、もう圏外なんだ、と梓は画面の文字を見つめ、スマホをカバンにしまい込んだ。 膝の上で小さなメモ帳を開きながら、いつもならスマホでメモを取るところなのに、久しぶりにメモと鉛筆。でもこんな古いやり方も良いかも知れない、と梓は筆を走らせる。「山、薄墨色」「バスの音、お腹の中みたい」  思いついたことを鉛筆でちょこちょこ書きつけているが、手に力が入らなくて、文字がふらふらしてしまう。がたん、がたんと車体が揺れるたび、梓の頭も左右にゆらゆら揺れて、なんだかおかしくなってくる。 矢野梓、十七歳になったばかり。小柄で、どちらかというと細い方で、肩まで伸びた黒い髪がバスの振動で少しずつ乱れている。頬にかかるたびに、うっとうしそうに手で払いのけている。 東京にいた頃より顔色が悪いような気がするのは、黒いカーディガンに紺のスカートという地味な格好が、まだ葬式の名残を引きずっているからだろう。 真っ白なメモ帳の上を鉛筆がずっと走り続けている。  母親の葬式の日から、梓はこうして何でも書き留めるようになっている。書いておかないと、自分がここにいることさえ怪しくなってしまいそうで。 心の奥が氷みたいに冷たくなってしまって、何を見ても何を聞いても、まるで遠いところの出来事みたいに感じられるのだ。だから、せめて言葉だけでも残しておこうと思うのである。 窓の外では、山並みがゆったりと流れていく。春めいてきたというのに、木々の枝先はまだ重たい冬の色をしている。山肌は薄墨を流したような灰色で、ところどころに雲の影が這っている。 新幹線を降りて、ローカル線に乗り換え、それから更にバスに乗り換えて既に二時間近く。 舗装の古い道路をバスのタイヤが踏むたび、がたん、がたんと音がする。船に乗ったことはないけれど、きっと船酔いってこんな感じなのかもしれない、そんなことを思いながら。 窓ガラスに映った自分の顔を見ると、なんだかよその人みたいで、梓は慌てて目をそらしてしまう。 カバンの中には、母親の写真を大事にしまってある。小さな額に入れた遺影。胸が痛くなるはずなのに、やっぱり痛みは遠くて、ただぽっかり穴が空いたような感じがす
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: プロローグ「封筒」
 その封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。 消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。 と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。 豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。 だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。 紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。 やがて意を決して刃を入れる。 紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。 中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。 文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。 私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。 ――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。 私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。 同時にこれを題材にした小説を書き始める。 資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録に
Last Updated: 2025-11-09
ノクスレイン~香りの王国物語~

ノクスレイン~香りの王国物語~

 ここは、香りの王国ノクスレイン。  魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。 この国に暮すふたりの日常。 観察眼にすぐれた地味なアルバイト、フィン。 現代日本から転生した記憶をもつ貴族令嬢エレナ。 二人の軌跡が交わる時、香りの王国王国を舞台とした物語が静かに動き出す。
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Chapter: 転生したら貴族令嬢でした!
 ――時は少しさかのぼり、とある令嬢の物語が静かに幕を開ける。 彼女の名はエレナ・シルヴァーバーグ。 先ほどの出会いへとつながる、もう一つの物語が今、はじまる――。 ◇ 深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。 蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」 その声は、闇の中でかすかに響く。「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」 愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。 すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。 その魂は、肉体の奥底へとゆっくりと自分を沈めていく。 まるで深い湖の底へと落ちていくように。静かに、静かに。 そして——暗闇の向こうから、別の光がやってきた。 同じように傷つき、同じように孤独だった魂が。「お願い……今度こそ、幸せになりたい」 二つの魂が、闇の中で出会った瞬間——◆ 頭がずきずきと痛む。まるで長い間眠り続けていたような、重い眠気が体を包んでいる。 私、白石香澄は薄っすらと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天井。金色の装飾がきらきらと輝いて、まるでお城みたい。 ……あれ? そして——なんだろう、この香り? 空気が違う。ただの空気じゃない。石鹸の香り、花の香り、かすかな香木の匂い、それから——悲しみ? 寂しさ? え? 匂いで感情がわかるって、何それ……? 今まで嗅覚なんてそんなに敏感じゃなかったのに、まるで香りが色とりどりに見えるみたい。これって一体……? 起き上がろうとして、愕然とする。私の腕が細い。すごく細くて、色白で、指先まで美しい。 そしてベッドの向こうには、これまた見たことのない豪華な調度品。 私、死んだはずじゃ…… そうだ。学校でのいじめが酷くて、家に引きこもって、病気になって、そして—— 慌てて鏡を見ると、そこに映っていたのは知らない顔。蜂蜜色の縦巻き髪に金色の瞳をした、驚くほど美しい少女。 誰これ……私? でも、この顔。どこかで見たような……。 その時、断片的に記憶が流れ込んできた。豪華な屋敷、大きな庭、使用人たち、そして——香りの記憶。 母親の優しい声、花の香り、温かい手のひら。 だが同時に、深い悲しみと罪悪感
Last Updated: 2025-11-11
Chapter: 記憶の香りと転生令嬢Ⅱ
 彼女は、少し驚いた顔をして——すぐ、また演技に戻った。「ふふ、あなたのような方に理解できるかしらね?」 見下すような、底意地の悪い表情を浮かべる貴族の少女。残念ながら似合ってない。 あー、これは『悪役令嬢』ってヤツだな。物語の悪役を真似した令嬢。  この世界に「悪役令嬢」なんて概念はない。それをここまで再現してる時点で、やっぱり異世界からの持ち込みだ。「……ただ、あの香りが……気になって仕方ないのよ」 急に、声のトーンが変わった。演技の仮面が、一瞬だけ剥がれたような。「甘くて、でも静かで……芯のある香りだったの。忘れられないの」 それは遠い何かを思い出しているような、そんな表情。「まるで、昔の……記憶みたいな……」 彼女は、ぽつりとそう呟いた。その瞬間、瞳の奥に迷いと緊張——そして、懐かしさが見えた。 また切り替わる。観察者としての俺。 そして彼女の視線は薄暗い棚の奥、誰の手にも届かない場所に置いてある小さな香水瓶を真っ直ぐに見ている。視線の軌道、0.7秒で一直線。迷いがない。 そこに置いてあるのはラフェルトNo.4旧型。この世界にはない、淡い花の香りの香水。 この香水、曰く付きなんだよな。そもそもこの国の香水じゃない。帝国の魔導院が作った、ある存在をあぶり出すための香り。 でも100%確実じゃなかったから、結果大変なことになったそうだ。転生者狩り、って呼ばれた事件。 記録にはもう、思い出したくもないほどの大惨事だったと公式に記されているのだから内容は推して知るべし。 で、この少女。鼻孔の動き、通常の2.3倍拡張してる。この香水への反応が異様だ。まさか店外から、開けてもいない瓶の僅かな残り香を嗅ぎ分けて来たのか? 感覚が鋭すぎる。これは……やっぱりスキル持ちだな。 ——我に返る。 俺は棚の奥から、空瓶になった旧型サンプルを手に取った。蓋は開いてない。それでも、ほんのわずかに瓶口から漂う香りの残滓を——彼女は確実に感じ取ってる。「ちょっと、これ……試してみますか?」 俺は瓶をそっと差し出した。彼女の瞳が、ゆっくりと瓶へ向く。瞳孔が1.4ミリ拡張した。蓋を開けてないのに、瞬間、彼女の目が見開かれる。「……これ、だわ」 確信のこもった声だった。まるで、記憶をなぞるような響き。「……お客様、香りの識別、かなり得意なんです
Last Updated: 2025-11-10
Chapter: 記憶の香りと転生令嬢Ⅰ
 バッターンッ! 乾いた音が店内に響いた。扉の開閉音。しかも強め。  おまけに、聞き捨てならない声がついてきた。「ムーア商店の者! ここにあるかしらッ!!」 ……え? なにこの人。声でかすぎだろ。しかも語尾に星マークでもついてそうな勢いだし。 その瞬間、店内の空気が変わった。値切り交渉してたおばちゃんも、納品伝票を確認してた職人も、瓶入りの香油を棚から盗もうとしてた浮浪者——コラまでもが、一斉に動きを止めて入口に視線を向ける。 そして、見た。  扉の向こうに立っていたのは、太陽をそのまま形したような少女だった。 純白のフリルが爆発したような服。  蜂蜜色のカールヘアにつり目がちの整った顔立ち。  手にはレース扇子。  全身が「わたくしこそ貴族令嬢ですのよ!!」と言わんばかりの圧力を放っている。 ……うわぁ。  この店には似合わない、上流のお貴族様だ。  やっかいな予感しかしないよね。 でも、よく見ると——違和感がある。 俺の中で、何かが切り替わる。  その違和感に、俺の中に潜む観察眼が立ち上がる。「……」 手元のレース扇子、右手首の角度が2.4度傾いてる。握力も平均の1.7倍。慣れてない証拠だ。  呼吸のリズムが一定しない。3秒吸って、4秒吐いて、また2秒吸って——緊張してる。 口調も、動きも、なんか型にはめようとしてる。  頭の中に「こうあるべき貴族令嬢」のイメージがあって、それに合わせて演じてる。 瞬きの間隔が0.8秒。普通は1.2秒だ。明らかに意識的に調整してる。  貴族を装っている、というのとは違う。最近まで貴族ではなかった人間が、無理矢理貴族を演じている、というところかな? よくよく見ると、彼女の肉体の動作にブレがある。元から身についた動きと、無理矢理意識している動き。 ――そう、まるで1つの体に2つの魂が入っているような。    月に1度くらい現れる『異世界テンプレ病』の患者ってのがいる。  無駄にキメ顔で「この街を救うのは、俺しかいない!」とか叫ぶ自称勇者。 「追放されましたが、今は自由です」と意味深に笑う元聖騎士ニート。 街の人間は鼻で笑う。  「また変な奴が来たな」「頭のおかしい奴が増えてる」って。 ――だが、俺は知ってる。 自称勇者の場合は靴底の右足外側が1.2ミリ多く削れてい
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 暗殺者と地味バイト
「なあフィン。今日だけでいいから、あの香水屋に顔出してくれや」 朝、店の扉を開けると同時に、店主のムーアさんがパンを片手に言い放った。「なんでまた俺が……」「ベルティエ香水店から臨時派遣依頼が来とる。香りに詳しいって紹介しといたぞ」 香りに詳しいって、俺が? 雑貨店アルバイトの俺が? まぁ、わからなくはない程度の知識をあるけどさ。「それ、単に鼻がいいってだけじゃ……」「細かいことはいいんだよ。鼻が利くなら十分だろう?」 ムーアさんは手をひらひらと振った。「お前はバイトなんだから、言うこと聞いてりゃいいんだ」 バイト。 異世界からの流入語で、この世界では「短期雇用労働者」を指す言葉らしい。 この世界では、そんな風に異世界からの知識や言葉が、あちこちから聞こえてくることがある。 ここは、王都四区・西側市街の外れ。 雑多な商店が集まる庶民的なエリアだ。 そんな場所でひっそり営業してるのが、俺がバイトしてる雑貨屋『ムーア商店』 店主のムーアさんは、気はいいけど金にはがめつい。 スキルは魔導具鑑定を持っているらしい。 壊れた魔導具に手を加えて"準新品"として売る。訳あり品は「今朝仕入れたばかり!」と胸を張って並べる。でも、なんだかんだでこの辺じゃ一番マシな店だ。 雨風はしのげるし、客に値切られても暴力沙汰にならないだけマシ。まあ、俺にとってはそれで十分なのかもしれない。 俺はフィン。そこでバイトしてる、ただの地味男。「……何の罪で売り飛ばされるんですか」「売り飛ばすって何だ。正当な商取引だ」 ムーアさんがにやりと笑みを浮かべる。「しかも今回は特別料金でな」「特別料金?」「派遣料が通常の三倍だった。ありがたい話だ」 俺は頭を抱えた。どうやら商品として値段まで付けられたらしい。しかも三倍って、俺にそんな価値があるとは思えないんだけど。「店長、俺って商品でしたっけ」「違うな。レンタル用品だ」「ひどい」 でも、まあ、それが俺の現実なんだろう。文句を言ったところで変わるわけじゃないし。◆ 王都中央通り。 華やかな高級商店や、貴族向けの専門店が建ち並ぶ王都でも一番賑やかな通りだ。 そこにそびえ立つは、香りの殿堂『ベルティエ香水店』 城下最大の香水専門店にして、貴族や大商人、時には王城までもが御用達とする格式を持つ。
Last Updated: 2025-11-08
Chapter: プロローグ「香りの国のふたり」
 ここは、香りの王国ノクスレイン。 魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。 王都ペルファリアの片隅。 石畳の道沿いに並ぶ雑多な店々の、そのまた裏路地にひっそりと佇む「ムーア雑貨店」 木製の看板に手描きの文字。軋む扉に、たまに鳴らないベル。 そして、そこに――店番として住み込みで働いている、一人の青年がいる。 名を、フィン。 フィン・アルバ=スヴァイン。 肩までの黒髪を無造作に束ね、糸のような細い目で地味な顔。古着のようなエプロン姿で黙々と掃除をするその横顔は、どう見ても普通。 だが――彼には、誰にもない特技があった。 それは、「観察力」 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、皮膚に触るもの、舌に触れるもの、そして香り。 空気のわずかなズレに気づく鋭さが、常に彼を、事件と、そして運命の渦へと引き込んでいくことになる―― もっとも、今の彼にはそんなことはわからない。 むしろ今日も、いつも通りにこう呟く。「……さて、今日も暇だといいな」 そして――もう一つ。 この王国の、別の場所では。  王都北区、白壁の屋敷が立ち並ぶ貴族街。 その一角に構えるシルヴァーバーグ侯爵邸の一室で、一人の少女が目を覚ます。 蜂蜜色の髪に、青い瞳。 華やかなドレスに身を包んだその姿は、誰がどう見ても"完璧な令嬢"――のはずだった。  だが彼女には、誰にも言えない秘密がある。 前世の記憶。日本での孤独な死。 そして――香りから、人の感情を読み取る力。  名を、エレナ。 エレナ・シルヴァーバーグ。 そして、もう一つの名前は白石香澄。 転生した貴族令嬢として、この世界で”今度こそ幸せに”と願いながら、 彼女もまた、運命の渦に巻き込まれていくことになる。  ――香りと観察。 二つの力が交わるとき、王国を舞台とした物語が静かに動き出す。
Last Updated: 2025-11-08
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