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第25話

Author: 桜庭 しおり(さくらば しおり)
叶音が手持ち花火を持って無邪気にはしゃぐ様子を見て、奏真は思わず笑みをこぼした。

こんな小さな花火で、こんなにも嬉しそうに笑う女の子を見るのは初めてだった。

一緒にはしゃごうかと思ったその時、彼のスマホが鳴った。

「もしもし、母さん?」

「奏真!あんた今どこにいるの!?お見合いの席に来ないなら一言くらい言いなさいよ!相手の女の子、レストランで何時間も待ってたのよ!」

開口一番、母親の怒鳴り声だった。

奏真は眉をひそめた。

「だから言っただろ、僕は興味ないって。あの子たちは、霧島家の金にしか興味ない。そんな人間と結婚なんかしたくない」

「じゃあ、どうするつもりなのよ!もう三十も過ぎてるのよ!?このままだったら、私、一生孫の顔なんか見られないじゃない!」

「じゃあ、バツイチで子供二人くらい連れた人でも連れて帰ろうか?」

奏真は皮肉交じりに言った。三十過ぎて独身だって、べつに悪いことじゃないだろう。

「それでもいいわよ!女でも男でも構わないから、とにかく孫を連れてきなさい!」

一方的にまくし立てられ、奏真はため息をつきながら通話を切った。

まったく——

一人っ子の彼に、母親はもはや孫に飢えすぎていた。

ふと前を見ると、叶音がまだ花火を楽しんでいた。

奏真はニヤリと笑って、彼女に歩み寄った。「ねえ、氷川さん。彼氏、いる?」

「私?」

叶音はふっと笑った。「一応、結婚してたけど、今は離婚手続き中」

「そう」

奏真は驚いた。ちょうどさっき、母親に「バツイチでもいい」って言ったばかりだったから。

「子供は?」

「いない」

叶音の手の中で、花火が消えた。彼女の表情も、少し陰った。

空気の変化に気づき、奏真はそれ以上聞かなかった。

その頃。

陵は、ついにビーチに到着していた。ふと見渡すと、すぐに叶音を見つけた。

心の中で、思わず喜びが弾けた。

しかし、次の瞬間。彼女の隣には——見知らぬ男の姿があった。

その男は、自分よりも背が高く、スタイルも良かった。そして、彼女の隣にいる様子が、あまりにも自然だった。

陵の胸に、怒りがこみ上げる。

誰だ、あの男は!?

花火の火の粉が、叶音の髪に落ちた。男は優しく彼女の髪から火の粉を取り除いた。

その親密な仕草に、陵の理性は完全に吹き飛んだ。

彼は怒りに任せて、二人の方へ突き進んだ。
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    「社長、今はまず会社のことを考えるべきです。どうか、冷静に……」アシスタントが必死に説得する中、陵はふらりと立ち上がった。「一度、家に帰る」テーブルに手をつきながら、陵は決意を固めた。そして、アシスタントに支えられながら、高瀬家の本邸へ向かった。高瀬家本邸。陵の父親は早くに亡くなり、家のことはほとんど母親が取り仕切っていた。陵の酔った姿を見た母親は、露骨に顔をしかめた。「どういうこと?こんなに酒臭くなって、何しに戻ってきたのよ?叶音は?一緒じゃないの?」彼女はリビングで荷造りをしていた。たくさんの栄養補助食品を箱詰めし、翌日、叶音に届けるつもりだった。表面上は素っ気なくても、叶音が妊娠したと聞いてからは、それなりに気遣うようになっていたのだ。「母さん、話がある」「何よ」陵の母親は眉をひそめた。「まさか……まさか、叶音のお腹の子に何かあったんじゃないでしょうね?あの子に何かあったら、絶対許さないわよ!元々身体が弱いってわかってたら、最初から結婚なんか認めなかったのに!」まくし立てる母親に対し、陵はずっと黙っていた。長い沈黙の後、ようやく口を開く。「叶音は流産した。子供は、もういない」陵の母親は声にならない悲鳴を上げた。「嘘でしょう!?あんなに順調だったじゃない!どうして……どうしてそんなことに!まさか、叶音がわざとそんなことをしたんじゃないでしょうね?」「俺が……」陵は唇を震わせながら言った。「俺が自分の手で……叶音を、階段から突き落としたんだ」「なに!?」陵の母親は一瞬、理解できなかった。衝撃を受け、声を震わせながら叫んだ。「あんた、自分が何を言ってるのかわかってるの?彼女のお腹には、あんたの子どもがいたのよ!たとえ喧嘩したって、どうしてそんな、階段から突き落とすなんて!」陵は苦しげに、ぽつりと言葉を続けた。「小夜のためだった。叶音が階段から落ちて、血まみれで電話してきた時……俺は、嘘だと思って、信じなかった。それで……俺が、彼女を、流産させた」陵がすべてを吐き出した瞬間、陵の母親の体は力を失い、ソファに崩れ落ちた。「あんた、正気なの?小夜が帰国した時、嫌な予感はしてたのよ。私だって、あんたと小夜のことを知らないふりしてきた。でも、どうして……どう

  • のちに煙雨すべて散りて   第22話

    「何か御用ですか?」叶音の声は、少しだけ和らいだものの、やはり冷たかった。「社長の容態があまり良くありません。お願いです、どうか一度だけ、戻ってきてもらえませんか?」電話の向こう、アシスタントの声には切実さが滲んでいた。「彼の体調なんて、私には関係ありません」叶音は淡々と告げた。「私たちはもう離婚手続きを進めているんです。今後、彼に関することは一切、私に知らせないでください」「どうか、お願いします!」アシスタントは必死だった。「社長は本当に反省しています。会社も、今や破産寸前です。今日は取引先に土下座して頼み込んだのに、二本のウイスキーを無理やり飲まされ、頭も打って、血が止まらないんです。それでも社長は、ずっとあなたの名前を呼び続けています。お願いです、一度だけでも、顔を見せてあげてください」だが、叶音の心は微動だにしなかった。陵が受けた痛みなど、彼女が失ったものに比べれば、あまりにも軽い。あの日、あの子を失った痛みを、彼は一生かけても償えない。「繰り返しますが、彼のことは私には関係ありません。これ以上、連絡してこないで」言い切ろうとしたその時。突然、電話の向こうから別の声が聞こえた。「叶音……叶音なのか……?俺だよ、陵だよ」彼女が憎んでやまない、あの声だった。「叶音、会いたい……迎えに来てくれ。酔っぱらった時は、いつも君が迎えに来てくれたよな。赤ちゃんにも会いたい……帰ってきて……絶対に君を大事にするから」必死で何かを訴え続ける彼の声を、叶音は一秒たりとも聞きたくなかった。彼女は、無言で電話を切った。そして、ためらいなくアシスタントの番号も着信拒否リストに追加した。こうしている間にも、彼に捕まる危険がある。このままではいけない。完全に、彼の世界から消えなければ。叶音はすぐにSIMカードを取り出し、ごみ箱に投げ捨てた。だが、連絡手段がなくなるのは不便だった。新しいSIMカードが必要だ。急いでフロントへ向かい、スタッフに尋ねた。「すみません、この近くでSIMカードを作れる場所はありますか?」「申し訳ありません、このエリアでは取り扱いがないんです」「そうですか」叶音は小さくため息をついた。モルディブに来る前に、新しいカードを作っておくべきだったと悔やんだ。ぼんやりと踵

  • のちに煙雨すべて散りて   第21話

    「いいぞ、もっとやれ!」藤井会長は手を叩いて喜んだ。「高瀬社長、聞いたぞ。君、大スターを散々傷つけたらしいじゃないか!これくらいビンタされるなんて、むしろ甘いくらいだ!」陵は力なくうなずいた。「はい、すべて私が悪いんです。どうか、許してください」「許す?いいとも!」小夜はにやりと笑った。「ビルの屋上から飛び降りてみせたら、すぐに許してやるよ!」小夜が自分のために飛び降りようとした。今度は、陵がその苦しみを味わう番だ——そういうことだった。「小夜……」「黙れ!二度とそんな呼び方するなって言ったでしょう!」小夜はまた一発、陵の頬を叩いた。そしてテーブルの上にあったボトルを掴み、彼の口元へ押し付ける。「飲め!取引したいんだろう?なら、全部飲み干しなさいよ!」小夜は容赦なく酒を流し込んだ。陵は抵抗せず、ただ黙って酒を喉に流し込む。飲み続け、酔いが回ったころ。小夜は陵を乱暴に突き飛ばした。よろめきながら床に倒れた陵を、小夜は無慈悲に蹴りつけた。「小夜、もういいか?これで……取引してもらえるか?」陵はほとんど意識を失いかけながらも、今日ここに来た目的だけは忘れていなかった。小夜は深く息を吐いた。怒りは多少鎮まったが、胸の奥にはまだ憎しみが燻っていた。ちょうどその時、藤井会長が間に入ろうとしたが、陵が突然うわごとのように呟いた。「叶音、会いたい。迎えに来て……」「高瀬陵!」小夜の怒りは一気に爆発した。テーブルにあったビール瓶を掴み、思い切り陵の頭に叩きつけた。「ふざけるな!たとえ今ここで飛び降りたって、取引なんかしてやらない!お前の会社なんか、潰れてしまえ!」吐き捨てるように言い放ち、小夜は怒りに任せて店を後にした。ビール瓶は見事に陵の額を割った。血がとろとろと流れ落ちる。陵は朦朧としながら、自分の額に手をやった。「叶音、血が出てるよ……薬箱、持ってきて……」ずっと外で待っていたアシスタントが、慌てて駆け寄った。小夜と取り巻きたちが去るのを見計らって、店に飛び込んだのだ。血まみれで、泥酔した陵の姿を見て、アシスタントは目を見開いた。「社長、大丈夫ですか!?」「叶音、どこ?」陵はアシスタントの袖を掴み、泣きながら叫んだ。「叶音に会いたい!迎えに来てって、言ってよ!」「

  • のちに煙雨すべて散りて   第20話

    「高瀬社長、おいでになったんですね?」ソファにふんぞり返った男が、にやりと笑いながら陵を見上げた。見覚えのある顔だった。 この男——藤井会長だった。「藤井会長……」陵は細めた目で小夜を見た。一体どうして、彼女がこんな姿に——なぜ、こんなふうに男に触れられるままなのか。「遅かったな。ペナルティとして三杯、一気だ」藤井会長は、テーブルに並んだ酒を指差した。陵は時計を見た。決して遅れてはいない。むしろ、指定時間より早く到着していた。「どうした?困っているんじゃないのか?頼み事をする立場なら、これくらい飲んで当然だろ?」隣の席では、白川会長も女を抱きかかえ、下品に笑っていた。その女も、小夜と同じ芸能界出身者だった。——以前、同じ時期にデビューした女優だ。腐った光景に、陵は怒りを抑えきれず、小夜の手を掴んだ。「何してるんだ、小夜!一緒に帰るぞ!」「放して!」小夜は陵の手を振り払った。「何を勘違いしてるの?今日あなたがここに来た理由、わかってる?藤井会長に頼みに来たんでしょ?あなたの会社、今めちゃくちゃなんだから!」小夜は冷たく笑った。「財務部長が横領して、建設現場で事故も起きた。取引先も離れ始めてる。焦るよね、当然」その通りだった。焦らないわけがない。陵の父親が一代で築き上げた高瀬グループ。自分の代で潰すわけにはいかなかった。「藤井会長、どうすれば契約を継続してもらえるんですか?」「今日の主導権は、俺たちじゃない」藤井会長はにやにやと小夜を見た。「すべては小夜ちゃん次第だ」そう言うと、藤井会長は油っぽい顔を小夜に近づけ、平然とキスをした。小夜は拒まなかった。むしろ、甘ったるい声で甘えた。「藤井会長、ほんとに優しいのね」そして、彼女の方からも藤井会長にキスを返した。陵は、拳を握り締めながらその光景を見つめた。「小夜」「小夜なんて呼ばないで」小夜は無表情で言い放った。「早見さん、って呼びなさい」そして、ソファに優雅に腰を下ろすと、冷たく告げた。「取引したいなら簡単よ。そこにあるウイスキー、二本とも飲み干して」陵は顔をしかめた。ボトル二本を飲み干すなんて、命に関わる。「どうしたの?怖じ気づいた?父親が命を懸けて守った会社を、自分の手で潰す気?」小

  • のちに煙雨すべて散りて   第19話

    陵は休む間もなく飛行機に乗り、急ぎ戻った。帰国後すぐに、アシスタントが各不動産業界の重鎮たちとの面会をセッティングしようと動いた。「どうだ?藤井会長や白川会長には会えるか?」「申し訳ありません、社長」アシスタントは困った顔で答えた。「どちらも契約解除を強く主張していて、面会自体、断られました」「どうしてだ?」陵には心当たりがなかった。これまでの取引は順調だったはず。普通なら、こんな急な態度の変化はあり得ない。何か、自分の知らない大きな問題が起きたとしか思えなかった。「それに……」アシスタントは言い淀んだ。「財務部長が公金横領で逮捕されました。さらに、いくつかの物件で労働者が自殺未遂を起こし、大きな社会問題になっています」陵の表情が一気に険しくなった。「分かった」「それと、社長」アシスタントはさらに声を潜めた。「早見さんが、社長のオフィスでお待ちです」「早見小夜?」その名を聞いた瞬間、陵の顔はさらに曇った。「会いたくない。忙しいって伝えてくれ」「でも、彼女、この数日間、毎日のように来てたんです。一度だけでも会った方がいいかと……」「わかった」ここではっきりさせなければ、彼女も諦めないだろう。陵は重い足取りでオフィスのドアを開けた。ソファに座っていた小夜が、だるそうに顔を上げた。「陵さん、帰ってきたんだ?」「用件は何だ?」陵は彼女に目もくれず、デスクへ向かい、書類に目を通し始めた。会社は今、火の車だ。彼女に構っている暇などない。「もう十分言ったはずだ。俺たちの間には何も残っていない。早く帰れ」「本当に冷たいのね」小夜は陵の正面に立ち、冷たい目で見下ろした。陵が顔を上げて彼女を見た瞬間、違和感を覚えた。小夜が、変わっていた。以前は清楚なイメージで売っていたはずだ。いつもナチュラルメイクだった彼女が、今日は真っ赤なリップに、派手な巻き髪。服装も、肩を大胆に露出したスリット入りのロングドレス。「小夜、どうしたんだ、その格好は」「気に入らない?」小夜は笑った。「陵さん、こういうの、好きじゃない?」彼女は陵の背後に回り、そっと彼の首に手を回した。赤い唇が陵の耳元に触れる。「あなたが望むなら、このオフィスでだって、私は構わないよ」「小夜!」陵は怒り

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