LOGIN神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。 結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。 怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。 「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」 そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。 女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。 怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」 遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。 こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。 だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。 「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」 「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」 「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」 …… 遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。
View More沙羅は目を大きく見開き、白目にはびっしりと血管が浮かんでいた。檻の格子を必死に掴みながら、「遥さん!どうして私にこんなことするの!?あの子は怜司さんの子よ!天城家の子どもなの!」その絶叫は、サファリ施設の奥に潜んでいた野獣たちさえ呼び覚ますほどだった。一匹、また一匹と、眠っていた獣たちが起き上がり、沙羅の檻のまわりにじりじりと集まってくる。遥は冷ややかな目でその光景を見つめるだけだった。ふと空を仰ぎ、ぽつりと呟く。「……お父さん、悪い人たちはちゃんと罰を受けたよ。どうか安心してね」怜司が必死で駆けつけたとき、沙羅は獣の檻の中で力尽きる寸前だった。彼の姿を見つけて、沙羅はかすかな声で必死に何かを伝えようとしたが、声は掠れ、うまく言葉にならない。あの鑑定書は嘘なの、全部、誤解なの……身振り手振りで訴えようとするが、怜司の目はもはや憎悪と絶望で冷えきっていた。「お前のせいで、俺の人生も家族も、全部めちゃくちゃだ」そう呟きながら檻を開け、沙羅を乱暴に獣たちのいるど真ん中へと蹴り出す。獣たちが一斉に沙羅へ襲いかかる。……その後、怜司は天城家の仏間でひとり、膝をついて深く頭を下げ、ずらりと並んだご先祖様の遺影の前で震えていた。静江は昏睡から目覚めると、あれほど可愛がってきた子どもが天城家の血を引いていなかった事実に、ついに心臓発作を起こして病院に運ばれた。怜司は一昼夜、仏間でただひたすら膝をついて詫び続け、やがて携帯に病院からの電話が着信音が静かな部屋に響き渡る。「……天城静江さんは、つい先ほど息を引き取られました。天城さん、心よりお悔やみ申し上げます」携帯がカシャンと床に落ち、バラバラに砕け散った。怜司はその場に崩れ落ち、額を床に叩きつけ、肩を震わせて号泣した。そのころ遥は、ロンドラン行きの荷造りをしていた。そこへ遼が汗をにじませながら駆け込んできた。ドア枠にもたれ、息を切らせながらも、あえて軽い調子で話しかける。「遥さんのお母さんから聞いたよ。ロンドランに留学するんだって?」遥は振り返って、ちょっといたずらっぽく微笑んだ。「もう、うちの母は何でもかんでも話しちゃうんだから。黙っててって言ったのに」遼が少しだけ眉を寄せて言う。「まさか、俺に何も言わずに出発して、じゃあ、またいつ
怜司の頭の中はザーッという耳鳴りでいっぱいだった。これが、遼が言っていた「特別な贈り物」か?何代もかけて築き上げた天城家の財産と名声が、一夜にして全て消え去った――スマホはひっきりなしに鳴り続ける。一族の者、会社の役員、そして借金を回収しにくる取引先。画面に表示される名前に、どんどん胸が締め付けられていく。唯一残されたのは、まだ差し押さえを免れた「本家の屋敷」だけ。静江は破産のニュースを聞き、何度も気絶しそうになっていた。そのころ、遥は自宅でニュースを見ていた。テレビの中で、かつて神栄市一のカリスマ社長と呼ばれた男が、抜け殻のように座り込む姿が映し出されている。ほんの数日前まで街を牛耳っていた男の末路だった。遼がリモコンでテレビを消しながら、ふと訊く。「後悔してる?君が、彼と一緒にあそこまで上り詰めたのに」遥は自嘲気味に微笑んだ。「後悔してるのは、自分の八年間の青春をあんな人のために捧げたことだけ。怜んの転落は、自業自得よ」遼はどこか安堵したように肩の力を抜いた。ずっと心のどこかで、遥に恨まれるのではと気にしていたのだ。そんな遼の気持ちを、遥はすぐに見抜く。「今回のこと、私も全部一緒にやったんだし。むしろ、沙羅さんへのもう一つの贈り物まで用意してくれて感謝してるくらい。そろそろ届く頃じゃない?」遼は時計をちらりと見て、静かに頷いた。「そうだな。あれも、あいつには当然の報いだ」怜司は必死に関係各所に怒鳴り散らし、何とか会社を守ろうとしたが、全ては無駄だった。シャツはぐしゃぐしゃ、髪はボサボサ。天城グループ本社の前に立ち尽くし、かつての栄光を見上げていた。そのとき、背後から肩を叩かれる。「天城怜司さんですね?こちら、サインをお願いします」書類袋を乱暴に破ると、中から一通の「DNA鑑定書」が滑り落ちた。怜司は床に落ちたそれを拾い上げ、最後のページをめくる。鑑定書の「生物学的父子関係」という欄には、はっきりと【該当せず】の文字が並んでいた。つまり、沙羅が産んだ子どもは、怜司の子ではなかった。幾重もの絶望が一気に押し寄せ、怜司はついに立っていられなくなった。その場に崩れ落ち、拳で床を何度も殴りつける。「沙羅……この裏切り者め……!よくも俺を騙しやがって!」血だらけになりながらも、怜
怜司は手下に命じ、沙羅が獣の檻で恐怖に怯える様子をすべて録画させていた。「おばあちゃんが気にしてるのは、天城家の子どもだけだ。沙羅本人には、生き地獄を味わわせてやる」その足で、怜司は氷室家の門の前に駆けつけた。玄関先で何時間も座り込み、ついに遥と遼がゆっくりと歩いてくるのを目にする。「遥!犯人が分かったんだ、あの時お義父さんを殺したのは沙羅だ。もう檻に閉じ込めてやった、見てくれ!」そう言って、沙羅が檻の中で頭を抱え、野獣の咆哮と絶叫に追い詰められている動画をスマホで見せてきた。遥はガラス戸越しにその映像を見つめるが、顔には何の感情も浮かばない。怜司は必死にスマホを差し出しながら頼む。「遥、仇は取った!だからもう一度、家に戻ってきてくれ!」遥は静かに眉をひそめ、怜司を見つめ返す。「怜司、本当に沙羅だけが私のお父さんを殺したと思ってるの?誰が本当の元凶か、あなた自身が一番よく分かってるはずでしょ?」怜司の瞳が一瞬揺らぎ、焦りが滲む。彼自身、認めたくはなかったが、沙羅にあの電話をかけさせたのは、他ならぬ自分の「黙認」と「放任」だった。「……遥、ごめん、全部俺が悪かった。お義母さんにも償う。だから、どうかもう一度、俺のそばにいてくれ」怜司はその場に崩れ落ち、両膝をついて必死に叫ぶ。「遥!お願いだ、もう一度だけチャンスをくれ!結婚したとき、一生愛し続けるって誓ってくれたじゃないか!」遥はすでに背を向けて歩き出していたが、その言葉に一瞬足を止めた。そっと下を向くと、薬指にはもう何もはまっていない。かつて「永遠」を誓った指輪は、いつの間にかどこかの排水溝に消えていた。ぽろりと涙がスカートに落ちる。次に顔を上げたときには、もう笑顔だった。「怜司、あなたは一度は私を大切にしてくれたけど、最後にはゴミのように捨てた。誓い?あなたにそんな資格はない。本当に獣の檻に入るべきなのは、沙羅じゃない。あなたよ」怜司は必死に這いつくばり、遥のスカートの裾を掴もうと手を伸ばすが、その指先は空を切り、ただ一陣の風を掴むだけだった。その場で頭を抱え、子どものように号泣する怜司。その肩を遼が無造作に足で蹴る。「おい天城、特別な贈り物を二つ用意しといたから、楽しみにしとけよ」そう言い残し、遼は遥を追いかけて、二人は並ん
夜、怜司はひとりでバーに座り、酔いつぶれる。テーブルに突っ伏しながら「遥」とつぶやき、声をあげて泣く。閉店時間になり、店員が住所を聞き出してタクシーで家へ送る。翌朝、目を覚ますと自宅のベッドの上。背を向けて眠る人影がある。「遥!」怜司はその体を強く抱きしめ、涙混じりに悔いと恋しさを吐き出す。「遥、お願いだ、もう俺から離れないでくれ。離婚協議書はもう破った。絶対に離婚しない。沙羅の件は俺が愚かだった。あいつの正体はもうわかった。彼女にも、あの子にも二度と会わない」腕の中の体がこわばり、ゆっくりとこちらを向く。「……沙羅!なんでお前が」怜司は転げるように彼女を押しのけ、床に散らばった服を拾い集める。沙羅の頬は涙で濡れている。「こんなに愛してるのに、どうして見てくれないの?まだ彼女のことを考えてるなんて!」怜司は身支度を整えながら、沙羅を冷たく睨みつける。「……沙羅。お前、忘れたのか?あの夜、俺が酒で潰れてる隙に勝手にベッドに潜り込んできたのは誰だった?その上、愛してるなんて純情ぶって」沙羅は一瞬言葉を失い、絶望的な笑みを浮かべる。次の瞬間、怜司の足元に縋りつき、涙ながらに訴える。「怜司さん、昔、私のことも想ってくれたじゃない?私、遥さんよりもあなたを愛してる。あなたのために、いくらでも子どもを産む。お願い、行かないで!あなたと遥さんは、もう彼女のお父さんの件で終わったの。もう戻れない。前を見ればいいじゃない」怜司は無言で彼女を蹴り払う。「遥にはちゃんと説明する。彼女は俺を許すはず。お前は、一生俺の妻にはなれない」下の階へ降りる途中で、秘書の三浦から電話が入る。「社長。あの日、社長の携帯から下の者に、奥さまのご両親をサファリ施設の檻に入れろとの指示が出ていたそうです」怜司の足が止まる。「誰だ?」三浦は一度大きく息を吸い込み、ためらうように名前を口にした。「……沙羅さん、です」怜司が戻ってきたのを見るなり、沙羅の目はぱっと輝いた。彼女は駆け寄り、勢いよく怜司の胸に飛び込む。「やっぱり、私のことが忘れられなかったんでしょ?」怜司はにっこり微笑んで見せた。「さあ、ちょっと外にでも出かけようか」沙羅は大はしゃぎで、「じゃあ、着替えてくる!」と急いで行こうとする。だが、怜司はそっと彼女の
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