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もう振り返らない

もう振り返らない

By:  昔の昔Completed
Language: Japanese
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神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。 結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。 怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。 「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」 そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。 女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。 怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」 遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。 こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。 だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。 「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」 「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」 「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」 …… 遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。

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Chapter 1

第1話

神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。

結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。

怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。

「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」

そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。

女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。

怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」

遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。

こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。

だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。

「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」

「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」

「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」

……

遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。

遥は離婚を切り出し、怜司は大雨の中で丸一日、ひざまずき続けた。

「遥、ごめん。あの日、俺は酔っていて、彼女をお前だと勘違いした……

安心して、すぐにでも彼女を追い出すから!」

怜司が寒さで体を震わせ、唇が紫色になっているのを見て、遥は心を許してしまった。

だが半年後、遥は病院で怜司が沙羅の妊婦健診に付き添う姿を見てしまう。

怜司は目を赤くしながら説明する。「おばあちゃんが妊娠のことを知って、自殺すると脅されたんだ。俺にはどうしようもなくて、彼女を郊外の別荘に隠した。

子どもが生まれたら、おばあちゃんに渡すだけだ。お前との生活には絶対に影響させない」

遥はもう一度、怜司を信じることにした。

しかし三日前、凶悪な拉致犯が沙羅を遥と間違えてさらっていった。

普段は「どうでもいい」と言っていた怜司が、犯人からの電話を受けて、取り乱した。

「いくらでも払う!沙羅には絶対に手を出すな!」

だが、犯人の要求は金ではなく、「天城家の奥さまの命」だった。

怜司は目尻を赤くしながら、遥の肩を掴んで必死に頼んだ。

「遥、頼む。沙羅を助けてやってくれ。彼女は妊娠してるし気が弱いんだ……無事に戻ったら、すぐにお前を助けに行くから、な?」

遥はその瞬間、すべてに気づいた。怜司が沙羅のことを最初は「田舎者」と呼んでいたのに、次第に「沙羅さん」とさん付けで呼ぶようになり、今ではすっかり「沙羅」と名前だけで呼んでいることに。

知らないうちに、沙羅は怜司の心に入り込んでいたのだ。

遥は苦笑いを浮かべた。「もし、私が行かなかったら?」

怜司の目が一瞬冷たく光った。「遥、沙羅が孕っているのは、天城家の跡継ぎだ。お前も一度くらいこの家跡継ぎのために貢献してくれ。

大丈夫だから。絶対にお前を救い出すから」

遥は鼻をすすり、震える声が途切れがちになる。

「もし……私が戻れなかったら?」

怜司は眉をひそめた。「遥!命がかかってるんだぞ。いい加減わがまま言うな!」

怜司のその決意を見て、遥の心は粉々に砕けた。

怜司に突き飛ばされ、遥は犯人のもとへ向かった。絶望の中で、目を閉じるしかなかった。

その瞬間、沙羅が怜司の胸に飛び込んできた。

「沙羅!」怜司の顔色が一変し、声が震えた。

「無事でよかった……」

沙羅は怜司の腕にしがみつき、弱々しく手を伸ばした。「怜司さん……私、あなたの子ども、守れるか不安で……」

怜司は一瞬で涙ぐみ、彼女を抱きかかえて走り出した。

「絶対に何があっても守る。絶対に!」

彼は急いで駆け出したせいで、拉致犯に押されていた遥の姿には目もくれなかった。

遥は硬いコンクリートの上に倒れ込んだが、もう何も感じなかった。

ぼんやりと、怜司がプロポーズしてくれた日のことを思い出していた。

彼は遥を強く抱きしめ、何度も何度も言った。「遥。俺は、絶対に誰にもお前を傷つけさせない」

……今思えば、どれほど滑稽な言葉だったろう。

遥は足を縛られて海へ投げ込まれ、どんどん沈んでいく。そのまま、意識が遠のいていった。
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第1話
神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」……遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。遥は離婚を切り出し、怜司は大雨の中で丸一日、ひざまずき続けた。「遥、ごめん。あの日、俺は酔っていて、彼女をお前だと勘違いした……安心して、すぐにでも彼女を追い出すから!」怜司が寒さで体を震わせ、唇が紫色になっているのを見て、遥は心を許してしまった。だが半年後、遥は病院で怜司が沙羅の妊婦健診に付き添う姿を見てしまう。怜司は目を赤くしながら説明する。「おばあちゃんが妊娠のことを知って、自殺すると脅されたんだ。俺にはどうしようもなくて、彼女を郊外の別荘に隠した。子どもが生まれたら、おばあちゃんに渡すだけだ。お前との生活には絶対に影響させない」遥はもう一度、怜司を信じることにした。しかし三日前、凶悪な拉致犯が沙羅を遥と間違えてさらっていった。普段は「どうでもいい」と言っていた怜司が、犯人からの電話を受けて、取り乱した。「いくらでも払う!沙羅には絶対に手を出すな!」だが、犯人の要求は金ではなく、「天城家の奥さまの命」だった。怜司は目尻を赤くしな
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第2話
遥が目を覚ますと、怜司がそばで見守っていた。「遥、やっと目を覚ましたんだな」彼が自分の無事を喜んでいるのかと思ったが、次の言葉で違うことに気づいた。「これで沙羅も安心できるよ。あの子、自分をどれだけ責めてたか、知らないでしょ」……沙羅は手を引っ込め、皮肉っぽく言う。「自分を責めてる?責めるべきことは、それだけじゃないんじゃない?人の夫のベッドに入り込んで、しかも……」怜司の顔色が一気に変わる。「もうその話は蒸し返さないって約束しただろ?なんで子どもを産ませることにしたのか、もう説明したよな」遥と目が合うと、怜司は少し声を和らげた。「沙羅は、ずっと遥さんに謝りたいって言ってて。俺がそれを隠してただけだ。お前が知ったら出ていくだろうと思って」……「それに、今回だって何事もなく帰ってこられたんだ。もう過去のことにこだわるな」遥は一瞬言葉に詰まり、皮肉っぽく言う。「もし犯人が私を海に沈めるんじゃなく、ナイフで刺してたら、たぶん今頃私は死んでたのよ」怜司は眉をひそめて舌打ちした。そのとき、沙羅が突然駆け込んできて、遥のベッドの前で膝をついて泣き出す。「全部私のせいです……怜司さんが酔ってる時に、良い覚ましのお茶なんて持っていかなきゃよかったし、子どもを残すべきじゃなかった」怜司はすぐに沙羅を起こしてベッドに座らせ、優しく声をかけた。「悪いのは俺だ。自分を責めるな。それに、おばあちゃんが『子どもを産め』って言ったんだ。田舎から出てきたお前が自分で決められるわけないだろ」怜司は沙羅のお腹をそっと指でなぞり、甘やかすように言う。「もう余計なことは考えるな。赤ちゃんに悪いから」沙羅は涙を拭い、頬を赤らめて甘えるように言う。「怜司さん……東区の焼き栗が食べたい」怜司は少しも迷わず立ち上がった。「ここで大人しく待ってて。今すぐ買いに行くから」遥はそんな二人を冷ややかに見つめ、胸に重い石がのしかかっているような痛みを感じていた。部屋に残ったのは遥と沙羅の二人だけ。沙羅は腰を押さえ、また跪こうとするそぶりを見せた。「怜司さんが優しくしてくれるのは、私がちゃんと子どもを産むためです。本当は、怜司さんの心の中にいるのは、いつだって遥さんだけです。私はここにいる資格なんてありません……」遥はもう彼女
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第3話
もしかしたら、遥への罪悪感からかもしれない。怜司は秘書に頼んでリュミエールのファッションショーの招待状を届けさせた。リュミエールコレのショーを観に行くのは、毎年、遥と怜司にとって欠かせない恒例行事だ。一緒に届いたのは、真紅のベルベットドレスと、カルティエのジュエリー。ぼんやりしている遥の背後から、怜司が優しく抱きしめてくる。「遥、まだ俺のこと怒ってる?」遥は震える声で「そんなことない」と返し、目が赤くなった。怜司はそっと耳たぶにキスをして、「やっぱり遥は、俺のことを本気で怒ったりしないんだな。沙羅が子どもを産めば、全部元通りになる」遥は心の中で問いかける。本当に、元に戻れるの?沙羅という存在が、もう二人の間に大きな壁を作っている。それを乗り越えることなんて、できるはずがない。怜司の息が耳元でどんどん荒くなる。片手で沙羅の腰をつかみ、ぐっと引き寄せた。彼が、かつて沙羅にも同じことをしていたと想像した瞬間、遥の口の中に苦い感情が広がる。そっと身体をすり抜ける。「今夜のフライトだから、荷物をまとめてくる」怜司は少し物足りなさそうにしながらも、無理に引き止めようとはしない。ふと、さっき見た何もなくなった壁アルバムを思い出し、怜司は何気なく尋ねる。「遥、あの写真たち、どうしたの?」遥のまつ毛が一瞬震える。「全部、古くなったから。また新しい写真を飾るつもり」怜司は少しも疑う様子はない。「そうか。じゃあリュミエールでいっぱい撮ろうな」深夜、怜司の車が別荘の前に停まる。運転手が遥のスーツケースを持ち上げながら、どこか気まずそうな目をしている。嫌な予感が胸をよぎる。予感は当たる。助手席のドアが開くと、そこには沙羅が座っていた。沙羅はリネンのマタニティウェアを着て、頬の赤みが素朴さを際立たせている。落ち着かない様子で手をもみながら、どこか媚びるような口調で話しかけてくる。「遥さん、ごめんなさい。私がどうしても一緒に行きたくて怜司さんを困らせたの。怜司さんは悪くないから……」沙羅が口を開く前に、怜司があわてて彼女を背中にかばった。「俺が心配で沙羅を国内に残せなかったんだよ。それに、沙羅も『二人の時間を邪魔したら嫌われるかも』って気にしてた」遥は無理やり口元を持ち上げて笑う。怜司が誰かを
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第4話
車が止まり、遥は真っ先に降りて歩き出す。怜司は沙羅を気遣いながら、ゆっくりと後ろから続く。二人が並んで歩く姿は、VIPルームに向かう途中でたくさんの視線を集めている。「わあ、あの男の人、めちゃくちゃイケメンだし優しい。ずっと妊婦さんを支えてる」「奥さんは正直、そんなに美人じゃないよね。その前にいるサングラスの子のほうが、どう見てもトップレベルの美人!」「でも、いくら綺麗でも意味ないじゃん?どうせ一人ぼっちで誰かに愛されてるわけでもないし」沙羅は道行く人たちの噂話を聞いて、得意げに一瞥し、胸を張ってまるでセレブ妻のような態度をとる。その言葉は一言も漏れず、すべて遥の耳に届いていた。怜司は沙羅を座らせると、今度は遥の隣に腰かける。「遥、沙羅にあんまりきつくしないでやってくれ。田舎育ちだから、何もかもが珍しくて仕方ないんだ」遥は怜司を無視した。怜司は気まずそうに、そっと彼女に毛布をかけてやる。「痛っ!」後ろから沙羅の悲鳴が聞こえる。お腹を押さえ、青ざめた顔で席に寄りかかっている。「毛布を取りに立とうとしたら、足をひねっちゃって……すごく痛くて……」怜司は一瞬で顔色を変え、遥を押しのけて沙羅のもとに駆け寄る。怜司はしゃがんで沙羅の足首を優しくマッサージする。その手つきは、まるで壊れやすい芸術品を扱うみたいに繊細だった。遥の胸の奥に、冷たい痛みが広がる。去年、自分がブランコから落ちて手首を捻挫したとき、怜司は涙を流してずっとそばを離れなかった。その思い出がよみがえる。このとき遥はやっと気づく。愛は死なない。ただ、居場所を変えるだけなんだ。その後の十数時間、怜司はずっと沙羅のそばから離れない。「怜司、赤ちゃんに絵本読んであげて。すごく喜ぶから」「いいよ。よし、赤ちゃんに、今日は『星の王子さま』の話をしてあげよう。遠い星に、小さな王子さまが住んでいました……そして最後は、一番大切なバラのもとへ帰ることにしました」手の甲に涙が落ちて、遥はそのとき初めて、自分がもう泣きじゃくっていたことに気づく。イヤホンを耳に差し込み、睡眠薬を何錠も飲んで、無理やり眠りに落ちる。どれくらい眠ったのか、喉が焼けるように乾いて目が覚める。水を入れようと立ち上がると、後部座席から二人の会話と笑い声が聞こえてくる
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第5話
怜司の手が途中で止まる。自分が言いすぎたと、ようやく気づいた。「遥、そんなつもりじゃない。俺は、その……」遥は首を横に振り、言葉を遮る。「もうすぐ着陸するよ。お医者さんを呼んで。お願い」飛行機が着陸するとき、揺れが大きくなり、沙羅は怜司の胸にしがみついて思わず声を上げる。怜司は優しくなだめる。「俺がいるから、大丈夫だ。絶対にお前を危ない目には遭わせない」遥の胸がきゅっとなる。同じ言葉を、あの人は前にも自分に向けて言っていた。あの年、怜司は二十二歳。遥を囲む不良の群れに飛び込んできて、震えながらも両腕を広げて庇った。「遥、大丈夫だ。俺がいるから、絶対に傷つけさせない」飛行機が無事に着陸すると、専属の医師が遥の傷の手当てをしてくれた。「傷がちょっと深いから、跡が残るかもしれません」遥は小さな声で礼を言う。怜司の目に、ほんのり心配そうな色が浮かぶ。沙羅は怜司の腕にすがりつきながら甘える。「怜司さん、私、赤ちゃん産んだらお腹に目立つ傷が残っちゃうのかな?」怜司は優しく笑って言う。「世界中から最高の医者を集める。絶対に痕なんて残させない」沙羅はとろけるように微笑む。「ありがとう、怜司さん」ホテルに着くと、沙羅は怜司の袖を引いて街を見たいと言い出す。「私、ずっと田舎で育ったから。こんな綺麗な通り、初めてで」怜司はすぐに沙羅を連れてリュミエール中の高級ブランドを買いまくり、ありとあらゆるラグジュアリーな品をホテルに運び込んだ。エルメス、シャネル、ダイヤモンドジュエリー……沙羅は怜司の腕に絡みながら、無邪気を装う。「こんなに買ったら、いくらになるんだろ。私の田舎なら家が一軒建っちゃうよね」怜司は優しく沙羅を見つめて言う。「バカだな。欲しいなら何でも買ってやるよ。お金の心配なんていらない。だってお前は天城家の大功労者だからな」その言葉を言い終わるや否や、怜司はふと角に立つ遥の姿に気づいた。表情が固まり、ぎこちなく声をかける。「遥、お前も何か欲しいものがあったら選んでいいんだぞ」遥はそのまま部屋へ引き返す。その背中に、沙羅の声が響く。「怜司さん、こんな高いもの、全部遥さんにあげてください。私みたいな田舎出身の女には、もったいなさすぎて……」怜司は眉をひそめて沙羅を制する。「そんなこと言うな。
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第6話
「怜司さん、危ない!」沙羅が叫び、身を投げ出して怜司をかばう。重いシャンデリアが彼女の背に落ち、クリスタルの破片が四方に散る。怜司の顔から血の気が引く。「沙羅!」沙羅は顎を少し上げる。「無事で、よかった……」そう言って、彼の腕の中で気を失う。怜司は唇を震わせ、沙羅を抱き上げて駆け出す。「どいてくれ!」怜司の肩が遥に思い切りぶつかる――ドン!遥はそのまま床に倒れ、額をランウェイの角で打ちつけてしまう。すぐに額から血が流れ出す。倒れたまま、怜司が遠ざかっていく背中をぼんやり見つめる。妊娠している体で、人をかばうなんて。沙羅は、怜司の心から決して消えることはない。周りの人たちに助け起こされ、遥はひとりふらふらと病院へ向かう。やっと救急の入り口まで来たところで、ばったり怜司と鉢合わせる。そこへ看護師が慌てて駆け寄ってくる。「妊婦さんに輸血が必要です。でも血液型がRHマイナスで、今、血液バンクに在庫がありません。ご家族で献血できる方はいませんか?」怜司が振り返り、遥の手首をつかむ。「遥、お前はマイナスだ。沙羅を助けてくれ!」遥は信じられない思いで怜司を見つめた。彼は、遥が貧血持ちだということを誰よりも知っているはずなのに。昔、貧血がひどかった遥のために、怜司はわざわざプライベートの病院を作った。専属の医療チームまで用意して、24時間体制でサポートしてくれていた。なのに、今は――怜司は早口で言い放つ。「沙羅は俺を助けようとしてケガしたんだ。お前、そんなふうに黙ってるのは自分勝手だぞ!」言い終えるより早く、怜司は遥を採血室へと強引に押し込む。太い針が血管に刺さり、遥は思わず胸に手を当てる。心臓が見えない大きな手でぎゅっと締め付けられるようで、苦しさに息が詰まりそうになる。600ミリリットルの血が抜かれていく。怜司は沙羅の方ばかり見ていて、蒼白になった遥の顔に気づかない。採血が終わり、ようやく怜司がこちらを見る。「額、どうしたんだ?悪かった、遥。今すぐ医者に全身を診てもらって、手当してもらおう」遥は自嘲気味に口角を上げ、されるがまま検査室へ入る。すぐに医師が検査結果を持って出てくる。怜司は慌てて駆け寄り、「妻はどうですか」と問いかけた。医師は首を振って言う。「どう
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第7話
翌日、遥は用意した離婚協議書を手に、病院へ向かう。怜司は沙羅のために病院のフロアを丸ごと借り切り、安静に過ごさせていた。それだけでなく、片時も離れずベッドのそばに付き添い、沙羅が少しでも眉をひそめれば、すぐに大慌てするほどだった。「怜司さん、お腹の赤ちゃんがミルクティー飲みたいって」怜司は沙羅のお腹をそっと撫で、名残惜しそうに立ち上がる。「待ってて。すぐ買ってくる」遥は廊下の角で足を止め、彼が去るのを待ってから病室のドアを押し開ける。沙羅は遥の目に一瞬おびえの色を浮かべ、警戒するようにお腹を守る。「遥さん、いらっしゃったんですね」遥は軽く鼻で笑う。「安心して。あなたとその子どもに手を出す気はない。でも正直、あなたを見くびってた。あそこで飛び込んだのは、あなたとお腹の子の将来を勝ち取るためだったのね」沙羅は観念したように作り笑いをやめ、正直に言う。「他に方法なんてなかったんです。私は遥さんほど綺麗でも頭が良いわけでもない。怜司さんが今みたいに大事にしてくれるのも、結局お腹に天城家の子どもがいるからです。こうして必死に勝負しなきゃ、この先に希望なんてありません。もし怜司さんが昔のあなたへの情を思い出して『子どもだけ引き取る』なんてことになったら、私は田舎に戻って畑仕事するしかないんです」このとき遥は、逆に沙羅の正直さに少しだけ感心してしまう。沙羅は続ける。「世の中って女には厳しいですよね。私にあるのは、せいぜいこのお腹だけです」遥は深く息を吸い込んだ。「正直、ちょっと羨ましいよ。あなたは賭けに出ればまだ道が開ける。でも私は……私の行き場なんてどこにもない」遥は離婚協議書を持って沙羅の前へ歩み寄る。「これ、もし私から怜司に渡したら、絶対にサインなんてしない。でも、あなたなら、うまく気づかれずに署名させる方法があるはず」沙羅はしばらく無言で書類を見つめ、やがて手を伸ばして受け取った。「ありがとうございます。助かります」遥はかすかに口元を引きつらせて笑う。「私は二人を応援してるんじゃない。自分を解放したいだけ」遥がドアに向かおうとしたその時、沙羅が急に声をかけてくる。「遥さん。もし私が、将来あなたにひどいことをしたら、ごめんなさい」遥はなぜ急にそんなことを言うのか分からなかった。追及する気
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第8話
怜司は遥の顎を指でつまみ、露骨な嫌悪をにじませる。「いいか、覚えておけ。今日お前の両親に何かあったら、それはお前の意地のせいだ」そう言って、画面の向こうに合図を送る。縛られた両親を吊るしていたロープが一気に下がり、映像はぐにゃりと歪んで真っ暗になる。スピーカーから、母の張り裂ける悲鳴だけが響く。「あなた!」遥は弾かれたように立ち上がり、怜司に飛びかかる。「人殺し」次の瞬間、力が抜けて、そのまま怜司の腕の中で気を失う。遥は夢を見る。舞台は、あの日の結婚式。父がやさしい顔で、娘の手を怜司の手に重ねた。「うちの大事な娘を、頼むぞ」怜司は彼女の手を強く握り、誓った。「安心してください。誰よりも大事にします」その笑顔が、いつの間にか冷酷な色に変わる。怜司は父を、サファリ施設の檻へ突き落とす。「お父さん!」遥は叫んで、冷や汗で目を覚ます。隣の部屋から甲高い笑い声が漏れてくる。「怜司さん、間に合ってよかった。あのままだったら、どうなってたか」遥は裸足でドアを押し開ける。沙羅は髪をぼさぼさに乱し、顔色も真っ青なまま、怜司の胸にしがみついている。怜司は顔を上げて遥を見つめる。「病院の霊安室で沙羅を見つけた。見張りの人間が、お前が沙羅が寝ているすきに冷蔵庫に押し込んだって証言してる」沙羅は涙目で怜司の袖をつまむ。「怜司さん、大丈夫よ。私は平気だから、遥さんのことは責めないであげて……」怜司は沙羅の手の甲を優しく叩きながら言う。「遥、沙羅に謝れ。彼女が許してくれたら、今回のことは許してやる」遥は唇を震わせながら尋ねる。「……私の両親は?」怜司はうんざりしたように眉をひそめる。「ちゃんと無事だ。沙羅の体が丈夫で、冷蔵庫の中でも大事にならなかったから助かったんだ。もし何かあったら、お前の両親がどうなってたか、俺にも保証できないけどな」両親が無事だと知って、遥はようやく胸をなでおろした。「私じゃない、だから謝らない!」沙羅は小さくため息をついて言う。「もういいの、怜司さん。遥さんが私をどう扱っても、全部当然のことだから。謝ってほしいなんて……」そう言って、泣きそうな声で続ける。「全部私が悪いの。怜司さんの子どもなんて授からなきゃよかったし、海外までついて来なきゃよかった……」沙羅は重いお
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第9話
「彼女はどこへ?」女性警官は肩をすくめる。「わかりません」怜司の不安はますます募るが、沙羅は優しい声でなだめる。「遥さん、きっとお金で何とかして釈放してもらったんだよ。怜司さん、彼女はきっとどこかに隠れてるだけ。気持ちが落ち着いたら、また戻ってくるよ。今ごろはどっかで買い物してるかもしれないし」怜司はため息をつく。「俺が甘やかしてきたからだ。お前を気絶させて冷蔵庫に押し込むなんて。警察に連れて行かれても頭を下げようとしなかった」沙羅は口元に笑みを浮かべて言う。「それでも、怜司さんはまだ遥さんを探すつもり?」怜司は目元を緩める。「もう少しリュミエールを見て回ろう。面白い場所はまだいくらでもある」……遥が目を覚ましたのは、それから三日後だった。すぐにスマホを手に取ると、怜司からの着信やメッセージ、そして母親からの不在着信が並んでいた。ベッドのヘッドボードに寄りかかりながら、遥は怜司からのメッセージを開く。【遥、お前はいつまで駄々をこねるつもりなんだ?早くホテルに戻れ!】【遥、お前のせいで沙羅と子どもが危うく死ぬところだった。これはちょっとしたお仕置きだ。さっさと戻れば、今回のことはなかったことにしてやる】六十秒の音声メッセージがいくつも続く。遥は聞かずに全部消した。遥は母に折り返す。「お母さん、ごめん、昨日はスマホの充電が切れてて……」電話の向こうで、母は涙声で言う。「遥!お父さんが……心臓発作で亡くなったの!」世界がぐらりと傾き、視界が真っ暗になる。遥は下唇を噛み、鉄の味が広がる。「怜司なの?怜司がやったの?」母は泣きじゃくりながら、途切れ途切れに事情を語った。「もともと怜司さんの部下が私たちを解放してくれたんだけど、誰かから電話が入った途端、また獣の檻に閉じ込められて、野獣と一晩過ごすことになったの……お父さんは救急車の中で息を引き取ったのよ。遥、これから私たち、どうやって生きていけばいいの……?」遥は拳をぎゅっと握りしめ、爪が手のひらに食い込む。「お母さん、誰があの電話をかけたのか絶対に突き止める。お父さんを死なせた犯人は、絶対に許さない!」怜司はスマホの画面をじっと見つめ、遥とのメッセージを何度もスクロールしていた。我慢できずにもう一度電話をかけるが、「おかけ
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第10話
遥は今すぐ父の仇を取りたい気持ちを押さえ、無理に口角を上げる。「スマホを盗まれて、現金も持ってなくて」怜司が肩をつかんでこちらに向かせる。「それでも俺に一言連絡するべきだろ。どれだけ心配したと思ってる」遥はまぶたを伏せて憎しみを隠す。「心配かけてごめん」「バカだな、俺たちは夫婦だ。謝るなんて。悪かったのは俺だ。このところ、お前の気持ちを置いてきぼりにしてた」遥は話題をそらすように笑った。「そろそろ沙羅さんも出産の時期だよね?」「明後日には帰国して出産に備える。最高の産科医も手配したから、あとは医者に任せておけばいい。俺はこれからずっとお前に付き添うよ。二人でスイスに雪を見に行こう。オーロラも。誰にも邪魔されない、二人だけの時間だ」怜司は手を遥の細い腰に回し、身をかがめてキスしようとする。遥がどうにかかわそうと思ったその瞬間、エレベーターのドアが開き、大勢のスタッフが押し寄せてきた。「香坂沙羅様はいらっしゃいますか?こちら衣類と帽子、靴、バッグのお届けです。レシートはこちらです」怜司は不審そうにそれを受け取り、半メートルはあろうかという長いレシートを見て眉をひそめた。「彼女、そっちで2億円も使ったのか?」怜司はずっと、沙羅は田舎出身で倹約家だと思い込んでいた。高級レストランに連れて行くたび、彼女はいつもおどおどしていたのに――まさか、いざとなれば2億円も一気に使うとは。人は一度贅沢を覚えたら戻れないものだと実感する。怜司はちらりと遥の顔色を伺い、あわてて弁解した。「沙羅はもうすぐ出産だから、ストレス発散に好きなものを買わせただけなんだ。遥、あとでお前にも結婚記念日のプレゼントを買いに行こうか?」遥の胸がふっと締めつけられる。怜司が今日が二人の結婚八周年だと覚えていたことに驚く。「怜司さん、遥さんに大きなプレゼント用意しておいたよ」沙羅はドア枠にもたれてにこりと笑い、遥に黒いギフトボックスを差し出す。目を伏せてからふと見上げる、その奥に計算高い光がちらりと覗く。その瞬間、遥は箱の中身が何かをすぐに察した。――なんて皮肉なんだろう。結婚記念日が、そのまま離婚記念日になるなんて。怜司は二人のやりとりに気づき、首をかしげる。「遥、沙羅から何をもらったんだ?俺も一緒に見ていい?」
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