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第7話

Penulis: 桜庭 しおり(さくらば しおり)
「気にするわけないじゃん。俺たちの関係、知ってるんだし」

陵は立ち上がり、ナプキンを手に取ると、小夜の口元についたスープをそっと拭った。

「まったく、食いしん坊だな。いい大人が、食べ方まで子供みたいだな」

胸の奥に、どうしようもないものが込み上げてきた。

叶音は、もう彼らを見ることすら耐えられなかった。

「……ちょっと気分が悪いから、先に帰るね」

「え?どうした?赤ちゃんがまた暴れてるのか?本当に、手のかかる子だなあ」

陵は心配そうに身をかがめて、叶音の顔を覗き込んだ。

彼が自分を家まで送ってくれるのだと思った、そのとき——

「体調が悪いなら、先に帰ってていいよ。小夜が食べ終わったら、すぐに戻るから」

陵はあっさりとそう言った。

叶音はじっと彼を見つめた。その視線には、静かな自嘲が滲んでいた。

——結局、妊娠している自分よりも、空腹の早見小夜のほうが、彼にとってはずっと大事なのだ。

そのとき、突然、煙探知機の警報が鳴り響いた。

「火事だ!早く逃げろ!」

誰かが叫び、店内はたちまちパニックに陥った。

人々が出口へ殺到し、混乱の渦に包まれる。

叶音は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。反射的に、陵を探した。

そして、目にしたのは——

彼が、小夜を抱きかかえ、一目散に外へと駆け出していく姿だった。

一度も、振り返ることなく。

幸い、火災にはならなかった。原因は、煙草の煙による誤作動だった。

騒ぎが収まると、人々は次々と店内に戻ってきた。

陵と小夜も、その中にいた。

「さっきは本当に怖かったよ……でも、陵さんがそばにいてくれたから、安心したよ」

小夜は甘えるように、ぴたりと陵に寄り添った。

陵は彼女の髪を優しく撫で、微笑んだ。

「言っただろ。お前のことは、一生守るって」

その光景を目にした瞬間、叶音の胸に冷たい水が流れ込んでいった。

喉から胃へと、ひたひたと冷たさが満ちていく。

そうだ。三年前、あの日も——

小夜が海外に渡る直前、三人で山登りに行ったとき、小夜はわざと叶音にぶつかり、喧嘩をふっかけ、転んで怪我を装った。

あのときも、陵は、何も確かめずに叶音を責めた。

その後も、猿に行く手を阻まれたとき——

陵は、迷わず小夜を抱き寄せ、必死に守ろうとしていた。

今、目の前に広がる光景。それは、何も変わっていなかった。

ようやく、叶音は悟った——

これまでの何年もの間、陵は一度だって、自分を愛したことなどなかったのだ。

彼の心の中で、何よりも大切なのは、いつだって初恋のような存在、小夜だけだった。

「あっ、ごめんね、叶音さん、すっかり忘れてたよ!」

小夜は戻ってくると、わざとらしく口元を手で覆い、驚いたふりをした。

「大丈夫?どうして逃げなかったの?」

ようやく思い出したように、陵も叶音の方を向いた。

さっき、彼はただ小夜を守ることしか考えていなかった。叶音の存在など、完全に頭から抜け落ちていたのだ。

気まずそうに顔を曇らせた陵は、慌てて叶音に駆け寄り、彼女の手を取った。

そして、必死に弁解を始めた。

「叶音、ごめん……さっきは本当に、考える余裕がなかったんだ。ただ……小夜は芸能人だから、絶対に怪我させるわけにいかなかったんだ——」

「わかってる」

叶音は、静かに、彼の言葉を遮った。

そんな言い訳、もう何度も、何度も、聞いてきた。これ以上、聞く必要なんてなかった。

「叶音、怒ってないよな?」

彼女はそっと手を引き抜き、微笑みながら陵を見つめた。

「怒ってないよ」

「……君は本当に優しいな!」

陵は一瞬、戸惑ったように彼女を見た。

以前なら、彼女はきっと怒って、泣いて、彼を責めただろう。

だが今日の叶音は、何も責めず、ただ静かに「怒ってない」と言った。

「安心して。俺、誓うよ。これからはもう、絶対にお前を放っておいたりしないから」

陵が真剣な顔でそう言うのを見て、叶音は静かに目を伏せた。

——誓いというものも、こんなにも簡単に嘘になるのだ。

そのとき。

「ゴホッ、ゴホッ……」

小夜が突然、咳き込み始めた。

陵は即座に叶音の手を離し、反射的に小夜のもとへ向かった。

「小夜、大丈夫か?どこか苦しいのか?」

「たぶん……さっきラム肉を食べたから、喉が痛くて……陵さん、苦しいよ……」

甘えた声に、彼はすぐ振り返った。

「叶音、小夜の具合が悪いから、先に送っていくよ」

「うん。行ってあげて」

叶音は、静かに微笑んだ。

「ありがとうな」

陵は、そう言って、彼女の額にキスを落とすと、何の迷いもなく、小夜を支えながらその場を後にした。

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    細かな水滴が、男の身体をくまなく覆っていた。陽光に照らされ、キラキラと宝石のように輝いている。叶音は思わず瞬きをした。そして彼の顔をよく見ると——先日、SIMカードを譲ってくれたあの男性だった。声をかけようとしたその時、数人の金髪に青い瞳の女性たちが、彼に向かって駆け寄っていった。「ハーイ、イケメン!一人なの?一緒に飲まない?」「ねぇ、私たちも泳ぎたいな。一緒にどう?」奏真は、プールから上がると、さっとバスローブを羽織った。その瞬間、場の空気が少し落ち着いた。「ごめん、僕は一人じゃない」そう言うと、彼はまっすぐ叶音の方へ歩いてきた。「彼女が、僕のガールフレンドだから」「えー、そうだったの……」女性たちはがっかりした様子で散っていった。叶音は目を丸くした。そして自分を指差す。「え……私のこと?」「気にしないで。ただの盾だよ」奏真はにこりと笑った。「ううん、別に……」叶音も気まずそうに笑った。それ以上何も言わなかった。奏真は彼女の隣に腰を下ろし、ふと視線を向けた。ずっとプールサイドに座ったまま、水に入る素振りすら見せない彼女。「どうして泳がないの?」声をかけると、彼女は小さく笑って答えた。「泳げないの」叶音は北国育ちだった。そもそも水に親しむ機会が少なく、泳ぎを習うことなどなかった。こんな場所に来た今でも、せいぜい海に潜る程度で、インストラクターがそばにいないと、とても深い場所までは行けなかった。奏真はそんな彼女を見つめ、ふっと声をかけた。「泳いでみたい?」奏真はプールに入ると、手を差し伸べた。「教えてあげるよ」「えっ、いいの?」叶音の目が輝いた。「もちろん。やりたいと思ったことは、何だってできるさ」奏真は優しく彼女の手を取り、水の中へ引き入れた。水に入った瞬間、叶音は必死にバタバタともがいた。水が好きなはずなのに、体が浮かぶ感覚に恐怖を覚えた。彼女は必死に奏真にしがみついた。あまりに必死すぎて、奏真は思わず息苦しくなるほどだった。それでも彼は辛抱強く、優しく声をかけた。「大丈夫だよ。僕を信じて、少しずつ手を離してごらん。怖がらなくていい」その声に、叶音は少しだけ恐怖を手放すことができた。奏真の指導のもと、彼女はすぐに水に浮かべるよ

  • のちに煙雨すべて散りて   第23話

    「社長、今はまず会社のことを考えるべきです。どうか、冷静に……」アシスタントが必死に説得する中、陵はふらりと立ち上がった。「一度、家に帰る」テーブルに手をつきながら、陵は決意を固めた。そして、アシスタントに支えられながら、高瀬家の本邸へ向かった。高瀬家本邸。陵の父親は早くに亡くなり、家のことはほとんど母親が取り仕切っていた。陵の酔った姿を見た母親は、露骨に顔をしかめた。「どういうこと?こんなに酒臭くなって、何しに戻ってきたのよ?叶音は?一緒じゃないの?」彼女はリビングで荷造りをしていた。たくさんの栄養補助食品を箱詰めし、翌日、叶音に届けるつもりだった。表面上は素っ気なくても、叶音が妊娠したと聞いてからは、それなりに気遣うようになっていたのだ。「母さん、話がある」「何よ」陵の母親は眉をひそめた。「まさか……まさか、叶音のお腹の子に何かあったんじゃないでしょうね?あの子に何かあったら、絶対許さないわよ!元々身体が弱いってわかってたら、最初から結婚なんか認めなかったのに!」まくし立てる母親に対し、陵はずっと黙っていた。長い沈黙の後、ようやく口を開く。「叶音は流産した。子供は、もういない」陵の母親は声にならない悲鳴を上げた。「嘘でしょう!?あんなに順調だったじゃない!どうして……どうしてそんなことに!まさか、叶音がわざとそんなことをしたんじゃないでしょうね?」「俺が……」陵は唇を震わせながら言った。「俺が自分の手で……叶音を、階段から突き落としたんだ」「なに!?」陵の母親は一瞬、理解できなかった。衝撃を受け、声を震わせながら叫んだ。「あんた、自分が何を言ってるのかわかってるの?彼女のお腹には、あんたの子どもがいたのよ!たとえ喧嘩したって、どうしてそんな、階段から突き落とすなんて!」陵は苦しげに、ぽつりと言葉を続けた。「小夜のためだった。叶音が階段から落ちて、血まみれで電話してきた時……俺は、嘘だと思って、信じなかった。それで……俺が、彼女を、流産させた」陵がすべてを吐き出した瞬間、陵の母親の体は力を失い、ソファに崩れ落ちた。「あんた、正気なの?小夜が帰国した時、嫌な予感はしてたのよ。私だって、あんたと小夜のことを知らないふりしてきた。でも、どうして……どう

  • のちに煙雨すべて散りて   第22話

    「何か御用ですか?」叶音の声は、少しだけ和らいだものの、やはり冷たかった。「社長の容態があまり良くありません。お願いです、どうか一度だけ、戻ってきてもらえませんか?」電話の向こう、アシスタントの声には切実さが滲んでいた。「彼の体調なんて、私には関係ありません」叶音は淡々と告げた。「私たちはもう離婚手続きを進めているんです。今後、彼に関することは一切、私に知らせないでください」「どうか、お願いします!」アシスタントは必死だった。「社長は本当に反省しています。会社も、今や破産寸前です。今日は取引先に土下座して頼み込んだのに、二本のウイスキーを無理やり飲まされ、頭も打って、血が止まらないんです。それでも社長は、ずっとあなたの名前を呼び続けています。お願いです、一度だけでも、顔を見せてあげてください」だが、叶音の心は微動だにしなかった。陵が受けた痛みなど、彼女が失ったものに比べれば、あまりにも軽い。あの日、あの子を失った痛みを、彼は一生かけても償えない。「繰り返しますが、彼のことは私には関係ありません。これ以上、連絡してこないで」言い切ろうとしたその時。突然、電話の向こうから別の声が聞こえた。「叶音……叶音なのか……?俺だよ、陵だよ」彼女が憎んでやまない、あの声だった。「叶音、会いたい……迎えに来てくれ。酔っぱらった時は、いつも君が迎えに来てくれたよな。赤ちゃんにも会いたい……帰ってきて……絶対に君を大事にするから」必死で何かを訴え続ける彼の声を、叶音は一秒たりとも聞きたくなかった。彼女は、無言で電話を切った。そして、ためらいなくアシスタントの番号も着信拒否リストに追加した。こうしている間にも、彼に捕まる危険がある。このままではいけない。完全に、彼の世界から消えなければ。叶音はすぐにSIMカードを取り出し、ごみ箱に投げ捨てた。だが、連絡手段がなくなるのは不便だった。新しいSIMカードが必要だ。急いでフロントへ向かい、スタッフに尋ねた。「すみません、この近くでSIMカードを作れる場所はありますか?」「申し訳ありません、このエリアでは取り扱いがないんです」「そうですか」叶音は小さくため息をついた。モルディブに来る前に、新しいカードを作っておくべきだったと悔やんだ。ぼんやりと踵

  • のちに煙雨すべて散りて   第21話

    「いいぞ、もっとやれ!」藤井会長は手を叩いて喜んだ。「高瀬社長、聞いたぞ。君、大スターを散々傷つけたらしいじゃないか!これくらいビンタされるなんて、むしろ甘いくらいだ!」陵は力なくうなずいた。「はい、すべて私が悪いんです。どうか、許してください」「許す?いいとも!」小夜はにやりと笑った。「ビルの屋上から飛び降りてみせたら、すぐに許してやるよ!」小夜が自分のために飛び降りようとした。今度は、陵がその苦しみを味わう番だ——そういうことだった。「小夜……」「黙れ!二度とそんな呼び方するなって言ったでしょう!」小夜はまた一発、陵の頬を叩いた。そしてテーブルの上にあったボトルを掴み、彼の口元へ押し付ける。「飲め!取引したいんだろう?なら、全部飲み干しなさいよ!」小夜は容赦なく酒を流し込んだ。陵は抵抗せず、ただ黙って酒を喉に流し込む。飲み続け、酔いが回ったころ。小夜は陵を乱暴に突き飛ばした。よろめきながら床に倒れた陵を、小夜は無慈悲に蹴りつけた。「小夜、もういいか?これで……取引してもらえるか?」陵はほとんど意識を失いかけながらも、今日ここに来た目的だけは忘れていなかった。小夜は深く息を吐いた。怒りは多少鎮まったが、胸の奥にはまだ憎しみが燻っていた。ちょうどその時、藤井会長が間に入ろうとしたが、陵が突然うわごとのように呟いた。「叶音、会いたい。迎えに来て……」「高瀬陵!」小夜の怒りは一気に爆発した。テーブルにあったビール瓶を掴み、思い切り陵の頭に叩きつけた。「ふざけるな!たとえ今ここで飛び降りたって、取引なんかしてやらない!お前の会社なんか、潰れてしまえ!」吐き捨てるように言い放ち、小夜は怒りに任せて店を後にした。ビール瓶は見事に陵の額を割った。血がとろとろと流れ落ちる。陵は朦朧としながら、自分の額に手をやった。「叶音、血が出てるよ……薬箱、持ってきて……」ずっと外で待っていたアシスタントが、慌てて駆け寄った。小夜と取り巻きたちが去るのを見計らって、店に飛び込んだのだ。血まみれで、泥酔した陵の姿を見て、アシスタントは目を見開いた。「社長、大丈夫ですか!?」「叶音、どこ?」陵はアシスタントの袖を掴み、泣きながら叫んだ。「叶音に会いたい!迎えに来てって、言ってよ!」「

  • のちに煙雨すべて散りて   第20話

    「高瀬社長、おいでになったんですね?」ソファにふんぞり返った男が、にやりと笑いながら陵を見上げた。見覚えのある顔だった。 この男——藤井会長だった。「藤井会長……」陵は細めた目で小夜を見た。一体どうして、彼女がこんな姿に——なぜ、こんなふうに男に触れられるままなのか。「遅かったな。ペナルティとして三杯、一気だ」藤井会長は、テーブルに並んだ酒を指差した。陵は時計を見た。決して遅れてはいない。むしろ、指定時間より早く到着していた。「どうした?困っているんじゃないのか?頼み事をする立場なら、これくらい飲んで当然だろ?」隣の席では、白川会長も女を抱きかかえ、下品に笑っていた。その女も、小夜と同じ芸能界出身者だった。——以前、同じ時期にデビューした女優だ。腐った光景に、陵は怒りを抑えきれず、小夜の手を掴んだ。「何してるんだ、小夜!一緒に帰るぞ!」「放して!」小夜は陵の手を振り払った。「何を勘違いしてるの?今日あなたがここに来た理由、わかってる?藤井会長に頼みに来たんでしょ?あなたの会社、今めちゃくちゃなんだから!」小夜は冷たく笑った。「財務部長が横領して、建設現場で事故も起きた。取引先も離れ始めてる。焦るよね、当然」その通りだった。焦らないわけがない。陵の父親が一代で築き上げた高瀬グループ。自分の代で潰すわけにはいかなかった。「藤井会長、どうすれば契約を継続してもらえるんですか?」「今日の主導権は、俺たちじゃない」藤井会長はにやにやと小夜を見た。「すべては小夜ちゃん次第だ」そう言うと、藤井会長は油っぽい顔を小夜に近づけ、平然とキスをした。小夜は拒まなかった。むしろ、甘ったるい声で甘えた。「藤井会長、ほんとに優しいのね」そして、彼女の方からも藤井会長にキスを返した。陵は、拳を握り締めながらその光景を見つめた。「小夜」「小夜なんて呼ばないで」小夜は無表情で言い放った。「早見さん、って呼びなさい」そして、ソファに優雅に腰を下ろすと、冷たく告げた。「取引したいなら簡単よ。そこにあるウイスキー、二本とも飲み干して」陵は顔をしかめた。ボトル二本を飲み干すなんて、命に関わる。「どうしたの?怖じ気づいた?父親が命を懸けて守った会社を、自分の手で潰す気?」小

  • のちに煙雨すべて散りて   第19話

    陵は休む間もなく飛行機に乗り、急ぎ戻った。帰国後すぐに、アシスタントが各不動産業界の重鎮たちとの面会をセッティングしようと動いた。「どうだ?藤井会長や白川会長には会えるか?」「申し訳ありません、社長」アシスタントは困った顔で答えた。「どちらも契約解除を強く主張していて、面会自体、断られました」「どうしてだ?」陵には心当たりがなかった。これまでの取引は順調だったはず。普通なら、こんな急な態度の変化はあり得ない。何か、自分の知らない大きな問題が起きたとしか思えなかった。「それに……」アシスタントは言い淀んだ。「財務部長が公金横領で逮捕されました。さらに、いくつかの物件で労働者が自殺未遂を起こし、大きな社会問題になっています」陵の表情が一気に険しくなった。「分かった」「それと、社長」アシスタントはさらに声を潜めた。「早見さんが、社長のオフィスでお待ちです」「早見小夜?」その名を聞いた瞬間、陵の顔はさらに曇った。「会いたくない。忙しいって伝えてくれ」「でも、彼女、この数日間、毎日のように来てたんです。一度だけでも会った方がいいかと……」「わかった」ここではっきりさせなければ、彼女も諦めないだろう。陵は重い足取りでオフィスのドアを開けた。ソファに座っていた小夜が、だるそうに顔を上げた。「陵さん、帰ってきたんだ?」「用件は何だ?」陵は彼女に目もくれず、デスクへ向かい、書類に目を通し始めた。会社は今、火の車だ。彼女に構っている暇などない。「もう十分言ったはずだ。俺たちの間には何も残っていない。早く帰れ」「本当に冷たいのね」小夜は陵の正面に立ち、冷たい目で見下ろした。陵が顔を上げて彼女を見た瞬間、違和感を覚えた。小夜が、変わっていた。以前は清楚なイメージで売っていたはずだ。いつもナチュラルメイクだった彼女が、今日は真っ赤なリップに、派手な巻き髪。服装も、肩を大胆に露出したスリット入りのロングドレス。「小夜、どうしたんだ、その格好は」「気に入らない?」小夜は笑った。「陵さん、こういうの、好きじゃない?」彼女は陵の背後に回り、そっと彼の首に手を回した。赤い唇が陵の耳元に触れる。「あなたが望むなら、このオフィスでだって、私は構わないよ」「小夜!」陵は怒り

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