Short
今さら愛されても、もう遅い

今さら愛されても、もう遅い

作家:  刹那忍完了
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
12チャプター
339ビュー
読む
本棚に追加

共有:  

報告
あらすじ
カタログ
コードをスキャンしてアプリで読む

概要

男性視点

切ない恋

ドロドロ展開

ひいき/自己中

冷酷

犯罪

救済

家族修羅場

俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。 けれど、祖父が病で息を引き取ろうとしていたとき、汐音は手を差し伸べてくれなかった。 きっかけは、時沢家の養子が彼女にそう吹き込んだことだった。 この機会に俺の尖った部分を削ぎ落として、少しは打たれ強い人間にしてやればいい、と。 祖父は誰にも助けを求められないまま息を引き取った。 俺は彼女の望みどおり、尖っていた部分を削ぎ落とされ、打たれ強くなり、もう彼女にまとわりつくこともなくなった。 もちろん、彼女を愛することもなくなった。

もっと見る

第1話

第1話

俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。

けれど、祖父が病で息を引き取ろうとしていたとき、汐音は手を差し伸べてくれなかった。

きっかけは、時沢家の養子が彼女にそう吹き込んだことだった。

この機会に俺の尖った部分を削ぎ落として、少しは打たれ強い人間にしてやればいい、と。

祖父は誰にも助けを求められないまま息を引き取った。

俺は彼女の望みどおり、尖っていた部分を削ぎ落とされ、打たれ強くなり、もう彼女にまとわりつくこともなくなった。

もちろん、彼女を愛することもなくなった。

……

足を引きずりながら市街地へ戻ったとき、俺は界隈の笑いものになっていた。

みんな好き勝手に噂していた。

時沢家が連れ戻した、幼い頃から行方知れずだった御曹司は、大した能もないくせに気位だけは高く、すでに会社に入っている養子と公然と揉め、両親まで脅したあげく、最後は一文無しで家を飛び出した。

しかも、数万円すら人に借りるしかなかったのだ、と。

以前俺を辱めた遊び人たちは、どこから俺の消息を聞きつけたのか、堂々と仲間を引き連れて市街地に集まり、隠す気もなくスマホを取り出して俺に向けた。

俺は顔を隠して尊厳を守ろうと、手を上げることすらしなかった。そもそも俺に残っていた尊厳など、金貸しどもに少しずつ踏みにじられ、とっくに消え失せていたからだ。

地面に跪かされ、自分で自分の頬を叩かされたあの時から、俺はもう、こんなくだらない体面に心を動かされなくなっていた。

昔の、どこへ行っても問題を起こし、ハリネズミのように全身に棘をまとって、心の奥の劣等感を隠していた時沢晴人は、もう死んだ。

彼を殺したのは、時沢家であり、汐音だった。

ふいに、数台の黒塗りの社用車が、周囲の目など気にも留めない様子で堂々と乗りつけてきた。あの遊び人たちはナンバーを見るなり、すぐに四方へ散っていった。

先頭の一台は派手さこそなかったが、俺はその中に誰が乗っているのか知っていた。

陸崎グループを取り仕切る陸崎汐音。俺の婚約者でもある女だ。

俺はその車を見つめ、無意識に足を止めた。それから踵を返し、別の道へ回ろうとした。

ドアが開き、スーツ姿の女性が降りてきた。彼女は俺の前まで来ると、俺の顔と身なりを見て、一瞬だけ驚いたようだった。

自分でも、今の俺がひどい有様なのはわかっている。

身につけているのは、祖父の葬儀のときに着ていた白いシャツのままだった。

しわだらけで、くっきりとした靴跡までいくつも残っている。

顔は赤く腫れていた。前日に頬を張られた跡が、まだ引いていないのだ。

爪の間には黒い泥が詰まり、指先はかすかに震えている。

片足にはゴミ捨て場で拾った靴を履き、もう片方の足は裸足のまま、寒さで真っ赤になっていた。

汐音の秘書は目を伏せ、瞳に浮かんだ驚きを隠すと、丁寧に乗車を促した。

「時沢様、陸崎社長がお呼びです」

俺はうつむいたまま後ずさった。声はひどくかすれていて、口を開くだけで喉が焼けるように痛んだ。

「結構です。時沢家に戻ります」

そう言って、俺は彼女を避けて立ち去ろうとした。

秘書は目を見開いた。

俺にとって、汐音は救いそのものだった。

五年間、俺はずっと彼女の背中を追いかけてきた。会うたびに不機嫌な顔をされても、どうにか理由を作っては、彼女に近づこうとしていた。

そんな俺が今では、彼女を恐ろしいもののように避けている。

俺のしつこさを見慣れていた秘書が驚くのも、無理はなかった。

「晴人!」

冷ややかな声に、俺は反射的に足を止めた。

秘書は俺が唇をきつく結んでいるのを見ると、少しためらってから、それでも乗車を促した。

俺はできるだけ背筋を伸ばし、左脚の違和感に耐えながら、秘書の言いたげな視線を無視して、ゆっくりと車に乗り込んだ。

中には汐音が座っていた。

彼女は書類から顔を上げ、見る影もない俺の姿を目にした。

けれど心配するどころか、眉をきつく寄せ、不快そうに言い放った。

「その格好、何のつもり?みっともないにもほどがあるわ。恥ずかしいと思わないの」

その鋭い言葉を聞いても、俺の心はいつものように痛まなかった。彼女が俺の傷に気づいてくれないことに、落胆もしなかった。

ただうつむいたまま、低い声で答えた。

もっと見る
次へ
ダウンロード

最新チャプター

続きを読む
コメントはありません
12 チャプター
第1話
俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。けれど、祖父が病で息を引き取ろうとしていたとき、汐音は手を差し伸べてくれなかった。きっかけは、時沢家の養子が彼女にそう吹き込んだことだった。この機会に俺の尖った部分を削ぎ落として、少しは打たれ強い人間にしてやればいい、と。祖父は誰にも助けを求められないまま息を引き取った。俺は彼女の望みどおり、尖っていた部分を削ぎ落とされ、打たれ強くなり、もう彼女にまとわりつくこともなくなった。もちろん、彼女を愛することもなくなった。……足を引きずりながら市街地へ戻ったとき、俺は界隈の笑いものになっていた。みんな好き勝手に噂していた。時沢家が連れ戻した、幼い頃から行方知れずだった御曹司は、大した能もないくせに気位だけは高く、すでに会社に入っている養子と公然と揉め、両親まで脅したあげく、最後は一文無しで家を飛び出した。しかも、数万円すら人に借りるしかなかったのだ、と。以前俺を辱めた遊び人たちは、どこから俺の消息を聞きつけたのか、堂々と仲間を引き連れて市街地に集まり、隠す気もなくスマホを取り出して俺に向けた。俺は顔を隠して尊厳を守ろうと、手を上げることすらしなかった。そもそも俺に残っていた尊厳など、金貸しどもに少しずつ踏みにじられ、とっくに消え失せていたからだ。地面に跪かされ、自分で自分の頬を叩かされたあの時から、俺はもう、こんなくだらない体面に心を動かされなくなっていた。昔の、どこへ行っても問題を起こし、ハリネズミのように全身に棘をまとって、心の奥の劣等感を隠していた時沢晴人は、もう死んだ。彼を殺したのは、時沢家であり、汐音だった。ふいに、数台の黒塗りの社用車が、周囲の目など気にも留めない様子で堂々と乗りつけてきた。あの遊び人たちはナンバーを見るなり、すぐに四方へ散っていった。先頭の一台は派手さこそなかったが、俺はその中に誰が乗っているのか知っていた。陸崎グループを取り仕切る陸崎汐音。俺の婚約者でもある女だ。俺はその車を見つめ、無意識に足を止めた。それから踵を返し、別の道へ回ろうとした。ドアが開き、スーツ姿の女性が降りてきた。彼女は俺の前まで来ると、俺の顔と身なりを見て、一瞬だけ驚いたよ
続きを読む
第2話
「ごめん」けれど、俺だって望んでこんな姿になったわけじゃない。葬儀の費用が足りなくて、だまされるようにして闇金に手を出すことも、金貸しどもに地面へ叩きつけられて殴る蹴るの暴行を受けることも、自分で自分の頬を叩かされることも、犬みたいに壁際につながれることも、床に這いつくばって舌で飯をなめろと強いられることも、望んでいなかった。それでも、祖父の遺体が墓から掘り起こされ、死後も安眠を奪われるというそのことだけは、どうしても受け入れられなかった。彼女の手がふと止まった。俺を一瞥した彼女の声には、なぜか少しだけ満足げな響きがあった。「悠真の言ったとおりね。少し苦労して、少し痛い目を見れば、あなたもようやく性根が変わる。少しは打たれ強くなったじゃない」俺が時沢家に引き取られるまで、時沢悠真(ときざわ ゆうま)はずっと俺の代わりにあの家で暮らしていた。そして時沢家の本当の息子である俺は、悠真と血のつながった祖父と、ずっと二人で支え合って生きてきた。頭の回転が鈍っていた俺は、なぜ汐音がそこで悠真の名前を出したのか、深く考えることができなかった。汐音はきっと、俺がようやく自分の思いどおりになったと思ったのだろう。褒美でもくれてやるとでもいうように、俺へ向かって手招きした。「もっと近くに座りなさい」俺は汐音からいちばん離れた席に座っていた。車に乗ってから、一度も彼女を見ていない。ただずっと、足元のマットを見つめていた。犬でも呼ぶようなその口調に、俺は強い拒絶感を覚えた。けれど、いつまで経っても動けなかった。汐音は俺がいつまでも動かないのを見て、声を低くした。「こっちに来なさいと言っているの」俺は返事をしなかった。背筋をぴんと張りつめたまま、崩れかけた自分の尊厳を、どうにかそれだけで保とうとしていた。その尊厳など、闇金どもに殴られ、命乞いをしたあの瞬間に、とっくに跡形もなく消えていたというのに。俺が何も言わなかったせいで、車内はしばらく沈黙に包まれた。汐音はその空気に慣れていなかったのか、それとも待たされることに苛立ったのか、俺のほうへ手を伸ばしてきた。その手が俺の腕をつかみかけた瞬間、俺は全身を強ばらせた。けれど、俺の座っている場所は窓際で、逃げ場などなかった。彼女が俺に触れた瞬間、かすかな香水の匂い
続きを読む
第3話
その記憶がよみがえった瞬間、息が詰まった。汐音に触れられた腕にびっしりと鳥肌が立ち、まるで蛇に絡みつかれたように、胸の奥がぞくぞくと冷えていった。めまいがする。気持ち悪い。吐きそうだ。俺は反射的に汐音の手を振り払い、腰をかがめた。片手で前の座席をつかみ、もう片方の手で口元を押さえながら、車内で激しくえずいた。ここ数日、ろくに食べていなかった。だから、吐けるものなど何もない。車内に、かすかな酸っぱい匂いが漂った。汐音はティッシュで鼻を覆い、嫌悪を隠そうともせず俺の名を呼んだ。「晴人!」耳には何の音も入ってこなかった。俺はそのままえずき続け、吐き気が収まるまで止められなかった。汐音は何も言わず、ただ冷ややかに俺を見ていた。俺は彼女のことをよく知っている。これはもう、怒りが爆発する寸前の顔だった。俺はこれまでのように、ふざけてごまかそうとはしなかった。自分にはもう、騒ぐだけの余裕も資格もないと、痛いほどわかっていたからだ。弱りきった体は、かすかに震えていた。俺はうつむいたまま、前の座席の背もたれをつかむ手に、知らず知らず力を込めていた。「ごめん……時沢家に着いたら、車は俺が洗う。ここで降ろしてくれたら、歩いて行く。マットを汚してしまって、本当に悪かった」汐音は動きを止め、疑わしげに俺を一瞥した。張り詰めた沈黙がしばらく続いたあと、彼女は突然手を伸ばし、俺の額に触れようとした。だんだん近づいてくるその手を見て、全身がこわばった。避けるべきではないとわかっていた。かつての俺が何よりも望んでいたのは、汐音が俺の思いに少しでも応えてくれることだったのだから。ただ、彼女は強引で、俺のことをひどく見下していた。少しでも彼女を不快にさせると、彼女は俺を完膚なきまでにこき下ろし、俺をひどく惨めな気持ちにさせた。俺は座席の上で身を硬くしたまま、何度も自分に言い聞かせた。避けるな。彼女を怒らせるな。けれど、彼女の冷たい指先が俺に触れた瞬間、蛇に絡みつかれたようなあの吐き気がまた込み上げてきた。俺は耐えきれず、顔をそむけて彼女の手を避けた。汐音の手は宙に止まったまま、ぴたりと動かなくなった。彼女の目が俺に向いたとき、その中に怒りと苛立ちが浮かんでいるのがわかった。また、頭の奥がぐらりと揺れた。俺は小さく頭を
続きを読む
第4話
あれは、まさに悪夢のような時間だった。清潔な服に着替え、傷の手当ても済ませてから、俺はようやく一階へ下りた。ちょうど食事の時間だった。母は俺を見るなり、少し驚いたような顔をした。それから俺に手招きし、わずかに責めるような口調で言った。「帰ってくる気はあったのね。あんなに長く家出しておいて、電話の一本も寄こさないなんて」急に、どうしようもなく悔しさが込み上げてきた。胸の中に溜まっていたものを吐き出したかった。けれど、口を開いて最初の一音を発したところで、すぐに遮られた。「母さん、山下夫人とアフタヌーンティーの約束があるだろ。今度こそ遅れないようにしないと」悠真が、仕立てのいいスーツを着て玄関から入ってきた。口調はどこまでも何気ないものだった。母の注意はすぐに彼へ向き、視線も俺から離れた。「ああ、そうだったわ。危うく忘れるところだった。悠真が言ってくれて助かったわ」悠真はソファに腰を下ろし、俺に向かってかすかに口角を上げた。「晴人、よく帰ってくる気になったね。これからは父さんと母さんに意地を張るのはやめなよ。そろそろ大人になって、自立することも覚えないと」その言葉につられるように、全員の視線が俺へ集まった。悠真の嘲りに満ちた目とぶつかった瞬間、心臓が強く跳ねた。それでも俺は、昔のようにかっとなって怒鳴ったりはしなかった。母は悠真の言葉を否定しなかった。ただ彼を軽く見やると、すぐに心配そうな声を上げた。「悠真、最近、ちゃんと食べていないんじゃないの?ほら、また痩せたわ。どんなに忙しくても、体のほうが仕事より大事よ。それに、会社にはお父さんだっているんだから」その言葉を聞きながら、俺は黙って、手を背中へ隠した。俺はこんなにも母の近くにいるのに、母は青黒く腫れた俺の手の甲にも、不自然な歩き方にも気づかなかった。なのに、悠真のこととなると、ちゃんと食事を取っているかどうかまで細かく察するのだ。悠真は笑った。「晴人だけで十分、父さんと母さんに心配をかけているからね。俺くらいはしっかりしないと」母は何か言いたげに俺を見たあと、ため息をついた。食卓では、母がしきりに俺の皿へ料理を取り分けてくれた。俺はこれまでとは違い、目を伏せて素直に礼を言った。母は安心するどころか、かえって心配そうにため息をつい
続きを読む
第5話
彼女はハイヒール姿で、そこに立っていた。気の強さがにじむ、それでいて人を惹きつける姿だった。以前の俺なら、とっくに自分から近づいていただろう。けれど今の俺には、もう胸が高鳴るような感覚はなかった。彼女は俺の異変に気づいていなかった。「晴人、変わったわね」汐音が一歩近づくたび、ハイヒールの音がこつこつと廊下に響いた。俺は目を伏せたまま、彼女を見なかった。聞こえてくるのは、まるで機嫌のいい飼い主が褒美をちらつかせるような、上から目線の人の声だけだった。「あの腕時計を気に入っていたのは知っているわ。でも、この半月、ずいぶん好き勝手してくれたわね。だから罰として、誕生日プレゼントはなし。ただ、今日はおとなしくしていたから、そこは褒めてあげる。あまり無茶なことでなければ、ひとつだけ願いを聞いてあげてもいいわ」俺は顔を上げ、彼女の顔を見た。そこに、昔の記憶の中にある面影を少しでも探そうとした。汐音と初めて会ったのは、とあるパーティーだった。あの遊び人たちは、家の人間から、田舎くさい俺に取り入るよう言い含められていた。けれど俺の服装を見て、彼らはその場で俺を笑いものにした。あの頃の俺はひどく卑屈で、言い返し方もわからず、大きな声で話すことさえできなかった。そんな俺を助けてくれたのが汐音だった。彼女はそのうちの一人の頬を平手で打ち、上から見下ろすようにして、ろくでもない連中だと叱りつけた。彼らは気まずそうにその場を去っていった。そのとき、彼女は眉をひそめて俺に言った。「あなたは時沢家の人間でしょう。おどおどする必要なんてないわ。相手があなたに取り入る立場なのよ。もっと堂々としていなさい」「で、でも……嫌われたらって思うと、怖くて」「嫌われる?覚えておきなさい。あなたが時沢の人間である限り、たとえ相手の頬を張ったとしても、向こうは『お見事です』と持ち上げるしかないの。わかった?」俺はその言葉を五年以上も覚えていた。けれどその後、汐音は大勢の前で俺を叱りつけた。俺のことを、少し触れただけで爆発する地雷みたいな人間だと言った。でも、先に俺を困らせたのは、あいつらだったのに。汐音の顔には、もう昔のように俺を守ろうとする優しさは少しも残っていなかった。彼女は俺を急かした。「決まった?欲をかきすぎな
続きを読む
第6話
深夜まで待っていると、父がようやく会社から帰ってきた。俺はスーツケースを引いて、父のもとへ向かった。スーツケースの中には、古びた安物の服が数枚入っているだけだった。時沢家に見つけられる前日、祖父が俺に詰めてくれたものだ。俺は涙を拭い、ファスナーを閉めて、スーツケースを玄関に置いた。それから父の書斎へ向かった。父の返事を待ってから、俺はようやくドアノブを回して中に入った。「お父さん」俺は目を伏せ、おとなしく脇に立った。父はしばらく、俺を頭の先から足元まで見つめていた。露出している肌が傷だらけなのを見て、唇を震わせた。「晴人、父さんは全部知っている。私たちが悪かった。あのときお前のカードを取り上げたりしなければ、お前はこんなことには……」俺は、あの悪夢のような出来事をもう二度と口にされたくなかった。初めて感情を抑えきれず、父の言葉を遮った。「お父さん、俺、家を出たい」父は力なく椅子の背もたれにもたれた。「晴人、やはり私たちを恨んでいるんだな。それも当然だ。お前を守れなかったのは、全部私たちのせいだから。ただ、お母さんはお前が出ていくのを、きっとつらがる」俺は目を伏せ、自嘲するように言った。「家には悠真がいるでしょう」「では、汐音は?お前は汐音のことがいちばん好きだったじゃないか。それでも離れられるのか」俺はしばらく黙った。確かに、俺が汐音を好きだということは、誰もが知っていた。彼女が一度俺を助けてくれたから、俺はどうしても彼女の後ろ姿を追わずにはいられなかった。周囲の連中は、俺を汐音に尻尾を振る犬だの、どこへでもついて回る金魚のフンだのと陰で笑っていた。けれど、あいつらは知らない。悔しさのあまり悠真の真似をしようとして、かえって会社に数億円もの損失を出してしまったときも。それでも俺のそばに立ち、「商売には損をすることもあれば、得をすることもある」と、迷いなく優しく言ってくれたのは汐音だけだった。誰かに嘲られ、俺が反射的に殴り返したときも、そばにいて、よくやったと嬉しそうに言ってくれたのは汐音だけだった。俺たちは一緒に食事へ行った。彼女は俺が贈った花を受け取ってくれたし、俺の誕生日も覚えていてくれた。けれど、悠真が海外から戻ってきてから、彼女は変わった。薔薇の棘は、
続きを読む
第7話
俺は郊外に部屋を借りた。繁華街から離れていて、気持ちを落ち着けるにはちょうどよかった。余計なことを考えずに済む場所だった。デリバリーを頼み、玄関先に置いてもらうよう伝えた。配達員の足音が少しずつ遠ざかっていくのを聞いて、俺は大きく息を吐き、外に出て受け取ろうとした。けれど腰をかがめた瞬間、脚に鋭い痛みが走った。冷や汗が噴き出し、その場に崩れるように座り込んでしまった。痛みをこらえながらドアに手をついて立ち上がろうとしたとき、目の前に白い手が差し出された。細くて、ひと目で女の子のものだとわかる手だった。俺は少しためらったが、その手は取らなかった。痛みが少し引くのを待って、自分の力で立ち上がる。その手は、そっと引っ込められた。顔を上げる勇気がなく、俺は小さな声で礼だけを言い、デリバリーの袋を持って部屋に戻ろうとした。「藤崎晴人(ふじさき はると)?」澄んだ女の子の声が、かつての俺の名を呼んだ。俺は反射的に目を上げ、彼女と目が合った。不意に目が合った瞬間、懐かしさや温かさより先に、恐怖が込み上げた。まるで怯えきった小動物のように、反射的に身を隠したくなった。金貸しどもに壁際につながれていたとき、少しでも連中のほうに目を向けると、すぐに怒鳴り声が飛んできた。次の瞬間には、棒が容赦なく振り下ろされる。俺はただ、必死に身をよじって避けるしかなかった。それを見て、周りの連中は腹を抱えて笑った。俺に向けられる視線は、芸を仕込まれた猿でも眺めるような、下卑たものだった。最初のうちは、屈辱も惨めさも感じていた。けれど次第に、そんなことを考える余裕すらなくなっていった。少しでも殴られずに済めば、それでよかった。尊厳とは何だ。それがあれば、俺は逃げ出せるのか。逃げられない。だから俺は、それを捨てた。彼女は俺の異変に気づいたようだった。声は落ち着いていて、穏やかだった。「そのことは考えないで。深呼吸して」彼女の声に合わせて何度か深呼吸をすると、ようやく心が落ち着いてきた。ただ、体はまだ少し震えていた。「私のこと、覚えてない?」目の前に立つ彼女を見ながら、俺は必死に記憶を探った。いつまで経っても俺が名前を呼べずにいると、彼女は目元をやわらかく細めた。その笑顔は、昇りたての朝日のように、俺
続きを読む
第8話
陽菜は、納得したようにうなずいた。「ねえ、外を案内してあげようか?私、ここに半年住んでるから、けっこう詳しいんだ」俺は少し戸惑った。「どこへ?」陽菜は昔と同じように、つま先立ちになって俺の額を軽く弾いた。「もちろん、家具を買いに行くの。それに、外に出なきゃ、病気だってよくならないでしょ?でも安心して。話すのは私がやるから、あなたは私のそばにいるだけでいいよ。焦らなくていいからね」不思議だった。彼女に触れられても、少しも嫌だと思わなかった。まるで高校の頃に戻ったみたいだった。俺が無理やり千メートル走に出されたとき、大声で応援してくれたのは彼女だけだった。俺がゴールを越えたとき、駆け寄って支えてくれたのも彼女だけだった。見下すことも、嫌がることもなく、ただ温かかった。俺は顔を上げ、まっすぐで優しい彼女の目を見た。そして、何かに導かれるようにうなずいていた。実は、俺は陽菜に片思いしていたことがある。あの頃の同級生たちは、思い返しても、子どもだからといって純粋とは言えなかった。相手を見て態度を変えるのが当たり前だった。俺は貧しく、祖父が小さく仕立て直してくれた古い服を着ていたせいで、年寄りみたいだと笑われ、仲間外れにされた。身なりの整った彼らの中で、俺だけが浮いていた。女子たちでさえ、俺と友達になろうとはしなかった。陽菜だけが、俺を輪に入れてくれた。休み時間に俺と話してくれて、俺がひとりぼっちに見えないようにしてくれた。俺が同級生に金を盗んだと濡れ衣を着せられたときも、立ち上がって俺をかばってくれたのは彼女だけだった。本当は、彼女には友達がたくさんいた。それでも、傷つきやすく卑屈だった俺の心を気遣って、俺を置き去りにはしなかった。俺にとって彼女は、学生時代の俺を照らしてくれた、たったひとつの小さな太陽だった。あんなに温かい彼女を、好きにならないわけがなかった。けれど、新学期が始まったとき、彼女は俺に何も言わずに転校してしまった。そして俺たちは、過去のことには示し合わせたように触れなかった。陽菜と数日を過ごすうちに、俺は少しずつ心の警戒を解いていった。果物屋の店主と、二、三言なら話せるようにまでなった。そして俺たちは、以前のことには示し合わせたように触れなかった。俺がソファに座ってテレビを
続きを読む
第9話
陽菜はしばらく、いい気味だと言わんばかりに俺をからかっていたが、それでも慌てて上着を羽織り、胃薬を買いに出ていった。けたたましくインターホンが鳴ったとき、俺は陽菜がスマホを忘れたのだと思った。彼女はいつも、そうやってうっかりする。「そんなに慌てて出ていくから、スマホ忘れたんだろ」俺の声は、開けかけたドアと同じように、そこでぴたりと止まった。ドアの外にいたのは陽菜ではなく、いかにも育ちのいい御曹司のような格好をした悠真だった。彼は俺を値踏みするように見た。手には、パンの入った袋をいくつか提げていた。ろくでもない用件で来たのだと、すぐにわかった。俺は眉をひそめ、冷たく問いただした。「どうしてここがわかった」悠真は、馬鹿を見るような目で俺を見た。「まさか知らなかったの?お前が住んでいるこの建物、陸崎家の持ち物だよ。それにお前の住所は、もちろん汐音が教えてくれた」俺はドアノブを強く握りしめた。指の関節が白くなるほど、力がこもっていた。汐音。また汐音だ。何年も彼女にしがみついてきた、そのつけが回ってきたのだろうか。逃げようとすればするほど、結局彼女から逃れられなくなる。悠真はドアを押さえ、手にした袋を軽く揺らした。俺を見る目は、まるで笑いものを眺めているようだった。「どうしてそんなに歓迎してくれないの?お前の大好きなパンを持ってきてやったのに」ドアを閉めようとしたが、びくともしなかった。俺は彼を睨み、歯を食いしばって答えた。「勘違いしているようだな。俺はパンなんか食べない」「そんなはずないでしょ?」悠真は片眉を上げ、わざとらしく驚いた顔をした。それから俺の耳元に顔を寄せ、得意げに囁いた。「前は、カビの生えたパンにだって、必死に頭を下げて食いついてたじゃないか」俺は大きく目を見開いた。あの耐えがたい記憶を再び引きずり出され、歯ががちがちと鳴った。「知ってたのか」悠真は、俺が悪夢に落ちていく様子を楽しむように、満足げな笑みを浮かべた。その声は、俺には悪魔の囁きのように聞こえた。「知ってるよ。お前が四つん這いになって犬みたいに鳴いて、カビの生えたパンひとつを恵んでもらったことも、頭を便器に押し込まれて、あいつらに面白がられていたこともね」無理やり、あの暗い記憶がよみがえった。
続きを読む
第10話
こいつに、そんな資格があるのか。どうして、そんなことができる。頬に痛みが走ったとき、俺はようやく我に返った。目の前には汐音が立っていた。その目には、隠しきれないほどの苛立ちが滲んでいる。悠真はといえば、俺に襟元をつかまれたまま壁際に押しつけられていた。髪は乱れ、頬は赤く腫れている。その瞬間、どちらが狂っているのか、自分でもわからなくなった。汐音は手を下ろし、冷たい声で言った。「藤崎晴人、気でも狂ったの?今の自分の姿を見てみなさい。時沢家の人間には少しも見えないわ。まるで精神異常者じゃない」「汐音、大丈夫だよ。晴人が俺を恨むのは当然だから」悠真は口元を歪め、痛みに小さく息を吸った。「悠真を放しなさい」俺は呆然としたまま、動けなかった。汐音は苛立ったように、俺を引き離そうと手を伸ばしてきた。そのとき、腕に温かな感触が触れた。そちらを見ると、痛ましそうな陽菜と目が合った。彼女はそっと俺を引き離し、乱れた髪を整えてくれた。「晴人、もう大丈夫。私が来たよ。怖がらないで」目の奥が熱くなり、涙が一気にこぼれ落ちた。俺は陽菜を強く抱きしめた。汐音の瞳に、ふいに冷たい光が宿った。彼女は問い詰めるように言った。「その人は誰?晴人、私のことをいったい何だと思っているの!」陽菜はつま先立ちになり、不器用に俺の背中を撫でた。「陸崎社長ですよね。晴人とあなたの婚約は、もう解消されています。それに、私が誰かなんて、あなたには関係ありません」汐音は言い返した。「あなた、何様のつもり?」陽菜は答えなかった。俺の感情が少し落ち着いたのを見て、俺の手を引き、部屋へ戻ろうとした。「待ちなさい!晴人、私と帰るのよ!」陽菜は足を止め、俺を見上げて、問いかけるような目を向けた。俺は彼女の服を軽く引き、低い声で言った。「戻ろう。お願い」彼女はもうためらわなかった。汐音のやり場のない怒りごと、ドアの外へ閉め出した。部屋へ戻ると、陽菜はコップに水を注いでくれた。それからポケットから胃薬を取り出し、飲むように促した。俺が薬を飲み、気持ちが少しずつ落ち着いてから、彼女は自分を責めるような目で俺を見た。「ごめん。私、出ていくべきじゃなかった」「君のせいじゃない」俺は彼女の手をぎゅっと握りしめた。彼女に支えてい
続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status