Mag-log in次の日の朝。 目覚ましが鳴る五分前に果奈は自然と目が覚ました。◆◆◆ 天井を見上げ、しばらくそのまま瞬きを繰り返した。 不思議だった。 先週までは朝が来るのが怖くて、目を閉じても不安が消えず、眠っても心は休まらない日が続いた。 けれど今日は違う。 胸の奥にあった重たいものが少しだけ軽くなっている。 一昨日、駿と話せたからだろうか。 そう思うと自然と笑みが浮かんだ。 身支度を整えてリビングへ向かうと、お母さんの早川郁代(はやかわ・いくよ)が朝食の準備をしていた。「おはよう、お母さん」「おはよう、果奈」 お母さんは振り返り、そして私の顔を見ると少しだけ表情を和らげた。「今日は学校、行けそうなの?」 その声には心配が滲んでいた。 先週二日も休んだのだから無理もない。「うん、大丈夫」「なら良かったわ。でも、無理はしないのよ」 その一言が、心の中にじんわりと広がる。 “行かなきゃ”じゃなくて、“行ってもいい”と言われた気がした。 その時だった。 パタパタと足音が聞こえ、眠そうに目を擦りながら弟の早川翔太(はやかわ・しょうた)がリビングへ入ってきた。「ふぁ~……お姉ちゃん、おはよ。今日は学校に行くの?」 その言葉に果奈は少しだけ目を丸くする。 翔太も心配してくれていたのだ。「心配してくれてありがとね。お姉ちゃんもう大丈夫だよ」 そう言って優しく頭を撫でてあげると、翔太は安心したみたいで笑顔を見せる。 私は一人じゃない。 改めてそう思える朝のひとときとなった。 朝食を終え、残りの準備を済ませ、玄関の扉を開いた。「行ってきます」 外に出た瞬間、澄みきった青空が広がっていて、朝の光がまっすぐ降り注ぎ、思わず目を細めてしまう。 まるで空まで応援してくれているような気がした。 そんなことを思いながらゆっくり歩き始める。 通学路はいつもと変わらないけど、景色が少し違って見えた。 先週は下を向いてばかりだったからかもしれない。 学校へと向かう途中、駿といつも別れる場所の近くまでやって来ると、そこに立っている人影を見つける。 近づくにつれ、その姿がはっきりし、同時に心臓が一拍だけ強く跳ねる。「……駿!?」 駿がこちらを振り返ると、少し照れたような顔をしていた。 登校時は人も沢山居るからという理由で別々に登校し
朝のミーティングが終わり、部員たちがそれぞれの練習場所へ散っていく中、駿は顧問の今江先生に呼ばれる。◆◆◆「浅村」「はい」 すぐに先生の元へ向かい、そして頭を下げる。「今江先生、三日間も部活を休んでしまってすみませんでした」 まず伝えるべきは謝罪だと思った。 大会を目前に控えた時期で、チームにも迷惑をかけてしまい、凄く申し訳なかった。「大会も近いんだからちゃんと体調を管理しろよな」 今江先生は小さく息を吐き、少し厳しい声で話した。「だけど、久々に浅村の元気な顔を見れて良かった。大会に向けて頑張れよ」 先生の表情を見る限り、怒っているというより、俺の顔を見て安心しているようだった。 本当に気にしていたのはそこだったらしい。「分かりました。ありがとうございます」 その言葉を残し、練習に合流する。 顔を上げると、コートの白線がいつもよりはっきり見えた気がした。 ストロークの練習をこなした後。 後輩である内田祐希(うちだ ゆうき)とラリー練習することとなった。 祐希は中学三年時に個人戦で全国大会の一歩手前まで行っており、一年生ながらも上級生の練習に参加していた。「浅村先輩、復帰したばかりですけど、いつも通りでいいですか?」「いいよ」 そう返事をしたものの、内心はペースについていけるか不安だった。 三日。 たった三日。 されど三日。 大会前の三日は決して短くない。「では、いきます」 祐希の声と同時にボールが飛んでくる。 ラリーとはいえ、祐希の出す球は早く、少し練習をしなかっただけでも、追いつくので精一杯だった。「くっ……」 身体は反応するが、感覚が僅かにズレてラケットが遅れた。「すいません、もう少し弱めに打ちますね」 祐希が申し訳なさそうに聞いてくるが、首を振った。「そのままで大丈夫、もう一回お願い」「はい」 祐希は前回と同じくらいの威力で球を放つ。 踏み込みを一瞬早め、体幹を残したまま振り抜く。 ボールはネットの上を薄く越え、相手コートのラインを舐め、ラリーが始まる。 一球。 二球。 三球。 今度は返せた。 身体が少しずつ思い出していく。 足の運び。 打点。 ラケットの感覚。 まるで、眠っていたものが目を覚ましていくようだった。 今度は俺がサーブを放ち、ラリーが始まる。 今回
次の日の朝。 目覚ましが鳴る十分前、駿は自然と目を覚ました。◆◆◆ カーテンの隙間から差し込む朝日が、静かに部屋を照らしている。 天井を見上げながらゆっくり息を吐く。 昨日と同じように、胸の奥に淀みがなかった。 ある程度の準備を終わらせて朝食を食べていると、結が眠そうにしながら起きてきた。「兄さん、おはよう。今日は部活行くの?」「流石に今日は行かないとな。部内戦も近いし」「気持ちは吹っ切れた?」「吹っ切れた。改めて心配させてごめん」「ほんとそうです。兄さんは元気が一番なんだから」 口調は相変わらず棘があるけど、その棘の奥にある優しさくらいは分かるようになっていた。 そして、全ての準備を終わらせて家を出た。 学校に着き、部室に入ると、そこには隆二の姿があった。 ロッカーは近く、普段なら何気なく話しながら準備をする距離だ。 けれど、互いに言葉を発することが出来ず、静かな空気だけが流れる。 ロッカーを開ける音。 ラケットケースを持ち上げる音。 そんな些細な音だけが部室に響いていた。 やがて隆二が先に準備を終える。 そして――。 深く息を吸う。 その姿を見た瞬間、何か俺に話そうとしているのだとすぐに分かった。 「浅村」そう呼ばれた瞬間、思わず肩に力が入った。「どうしたんだ、隆二」 隆二が勇気を持って話しかけてくれたのだから、無視しちゃ駄目だと思い、何もなかったかのように返事に応じた。「実は、浅村が早川の手を引いて走って行くところ見ていたんだ……なのに、浅村の力になれなかった。挙句にその前は2人が付き合ってるのに、自分勝手な頼みをしてしまって……」 隆二が頭を下げて謝ってきた。「本当にごめん」 その姿を見て、少しだけ目を閉じ、この数日を思い出す。 怒りもあった。 苛立ちもあった。 けれど今となっては分かる。 隆二も苦しかったのだ。「謝る必要ないよ。そもそも俺が隆二に言ってなかったから、知らないのはしょうがないし、俺もあの時は感情的になりすぎた。ごめん」 自分にも非があったと認め、同じように頭を下げて謝った。 数秒の静寂が流れ、隆二と同じタイミングで顔を上げ、目が合う。 その瞬間。 どちらともなく笑っていた。「あースッキリした。浅村とずっとギスギスした関係で居るのは無理だわ」「俺もだよ
家に帰った後、駿は自室のベッドに腰を下ろした。◆◆◆ 大きく息を吐く。 窓の外では夕暮れが少しずつ夜へと変わり始めていた。 果奈と話し、ちゃんと向き合えた。 それだけのことなのに、張り付いていた重たい何かが嘘みたいに軽くなっている。 学校へ行けば色々あるかもしれない。 それでも。 果奈の笑顔を思い出すだけで、不思議と大丈夫な気がした。 そんなことを考えながらスマホを取り出し、美生と直己へLINEを送る。『果奈とちゃんと話せた。上手くいった』 送信してから数十秒も経たないうちに、美生から返信が来た。『良かった』 短い一言だけど、その言葉だけで本当に心配してくれていたことが伝わってくる。『果奈ちゃん、次の月曜日から学校に来れそう?』 今日の果奈の表情を思い出した。 肩を震わせながら泣いていた姿。 そして、最後に見せてくれた笑顔。 あの笑顔なら大丈夫だと思えた。『果奈は必ず来るよ』 そう返信すると、すぐに安心したような表情のスタンプが送られてきた。 それから改めてメッセージを打つ。『ありがとう』『美生の言葉がなかったら、果奈とちゃんと話せなかったと思う』 少しして返信が来る。『私の言葉もあったかもしれない』『でも一番は駿君の果奈ちゃんへの想いだよ』『多分、私が何もしなくても、そのうち駿君は果奈ちゃんのところへ行ってたと思う』 その言葉が少し不思議だった。『何でそう思ったの?』 そう送ると、とてもシンプルな返事が来た。『駿君が悩んでる様子を見れば分かるよ』『それだけで?』 思わず聞き返す。『それだけで分かるよ』
次の日の朝。 目覚ましの音と共に、駿は目を覚ました。◆◆◆ ここ数日の中で一番目覚めの良い朝で、重苦しく胸を塞いでいた霧が少しだけ晴れたような感覚がある。 問題が解決したわけではないし、果奈が受けた傷も、自分の後悔も消えてはいない。 それでも――。 もう逃げるのは辞めようと思えた。 ベッドから起き上がると、すぐにスマホを手に取り、部活の顧問である今江先生に、深呼吸を一つして発信した。「おはようございます、浅村です。今江先生すいません、今日もあまり体調が良くないので、部活休ませてください」 昨日までは現状から逃げる為に部活を休んでいた。 けれど今日は違う。 向き合う為に休む。 その違いだけは、自分の中で確かだった。「分かった。最後にいいか浅村」「はい」「明日から部活、来れるな?」 責めるでもなく、説教するでもなく、ただ戻って来いと言ってくれている。 その事実が妙に嬉しかった。 電話越しでも分かるくらい、今江先生の受け答えが昨日と違うなと感じた。「はい!」 体調不良を理由に休む人間とは思えないほど力強い声が出て、一瞬自分でも笑いそうになる。「よし。待ってるからな」「すいません、ありがとうございます」 部活を休む電話だった筈なのに、不思議と背中を押された気分だった。 身支度を整えて、美生から教えてもらった情報を頼りに果奈の家へと向かう。 一歩進むたびに緊張が増していく。 何を言えばいいのか。 どんな顔をすればいいのか。 それでも足だけは止まらなかった。 果奈の家に着き、インターホンを押す。「……はい」 スピーカー越しに聞こえた
美生は夕飯の買い物を済まして駿の家へと向かっていた。◆◆◆ 手には買い物袋を持ち、いつもと変わらない帰り道の筈なのに、昨日からその足取りが重かった。 昼間からずっと考えていた。 駿君のこと。 果奈ちゃんのこと。 そして昨日見た、あの沈んだ表情のこと。 このままで本当に大丈夫なのだろうか。 そんな不安が胸の奥に居座り続けていた。 駿君の家に着き、玄関に駿君の靴があるのを見た途端、小さく息を吐いてしまう。 嫌な予感が当たってしまった。 今日も部活を休んでしまったのだろう。 急いで居間に向かうと、昨日と同じように、不貞腐れた結ちゃんが居た。「結ちゃん、今日も駿君は自分の部屋で閉じこもっているの?」「そうなんですよ。どんなに凄い揉め事をしたのか分かりませんけど、こっちも気分悪くなります」 頬を膨らませながら喋る結ちゃんは、昨日よりも怒っているように見えた。 でも。 本当は怒っているんじゃなくて、昨日からずっと妹として兄のことを心配しているのだと、すぐに分かった。「私、駿君の部屋に行ってくるね」「分かりましたけど、今行っても駄目だと思いますよ?」「それでも、私が動かないと」 このまま放っておけば、駿君はもっと自分を追い込み、日に日に状況が悪化する一方だと思った。 だから立ち止まるわけにはいかなかった。 駿君の部屋の前に向かい、深呼吸をした後、駿君を呼びかける。「駿君、悩み事があったら私に相談して、なんでも聞くよ」「ありがとう、でも今は一人で考えさせてくれないか」 一発で返答が返ってきたのに驚いたけど、弱々しい声で昨日と同じような返答が返ってきて、それが苦しかった。「でも駿君、昨日からずっと同じ感じでしょ。話
果奈に流されるまま、駿は映画館へと向かった。 ◆◆◆ 映画館は休日ということもあり、様々な人たちで賑わっていた。 「私、観たい作品があるのだけどそれでもいい?」「いいけど、どんな作品?」「恋愛もの。ラスト泣けるって友達が言ってたから気になってたんだよね」「そうなんだ」 特に観たい作品も無かったし、一緒に見られればそれでいいと思い、この作品を観ることにする。 作品のタイトルは『失いたくない』。 主人公がヒロインへの告白から始まる恋。 想いが通じ合い、幸せな結末へ向かう筈だったが、ヒロインが通り魔に刺されてそのまま死んでしまう。 絶望していた主人公がヒロインの真実
週末。 午前中の部活を終え、駿は家に戻るとすぐシャワーを浴びた。 ◆◆◆ 髪を洗って、流して。 念のためもう一度首元にシャワーを当てる。 絶対に汗の匂いが残らないよう、念入りに身体を綺麗にする。 (気にしすぎだろ) そう思ったが、手は止められない。 今日は、果奈と二人きりで出かける。 考えるだけで、落ち着きを保てなくなっていた。 シャワーを終え、家にある姿鏡の前で服を広げる。 候補が何着も並んでおり、着てみては脱ぎ、鏡を見る。 しっくりくるやつもあったが、すぐに違う気がして、また着替え直す。「……何やってんだ、俺」 服選びがただの繰り返し作業へ
駿が倉庫裏に着いた時、早川さんの姿はまだなかった。 ◆◆◆ 夕焼けに染まった校舎の影が、静かに地面へ伸びており、風が吹くたび、木々がかすかに揺れていた。 スマホの時間を確認するが、まだ数分しか経っていない。 本来なら、早川さんが所属するバドミントン部はテニス部よりも早く終わって、待っているはずだった。(……練習、長引いてるだけだよな) そう思おうとするのに、別の考えが勝手に浮かんでくる。 疑いたくないのに、疑ってしまう。(何考えてんだよ、俺) 頭では分かっている。けれど、不安は理屈じゃ止まらない。 胸の奥に、小さな黒いものが広がっていく。 その時だった。 「
翌朝。 駿は目覚ましが鳴る少し前に、自然と目が覚めた。 ◆◆◆ カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに眩しい。 ぼんやり天井を見上げながら、小さく息を吐く。 胸の奥が落ち着かない。だけど、嫌な感覚ではなかった。 むしろ逆だ。 何かが始まってしまった後特有の、ふわつくような高揚感。 昨日の放課後。 夕陽。 震える声。 思い返した瞬間、身体が熱くなる。 枕に顔を埋めたくなるくらい恥ずかしいのに、何度も思い返してしまう。 (……付き合ってるんだよな、俺たち) まだ実感は薄いけど、昨日の出来事を頭の中で繰り返すたび、少しずつ現実が輪郭を持