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やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪
やり直せますか?冷戦3年越しの愛に謝罪
Author: 天野琴

第1話

Author: 天野琴
病院の待合室。

藤堂音(とうどう おと)(旧姓:桐谷)は大型テレビの前に立ち、手にしたばかりの検査結果を握りしめていた。

そこには、耳の病が少しも良くなっていないどころか、以前より悪化していると記されていた。

無表情のまま立ち尽くす彼女の前で、テレビ画面には光のきらめくステージが映し出されていた。

舞台の中央でピアノを弾く女性は、知的で、優雅で、美しい。

その客席に、夫の藤堂宗也(とうどう そうや)の姿があった。

結婚して三年。

音は、彼があんなふうに深いまなざしで誰かを見つめるのを初めて見た。

胸の奥が、底のない闇へと沈んでいく。

耳もとで、母の桐谷真恵子(きりたに まえこ)の声が途切れることなく彼女を責め立てていた。

「どうして悪化しているの?

ちゃんと薬を飲んでるの?

リハビリもサボってるんじゃないの?

宗也の初恋の女が、あんたの座を狙ってるのよ。

危機感を持ってないの?

このままじゃ藤堂家から追い出されるわ。

宗也と別れたら、うちはどうするの?

お父さんは?

......ねえ、返事くらいしなさいよ!」

音は軽く背を押され、かすかによろけた。

「ごめんなさい、お母さん。

私がいけないのよね」と力なく言うと、真恵子は苛立ったように言い放つ。

「謝ってどうするの。

耳を治しなさいよ!

宗也の妻の座を守るのよ!」

音は俯いてつぶやいた。

「......私、努力してるよ」

医師の指示どおり毎日大量の薬を飲み、リハビリにも通ってきた。

それでも聴力は落ちる一方で、なのに宗也の初恋の女は日ごとに輝きを増していく。

どうしようもなかった。

テレビの画面はコンサートの舞台裏に切り替わり、夏川美咲(なつかわ みさき)が記者に囲まれていた。

フラッシュを浴びながら、彼女は柔らかく微笑む。

記者がマイクを向ける。

「夏川さん、今回の帰国の目的は何でしょうか?」

「ある人のために。

そして、もう二度と後悔しないために、です」

その「ある人」が誰なのか、音も母も痛いほど分かっていた。

真恵子は顔を真っ赤にして毒づいた。

「なんて図々しい女!

計算高いにもほどがある!」

そして娘に向き直る。

「お医者さんに言って薬を増やしてもらいなさい!

早く耳を治して宗也を取り戻すのよ!」

音は口を開きかけたが、何も言わなかった。

――無駄なのだ。

宗也の心が自分にないのは、耳の病のせいじゃない。

最初から、彼は自分を妻にするつもりなどなかったのだ。

音の脳裏に、三年前の夜がよみがえる。

報道陣に囲まれ、宗也のベッドの上で茫然とした自分。

無数のシャッターを切る音が響く中、記者の質問が飛び交い、音はシーツに身を隠して震えていた。

宗也はベッドに腰を下ろし、煙草を指先で転がして静かに煙を吐く。

そして、十分に撮り終えた記者たちを見回し、火を消して彼女の腰を抱き寄せた。

「そんなに俺たちのベッドでの様子が気になるなら――ここで続きを見せてやろうか?」

低く、冷たく、それでいて余裕を感じさせる声。

その一言で記者たちは黙り、互いに目を見合わせて退散した。

その三十分後、「藤堂家の御曹司、聴覚障がいの令嬢とホテル密会」という見出しの記事がネットを駆け巡った。

世間が面白がる中、音は宗也に助聴器を外され、冷たいバスルームの壁に押しつけられた。

頭上から冷水が降り注ぎ、身体は震え、息が詰まる。

彼の言葉は聞き取れなかったが、その険しい表情だけで、何を言われているのかは痛いほど伝わってくる。

最後には、ゴミでも捨てるかのように彼女は家から放り出された。

それほど嫌いながらも、宗也は結局、彼女を妻に迎えるしかなかった。

藤堂家には欠点も醜聞も許されない。

とりわけ「障がいのある娘を弄んだ」という噂など、決して許容されることはない。

一ヶ月後、二人の結婚式は世間の注目のなかで執り行われた。

だがそれはすべてが母の仕組んだ計画だと、音は知っていた。

滑稽だと思った。

何度も拒もうとしたが、もう誰にも止められなかった。

宗也でさえ、逃げられなかったのだから。

――こうして、すべてが始まったのだ。

この三年間、音は懸命に「良き妻」であろうと努めてきた。

宗也の体調を気づかい、食事を整え、藤堂家に恥じぬ妻でいようとした。

しかし返ってきたのは、ただの一言――「家政婦は要らない」。

それでも音はあきらめなかった。

病院を出た帰り道、いつものようにスーパーへ寄り、宗也の好物を買い込み、夕食を整える。

陽が沈み、四品のおかずとスープが並んだ食卓は温かな香りに満たされていた。

だが宗也は帰ってこない。

音はメッセージを送り、【いつ帰ってくるの】と尋ねた。

しばらくして届いたのは、たった一言の返信――【今夜は帰らない】。

もう慣れたはずなのに、胸の奥がわずかに沈んだ。

小さな失望が静かに沁みていく。

一人で食事を済ませ、食器を洗い、入浴を終えると、医師に増してもらった薬を二錠飲み、ソファに身を横たえた。

藤堂家にいる息子の様子が気になり、育児担当の小百合(さゆり)にメッセージを送る。

【悠人は今日もいい子にしてた?】

小百合は、唯一音に優しくしてくれる人だった。

すぐに届いた短い動画には、二歳の藤堂悠人(とうどう はると)が映っていた。

華奢で、あまりに小さい。

その姿を見つめているうちに、音の目から涙がこぼれた。

悠人は彼女が十月十日かけて産んだ我が子だ。

だが生まれたその日、宗也の母である藤堂雅代(とうどう まさよ)に連れ去られ、「聴覚障がいの母親に子育ては無理」と断じられた。

以来、息子は藤堂家で育てられ、音との面会も禁じられている。

どうしても会いたいときだけ、宗也に頼み込んで一度だけ顔を見せてもらう。

だからこそ音は、たとえ蔑まれても息子のために宗也に縋るしかなかった。

短い動画を何度も見返しながら、音はいつの間にか眠りについた。

夢の中、緑の草原を息子と駆け回る。

悠人は笑顔で「ママ」と呼びながら彼女の胸に飛び込んでくる。

それはどこにでもある母子の光景。

けれど音にとって、それは遠い夢だった。

目を覚ますと、頬が濡れていた。

ぼんやりと起き上がると、補聴器を手に取る。

浴室の方から水音が聞こえた。

――宗也が帰ってきた。

彼は朝食を外では食べないし、遅刻も嫌う。

時計を見て、音は髪を整え、洗面をすませると、台所で朝食の支度を始めた。

宗也の好みは難しいが、音はそれをよく知っている。

手際よく作ったお茶漬けの香りが家中に広がったころ、七時ちょうどに階段を下りてきた宗也は、仕立ての良いスーツに身を包み、背筋を伸ばしていた。

光が差し込む中、整った顔立ちが際立ち、どこか近寄りがたい威圧感をまとっている。

その視線が音をとらえる。

――氷のように、冷たかった。
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