病院の待合室。藤堂音(とうどう おと)(旧姓:桐谷)は大型テレビの前に立ち、手にしたばかりの検査結果を握りしめていた。そこには、耳の病が少しも良くなっていないどころか、以前より悪化していると記されていた。無表情のまま立ち尽くす彼女の前で、テレビ画面には光のきらめくステージが映し出されていた。舞台の中央でピアノを弾く女性は、知的で、優雅で、美しい。その客席に、夫の藤堂宗也(とうどう そうや)の姿があった。結婚して三年。音は、彼があんなふうに深いまなざしで誰かを見つめるのを初めて見た。胸の奥が、底のない闇へと沈んでいく。耳もとで、母の桐谷真恵子(きりたに まえこ)の声が途切れることなく彼女を責め立てていた。「どうして悪化しているの?ちゃんと薬を飲んでるの?リハビリもサボってるんじゃないの?宗也の初恋の女が、あんたの座を狙ってるのよ。危機感を持ってないの?このままじゃ藤堂家から追い出されるわ。宗也と別れたら、うちはどうするの?お父さんは?......ねえ、返事くらいしなさいよ!」音は軽く背を押され、かすかによろけた。「ごめんなさい、お母さん。私がいけないのよね」と力なく言うと、真恵子は苛立ったように言い放つ。「謝ってどうするの。耳を治しなさいよ!宗也の妻の座を守るのよ!」音は俯いてつぶやいた。「......私、努力してるよ」医師の指示どおり毎日大量の薬を飲み、リハビリにも通ってきた。それでも聴力は落ちる一方で、なのに宗也の初恋の女は日ごとに輝きを増していく。どうしようもなかった。テレビの画面はコンサートの舞台裏に切り替わり、夏川美咲(なつかわ みさき)が記者に囲まれていた。フラッシュを浴びながら、彼女は柔らかく微笑む。記者がマイクを向ける。「夏川さん、今回の帰国の目的は何でしょうか?」「ある人のために。そして、もう二度と後悔しないために、です」その「ある人」が誰なのか、音も母も痛いほど分かっていた。真恵子は顔を真っ赤にして毒づいた。「なんて図々しい女!計算高いにもほどがある!」そして娘に向き直る。「お医者さんに言って薬を増やしてもらいなさい!早く耳を治して宗也を取り戻すのよ!」音は口を開きかけたが、何も
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