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第3話

Penulis: 天野琴
「奥様、宗也様......お食事の準備ができました」

使用人が台所から出てきて、恭しく告げた。

雅代はソファから立ち上がる。

「さあ、食べましょう。

悠人、お腹が空いたでしょう」

「悠人、くまさんといっしょにごはん食べるの!」

悠人はオーダーメイドのぬいぐるみを抱きしめ、嬉しそうに笑った。

「いいわね。

夏川先生、悠人とくまさんを連れて行ってあげて」

美咲は穏やかに笑いながら悠人を抱き上げ、音に向かって丁寧に言った。

「音さん、先に悠人くんを連れて行きますね」

人々は次々に食卓へ向かっていった。

音は、手にした毛糸のぬいぐるみを見つめたまま、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。

――自分は宗也の妻のはずなのに。

それなのに、いつだって孤立している。

誰にも気づかれず、存在しないように扱われている。

手の中のケーキとぬいぐるみが、床に落ちた。

彼女は一歩後ずさりし、この冷え切った屋敷から出て行こうとした。

しかし、次の瞬間、手首を宗也に掴まれた。

見上げた瞬間、命令を帯びた鋭い眼差しが射抜く。

「食べろ」

音は食卓の方を見た。

そこには本来、自分が座るはずだった席に――美咲が座っていた。

彼女は無言で手を振りほどき、淡々と告げた。

「あなたたち家族の時間を邪魔したくないわ」

そう言い残し、顔も上げずにその場を去った。

「音!」

宗也は思わず眉をひそめた。

この女が――反抗を見せるようになっただと?

「放っておきなさい」

雅代が冷たく言い放つ。

「礼儀知らずの小娘。

最初から屋敷に入れるべきじゃなかったわ」

「そうよ、兄さん」

ずっと黙っていた藤堂家の長女・藤堂柚香(とうどう ゆずか)が同調する。

「手段を使って嫁いできた女と一緒に食事なんて、藤堂家の格を下げるだけだわ」

宗也は音を好いてはいなかった。

だが、嫌いでも――自分の妻だということには変わりない。

淡々とした声で言う。

「それじゃ、俺は?

毎日彼女と食事してる俺は何なんだ?」

「えっ......」

柚香は言葉を詰まらせ、慌てて言い直した。

「兄さん、それは一時的なことじゃない。

離婚したら――」

「黙れ」

宗也の声が低く響いた。

「二度と悠人の前でそんなことを言うな」

「だまれ......ひひっ......」

悠人が真似をして、楽しそうに笑った。

――外はもう暗くなっていた。

夜気はしっとりと湿り、肌を刺すように冷たい。

まるで骨の髄まで凍えさせるようだった。

音は自分の体を抱きしめながら、ひとり、藤堂家の私道を歩いていた。

涙がまつげに溜まり、視界をぼやかしたが、

泣いてはいけない、そう思って必死に堪えた。

こんな結果になったのは、自分の責任。

泣く資格なんてない。

彼女にできることは、ただ、現状を変えるための突破口を見つけることだけだった。

しかし、その道がどこにあるのかも分からない。

林の脇を通りかかったとき、背後から黄色いライトがちらちらと揺れた。

しばらくして、見慣れた車が静かに横付けされる。

半分開いた窓の向こうに、宗也の精悍な横顔。

声は冷たい。

「乗れ」

命令口調。

音はもう慣れていた。

拒むこともできた。

けれど、わずかな逡巡ののち、彼女はその車に乗り込んだ。

意外なことに、美咲の姿はなかった。

後部座席の宗也は、背もたれにゆったりと身を預け、いつものように気品を纏っていた。

彼は何も言わず、ただ音をじっと見つめていた。

音は視線を避け、目を伏せた。

「息子を置いて出ていくほど、怒っているのか」

彼がそう言った。

まるで問いというより、呆れを含んだ独り言のように。

音はしばらく唇を噛み、そして顔を上げた。

「藤堂さん......美咲のこと、好きなの?」

宗也の瞳がわずかに細くなる。

「どういう意味だ」

「もし彼女が好きなら......離婚して、彼女と結婚して。

私は離婚に同意するわ」

「条件は?」

その声は淡々としていたが、かすかな怒気が混じっていた。

「悠人が成長するまで、そばで見守らせて。

語学教育の先生も、私に選ばせてほしい。

でも、心配しないで。

親権を争うつもりはないわ」

彼女は静かに、けれど揺るぎなく言い切った。

宗也の唇から、短い冷笑が漏れた。

「引いて見せて譲歩を取るつもりか?

計算が上手いな」

「そんなつもりじゃないわ!」

音は一瞬言葉を詰まらせ、必死に続けた。

「ただ、悠人はまだ小さくて、善悪の区別もつかない。

母親が耳が聞こえないというだけで、周りに責められるような環境で育ってほしくないの。

私はただ――息子が母親を憎む子に育ってほしくないだけ」

「藤堂さん、悠人は......私が命懸けで産んだ子よ」

その声はかすれて震え、目元が赤く染まった。

彼女の脳裏に、あの日の光景が蘇る。

胎位が悪いと知りながら、雅代に自然分娩を命じられた。

大出血したときも、「子どもを優先して」と言い放った。

もし運が悪ければ、あのとき彼女は命を落としていた。

その事実を、宗也は知らない。

雅代が彼を江之里から出張に送り出していたため、彼が戻ったときには、すべて無事に終わっていた。

宗也は子どもを望んでいなかったが、

初めて抱いた息子の小さな手に、思わず笑みをこぼした。

そしてその勢いで、彼女に一億円を「ご苦労」と言って渡した。

――結婚後、宗也が音に笑いかけたのは、その一度きりだった。

それ以外は、他人のように冷たい日々だった。

「音、悠人は......俺が望んだ子か?」

宗也がゆっくりとした声で尋ねる。

音は沈黙した。

――悠人は、彼女が望んだ子だ。

妊娠を告げたとき、宗也はためらいもなく「堕ろせ」と言った。

彼女が必死に頼み込んで、ようやく産むことを許された。

返す言葉はなかった。

車内の空気が、氷のように凍りつく。

そのとき、宗也のスマホが鳴った。

画面に映ったのは、美咲の名。

ビデオ通話だった。

「宗也、音さんは大丈夫?

迎えに行ってくれたんでしょう?」

「......ああ」

鼻にかかった、低い返事。

「よかった。

じゃあ、ゆっくり休んでね」

「悠人は?」

「悠人くんね......さっきパパと寝たいって言ってて、やっと寝かしつけたところよ」

美咲の声が、柔らかく笑みを含む。

その瞬間、小さな声が聞こえた。

「美咲ママ......だっこ......」

「はい、美咲ママが抱っこしてあげるわ」

美咲の声は、蜜のように甘く、優しかった。

音が思わず画面を見たとき、そこには美咲が悠人を抱きしめて眠らせる姿が映っていた。

――そのぬくもりを、自分は一度も得られなかった。

さっき味わった痛みが、再び胸を締めつける。

ちょうどそのとき、車は別荘に着いた。

音は扉を開けると、そのまま二階へ駆け上がった。

寝室のドアに背を預け、そのままずるずると床に座り込む。

涙があふれ、声にならない嗚咽が喉を震わせた。

――ただ、息子を抱きしめたかった。

――ほんの少しでも、そばにいたかった。

どうして、それだけのことがこんなにも難しいのか。

この結婚は、いつ終わるのだろう。

音は顔を上げ、壁に掛けられた結婚写真を見つめた。

冷ややかに微笑む男と、控えめに寄り添う少女。

それは祝福の象徴ではなく、彼女を縛りつける鎖であり、閉じ込める檻だった。

彼女は立ち上がると、その写真を壁から引きはがし、力任せに床へ叩きつけた。

「ガシャン!」

ガラスが砕け散り、もとより釣り合わぬ二人の姿に、さらに深い亀裂が走った。

物音を聞きつけた宗也が、扉を開けて入ってくる。

いつも穏やかな音が、結婚写真を粉々に砕いた姿に、一瞬、彼は目を見張った。

だがすぐに眉をひそめ、手を伸ばして彼女の手首を掴む。

「音、これはどういうつもりだ。

もう終わりにしたいってことか?」

「藤堂さん......私、あなたと離婚するわ!」

涙に濡れた瞳で彼を真っすぐに見つめ、その顔には、これまで見せたことのない決意が宿っていた。

「もう限界。

こんな、惨めな思いをするだけの生活は、もう耐えられない。

私は本気で――離婚するわ!」
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