LOGIN夢は、「夢」から始まったわけではなかった。 あの子の夢は、いつも「抱き上げ」と「置いていく」の繰り返しから始まる。 「抱き上げる」などというやわらかい言葉ではない。 正しくは「持ち上げる」。 ただし――幸いにも、その子は「大事なもの」だった。 だから毎回、「大事に」持ち上げられた。 そこには、鉄錆《てつさび》と消毒液の匂いが混ざっている。 幼い女の子は、それが何なのかを知らなかった。ただ、自分がその匂いを「嫌いだ」と知っているだけだった。 ――それだけは、はっきりしている。 強い光が、頭の上から降ってきた。 逃げられない。 動けない。 叫ぶこともできない。 嫌いなものからは、決して逃げられない。 誰かが、あの子を持ち上げた。 その手は冷たかった。 指先から、手のひらまで、氷のように冷たい。 あの子は、その人の緊張を感じた。 手が、震えている。 呼吸が、乱れている。 まるで、正体のわからない何か――生き物とも、道具ともつかないものを手のひらに乗せているかのようだった。 あの子は白い布に包まれていた。 動けなかった。 まるで、自分が最初から死体だったかのように。 泣き声は正常だった。 だが――三種の|命贄の御滴《いのちにえのおしずく》を、拒んだ。 他の液体も、すべて。 「……これ以上、手をかける意味はあるか?」 幼子はその意味を知らなかった。 けれど、自分が「捨てられる」ということだけは、なぜか理解していた。 戻されるのだ。 どこかへ、また。 ただし、“戻される”場所は、毎回違った。 ある時は、金属で囲まれた部屋。 ある時は、硬く狭い木の箱。 他の子の声は、どこにもなかった。 周囲には母の匂いも、誰の気配もなかった。 彼女がどれだけ動いても、それに気づく者はいない。 そこにあるのは、寒さと、
アスイェは、その服が汚れていることも気にせず、幼子をきれいな毛布でくるんだ。 今、彼は小さな炎を抱いている。 だが、それも気にしなかった。彼は静かに石の座に腰を下ろし、もう一度、幼子の背に手を当てた。 今、この子には慰めが必要だと知っていたからだ。――けれど、もし他の者がこの光景を見たら、きっと息を呑むだろう。 尊《とうと》いはずのアスイェが、幼子を慰めているなど。 そんなことは、あり得ない。それでも、その手付きには、やはり焦りも、咎《とが》めもなかった。その声はいつものように、ただ静かだった。彼女はまだ泣いていた。 だが、その声は、次第に細く、静かになっていく。「……Si……a……」意味のない声だった。 それは、どこからともなく吹く、かすかな風に似ていた。呼んでいるのか。 それとも、ただの寝言か。 わからない。幼子は、アスイェの腕の中で小さく丸まって、まだ、彼の気配を探していた。***しばらくして、アスイェは立ち上がった。 弱々しい幼子を抱え、聖堂の地下へ向かう。そこには、ほとんど知られていない石の一室がある。 外に比べ、さらに冷たい場所だった。 雪の日にここへ来ることなど、本来ありえない。だが、アスイェは、病んだ子をそこへ連れてきた。灯りは蝋燭だけ。 その火は頼りなく揺れ、今にも消えそうだった。 暗闇が、すぐそこまで迫っている。アスイェは、赤子を白い布の上に寝かせた。 幼子は泣き止んでいたが、その顔は異様《いよう》に赤い。 汗は止まらず、金色の髪は乱れたままだ。 さっきから、状況は何も変わ
アスイェは、ただ一言、低く呟いた。「俺は、出かける」そのとき、彼のマントは、小さな手に掴まれていた。 幼い指はまだ未熟で、力も足りず、それでも必死に布の端を握っている。「お前を、連れては行かない」 冷えた声音だった。その子は足も短く、小さな体はまだ自分を支えきれず、傾けばすぐ転びそうだった。 アスイェは一瞬、その様子を見下ろし、無言で片手を添えた。 ごく僅かに押し戻すように支えると、子の身体はようやく安定し、その場に座った。「お前を連れて行かない」 もう一度、同じ言葉が繰り返された。 だが、手はまだ、離されていない。赤子は、アスイェを一瞥した。 その幼い目に、言葉の意味を探るような光があった。 ――その「連れて行かない」という言葉の中に、わずかな例外があるのではないかと。けれど、アスイェの声には、揺らぎも隙もなかった。 次の瞬間、彼はマントの内側から小瓶を一つ取り出す。 細く、美しいガラス瓶だった。 中には、新しい血が赤く揺れている。それは彼の血だ。赤子はその瓶を見つめたまま、手を伸ばせなかった。 アスイェは静かにそれを彼女の手に置いた。 女の子はようやく、瓶をしっかりと握りしめる。 動きはまだ拙く、瓶を手の中でぎこちなく回しながら、 まるで初めて「抱擁《ほうよう》」というものを知ったかのようだった。「お腹が減ったら飲めばいい、すぐ戻る」淡々とした口調だった。 まるで約束でも命令でもなく、ただ一つの手順を告げるように。アスイェは立ち上がり、数歩だけ進んでから、ふと振り返った。 その子は、もうしっかりと座っていた。背中を壁に預け、小さな体を、まるで自分の重さすら忘れたかのように落ち着かせている。
冬の朝の光が、高い窓から聖堂に差し込み、石の座は変わらず冷たい輝きを返していた。 アスイェは神座に腰を下ろし、マントの裾を床に垂らしたまま、長靴を無造作《むぞうさ》に組み、肘《ひじ》掛けに片手を預《あず》けている。 その目は閉ざされ、まるで、終わりの見えない長い休眠に、ただ黙って耐えているかのようだった。赤子はアスイェにしがみついていた。 まるで、自分の小さな巣から這《は》い出したくない、小動物《しょうどうぶつ》のように。赤子の髪は少しずつ伸びてきて、その輪郭《りんかく》から、ようやく性別が見えてきた。 このか細い命は、女の子だった。女の子の体は、吸血鬼とは違う。 暖かく、脈打《みゃくう》つ生気を宿《やど》していて、静かに澱《よど》むものではなかった。彼女は、アスイェのボタンを掴もうとするように、かすかに指先を動かした。 けれど、その指にはまだ十分な力がない。 だから、その仕草《しぐさ》はただ、触れたいと願《ねが》う影のように見えた。そして、彼女は自分の頬をアスイェの胸に押し当て、かすかな声を漏《も》らした。 「……|Sia《シア》」アスイェは目を開けなかった。「……|Sia《シア》」赤子は同じ言葉を繰り返し、必死《ひっし》にアスイェを呼んだ。「……|Sia《シア》」二度目は、まるで駄々《だだ》をこねるような響きだった。 まだその意味を理解しているはずもない。 だが、そう呼べば、アスイェは自分を置いていかない――幼《おさな》い本能だけが、彼女をそうさせていた。「……Si――a」三度目の呼びかけが途切れかけた瞬間、アスイェはようやく目を開けた。その瞳《ひとみ》に慰《なぐさ》めの色はない。 ただ、静まらない小さな身体をじっと見つめていた。「その呼び方はするな」アスイェの声は低く、静かだったが、その端《はし》に冷たさが滲《にじ》んでいた。彼女は小さく首をすくめた。 だが、掴んだアスイェの襟元《えりもと》から、指は
執事は、あの赤子が気に入らなかった。 理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。 三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理してきた。誰の目にも触れぬ記録を、幾度《いくど》も書き記した。 一度として、手を誤《あやま》ったことはない。彼は吸血鬼ではない。「記録者《きろくしゃ》」だ。| 血《ち》の定《さだ》めに縛《しば》られぬ身《み》。| 高貴《こうき》にはなれずとも、自由があり、記録の目と手を持つ。この収容場で、最も古く生き残った人間。最も静かな機械――だった。 あの「それ」が現れるまでは。赤子の皮《かわ》を被《かぶ》った、名《な》も知れぬ化け物は、泣いた。 その夜、執事は眠れなかった。細く、途切《とぎ》れもせず続く泣き声は、耳障《みみざわ》りな雑音のように廊下《ろうか》を這《は》い、北側《きたがわ》の個室《こしつ》から漏れていた。 扉を開けると、アスイェが揺籠の前に立っていた。 その指先は、化け物の口元《くちもと》に添《そ》えられている。小さな口が、かすかにその指を咥《くわ》えた。 同時に、泣き声は、途絶《とぜつ》えた。その後、アスイェはここに留まった。 もとより、純血の吸血鬼がこの収容場に長く留まることなど、ありえなかった。 収容場は穢《けが》れた場所で、育児は穢《けが》れた仕事だ。 育児は彼にとって、実験であり、罰《ばつ》でもあった。それでも、アスイェはここに残した。 まるで、何かを待つかのように。この高貴《こうき》な吸血鬼が、ここに残った理由を、彼は何も語らなかった。誰も、問うことはできなかった。「それ」を残されたのだ。 アスイェの指を咥えた、あの「そ
赤子は、目を開けたまま動かなかった。 まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。アスイェは、いつものように黙《だま》って赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。その身は、最初まるで反応《はんのう》を示《しめ》さなかった。まるで、自分が揺籃《ゆりかご》から離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。 「抱きしめる」というよりも――ただ、必死に、無我夢中《むがむちゅう》でアスイェの襟をつかみ、その胸にしがみついただけだった。赤子は、泣きもしなかったし、音すら立てなかった。 ただ、アスイェの肩に必死でしがみついていた。自分が落とされないように、アスイェを失わないように。 アスイェはその小さな腕を抱き返すことなく、赤子に襟を掴まれたまま、黙って立っていた。 二人は、ぴたりと動きを止めていた。扉が開いたのは、その時だった―― 執事が記録用《きろくよう》のボードを手に入ってきたが、アスイェの姿を見て、ふと足を止めた。足だけでなく、すべての動きが止まった。けれど、赤子は動いた。 アスイェもついに腕を動かし、片手でその身をしっかりと支えた。赤子はアスイェの腕の中で、ゆっくりと首を動かし、その視線を執事へと向けた。 その視線の先には、執事と、その後ろから微かに漏《も》れる灯《あか》りがあった。吸血鬼は灯りを嫌《きら》う。だが、赤子が見ていたのは、灯りではなかった。 音と、人だった。この子は、まだ「その人」が誰かを理解していない。 それでも、その小さな体は、アスイェの方へと、さらに近づいた。 さきほどよりもっと深く、まるでマントの中にでも隠れ込むように、耳をアスイェの胸にぎゅっと押し当てた。それは、本能だった。 恐れに対する、赤子の本能的な選択《せんたく》。この子は、まだ逃げない。 ならば、最も近く、最も安全な場所へ――それは、アスイェの腕の中だった。「このものは、お前を見た」アスイェは、静かに告げた。 「目を開けて、最初に見たのが、お前だった」執事は、何も言わなかった。 扉の近くに立ち止まり、まるで何か