LOGIN婚約者である王太子に「偽りの聖女」と断罪され、すべてを奪われた聖女リシア。処刑の儀で祈りが暴走し、光の崩壊とともに異世界へと落ちる。 目を覚ました先は、滅びかけた魔族の国――そこに立っていたのは“最強魔王”ノクスだった。 「人間の女、か。死にたくなければ、動け」 祈りを失った聖女と、呪いに囚われた魔王。 世界の裏で交わる二人の運命が、やがて大地と心を癒やしていく。 これは、すべてを捨てた聖女が“愛”と“力”を取り戻す物語。
View More東の線の海は、近づくと平らじゃなかった。薄い粉の上に、もっと薄い線が寝ている。風は低くて、靴の縁だけを撫でていく。耳の遠くで、二打。少し間。もう一打。「ここだよ」先に立っていた案内役が、一歩だけ前に出た。年は読めない。声は小さく、よく通る。「ここは沈む。重いと、沈む」私は喉の奥で息を一度そろえた。ノクスは指を軽く握り直す。第二関節が、まだ遅い。アシュルは私とノクスの視線が交差しない位置に立って、肩の角度を確かめた。「全部は置かないで。少しだけでいい」案内役が振り返らずに言う。声が白い面で弾んで、すぐ消えた。「呼ばれないほう……そこだけ置くね」私が言うと、案内役はうなずいた気配だけ残した。「肩の分、離す。形は残す」ノクスは短く。アシュルは半歩、砂の上で位置を作る。「先に、場所。目は……合わさないで」私は衣の内側から空白札を出す。押し葉をずらして重ねた。ぴったりにはしない。角は揃えない。白い面の上に、札の影が薄く落ちた。「息、置くね」胸の前でひと息。「ただいま」の高さをほんの少し添える。家の癖だけ。耳の奥の小さな鳴りが、沈んでいく。ノクスは札の角を二度、軽く触れた。叩かない。跡だけを置く。触れた指がわずかに止まり、遅れて戻る。「……行ける」アシュルは先に足場を作った。半歩外して、視線を斜めに落とす。肩を揃えない。白い面は、音を吸う。私たちは並ばないで歩く。一人ぶんの距離を空ける。足の下で粉が薄く沈み、残った形が細い線に変わった。二打。間。もう一打。風の音は一定で、灯袋が胸の高さで小さく揺れる。「渡ってるよ。戻るから、怖がらないで」案内役の声は近くないのに、近い響き方だった。足元の下、白い層のさらに下で、呼びかけの気配がにじむ。名の最初の音だけが、喉の奥で揺れる。私は口を閉じた。呼ばない。アシュルが私の肩の角を半歩だけずらす。視線を落として、交差を避ける。ノクスは灯袋の紐を一度だけ下げた。張りを落とす。角には触れない。指は揉まない。遅れはあるけれど、落ち着いて戻る。「……軽い?」アシュルが小さく言う。「うん。今は」私の足跡は、細い線に置き換わる。沈まない。跡が薄いのに、消えない。風が通ると、線は少しだけ光の向きを変えた。白い面の中央
丘の上に出た。灯袋は低くて、青い空の下で小さく揺れた。風が一度、肌を撫でていく。耳の遠くで、二打。少し間。もう一打。少し硬い。「……風、変わったね」私が言うと、ノクスが空の縁を見た。「黒のほうから。少し、焦げてる」アシュルが肩を落として、息を測る。「戻る?」私は首を横に振る。「戻らないで……渡す。ここから」耳の奥の小さな鳴りが、いったん上がって、呼吸で落ちた。土は乾いて、指で触れると冷たかった。丘の陰に回る。石の上に、作業の場所をつくる。私は土の丸を二重に描いた。外の丸は待つ場所。内の丸は渡す場所。灯袋の下に、空白札を三枚、並べた。一枚にだけ、押し葉をそっと添える。「息はここに置いて、風で送るね」ノクスが頷く。糸場で集めたほどけ紐の切れ端を、二本。札に軽く重ねた。「芯は文章にしない。手順だけ、跡で」アシュルは灯袋と札の距離を半歩ずつ動かした。視線が交差しない角度を探す。「目が合わない角度、これでいい」灯袋が弱く灯り、札の上に光が広がる。日差しがやわらいで、影が少し伸びた。丘の表へ戻ると、風の向きが変わっていた。煤の匂いが細く混じって、すぐ薄れた。二打。間。二打。一瞬だけ危ない高さに寄った。土の丸の外で、若い行商が立ち止まる。口が勝手に、名の最初の音を拾いそうになる。「——ミっ……」私は掌を上げた。「名前は呼ばないで。先に、息を」アシュルが行商の肩の向きを半歩ずらす。「ここ、半歩。肩、こっち見ないで」ノクスは札に触れず、灯袋の紐だけをつまむ。「張り、落とす」第二関節が遅れて戻る。短く息を落とす。音は二打。間。一打。いつもの幅に戻る。行商は胸の前で、ひと息。それで、ほどけた。喉の硬さが少しやわらぐ。丘の背へ、軽い足音。ラグネスが獣道から現れた。息は乱れていない。肩が開いて、目は低い位置から全体を見る。「線は交わるほど影が濃くなる。往復が増えるほど、薄まるよ」私は小さくうなずく。「……往復、増やす」ノクスが短く答える。「壊しに戻らない。守り方だけ、返す」アシュルが白紙札を一枚、指先で示す。「白紙、ひとつ足して。視線、こちらへ向けないで」ラグネスは押し葉をもう一枚出して、空白札に“ずれて”重ねる。ぴったり合わせない。灯
峠を下りきる前に、路地が細く枝分かれした。頭の上に、薄い糸の網がかかっている。灯袋は低く、肩の高さで揺れる。風が入ってくるたび、糸がかすかに震えた。耳の遠くで、短い二打。少し間。もう一打。詰まりを知らせる合図みたいに、静かに響く。足元の土に、小さな丸が描かれている。靴先でなぞっていた子どもが、顔を上げた。「ここ、丸だよ」「線、こっちから行ける」「ありがとう」私は笑って、丸を踏まないようにまたいだ。「見ていくだけにするね」ノクスが空を見上げる。「過密だ」アシュルは息を浅くしたまま、肩だけ落とす。「音が詰まってる」通りの角に、帳面師の屋台があった。古い机と、厚い帳。角はすり減り、紐に小さな結び目がいくつも残っている。削り木が一本、布の上で転がった。「名は重い」帳面師は、机の角を二度だけ指で叩いた。「値もつく。申し送りなら割引するけど、今日は混んでるからね」「重いのは……先に置いてから、でいい?」私が息を合わせる。帳面師は眉を上げる。「置くのは息。刻むのは回数。で、名は?」私は短く間を置いた。「“いつもの呼び方”で、返せるなら」彼は答えず、指で帳の角をまた二度叩いた。了解でも、保留でもある音。向かいの露店から、小さな騒ぎが移ってきた。少女が薬草の“借り”を返しに来ていて、付き添いの祖父が一緒だ。帳の利率の結びが増えて、返しきれない。「おい、ミ——」祖父の口が名の最初の音だけ上がる。私は掌を上げた。「名前は呼ばないで」「先に、ここで息を」少女は胸の前で、ひと息。指が少し震える。露店の店主が帳を開いたまま、冷たい声で言う。「利率は利率だよ」「回数が足りないなら、締まるだけ」二打。間。糸が肩先でこすれて、ひとすじだけ高い音になった。「ここで、待とう」私は足元にしゃがみ、土の丸を描いた。線を丁寧に閉じて、立ち上がる。「呼ばずに置いてね」女の人が小銭を握りしめたまま、立ち尽くす。指先の冷たさが、まだ残っている。アシュルが少女と店主の間に入る。肩の角度を見て、視線の通りを確かめる。足先で石を軽く押して、二人の位置を半歩ずらした。「ここ、半歩」「肩をこっちに」「目は、合わないで」「……こう?」少女は言われたとおりに動く。アシュルは視線を外し、呼吸だけ合わせた
上りは細くて、灯袋が等間に揺れていた。押し葉の乾いた匂いが、風に混ざる。耳の遠くで、短い二打。少し間。もう一打。詰まりを告げて、待てという合図みたいだった。「……この匂い」「風上。峠だ」ノクスは立ち止まらない。私は歩幅を合わせる。道端に小さな土の丸がひとつ。「ここで待て」とだけ書いた印に見えた。峠の手前、道標の石に背を預けて、アシュルがいた。肩は力が抜けていて、視線だけが上がる。「まだ……呼ばずに、やってるか」「うん。待って、抱いて、返す」ノクスは顎で前を示す。「詰まり、前」短い沈黙。呼吸がそろう。三人で、一つ分だけ息が深くなった。踊り場に出ると、行商の小さな競りが立っていた。若者の手首から、細い線が一本、商人の帳面へ伸びている。線は名の端を掴むたび、きゅっと硬くなる。「名を一つ。支払いなら、すぐ」商人は穏やかな声だった。付き添いの女が小銭を握りしめ、呼びかけの形まで口が動く。私は掌を上げる。「呼ばないで……先に、息を」女は私を見て、ぎゅっと小銭を握り直した。ためらいの音が、掌の中で小さく鳴る。後ろにいた男が、焦った声で名前の最初の音だけ漏らす。線が擦れて、若者が肩をすくめた。ノクスが短く言う。「線が、擦れてる」二打。間。空気が固くなる。私は足元にしゃがみ、指で土の丸を描いた。線を丁寧に閉じて、立ち上がる。「ここで、待とう。……呼ばずに置いて」胸の前で、ひと息。私が最初に置く。女も続く。周りの何人かが、同じ高さで息を合わせた。灯袋が薄く灯る。息の明るさが、峠の風でほどけた。「“いつもの呼び方”で、ここに置くね」私は目を閉じて、家の癖だけをそっと置く。戸口での小さな咳払い。茶碗を棚に戻す音。「行ってくる」の高さ。真名じゃない。触れるだけ。ノクスは商人の帳の角へ指を伸ばした。黒が細く集まる。広げない。つまむ。締めたまま、ほどく。「芯だけ。形は残す」値札の結びが、音もなくゆるむ。紙は破れない。張っていた重さが、一つぶん抜ける。ノクスは指を握り直す。第二関節が遅れて戻った。アシュルが若者の横に立つ。肩の角度を見て、視線の通りを確認する。足先で石を軽く押し、若者と商人の位置を半歩ずらした。「ここ、半歩」二人の視線が交差しない角度になる。線の張力が