アスイェ•Asyeh

アスイェ•Asyeh

last updateLast Updated : 2026-04-29
By:  新城凪Updated just now
Language: Japanese
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神に最も近いとされる、吸血の一族。 そのひとり、黒髪の青年は、長き時の底を無言で歩いていた。 ある日、彼は金色の髪を持つ子供を連れて帰る。 傷を抱え、名を持たず、言葉より先に彼の袖を掴んだ少女。 少女は幼く、気まぐれで、世界の仕組みを何ひとつ知らない。 それでも彼の隣に居続けることをやめなかった。 彼もまた、何も語らぬまま、その小さな存在を拒まなかった。 命令でも、慈愛でもない。 ただ静かに交わされていく「育てる」と「育てられる」のかたち。 沈黙と訓戒のあいまに、ゆるやかに根を張っていく依存と信頼。 ——いつか、何かが終わるその時まで。 誰にも気づかれぬ場所で、運命の灯がそっと灯る。

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序:狂人·Madman
最初は赤子の泣き声だった。まるで雪地に刻まれた細い跡のように、その泣き声は軽く、すぐに雪の中に溶けた。執事が扉を開けたときには、あの人はすでに揺籠《ゆりかご》の前に立ち、無表情のまま、その弱々しい「子ども」を見下ろしていた。その命の目元は赤く、泣き音はもう力がなく、どんどん短くなっている。 「もう三種類の命贄《いのちにえ》の御滴《 おしずく》を拒絶しました」執事が静かに告げる。「また、このものは全ての人間の血も全て拒絶しました」 純血の吸血鬼は目を伏せ、揺籠の中の子どもを静かに見つめる。まるで、一つの壊れかけた装置でも確認するように。 「予想以上に、適応していない」 しばしの沈黙ののち、執事が低く言った。
「元の人間の家系に戻す案も――」 「不要だ」
吸血鬼は執事の声を遮った。
彼の声に波はなく、「このものを産んだ人間の母体はもう死亡した。血族はこのものを認めない。あちらでは二年も保たない」 「では……」 吸血鬼は何もは静かにそのもののすぐそばにある、布の端を手にした。この布はまだ清潔で、このものを噛んでいないものだ。吸血鬼はそっと嗅いだ。微かな血の匂い。 そのものはまだ歯がないが、生きる為自分を傷つけた。 ふと、彼は小さく笑った。まるで、言葉にならない皮肉に気づいたかのように。 「どうやらほんとに何も食べられないようだ」彼はそう呟く。 しかし彼は黒い手袋をはずし自分の指を赤子の口元へ差し出した。 まるで何かをたしかめるように。 その身はかすかにおとを漏らし血の匂いに引かれるように、指をくわえた。 数秒後――泣き声は止んだ。純血の吸血鬼の低い笑い声は喉の奥から漏れた。 「……全くダメというわけでもないらしい。これは俺の血しか口にしない生き物だ」 この身元が分からない、人でも吸血鬼でもない「赤子」は最も気高く、最も純《じゅん》なる血しか受けつけない。 その身は力尽きたその身は、冬の夜の燃え残りの炉灰《ろばい》のように、小さくなって、長い眠りに沈んだ。 瞼は静かに閉じている。睫毛は雪に押し伏せられた蔦《つた》のように頬にはりついた。 この頬はよやくかすかな血の色がさした。今からこの命はやっと「赤子」になった。 赤子はまだ、純血の吸血鬼の指を離せずにいた。 執事はそっと吸血鬼の顔色を
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第一話:十度目の鐘(かね)
冬の朝、教会の鐘はいつもより長く鳴り響いていた。その鐘の音は重く、濁っていて、どこか遅れて響く。それはまるで、巨大な何かが水底へ沈んでいくときに生じる、濁流の中で反響するような音だった。鐘舌には鉄錆《てつさび》と風雪が絡まり、鳴るたびに、寒さそのものを引きずって天頂から落ちてくるかのようだった。 教会の高い天窓は、外の冬空と同じ、冷たく曇《くも》っていた。石の壁にはひびが入り、窓枠《まどわく》の隙間から微かな風が忍び込む。光と影が交差《こうさ》するその聖堂は、まるで時が止まったように静まり返っている。鐘の七つ目が響き終えたとき、襁褓の中の幼子《おさなご》がわずかに身を震わせた。 目覚められず、眉間に皺を寄せ、まるで夢の中でもがいているようだった。白い額には薄く汗がにじみ、布の端に触れた唇は、かすかに震えていた。喉の奥から、震えるような声が漏れる。小さな声――だが、それはもはや、断続的で死に際が発する音ではなく、初めて、そこに「生」のざわめきがあった。不快で、鐘の音への抗い。 八つ目の鐘が響いた。 そしてその身は、初めて、はっきりと声を上げて泣いた。 その泣き声は、引き裂かれるような音、凍りついた土の深層が突如割れる音のようだった。数日前、死に際にあったはずの小さな体から、こんなにも大きく、いきいきとした声が響くことなど、誰も想像できなかった。重苦しい空気が揺らぎ、聖堂の奥にわずかな気配が走った。この瞬間、その身は赤子ではなく、運命へ抗うひとりだった。 執事は廊下から慌てて部屋に入った。 「どうしまし――?!」執事の声はぴたりと止まった。赤子がアスイェの腕の中にいるからだ。「鐘の音が大きすぎる」アスイェは低い声で告げた。「この者は、それを嫌がっている」命じることもせず、赤子の耳を塞ぐこともなかった。ただ、教会の正殿の奥へと歩みを進め、九つ目の鐘が鳴《な》る前に、あの古びた石の椅子に腰をかけた。 磨り減った石の床《ゆか》に、アスイェの長靴《ながぐつ》の音が淡く響く。聖堂の空気は凍《こお》りつき、古びた祭壇
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第二話:欲望がない化け物
七日目の夜、雪は前よりも激しく降っていた。屋根には氷が張り、鐘が鳴るたびに、霧《きり》のような霜《しも》がぱらぱらと落ちた。暖炉《だんろ》には湿った薪《まき》がくべられており、今にも消えそうなほど弱い火が、かろうじて燃えていた。蝋燭《うそく》の油《あぶら》はなかなか溶けず、部屋の中には、温もりも得られないまま、埃の落ちる音さえ聞こえそうな静けさが満ちていた。その命は、白い布の中にあった。まだ目覚めていない。その名もないこれは、夜にだけ泣く。
ときには、泣くという仕草すら見せず、ただ口を開け、音も立てずに「泣いていた」。
まるで夢の中で、名もない何かを呼んでいるかのように。最初、執事はその存在は腹を減ったから泣いていた。彼は五つの液体を用意された。三種の栄養剤《 えいようざい》にはそれぞれ違う血を混ぜていた。二種の鎮静濃縮液《ちんせいのうしゅくえき》も試したが、すべて拒まれた。赤子は咬みつく欲も、吸いつく反応もなかった。
泣き止んだわずかな合間でさえ、まるで「正しい」味を待っているかのようで、口を開けようとはしなかった。アスイェは時折《ときおり》、その子に血を与えた。
吸血鬼の食事に先立《さきだ》つ古い儀式もなく、決まった頻度もない。
ただ石の座《ざ》に腰を下ろし、自らの指先を赤子の口元へと差し出すだけだった。その子は指を噛《か》み、咥《くわ》え、そしてすぐに離す。
毎回ほんのわずかしか吸わない。
まるで食べているのではなく、確かめているかのようだった。
――あの味が、アスイェという存在が、まだそこにあるということを。その夜、アスイェは出かけた。
鐘楼《しょうろう》で、彼に会いたい者がいるという。
教会に残されたのは、執事とあの子だけだった。暖炉の火は消えかけており、
執事は厚手のマントを羽織《はお》って、ゆりかごの前に立ち、しばらくその子を見下ろしていた。その子は眠っていた。
いや、正しく言えば、「深い眠り」に沈んでいた。
まるで冷たい夢の中に閉ざされたように、小さく身を縮めていた。頬は蒼白《あおじろ》く、唇にも血の気はなく、
それは生きた赤子というより、未完成の彫刻《ちょうこく》のようだった。執事は、自分が責任感のない人間ではないと考えていた。任務は果《は》たしている。ただ、冷ややかに、淡々と、それを作業として処理しているにすぎない
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第三話:寒いのがいや、鐘の音が怖い
子はいつも、朝の光よりも早く目を覚めた。
 あるいは――これまで一度も、本当の眠りについたことなどなかったのかもしれない。 教会の暖炉《だんろ》が、夜通し燃えることはない。とくに冬の夜明け前、気温は一気に底《そこ》を突く。
 石畳《いしだたみ》の隙間から這《は》い出す冷気は、古《ふる》びた木の扉さえ通り抜ける。 アスイェが目を覚ましたとき、火はすでに消えていた。暖炉《だんろ》の中には、白く乾いた灰が、うっすらと積もっていた。
 空気は冷えていたが、静かだった。 赤子は泣いていなかった。ただ、黙《だま》って、揺籠《ゆりかご》の中にいた。まぶたを閉じ、小さな身体を折《お》り畳《たた》み、浅く呼吸を繰り返し、気配を限りなく薄めていた。 まるで、雪の中に埋もれた灰のようだった。アスイェは一度だけ、揺籠《ゆりかご》を見た。 執事はまだ現《あらわ》れていなかった。彼は物音ひとつ立てずに歩を進め、赤子に近づいた。 赤子の身体は冷えきっていた。指先も唇も、色を失っていた。だが、それでも泣かなかった。
 泣いても意味がないと知っているようだった。誰も来ない。来ても、遅い。それを知っている者の顔をしていた。アスイェは何も言わなかった。
 ただ膝を折り、赤子を抱き上げた。その動作に、迷いはなかった。戸惑《とまど》いも、逡巡《しゅんじゅん》もなかった。彼はただ、赤子を自分の腕の中に置いた。
 それだけだった。 赤子は目を開けないまま、かすかに鼻先《はなさき》を動かし、何かを探るようにアスイェに寄った。 その匂いに、安心するように。力のない指が、彼の襟の端を掴んだ。アスイェは動かなかった。暖炉には、新たに火が入れられたが、彼は火のほうへは向かわなかった。暖かさを背に受けながら、振り返らず、視線も逸らさず、ただ揺籠《ゆりかご》の傍に立ち尽くしていた。 赤子の頭は、彼の肩にそっと凭《もた》れていた。呼吸はまだ浅かったが、震えは止まっていた。 ほんのわずかに、ほんのかすかに、体温が戻りつつあるようにも思えた。 あるいは――冷たくない何かが、すぐ近くにあると、そう感じ取っただけかもしれない。 執事が部屋に入ってきたとき、
 その光景《こうけ》を前に、わずかに足を止めた。「まさか、お抱きになるとは――」「可愛がっているつもりはない。このものは、ただ寒いだけだ。」アスイェは
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第四話:暗闇が苦手
あの夜、灯は早めに落とされた。
暖炉に薪《まき》はもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。
アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。アスイェは灯を点けなかった。
古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。
部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現れた。まるで、ためらうように、そこに留まることを許されているかのようだった。子はまだ目を覚ましていないが、動いていた。この者はまだ若く、成長も遅い。手足の動きは、まだうまく制御《せいぎょ》できていない。
その微細な動きは、アスイェの目には、かすかなもがきのように映った。子は、ただいつものように身を丸め、どこかに隠れようとしていた。この子は、暗闇を恐れている。
目を開けたことのない赤子にとって、それは未知ではない。むしろ、この身は暗闇から来て、うっかりすれば暗闇に呑まれる。それは――よく知っている感覚だった。子の小さな手が、無意識に揺籠《ゆりかご》の縁《ふち》を探っている。指先が木の縁に触れるたび、かすかな音が鳴る。アスイェは立ち上がった。灯りは持たず、いつものように、足音も立てない。それでも、赤子は気づいた。
空気が、わずかに変わった。
アスイェは揺籠の傍に立ち止まり、子を呼んだ。「この者」でも「子」でもない――ひとつの名前だった。ため息のような、人を呼ぶ音。
まだ名前を持たない子に向けられた、それでも意味を持つ呼びかけ。
それを聞いて、赤子の震えは止まった。そして――赤子は目を開けた。ゆっくり、ゆっくりと。夢の中から浮かび上がるように、まぶたが持ち上がる。その目は光を宿していない。だが、何もかもを見ていた。その目は、感情を持たず、ただまっすぐにアスイェを見つめていた。アスイェもまた、その目を見つめ返し、珍しいものを見つけたかのように、しばらくのあいだ、視線を逸らさなかった。――アスイェは、自分の目を見つけた。純血種《じゅんけつしゅ》は、めったに鏡を見な
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第五話:視線
赤子は、目を開けたまま動かなかった。
まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。アスイェは、いつものように黙《だま》って赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。その身は、最初まるで反応《はんのう》を示《しめ》さなかった。まるで、自分が揺籃《ゆりかご》から離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。
「抱きしめる」というよりも――ただ、必死に、無我夢中《むがむちゅう》でアスイェの襟をつかみ、その胸にしがみついただけだった。赤子は、泣きもしなかったし、音すら立てなかった。
ただ、アスイェの肩に必死でしがみついていた。自分が落とされないように、アスイェを失わないように。
アスイェはその小さな腕を抱き返すことなく、赤子に襟を掴まれたまま、黙って立っていた。
二人は、ぴたりと動きを止めていた。扉が開いたのは、その時だった――
執事が記録用《きろくよう》のボードを手に入ってきたが、アスイェの姿を見て、ふと足を止めた。足だけでなく、すべての動きが止まった。けれど、赤子は動いた。
アスイェもついに腕を動かし、片手でその身をしっかりと支えた。赤子はアスイェの腕の中で、ゆっくりと首を動かし、その視線を執事へと向けた。
その視線の先には、執事と、その後ろから微かに漏《も》れる灯《あか》りがあった。吸血鬼は灯りを嫌《きら》う。だが、赤子が見ていたのは、灯りではなかった。
音と、人だった。この子は、まだ「その人」が誰かを理解していない。
それでも、その小さな体は、アスイェの方へと、さらに近づいた。
さきほどよりもっと深く、まるでマントの中にでも隠れ込むように、耳をアスイェの胸にぎゅっと押し当てた。それは、本能だった。
恐れに対する、赤子の本能的な選択《せんたく》。この子は、まだ逃げない。
ならば、最も近く、最も安全な場所へ――それは、アスイェの腕の中だった。「このものは、お前を見た」アスイェは、静かに告げた。
「目を開けて、最初に見たのが、お前だった」執事は、何も言わなかった。
扉の近くに立ち止まり、まるで何か
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第六話:鐘声の審判
執事は、あの赤子が気に入らなかった。
理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。
三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理してきた。誰の目にも触れぬ記録を、幾度《いくど》も書き記した。
一度として、手を誤《あやま》ったことはない。彼は吸血鬼ではない。「記録者《きろくしゃ》」だ。|
血《ち》の定《さだ》めに縛《しば》られぬ身《み》。|
高貴《こうき》にはなれずとも、自由があり、記録の目と手を持つ。この収容場で、最も古く生き残った人間。最も静かな機械――だった。
あの「それ」が現れるまでは。赤子の皮《かわ》を被《かぶ》った、名《な》も知れぬ化け物は、泣いた。
その夜、執事は眠れなかった。細く、途切《とぎ》れもせず続く泣き声は、耳障《みみざわ》りな雑音のように廊下《ろうか》を這《は》い、北側《きたがわ》の個室《こしつ》から漏れていた。
扉を開けると、アスイェが揺籠の前に立っていた。
その指先は、化け物の口元《くちもと》に添《そ》えられている。小さな口が、かすかにその指を咥《くわ》えた。
同時に、泣き声は、途絶《とぜつ》えた。その後、アスイェはここに留まった。
もとより、純血の吸血鬼がこの収容場に長く留まることなど、ありえなかった。
収容場は穢《けが》れた場所で、育児は穢《けが》れた仕事だ。
育児は彼にとって、実験であり、罰《ばつ》でもあった。それでも、アスイェはここに残した。
まるで、何かを待つかのように。この高貴《こうき》な吸血鬼が、ここに残った理由を、彼は何も語らなかった。誰も、問うことはできなかった。「それ」を残されたのだ。
アスイェの指を咥えた、あの「そ
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第七話:初めての眠り、初めての笑い声
冬の朝の光が、高い窓から聖堂に差し込み、石の座は変わらず冷たい輝きを返していた。
アスイェは神座に腰を下ろし、マントの裾を床に垂らしたまま、長靴を無造作《むぞうさ》に組み、肘《ひじ》掛けに片手を預《あず》けている。
その目は閉ざされ、まるで、終わりの見えない長い休眠に、ただ黙って耐えているかのようだった。赤子はアスイェにしがみついていた。
まるで、自分の小さな巣から這《は》い出したくない、小動物《しょうどうぶつ》のように。赤子の髪は少しずつ伸びてきて、その輪郭《りんかく》から、ようやく性別が見えてきた。
このか細い命は、女の子だった。女の子の体は、吸血鬼とは違う。
暖かく、脈打《みゃくう》つ生気を宿《やど》していて、静かに澱《よど》むものではなかった。彼女は、アスイェのボタンを掴もうとするように、かすかに指先を動かした。
けれど、その指にはまだ十分な力がない。
だから、その仕草《しぐさ》はただ、触れたいと願《ねが》う影のように見えた。そして、彼女は自分の頬をアスイェの胸に押し当て、かすかな声を漏《も》らした。
「……|Sia《シア》」アスイェは目を開けなかった。「……|Sia《シア》」赤子は同じ言葉を繰り返し、必死《ひっし》にアスイェを呼んだ。「……|Sia《シア》」二度目は、まるで駄々《だだ》をこねるような響きだった。
まだその意味を理解しているはずもない。
だが、そう呼べば、アスイェは自分を置いていかない――幼《おさな》い本能だけが、彼女をそうさせていた。「……Si――a」三度目の呼びかけが途切れかけた瞬間、アスイェはようやく目を開けた。その瞳《ひとみ》に慰《なぐさ》めの色はない。
ただ、静まらない小さな身体をじっと見つめていた。「その呼び方はするな」アスイェの声は低く、静かだったが、その端《はし》に冷たさが滲《にじ》んでいた。彼女は小さく首をすくめた。
だが、掴んだアスイェの襟元《えりもと》から、指は
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第八話:初めての病気 ・前編
 アスイェは、ただ一言、低く呟いた。「俺は、出かける」そのとき、彼のマントは、小さな手に掴まれていた。 幼い指はまだ未熟で、力も足りず、それでも必死に布の端を握っている。 「お前を、連れては行かない」 冷えた声音だった。その子は足も短く、小さな体はまだ自分を支えきれず、傾けばすぐ転びそうだった。 アスイェは一瞬、その様子を見下ろし、無言で片手を添えた。 ごく僅かに押し戻すように支えると、子の身体はようやく安定し、その場に座った。「お前を連れて行かない」  もう一度、同じ言葉が繰り返された。 だが、手はまだ、離されていない。赤子は、アスイェを一瞥した。 その幼い目に、言葉の意味を探るような光があった。 ――その「連れて行かない」という言葉の中に、わずかな例外があるのではないかと。 けれど、アスイェの声には、揺らぎも隙もなかった。 次の瞬間、彼はマントの内側から小瓶を一つ取り出す。 細く、美しいガラス瓶だった。 中には、新しい血が赤く揺れている。 それは彼の血だ。 赤子はその瓶を見つめたまま、手を伸ばせなかった。 アスイェは静かにそれを彼女の手に置いた。 女の子はようやく、瓶をしっかりと握りしめる。 動きはまだ拙く、瓶を手の中でぎこちなく回しながら、 まるで初めて「抱擁《ほうよう》」というものを知ったかのようだった。「お腹が減ったら飲めばいい、すぐ戻る」淡々とした口調だった。 まるで約束でも命令でもなく、ただ一つの手順を告げるように。 アスイェは立ち上がり、数歩だけ進んでから、ふと振り返った。 その子は、もうしっかりと座っていた。背中を壁に預け、小さな体を、まるで自分の重さすら忘れたかのように落ち着かせている。
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第九話:初めての病気・後編
アスイェは、その服が汚れていることも気にせず、幼子をきれいな毛布でくるんだ。 今、彼は小さな炎を抱いている。 だが、それも気にしなかった。彼は静かに石の座に腰を下ろし、もう一度、幼子の背に手を当てた。 今、この子には慰めが必要だと知っていたからだ。 ――けれど、もし他の者がこの光景を見たら、きっと息を呑むだろう。 尊《とうと》いはずのアスイェが、幼子を慰めているなど。 そんなことは、あり得ない。それでも、その手付きには、やはり焦りも、咎《とが》めもなかった。その声はいつものように、ただ静かだった。  彼女はまだ泣いていた。 だが、その声は、次第に細く、静かになっていく。「……Si……a……」意味のない声だった。 それは、どこからともなく吹く、かすかな風に似ていた。呼んでいるのか。 それとも、ただの寝言か。 わからない。幼子は、アスイェの腕の中で小さく丸まって、まだ、彼の気配を探していた。  ***  しばらくして、アスイェは立ち上がった。 弱々しい幼子を抱え、聖堂の地下へ向かう。そこには、ほとんど知られていない石の一室がある。 外に比べ、さらに冷たい場所だった。 雪の日にここへ来ることなど、本来ありえない。 だが、アスイェは、病んだ子をそこへ連れてきた。灯りは蝋燭だけ。 その火は頼りなく揺れ、今にも消えそうだった。 暗闇が、すぐそこまで迫っている。 アスイェは、赤子を白い布の上に寝かせた。 幼子は泣き止んでいたが、その顔は異様《いよう》に赤い。 汗は止まらず、金色の髪は乱れたままだ。 さっきから、状況は何も変わ
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