LOGIN優秀な姉と比較され続け、自分の価値を見失いかけていた八島末広は、誕生日に姉から贈られたイヤホンにさえ素直になれず、ついには踏み壊してしまう。 だが翌朝、そのイヤホンは少女の姿をした悪霊アコとなって現れ、強引に取り憑きながら「自分を直してほしい」「ちゃんと音を聴いてほしい」と迫ってきた。 耳に指を差し込むだけで音楽を流し込んでくる異様な存在に振り回されながらも、半信半疑のまま試聴勝負に挑んだ八島は、そこで初めて“音を選ぶ”という感覚に触れた。 そして数多のイヤホンの中で、アコの音だけがなぜか胸の奥に届き――彼の世界は静かに変わり始める。
View More朝起きたら素っ裸の女の子に『絡まれて』いた。 頭の中に無数のクエスチョンマークが浮かび上がり、消えることなく俺の脳を瞬く間に埋め尽くす。
はてなが一つ出現する度に俺の心臓は激しく鼓動し、全身からは変な汗がにじみ出す。 絡まれている。 これは比喩ではない。 ベッドに俺は仰向けで寝ている。まあ自分の部屋で寝ていたのだから当然だろう。窓から差し込む光はまだ薄らとしていて、いつもの起床時間より一時間以上は早いと思われる。 しかし俺の体は現在鎖で縛られているかのように女の子の腕に、脚に、体に、髪によって全身を絡めとられていた。 ぬくもりが、ホットミルクのような心地よい暖かさがパジャマ越しに伝わってくる。布団はどうしたのだろうか。視線を泳がせると床に落ちているのが見えた。 女の子の顔は見えない。まるで触手のように突き出た黒い髪の毛によって覆い隠されていて、美女かブスかも判断できない。 さて、どうしたらいいのだろうか。女の子の体が動く、指がまるで蛇のように俺の体を伝い、そして――耳の穴に突っ込まれた。 だというのに不思議なくらい俺は興奮できなかった。 多分それは、困惑が大きかったからだと思う。 それは女の子が絡んでいるから? 違う。女の子の指から『音楽』が聴こえてきたからだ。俺のスマホに適当に入れておいた曲。 それが――やたらめったら『いい音』で聴こえてきたのである。これに驚かない人間などいない。興奮など起こりようがない。 俺はかろうじて残った理性と元気を振り絞り、女の子に声をかけてみる。 「なんすか、あんた」 すると髪の毛がタコのように揺れ動いたかと思うと、女の子はゆっくりと顔を上げた。 美少女だった。俺は心の中で小さくガッツポーズした。 ブスだったら石ぶつけてやるつもりだったからだ。 女の子は俺と同じくらいの年頃だろうか。全体的にほっそりとして、凛として、まるで氷細工のように美しい。 ここにきてようやく俺は彼女のおっぱいが体に密着していることを自覚したのである。 おっぱい。 それは柔らかかった。結構ボリュームがあるのか、柔らかかった。 なんて語彙力がない俺。でも仕方ない。だって柔らかいんだから。 もはや耳から絶えず流れる音楽なんてどうでもよくなった。 「なんすか、あんた」 俺はもう一度訊ねた。依然声が冷静なのは寝起きで叫ぶ元気がなかったからだ。いや、寝起きで「うわああああ!」なんて叫べるわけないだろ? 常識的に考えて。 「八島末広《やしますえひろ》くん」 彼女は俺の名前を知っていた。俺は彼女を知らない。新手のストーカーだろうか。俺ってストーキングされるほど魅力的だっけ? だったらここで一発やれるだろうか。 ……何考えてんだ俺。ダメだ、寝起きで脳が正常に働かない。 寝起きを言い訳にするな。 「八島くん」 「は、はい」 取り敢えず返事してみる。 「私と一緒に、私のためのDAPとアンプと無圧縮音源を揃えてください。そして――私で聴いてください!」 彼女は綺麗な声だった。シルクのようで、なめらかで、なんか聴いてて陶酔するような、非常に艶やかな声音。その宝石のような顔立ちと相俟って俺の心臓がとくんと大きな鼓動を鳴らすほどに。 ただ、言ってることは意味不明であったが。 DAP? なんだそりゃ? アンプ? なんじゃらほい? 日本語でおkとはまさにこのことである。 しかも私『で』聴いてくださいときた。てにおはもできねーのかよと言いたい気持ちでいっぱいである。 「聞いてますか?」 聞いてますが何て言っていいかわかりません。 「私がイヤホンだってのはわかりますか?」 全然。 イヤホン。 俺は「いきなり何ホザきやがりますか貴女」とは突っ込まず取り敢えず記憶の糸をたどって脳内フォルダから該当するであろう拡張子を探してみる。 確か、イヤホンと言えば――結論を言うなら、わかってくれなかった。「…………」 「ねーねー、私で聴いてくださいよ、音楽」 今日の夕飯はサキが作り置きしてくれたカレーだった。三日分ほど作ってくれたため、寸胴一杯にある。腐らないか心配だ。あとで小分けにして冷蔵庫に入れないと。俺は取り敢えず寸胴を温め、飯に盛った。辛口のカレーから漂う香りがつんと鼻を刺す。 「…………」 「黙ってないで、はい、耳ぷすっです」 俺はカレーをテーブルに置き、スプーンを手に取る前に耳に突っ込まれた指を払う。 さて、食おう。 「…………」 「あん、もう勝手に抜いちゃダメですよ。そういうの断線の原因になるんですよ」 俺はカレーを一口だけ食うとかちゃっと音を立てながらスプーンを置き、後ろでず――――――――っと抱きついているアコに向けてゆっくりと声をかける。 「あのね、アコさん」 「アコでいいですよ」「じゃアコ。俺が言いたいことわかるか」 「はい! オーオタになるにはどうすればいいかってことですね!」 どんっとテーブルを殴りつける俺。 「ちげーよ! さっきから四六時中俺に絡みやがって! なんでべったり俺にくっつくんだよっ!」 女の子に絡まれるのが嬉しくないわけではないが、こうも何時間もずーっとくっつかれるとはっきり言ってうざい。美女は三日で飽きるというが、ハグは三時間で飽きる。 てか暑苦しいんじゃ! 飯食いにくいんじゃ! のけっ! しかしそんな俺の気持ちはちっともわかってはくれなかった! 「だって私イヤホンですし。ケーブルがご主人様に絡むのは当たり前じゃないですか」 「fっじょrjgじぇあ!」 もはや言葉にならない。何て良いかわからない。 この女には常識というものがないのだろうか? 「ジャパニーズプリーズ」 言いたいことは山ほどある。とにかく言いたいことが山ほどある。 だが、あまりにも多すぎるのでとても言えない。となれば―― 「取り敢えず常識的なことだけ言う」 「はい!」 アコはとても嬉しそうに返事を
俺はひくひくと眉をひそめる。 「……自分で悪霊って言っちゃうんだ。で? 俺に何して欲しいの?」 「はい! 私八島くんに踏まれて壊されちゃったのでまずそれを修理して欲しいです!」 まあ確かに踏んで壊したのだから、その意見そのものは至極まっとうである。 ただし、それはあくまで意見それ自体の話である。 「俺イヤホンなんか直せない」 そう、はっきり言って俺は手先が不器用だ。電子機器の工作なぞしたことがない。 自分で言うのもなんだが本当につまらない人間なのである。 何の特技もなく、何の取り柄もなく、何を思うわけでもなく。 でも、それを知っているからこそ身分相応にただ黙って生きてきたし、多分これからもそうなのだ。 それを、アコは否定しているわけで。 一体どうしろというのでしょう。 そんなことを悩んでいると、アコは何てことのないようにこう言い放つ。 「イヤホン専門店で直してくれますよ。数千円で」 「……高いね。で、それで成仏してくれるの?」 「いいえ」 「なんでだよ!」 意味ねーじゃねえか! するとアコは俺の手を握り、妙に真剣な顔つきでじっと見つめてきたではないか。 「だって八島くん、せっかくお姉さんに買って貰ったのに全然使ってくれる気配がないじゃないですか。欲求不満なんですよ、私」 昨日の今日で使えってか? どんだけせっかちな悪霊だよ。 俺は頭をぼりぼりと掻きながら視線を逸らし、少しだけ申し訳なさを込めながら。 「使ってって言われても……俺あんまイヤホンとか使わないし」 「ええ!? 私こう見えても八万五千円もするんですよ!?」 仰天。 「はぁ!? なんでたかがイヤホンがそんなにするんだよ!?」 「だって私、一磁極性バランスドアーマチュア型シングルBAイヤホンのフラグシップモデルですし」 「…………」 何言ってるのかさっぱりわからん。 目をぱちくりさせている俺を見つめながら、アコは眉間に少し皺を寄せながら高らかにとんでもないことを
俺はベッドに腰掛け、はぁ、とため息をつく。 目の前にはサキの服をまとったアコの姿がある。身長に違いがあるのか結構だぶだぶである。それはそれで何か可愛らしさが漂っているので俺ととしてはこれ以上特に言うことはない。 「えーと、取り敢えず服は着せたからいいとして――」 まず、彼女を呼ぶにしても何と呼べば良いのかわからない。俺は腕を組み、うーんと首をひねる。 「えと、名前が……」 すると女の子はだぼだぼな袖を引っ張りながら妙に通る声で元気よく答える。 「AHP004と言います」 「人間の名前じゃねえ……」 「イヤホンですから」 AHP004はなんてことのないように言った。 俺はもう一度深いため息をつき、ぽすんと枕に背中を預ける。腰に変な負担がかかってちょっと痛かった。 「なんか呼ぶとき強烈な違和感があるから、別の呼び方ない?」 AHP004は俺の隣に座り込み、人差し指を口元に添えながらうーんと天井を見上げる。その表情はどことなく稚気を感じさせ、なんていうか、こんな時なのにかわいいと思えるほどだった。 「と言われましても……あ、じゃあこうしましょう。私、同社イヤホンのフラグシップですからフラグちゃんとでもお呼びください」 とはいえ、だからといって彼女の案を受け入れられるかというと、話は別である。 「それも呼びにくいなあ。それにフラグシップって別に君以外にもあるよね? 他社ならさ」 「まあ、そりゃ」 「なんかこう、君を現すに相応しい、こう、なんかいいのない?」 できれば人間っぽい名前はないのだろうか。 正直人間に向かって数字を使ったり、フラグちゃんなどという縁起の悪い名前を口にするのはどうにも憚られるというか、精神的にあまりおよろしくない。 まあ、あくまで個人的な感情でしかないのだけど。 「あー、じゃあ我が社の名前からもじってアコというのはどうです?」 「アコ……。おお、それは人の名前っぽくていいね! よし、決定!」「おそれいります」 AHP004、もといアコは誇らしげに小さく頭を下げた。 さて、これ
初夏。日増しに気温は高くなり、青々とした空が四時を過ぎても維持されるようになった五月下旬。 長袖ではもう暑くて仕方がなく、俺はブレザーを脱いで肩にかけながら電車に揺られ、帰宅の途につく。 電車の中には帰宅途中の学生の姿がちらほら見える。リーマンの姿はさほど多くなく、彼らはまだ働いているということだろう。 俺はドアに体重を預け、窓から街並みをぼんやりと眺める。 何の変哲もない地方都市。東京のようにビルがひしめくことはなく、少し走れば田園風景が広がり、忘れた頃にマンションやオフィスビルなどがぽこぽこと姿を現し、また消えていく。 道路はかじってテーブルにこぼしたクッキーの破片のようにパラパラと見える。白や銀の車がヤケに多いのは彼らの美意識が共有されているからか、それとも目立つのが嫌だからか。後者ならば俺も同じだ。 いつもの風景。特に何か思うこともない平均的で、平凡で、退屈で、でも、それでいいと思える景色。 特別なことなど必要か? 個性なんか必要か? 俺はいらないと思う。あるいは、仮にあったとしてもそれは世界に対して何ら影響を及ぼさない。そして、それでいいのだと。 何も考えず、何も思わず、自動的に生きていく。 ――だってそうでないと、俺は嫉妬に押しつぶされてしまうから。 「おかえり」 家に帰るなり、リビングからサキの声がつまらなそうに響いた。 サキというのは姉のことだ。 「ただいま」 俺が返事をしながら靴を脱ぎ、リビングには行かず自室に戻ろうとして――「誕生日おめでとう」 そんな声と共にドアが開かれ、サキがひょっこりと顔を出してきた。栗色の長髪がやけに目立つ細身の女性。姉とは思えないほど顔の造形が整っている。 背も高いし、凜々しさを全身からオーラのように漂わせているし、なんていうか俺とは違う。 強いて言うなら胸のサイズは俺と大して変わらん。 ……男と比較するのは失礼か? まあいいか。 と、サキが刃物を思わせる鋭い双眼でじっと俺を見つめながら不思議そうに首を傾げる。 「どったの?」