イヤホン『アコ』の恋

イヤホン『アコ』の恋

last updateLast Updated : 2026-06-07
By:  深田ありUpdated just now
Language: Japanese
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優秀な姉と比較され続け、自分の価値を見失いかけていた八島末広は、誕生日に姉から贈られたイヤホンにさえ素直になれず、ついには踏み壊してしまう。 だが翌朝、そのイヤホンは少女の姿をした悪霊アコとなって現れ、強引に取り憑きながら「自分を直してほしい」「ちゃんと音を聴いてほしい」と迫ってきた。 耳に指を差し込むだけで音楽を流し込んでくる異様な存在に振り回されながらも、半信半疑のまま試聴勝負に挑んだ八島は、そこで初めて“音を選ぶ”という感覚に触れた。 そして数多のイヤホンの中で、アコの音だけがなぜか胸の奥に届き――彼の世界は静かに変わり始める。

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Chapter 1

序章 

朝起きたら素っ裸の女の子に『絡まれて』いた。 頭の中に無数のクエスチョンマークが浮かび上がり、消えることなく俺の脳を瞬く間に埋め尽くす。

はてなが一つ出現する度に俺の心臓は激しく鼓動し、全身からは変な汗がにじみ出す。

絡まれている。

これは比喩ではない。

ベッドに俺は仰向けで寝ている。まあ自分の部屋で寝ていたのだから当然だろう。窓から差し込む光はまだ薄らとしていて、いつもの起床時間より一時間以上は早いと思われる。

しかし俺の体は現在鎖で縛られているかのように女の子の腕に、脚に、体に、髪によって全身を絡めとられていた。

ぬくもりが、ホットミルクのような心地よい暖かさがパジャマ越しに伝わってくる。布団はどうしたのだろうか。視線を泳がせると床に落ちているのが見えた。

女の子の顔は見えない。まるで触手のように突き出た黒い髪の毛によって覆い隠されていて、美女かブスかも判断できない。 さて、どうしたらいいのだろうか。女の子の体が動く、指がまるで蛇のように俺の体を伝い、そして――耳の穴に突っ込まれた。 だというのに不思議なくらい俺は興奮できなかった。

多分それは、困惑が大きかったからだと思う。

それは女の子が絡んでいるから? 違う。女の子の指から『音楽』が聴こえてきたからだ。俺のスマホに適当に入れておいた曲。

それが――やたらめったら『いい音』で聴こえてきたのである。これに驚かない人間などいない。興奮など起こりようがない。

俺はかろうじて残った理性と元気を振り絞り、女の子に声をかけてみる。

「なんすか、あんた」

すると髪の毛がタコのように揺れ動いたかと思うと、女の子はゆっくりと顔を上げた。

美少女だった。俺は心の中で小さくガッツポーズした。

ブスだったら石ぶつけてやるつもりだったからだ。

女の子は俺と同じくらいの年頃だろうか。全体的にほっそりとして、凛として、まるで氷細工のように美しい。

ここにきてようやく俺は彼女のおっぱいが体に密着していることを自覚したのである。

おっぱい。

それは柔らかかった。結構ボリュームがあるのか、柔らかかった。

なんて語彙力がない俺。でも仕方ない。だって柔らかいんだから。

もはや耳から絶えず流れる音楽なんてどうでもよくなった。

「なんすか、あんた」

俺はもう一度訊ねた。依然声が冷静なのは寝起きで叫ぶ元気がなかったからだ。いや、寝起きで「うわああああ!」なんて叫べるわけないだろ? 常識的に考えて。

「八島末広《やしますえひろ》くん」

彼女は俺の名前を知っていた。俺は彼女を知らない。新手のストーカーだろうか。俺ってストーキングされるほど魅力的だっけ? だったらここで一発やれるだろうか。

……何考えてんだ俺。ダメだ、寝起きで脳が正常に働かない。

寝起きを言い訳にするな。

「八島くん」

「は、はい」

取り敢えず返事してみる。

「私と一緒に、私のためのDAPとアンプと無圧縮音源を揃えてください。そして――私で聴いてください!」

彼女は綺麗な声だった。シルクのようで、なめらかで、なんか聴いてて陶酔するような、非常に艶やかな声音。その宝石のような顔立ちと相俟って俺の心臓がとくんと大きな鼓動を鳴らすほどに。

ただ、言ってることは意味不明であったが。

DAP? なんだそりゃ? アンプ? なんじゃらほい?

日本語でおkとはまさにこのことである。

しかも私『で』聴いてくださいときた。てにおはもできねーのかよと言いたい気持ちでいっぱいである。

「聞いてますか?」

聞いてますが何て言っていいかわかりません。

「私がイヤホンだってのはわかりますか?」

全然。

イヤホン。

俺は「いきなり何ホザきやがりますか貴女」とは突っ込まず取り敢えず記憶の糸をたどって脳内フォルダから該当するであろう拡張子を探してみる。

確か、イヤホンと言えば――

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序章 
朝起きたら素っ裸の女の子に『絡まれて』いた。 頭の中に無数のクエスチョンマークが浮かび上がり、消えることなく俺の脳を瞬く間に埋め尽くす。 はてなが一つ出現する度に俺の心臓は激しく鼓動し、全身からは変な汗がにじみ出す。 絡まれている。 これは比喩ではない。 ベッドに俺は仰向けで寝ている。まあ自分の部屋で寝ていたのだから当然だろう。窓から差し込む光はまだ薄らとしていて、いつもの起床時間より一時間以上は早いと思われる。 しかし俺の体は現在鎖で縛られているかのように女の子の腕に、脚に、体に、髪によって全身を絡めとられていた。 ぬくもりが、ホットミルクのような心地よい暖かさがパジャマ越しに伝わってくる。布団はどうしたのだろうか。視線を泳がせると床に落ちているのが見えた。 女の子の顔は見えない。まるで触手のように突き出た黒い髪の毛によって覆い隠されていて、美女かブスかも判断できない。 さて、どうしたらいいのだろうか。女の子の体が動く、指がまるで蛇のように俺の体を伝い、そして――耳の穴に突っ込まれた。 だというのに不思議なくらい俺は興奮できなかった。 多分それは、困惑が大きかったからだと思う。 それは女の子が絡んでいるから? 違う。女の子の指から『音楽』が聴こえてきたからだ。俺のスマホに適当に入れておいた曲。 それが――やたらめったら『いい音』で聴こえてきたのである。これに驚かない人間などいない。興奮など起こりようがない。 俺はかろうじて残った理性と元気を振り絞り、女の子に声をかけてみる。「なんすか、あんた」 すると髪の毛がタコのように揺れ動いたかと思うと、女の子はゆっくりと顔を上げた。 美少女だった。俺は心の中で小さくガッツポーズした。 ブスだったら石ぶつけてやるつもりだったからだ。 女の子は俺と同じくらいの年頃だろうか。全体的にほっそりとして、凛として、まるで氷細工のように美しい。 ここにきてようやく俺は彼女のおっぱいが体に密着していることを自覚したのである。 おっぱい。 それは柔らかかった。結構ボリュームがあるのか、柔らかかった。 なんて語彙力がない俺。でも仕方ない。だって柔らかいんだから。 もはや耳から絶えず流れる音楽なんてどうでもよくなった。 「なんすか、あんた」 俺はもう一
last updateLast Updated : 2026-04-18
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1章 1
初夏。日増しに気温は高くなり、青々とした空が四時を過ぎても維持されるようになった五月下旬。 長袖ではもう暑くて仕方がなく、俺はブレザーを脱いで肩にかけながら電車に揺られ、帰宅の途につく。 電車の中には帰宅途中の学生の姿がちらほら見える。リーマンの姿はさほど多くなく、彼らはまだ働いているということだろう。 俺はドアに体重を預け、窓から街並みをぼんやりと眺める。 何の変哲もない地方都市。東京のようにビルがひしめくことはなく、少し走れば田園風景が広がり、忘れた頃にマンションやオフィスビルなどがぽこぽこと姿を現し、また消えていく。 道路はかじってテーブルにこぼしたクッキーの破片のようにパラパラと見える。白や銀の車がヤケに多いのは彼らの美意識が共有されているからか、それとも目立つのが嫌だからか。後者ならば俺も同じだ。 いつもの風景。特に何か思うこともない平均的で、平凡で、退屈で、でも、それでいいと思える景色。 特別なことなど必要か? 個性なんか必要か? 俺はいらないと思う。あるいは、仮にあったとしてもそれは世界に対して何ら影響を及ぼさない。そして、それでいいのだと。 何も考えず、何も思わず、自動的に生きていく。 ――だってそうでないと、俺は嫉妬に押しつぶされてしまうから。 「おかえり」 家に帰るなり、リビングからサキの声がつまらなそうに響いた。 サキというのは姉のことだ。 「ただいま」 俺が返事をしながら靴を脱ぎ、リビングには行かず自室に戻ろうとして――「誕生日おめでとう」 そんな声と共にドアが開かれ、サキがひょっこりと顔を出してきた。栗色の長髪がやけに目立つ細身の女性。姉とは思えないほど顔の造形が整っている。 背も高いし、凜々しさを全身からオーラのように漂わせているし、なんていうか俺とは違う。 強いて言うなら胸のサイズは俺と大して変わらん。 ……男と比較するのは失礼か? まあいいか。 と、サキが刃物を思わせる鋭い双眼でじっと俺を見つめながら不思議そうに首を傾げる。 「どったの?」
last updateLast Updated : 2026-04-19
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1章 2
俺はベッドに腰掛け、はぁ、とため息をつく。 目の前にはサキの服をまとったアコの姿がある。身長に違いがあるのか結構だぶだぶである。それはそれで何か可愛らしさが漂っているので俺ととしてはこれ以上特に言うことはない。 「えーと、取り敢えず服は着せたからいいとして――」  まず、彼女を呼ぶにしても何と呼べば良いのかわからない。俺は腕を組み、うーんと首をひねる。 「えと、名前が……」  すると女の子はだぼだぼな袖を引っ張りながら妙に通る声で元気よく答える。 「AHP004と言います」 「人間の名前じゃねえ……」 「イヤホンですから」  AHP004はなんてことのないように言った。  俺はもう一度深いため息をつき、ぽすんと枕に背中を預ける。腰に変な負担がかかってちょっと痛かった。 「なんか呼ぶとき強烈な違和感があるから、別の呼び方ない?」 AHP004は俺の隣に座り込み、人差し指を口元に添えながらうーんと天井を見上げる。その表情はどことなく稚気を感じさせ、なんていうか、こんな時なのにかわいいと思えるほどだった。 「と言われましても……あ、じゃあこうしましょう。私、同社イヤホンのフラグシップですからフラグちゃんとでもお呼びください」  とはいえ、だからといって彼女の案を受け入れられるかというと、話は別である。 「それも呼びにくいなあ。それにフラグシップって別に君以外にもあるよね? 他社ならさ」 「まあ、そりゃ」 「なんかこう、君を現すに相応しい、こう、なんかいいのない?」  できれば人間っぽい名前はないのだろうか。  正直人間に向かって数字を使ったり、フラグちゃんなどという縁起の悪い名前を口にするのはどうにも憚られるというか、精神的にあまりおよろしくない。  まあ、あくまで個人的な感情でしかないのだけど。 「あー、じゃあ我が社の名前からもじってアコというのはどうです?」 「アコ……。おお、それは人の名前っぽくていいね! よし、決定!」「おそれいります」  AHP004、もといアコは誇らしげに小さく頭を下げた。  さて、これ
last updateLast Updated : 2026-04-19
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1章 3
 俺はひくひくと眉をひそめる。 「……自分で悪霊って言っちゃうんだ。で? 俺に何して欲しいの?」 「はい! 私八島くんに踏まれて壊されちゃったのでまずそれを修理して欲しいです!」 まあ確かに踏んで壊したのだから、その意見そのものは至極まっとうである。   ただし、それはあくまで意見それ自体の話である。 「俺イヤホンなんか直せない」   そう、はっきり言って俺は手先が不器用だ。電子機器の工作なぞしたことがない。   自分で言うのもなんだが本当につまらない人間なのである。   何の特技もなく、何の取り柄もなく、何を思うわけでもなく。   でも、それを知っているからこそ身分相応にただ黙って生きてきたし、多分これからもそうなのだ。   それを、アコは否定しているわけで。   一体どうしろというのでしょう。   そんなことを悩んでいると、アコは何てことのないようにこう言い放つ。 「イヤホン専門店で直してくれますよ。数千円で」 「……高いね。で、それで成仏してくれるの?」 「いいえ」 「なんでだよ!」   意味ねーじゃねえか!   するとアコは俺の手を握り、妙に真剣な顔つきでじっと見つめてきたではないか。 「だって八島くん、せっかくお姉さんに買って貰ったのに全然使ってくれる気配がないじゃないですか。欲求不満なんですよ、私」   昨日の今日で使えってか? どんだけせっかちな悪霊だよ。   俺は頭をぼりぼりと掻きながら視線を逸らし、少しだけ申し訳なさを込めながら。 「使ってって言われても……俺あんまイヤホンとか使わないし」 「ええ!? 私こう見えても八万五千円もするんですよ!?」  仰天。 「はぁ!? なんでたかがイヤホンがそんなにするんだよ!?」 「だって私、一磁極性バランスドアーマチュア型シングルBAイヤホンのフラグシップモデルですし」 「…………」   何言ってるのかさっぱりわからん。   目をぱちくりさせている俺を見つめながら、アコは眉間に少し皺を寄せながら高らかにとんでもないことを
last updateLast Updated : 2026-04-21
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1章 4
 結論を言うなら、わかってくれなかった。「…………」 「ねーねー、私で聴いてくださいよ、音楽」   今日の夕飯はサキが作り置きしてくれたカレーだった。三日分ほど作ってくれたため、寸胴一杯にある。腐らないか心配だ。あとで小分けにして冷蔵庫に入れないと。俺は取り敢えず寸胴を温め、飯に盛った。辛口のカレーから漂う香りがつんと鼻を刺す。 「…………」 「黙ってないで、はい、耳ぷすっです」   俺はカレーをテーブルに置き、スプーンを手に取る前に耳に突っ込まれた指を払う。   さて、食おう。 「…………」 「あん、もう勝手に抜いちゃダメですよ。そういうの断線の原因になるんですよ」   俺はカレーを一口だけ食うとかちゃっと音を立てながらスプーンを置き、後ろでず――――――――っと抱きついているアコに向けてゆっくりと声をかける。 「あのね、アコさん」 「アコでいいですよ」「じゃアコ。俺が言いたいことわかるか」 「はい! オーオタになるにはどうすればいいかってことですね!」   どんっとテーブルを殴りつける俺。 「ちげーよ! さっきから四六時中俺に絡みやがって! なんでべったり俺にくっつくんだよっ!」   女の子に絡まれるのが嬉しくないわけではないが、こうも何時間もずーっとくっつかれるとはっきり言ってうざい。美女は三日で飽きるというが、ハグは三時間で飽きる。   てか暑苦しいんじゃ! 飯食いにくいんじゃ! のけっ!   しかしそんな俺の気持ちはちっともわかってはくれなかった! 「だって私イヤホンですし。ケーブルがご主人様に絡むのは当たり前じゃないですか」 「fっじょrjgじぇあ!」   もはや言葉にならない。何て良いかわからない。  この女には常識というものがないのだろうか? 「ジャパニーズプリーズ」  言いたいことは山ほどある。とにかく言いたいことが山ほどある。   だが、あまりにも多すぎるのでとても言えない。となれば―― 「取り敢えず常識的なことだけ言う」 「はい!」  アコはとても嬉しそうに返事を
last updateLast Updated : 2026-04-22
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1章 5
 かぽーん。そんな擬音が今にも聞こえてきそうなぬくもり。 「ふう、やっと解放された……」   湯船につかり、やっと一息つける。   俺は浴槽に背を持たれ、ぼんやりと考える。 「しかしなんだありゃ? 一体俺にどうしろと……」   いや、何度も彼女は言っているのだからそれはわかる。俺にオーディオとやらを揃えて聴いてくれと言っているのだ。   それを断わった理由の一つは金だ。俺は学生であって、アコが提示したであろう機器を揃える金がない。   だが、あくまで理由の一つでしかない。   俺にとって最大の拒否理由は、何かを望むことが怖いのだ。   何も望まず、何も考えず、何もやらない。それだけがコンプレックスにまみれた俺の処世術であって、俺の未来に何か、得体の知れない恐怖のようなものをぼんやりと抱いてしまうのだ。   失うとか、無くすとか、そういう具体的なものではない。   ただ、ぼんやりとした恐怖、いや、不安であった。   俺ははは、と苦笑して湯船に顔をうずめる。ぶくぶくと泡を立てる。   と、その時。 「八島くん!」「わあ! 何で来るんだよ! 濡れたら壊れるんだろ!?」   俺は声を上げずにはいられなかった。   まさかそこまでするとは思わなかった。   しかしアコの裸体か。実は全く興味がないわけではない。朝見たけどな。   俺は湯船から顔を出し、ちらっと見る。   ――衝撃的であった。 「ですからビニール被ってきました!」 「…………」   そう、アコの言う通り彼女はビニールを被っていた。凄い大きいやつ。頭からつま先まで完全に覆われている。しかもビニールが黄ばんでいる。しかもなんかパリパリしてそうというか、固まっているような。   どこから持ってきた? 「どうしました?」 「息出来るの?」   俺は全くどうでもいいことを質問してしまった。   いや、聞くべきはそこじゃないだろう。 「私人間じゃありませんから」   でも、彼女が言ったその一言であることに気づいた。
last updateLast Updated : 2026-04-24
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1章 6
 何とか入浴を終え、パジャマに着替えた俺は自室のベッドに倒れるように寝転がる。 「ああ、疲れた」   たかが飯を食うだけ、たかが風呂に入るだけでなんでこんなにも疲れるのでしょう?   理由は一つしかない。 「さ、音楽を聴きましょう!」 「寝ます」   俺はゴロンと寝返りを打つ。   しかしアコは俺の肩を掴み、無理矢理ひっくり返してきやがったではないか。 「ええええええ! じゃあ寝ホンしましょう」 「寝ホンって何?」   初めて聞く言葉である。 「寝ながら音楽を聴くことです。断線の原因になります」 「じゃダメじゃん」   俺による至極まっとうな突っ込み。   アコは口を抑え、はっとなったように目を見開く。 「あ、そうでした! 私、リケーブルできるから大丈夫」 「リケーブルって何?」 「イヤホンのケーブルを交換できるんですよ! 別売りで! 断線対策は勿論、ケーブルを変えることで音質を向上させられるんですよ!」 「…………」   俺はじろじろとアコを見る。人間である。どこからどう見ても人間である。   となれば、言うべき言葉はこれしかない。 「君のどこをどう変えるわけ?」 「そりゃあ、勿論――あ、しまった! 今私人間だからリケーブルしたら腕引っこ抜けます」 「……ばーか」 「ひどい!」
last updateLast Updated : 2026-04-26
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1章 7
 そんなことがあった翌日。俺は教室に着くや否や即座に机に突っ伏し、安堵の声を漏らす。 「学校がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだ……」   アコがいない。ただそれだけだというのにとても心地が良かった。   いや、アコが悪い子ではないのはわかるのだが、しかし俺の生きたいと願う形と合わないことへの心のずれが、感情を壊していくのである。   そんな時、俺の背中がぽんぽんと叩かれる。   顔を上げるとそこには一人の女子がいた。 「八島、どうしたの、そんなに黄昏れて」   陶器のように白い肌。草色のセーラー服からはふんわりと太陽の香りが漂っていて、くりくりとした大きな瞳が、じっと俺を見つめている。   そんな倉戸紐育《ぐらどいく》に向けて俺は重いため息まじりに答える。 「あ、紐育……いや、別に黄昏れてるわけじゃ」 「じゃ、眠いの?」   紐育が少し青みがかったストレートの長髪をかき分けながらくいっと首を傾げた。口元から朝何を食べたのかわからんが、妙に甘い香りが漂う。それは何となく心地のいいものだった。   俺は頭をぼりぼりと掻き、視線を窓の外へと向ける。初夏の息吹を感じられる明るくて暖かい青空が広がっていて、何とも気持ちのいいものだった。少し開かれた窓から流れる風にはほのか暑さすら感じられる。   そんな楽園的な空気が俺の瞼を鉛のように重くしていくのだ。 「そういうわけでも……いや、眠いな」 「変な八島」   と、紐育が俺の肩をつんつんとつつきながら顔を近づけ、 「私の頬をすりすりさせてあげようか?」   ふう、と耳もとに息を吹き込んできた。 「わあ! 何するんだよ紐育!」  俺は思わず肩をびくんと跳ね上げてしまう。眠気など吹っ飛んでしまった。 「あはは、赤くなってる赤くなってる」 「そ、そんなこと」 「ほれほれ、すべすべのほっぺだぞー? 気持ちいいぞー」 「う……ぐ……なら」 「なんてね」  ぺろっと紐育が舌を出してウインクした。  ああ、紐育らしい。 「はは、ったく紐育は相変わらずなんだから」  これ
last updateLast Updated : 2026-04-28
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1章 8
 体育館裏までアコを引っ張り込むと、俺はどんっと壁に手を押し当てながら彼女に向けて精一杯の睥睨を突きつける。 「な・ん・で・き・た!」 「なんでって……来ちゃいけないんですか?」 「当たり前でしょーがっ!」   言わなきゃわかんないのかよっ!   しかしそんな俺の突っ込みは空しく、アコは至極真面目な顔つきでこんなことを言い放ちやがる。 「だって通学中にイヤホンはポタオデの常識じゃないですか。それってつまり、使われたイヤホンは鞄の中にあるってことじゃないですか」   色々言いたいことはあるが、取り敢えずこれ。 「ポタオデってなに?」 「ポータブルオーディオ。お外で使うオーディオのことです。主にイヤホンとDAPのことですね」   また出ましたよDAP。なんだそりゃ。 「昨日から思ってた。DAPって何?」 「もう、そこから言わないとダメなんですか?」 「だって俺全然わかんねーもん」   専門知識のない人間に専門用語言われたってわかるわけねーだろばーか。   するとアコは自分の胸をどんと叩き、やけに誇らしげに語り出す。 「わかりました! 八島くんのためにオーディオのなんたるかを教えて差し上げます」 「そんな張り切らんでも」  俺はひくひくと目元を引きつらせた。   と、まるで壇上に立つ政治家のようにアコは高らかに語り出す。 「いいですか、オーディオというのは十九世紀のイギリスで発祥しまして、オーケストラを家でも楽しむための装置として開発されました」 「ふむふむ」 「勿論アメリカの、まあエジソンですね。彼が生み出した蓄音機からレコードを鳴らすのが主流なわけですが、イギリスでは独自の発展を遂げました。電話回線で受話器を耳に当て、音を聴く。これがヘッドホン、イヤホンの祖先です。エレクトロホンと言います。聴診器みたいな形をしていますね」 「ほむほむ」 「それが発展してまずヘッドホンが開発されました。そしてヘッドホンはその装着するという観点から外でも使うという発想に至りました。ウォークマンの誕生以後それはより顕著となり、ヘッドホンはどんどん小型化され、
last updateLast Updated : 2026-04-29
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1章 9
「げ……紐育」 まあそりゃ気になるだろうね。でしょうね。 アコが俺の脇に立つとつんつんと肘でつついてくる。 「さっきも話してましたよね、どちら様ですか?」 俺は頭をぼりぼりと掻き、空を見上げた。 「……中学時代からの友達。名前は倉戸紐育。漢字でニューヨークと書いていくと読むんだ」 キラキラネームみたいなもんだが、本人は全然気にしてない模様。「金星をまあずと読んだり、火星をじゅぴたーと読んだりするよりいいじゃん?」とのこと。 ……それは論外だと思うのだが、まあ本人が嫌がってないなら何も言うまい。 しかしアコが反応したのはそっちではなかった。 「幼なじみってやつですね!」 「……中学時代からで幼なじみとは言わんだろう」 多分。 さて紐育であるが、彼女は腰に手を当て、少しだけなじるような冷たい視線を向けながら、 「八島。その子、誰?」 と訊ねてきた。 俺はズボンのポケットに手を突っ込むと、ふーふーと口笛を吹いてみせる。全然音が出ない。 「誰って……えーと」 するとアコが何故か凄く嬉しそうに挙手しながら、満面の笑みを浮かべながら高らかに。 「はじめまして! 私、八島くんのイヤホンのアコと申します! どうぞよろしく」 「…………」 どストレートに言うバカがいますかね。誰が信じると思って――。 「はい、よろしく、倉戸紐育です。てことは付喪神みたいなものなのかな? 初めて見たよ」 信じたよこの人!? なんで!? そんな俺の顔を見られたか、紐育が流し目で俺を見つめてくる。 「八島。今私のことバカにしたっしょ」 「え? い、いや、そんなことは……でも、なんで素直に信じるかなあ?」 「だって本人がそう言ってるじゃん」 「言えば信じるんかい!」 そんな馬鹿な話があってたまるか! すると紐育は俺の前まで歩み寄ると、つんつんと俺の頬を突っつき出す。 「だってさ八島。冷静に
last updateLast Updated : 2026-04-30
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