Chapter: 3章 11 小屋を出た頃には灰色だった曇り空には隙間が生まれ、青い空がぽっかりと顔を見せてくれていた。それはまるで俺たちを祝福しているかのようで、なんとも気分がいい。 冬風は冷たいが陽射しが俺たちを優しく温めてくれる。 「うーん、よかったねさつきさん。活動写真楽しかった?」 「全っ然集中出来ませんでした。誠二様ずっと喋ってらっしゃるんですもの」 「だってしょうがないじゃん。黙ってたら考えちゃうでしょ?」 「……疲れました」 さもありなん。俺は後頭部に腕を回し、空を見上げながらぽつりと。 「うーん、失敗だったなあ。でも心の声は出さなかったね」 「でも」 「ん?」 「私のためにそこまでしてくださる誠二様の姿は、楽しかったですよ」 ちらりとさつきさんを見ると、そこには春の陽射しを思わせる満面の笑顔が見事なまでに咲き誇っていた。 「そうか、そりゃなにより! 腹が減ってきたね。食事にしようか」 「はい! 色々ありますねえ。どれにしましょう」 俺たちは町を寝る歩きながら食べ物屋を見て回る。そば屋、寿司屋、料亭、割烹、大衆食堂、しかしせっかくのランデブーなのだ。もうちょっと品のよいものを……。 「お、洋食屋があるよ。カツレツ食べよう」 「わかりました」 さつきさんも納得してくれたようで、明るい声で頷いてくれた。 ちなみに後ろにはぞろぞろと鈴子さんとそのお付き、さらに新聞社、雑誌社の面々が歩いていて、さながら大名行列である。 彼らも入るのだろうか? 入るんだろうな。満員御礼だ。 「いらっしゃいませー」 案の定、鈴子さんたちも入った。 まあ仕方ない。俺たちは壁際に座ってメニューを見ると、流石に山口はにぎやかな町だけあって東京と変わらないようだ。 俺は店員を呼び、早速とばかりに注文する。 「さて、じゃあカツレツにライスをつけて二人前……」 「あ、待ってください。私、オムレツがいいです」 「オムレツ?」 「はい、実は私、お肉好きなんですけど、卵の方がもっと好きでして……すみません」
Última actualización: 2026-07-24
Chapter: 3章 10 かくして、俺とさつきさんの逢瀬、デート、即ちランデブーが始まった。 勿論本来の目的はサトラレ征伐。つまり心の声を出させずにやりきれば俺たちの勝ち、途中でサトラレを発症させ、征伐が失敗に終われば鈴子さんの勝ちだ。 シンプルでいて、それでいてディープ。 俺は深呼吸を一つするとさつきさんを見つめ、力強く宣言する。「よし、ランデブーについては俺に任せてくれ」 「だ、大丈夫ですか?」 「考えない! 考えそうになったらくすぐるから」 「ええええええ!」 何を驚くさつきさん。当たり前じゃないですか。 「ほら行くよ。あ、人力車乗るからパナマ帽をしっかり被ってね」 俺はそう言って先に人力車に乗り込み、さっと手を差し伸べた。 さつきさんは俺の手を取り、席についてからしっかりとパナマ帽を被り直す。 「あ、はい。ありがとうございます」 「うん、かわいい」 「え、えへへ……」 いい笑顔だ。そうでなくっちゃ。 「で、どこに行くんです?」 「活動写真を見よう。来る途中見かけたんだ」 流石にここは工場地帯。こんな所で遊ぶ場所などないからな。にぎやかな所に行かないと。するとさつきさんは目をきらきらと宝石のように輝かせ、声を弾ませる。 「活動写真ですか。私、見たこと無いんですよ」 「お! そりゃ丁度良い。じゃあ活動写真童貞を捨てよう! ん? 女だから処女か」 「そういう言い方しないでください!」 おっと失敗だった。デリカシーが無かったかな。でもお陰で余計なことを考えさせずに済んだからよしとしよう。 俺たちは人力車から降り、わいわいと人の波をかき分けながら小屋の中へと入っていく。まあ小屋といっても結構デカイ建物なのだけど、便宜上な。 壁にかけられているポスターを見て、俺は腕を組みながらふむ、とこぼす。 「さて、演目は……生の輝きか。ちょいと古いな」 「ご存知なんですか?」 「確か二年前に封切りされたもので、日本初の女優を使った演し物なんだよ」 「へえ、女優……。婦人もキネマトグ
Última actualización: 2026-07-23
Chapter: 3章 9 さつきさんが顔を真っ赤にして鈴子さんを怒鳴りつけた。 かつて俺がやられたこと。彼女は非常に誇り高く、尊厳を傷つけられるのを何より嫌う大和撫子だ。金を恵んだところで喜びなどしない。そんな軽い女性ではない。 だが、それは当然鈴子さんにもわかっていた。 「別に乞食だなんて、お金をあげたわけじゃないわ。お仕事をあげたのよ。雇用よ雇用。別にタダでお金をあげたりなんかしてない。七岸家の尊厳は傷つけてなくてよ?」 「…………」 「七岸さん、私をナメないで。ちゃんとそういうとこ、知ってるんだから」 にやりと笑う鈴子さん。どうやら彼女の方が一枚上手だったようだ。ぐうの音も出ない手口にやり込められたさつきさんは泣きそうな顔で俺の腕にしがみついてくる。 「こ、この人は……せ、誠二様……」 (こ、怖い……この人、怖いよぅ……) 気持ちはわかる。入地鈴子という女性は怖い。彼女を怒らせると日本では生きていけない。それをありありと証明するかのような強引なやり方。俺は戦慄を禁じ得なかった。 さらに鈴子さんは語る。 「そしてここに住まわせたのも理由があってね、七岸さんのサトラレ、ここが発祥なのでしょう? ここに研究機関を建て、七岸さんの治療を万全に出来るようにとの配慮よ。最初は北樺太で働いて貰おうかなとも思ったけど、政府の秘密情報によると、どうも北樺太購入は出来そうにないのよね。今多くの山師が北樺太は日本領になるんだーって先行投資してるけど、あれは失敗するわ。だからこの地を選んだの」 「……な!」 「ただし、条件がたった一つだけある。それは誠二さん、七岸さんのことを諦めていただけないかしら? そうすれば新聞社の連中を下がらせるわ」 彼女は本当に全てを知っていたのだ。どこで入手した情報だ、なんて聞くのは野暮。彼女に知らないことなどない。日本全てが入地家の庭も同然だからだ。 俺はもう呆れ果てることしか出来ない。 「君はなんでも出来るんだな」 「ええ、出来るわ。なんでも。勿論北樺太を日本領にしろとか、赤軍を倒して親日政権を樹立させ、シベリア出兵を終わらせろとか、そういうことは無理だけど、少なくともこれく
Última actualización: 2026-07-22
Chapter: 3章 8 取り敢えずここら辺一体は工場地帯で、あるのは工場と労働者たちの借家、長屋くらいしかない。これではつまらないのでにぎやかな町へと繰り出そう。 そう思って人力車を探していた、その時だった。 「……ん? なんだ、な、なんだ!?」 ぞろぞろとカメラを持ったスーツ姿の一行が俺たちの元へ駆け出してきた。 「え? こ、これは……きゃあ!」 彼らはさつきさんを取り囲み、俺をはじき出してしまう。 「産水新聞の者です」「月刊文鳥の者です」「ちょっと質問いいですか?」「君、市川誠二くんだよね? 市川電機の御曹司の」「その娘について聞きたいことが」 「な、なんだこいつら!?」 こいつら報道関係者か!? でもどうして!? 「ど、どうして!? え、な、なんで!?」 (し、新聞社って、ええ!?) さつきさんも困惑している。そりゃそうだ。全く理解できない――直後。「いとオホホ!」 今回は牛車ではなく人力車ではあったが、やはりというか十二単をまとっており、非常に座りにくそうだった。口元に手を添えて高笑いしているが、バランスを維持するのが大変らしく、体がしきりに揺れている。 「す、鈴子さん……」 「ま、またあの格好……」 俺は慣れたものだが、さつきさんの瞳にはありありと軽蔑の色が含まれていた。 いや、俺もね、山口くんだりまであの格好でやってきたことにかなり思うことはある。 「十二単を着て……。なんであの子はああなんだ? てか、なんでいるんだ?」 「……おかしすぎますよ、あれ。本人恥ずかしくないんでしょうか?」 (凄く歩きにくそう……お付きの人も大変そうだなあ) なるほど鈴子さんの後ろにはお付きと思われるスーツ姿の集団が走っており、なんというか、非常にシュールであった。 「多分平気なんだろうね。俺は恥ずかしい」 俺がそんなことをこぼすと彼女は停車し、ひょいっと飛ぶように地面に降り立った。 「ダメよ誠二さん。あんまりおいたしちゃ」 おいた
Última actualización: 2026-07-21
Chapter: 3章 7 その後、さつきさんは矢絣模様の袴に着替え、一緒に外へ出ることになった。 パナマ帽を被り、ブーツを鳴らす様は普段の彼女とはまた違った魅力を醸しだしている。女学生的というか。 ちょっと興奮してきた。 「で、どうするんです? 今回は女中の仕事ではないんですよ?」 七岸さんは後ろを見ながらそう言ってきた。後ろにはお父様、お母様、聖子の三人がいて、心配そうにこちらを見つめている。うりっちもいるな、一応。何故か付いてきた。 俺は前髪をふぁさっと掻き上げ、歯をきらめかせながら答える。 「やることは同じだよ。七岸さん、いや、さつきさんが一定時間何も考えなければいいわけだから。だからこれからやるのはランデブーさ」 「ら、ランデブー?」 「そう、最近じゃ逢瀬のことをそう言うのが流行ってるんだよ? デートとも言う」 「………………は?」 七岸さん――さつきさんの足が止まった。 しかし俺は構わず彼女の手と取ると、思い切り灰色の空に掲げ、高らかに叫ぶ。 「さあ、俺たちの圧倒的なランデブーを見せつけるんだ! 勿論サトラレ征伐はしながら、ね。覚悟しておいた方がいいよ?」 しかしさつきさんは俺の手を振り払い、顔を真っ赤にしながら叫び返してくる。 「自分から煽っておいて何言っているんですか! 頭オカしいんじゃないですか!? だいたい逢瀬って普通人気の無い木陰でそっと手を繋いだりとか、誰も居ない夕方の海を一緒に眺めたりとか……」 「古い古い。そんなの明治時代のランデブーだよ。アメリカじゃ自動車でドライブした後ダンス・ホールで踊り明かし、最高級のレストランでディナーを楽しむそうだよ」 「は、はしたない……っ!」 さつきさんはうつむいてしまった。奥ゆかしい子である――と、思いきや。 (でも、なんか楽しそう……。ワクワクする) なんだい、本音ではやりたがってるじゃないか。俺はぱちんとウインクを一つし、親指を立てる。アメリカンスタイルだ。 「そうこなくっちゃ! それにしても私服のさつきさん、綺麗だよ」 「ふ、ふん世辞者が! 歯の浮くようなことを言ってもダメです
Última actualización: 2026-07-20
Chapter: 3章 6「「…………」」 あんぐりと、お父様とお母様があんこうみたいに口を開いた。 と、廊下からも声が。 「は、はあ!? 何言ってるんですか誠二様!? 頭オカしいんじゃないですか!? (ひ、ひえええええ! わ、私……え、ええええええっ!?) 心の声つきだ。つまり間違いなく、七岸さん。 俺は早速とばかりに手招きする。 「あ、七岸さん。聞いていたの。ささ、こっちに来て」 ふすまが開かれ、ひょこっと顔を出す七岸さん。しかし即座にお父様がたしなめる。 「こらさつき! 下がっていなさい!」 だが、そんなの俺が許さない! 「あ、待ってください。七岸さん。本当は君のサトラレを治したら言うつもりだったんだよ。でもこの期に及んでは仕方ないね。今言おう。俺は、市川誠二は、七岸さつきさんを妻に迎えたい! 入地鈴子さんではなく、君を嫁にしたい!」 (え、え……えええええっ!? わ、私……えええええ!? な、何言ってんの!?) 七岸さんの愉快な反応は置いといて、俺は改めてお父様お母様と向き合う。 「お父様お母様、僕は七岸さつきさんを愛しているのです!」 「日本人ならそう愛してる愛している言うモノではありませんが……」 お母様の旧態依然な突っ込み。 俺は頭を抱えながら叫ぶ! 「ナンセンス! そんな明治時代の脳みそをしていたらこの大正の世は駆け抜けられません! 月が綺麗ですね、とでも言えばいいと言うのですか!? ありえません! 日本は今や五大国の一員! 世界に名を轟かす列強! 脳みそ明治時代では笑われますよ」 夏目漱石みたいな明治の価値観に拘泥した保守的な人間の意見など、このご時世において何の役にも立たん! 俺はどんっと自身の胸を叩き、高らかに告げる。 「西洋ではこうしてハッキリ愛を告げるのが主流なのです。これからの日本もそうなるべきなんです。常に進歩していかねば! 明治時代のカビの生えた常識など通用しない」 お父様は震える手で湯飲みを取り、ずずーっとかなり酷い音を立てながらすする。相当緊張しているらしい。 「なるほど
Última actualización: 2026-07-19
Chapter: 終章 2「もう一度聴かせてよ」 「いいよ」 それからの日々。学校で、家で、あるいは紐育と遊ぶときでさえ、俺はアコを聴いていた。 紐育は怒りもしない。それどころかアコを聴きたがる。 HRが始まる前のつかの間に、俺は紐育と音楽を聴く。そんな日課が出来ていた。 紐育はアコをつけ、音楽を楽しむ。 「やっぱりいい音だよね。八島、他にイヤホンは買うの?」 「買わない。いらない」 「だよね」 ぱちんと紐育がウインクした。 俺は紐育からイヤホンを受け取ると、自分の耳につけて、スマホをタップ。 流れてくるのは、宝石のような、シルクのような、あるいは太陽のようなサウンド。 明るくて、きらめいて、なめらかで、心地よい。 「だってアコの音、こんなに綺麗なんだぜ? 聴いてるだけで涙が溢れてくるんだぜ?」 「わかった。だったらさ」 「……ああ」 俺はこくりと頷いた。 「しかしバイトって大変だな」 俺は紐育の勧めでバイトすることになった。 最初は神社でバイトするのかと思ったが、予想が外れた。ファミレスやスーパーのバイトだと紐育がつきあえない。 ということで、地元の村役場の手伝いというか、ゴミ捨てとか、井戸洗いとか、二十一世紀の今にもそんなものがあるかと驚きを隠せないような仕事で金を稼ぐこととなった。 「ぶつくさ言わない! 黙って仕事する!」 「いてっ! 叩かなくてもいいだろ!」 振り向くと、箒を手にした紐育がいて、彼女は巫女装束をまとい、髪の毛を結っていた。 おうおう、楽そうでいいねえ。 「だってDAP買うんでしょ? アコちゃんに相応しい、最高のDAPを」 「ああ、だってアコが可哀想じゃないか。最高の音を鳴らさせてやらないと」 とはいえ、それなりに音のいいDAPとなると、安くても十万円を超えるのだ。ファミレスのバイトを週五でやっても二ヶ月はかかる。 三十万も四十万もするハイエンド? 無理です。 それを一ヶ月で稼ぐとなると、そらもうキツくて、臭くて
Última actualización: 2026-06-10
Chapter: 終章 1 アコは還った。手のひらの上には鈍色に輝く小さなイヤホンが一つ、窓から差し込む光を反射して、それはまるでダイヤのようだった。 果たして俺は今、どんな表情をしているのだろう。泣いているのか、笑っているのか、あるいは無表情なのか。それすらもわからなくて、ただ、じっと手のひらを見つめ続ける。 と、紐育がにゅっと脇から顔を出して、 「ふふ、八島。いい顔してるよ」 そう微笑みかけた。 何故だろう、その一言を受けて救われたような気がした。 何気ない一言のはずなのに、まるで乾いたスポンジに一滴の雫が垂れたようで、物凄い勢いでそれは吸収されていく。 じわっと、体に染みこんでいく。 「紐育……まあ、ね。アコは……もう、いない」 理解していたはずなのに、納得してアコを還したはずなのに。 いざ口に出してみると、酷く胸が痛んだ。 なのに紐育はカラカラと笑いながら、そっとアコをつつく。 「いるじゃん、そこに」 「……そうだな」 はは、と苦笑した。 すると何故か紐育が俺の前に回り込むと、手を後ろに組んで、申し訳なさそうに眉を落とした。 「実はね、今だから言うけど、アコちゃんにお金借りたっての、あれ嘘なんだ」 「え?」 「ずっと私の家にいたんだよ。お母さんとも事情話して、ね」 ああ、やっぱり。 心の中ではどこか想像していた。覚悟もしていた。冷静に考えればそうだろうなという気もしてきた。 紐育は全てを知っていたのだ。 ただ、だとしたら疑問が残る。 「だったら……」 紐育は窓の方へ視線を移し、俺の机を三回つついた。とん・とん・とん。 「なんでだろうね。多分……いや、いいか」 それで察した。 俺が抱いた疑問は単純で、何故そんなことをしたのか。 そしてそれに対する答えが、うぬぼれかもしれないが、俺のためにやってくれたのだ。 彼女の少し不器用な、思いやりのカタチ。 「……そうか、わかった」 ふっと頬を緩める俺。それで紐育は気
Última actualización: 2026-06-09
Chapter: 4章 9 静寂のはずなのに、ちっとも冷たくなくて、少しも寂しくなくて。 ただただ、暖かい静謐が、俺たちの中に柔らかく漂っている。 そんな春のぬくもりを思わせる世界を切り裂くように、まず俺が―― 「アコ!」 ついでアコが―― 「八島くん!」 互いの力の全てを捧げ、強く抱きしめ合った。 もっとも、その時間は一秒にも満たない。 あっという間に感触が消えていき、アコの姿がまるで霞のように薄れていく。 「ああ、アコが……」 いよいよこの時が来たか。 言いたいことは沢山あった。伝えたい言葉はいくらでもあった。 でも、それはもう叶わない。 「あはは、そろそろお別れですね。あ、じゃあ最後に」 アコが目を閉じる。 そうだな、もう言葉はいらないな。する時間もない。 なら、俺に出来る、最後の思いを―― 「……ああ、実は最後に、これくらいはやっておきたかったんだ」 「じゃ、お願いします」 アコはわかっていた。いや違う。俺のしたいことと、アコがしたいこと。その思いが一致しているのだ。 おそらくは紐育もだろう。だから彼女は気を利かせて部屋を出たのだ。 「わかった」 俺はそう言って彼女と同じように目を閉じて。 ゆっくりと、自分の唇を彼女の唇と重ねていって。 「ん……」 「んんっ……」 アコが消える最後の瞬間まで。 俺たちは、ぬくもりの中に包まれ続けるのだった。
Última actualización: 2026-06-08
Chapter: 4章 8 ゆっくりとスマホを取り出す。スマホにポタアンを装着し、ポタアンのイヤホンジャックにアコ本体を差し込む。 電源を入れ、音楽の再生ボタンをタップする。 その、直後。 音が流れた。アコの音だ。 でも、今までみたいに指で差し込まれた時とは違う。低音も中音も高音もまるで違う。宝石のように澄んだキラキラの高音と、それに負けないパワフルで締まりのある低音。それでいてボーカルは前にしっかりときていて、それは非常に艶があり、エロい。 さらには様々な楽器が超高解像度の画像のようにあますとこなく『楽器』となって生み出され、それは全てが渾然一体となって『オーディオ』を形成している。 まさに、本物のアコの音だ。 そしてそれは、なんというか、 「……凄い、音」 だった。 「何度か私の指で聴かせましたけど」 俺は首を振る。 「いや、違う。全然違うよ。ずっとずっと、いい音だ。なんでだ? 贔屓じゃない。本当に違う。どうして違うんだ?」 「多分それはフィッティングの問題です」 「フィッティング?」 「イヤホンというのはしっかり耳の奥にフィットしないと音が隙間から抜けてしまうんですよ。具体的に言うと低音が。高音はしっかり聴こえるんですけどね」 なるほど、そういうことか。 確かに音そのものは指で聴いた時のアコの音と変わりない。シンプルでありながら重厚。それでいて煌びやかさが同居した気品ある音。 だが細やかな点は天と地ほど違う。そして大きな点も一つ違う。 それが―― 「確かに力強い低音だ。ドスドスして、ギュッとしまってる」 この強い低音が他の音を邪魔するどころかむしろ彩りとなってさらに中高音が引き立って聞こえてくる。 音に連動するように何故だろうか、涙が出てきたのである。 音があまりにも凄すぎて、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのである。 アコが嬉しそうに頷く。 「そうです。やはり指だとどうしても隙間が出来てしまいますが、完璧にフィットした私は、最高の音が出せるんです」 「凄い……本当
Última actualización: 2026-06-07
Chapter: 4章 7 それから俺たちは一旦イヤホン屋へと赴いた。 どうせなら神社から直行すればいいのではと思えそうだが、最後にアコを俺の部屋に連れて行って、そして、抱きしめたかったのだ。 まあ、すぐ消えるかと思ったら修理が完了してもアコは成仏しなかったわけだが。 冷静に考えたらそりゃそうだ。だって俺はまだ――アコを聴いていないのだから。 「これが……アコの直った姿」 見てくれは変わらないはずなのに。断線したのをただ直しただけなのに。 どうしてだろう。なんでだろう。 「はい。……どうですか?」 「綺麗だ……そうか、本当はこんな姿なんだね」 不思議な気持ちである。 アコがあはは、と苦笑する。 「といっても私はチタン筐体なので踏んだくらいじゃ壊れないんですけどね。ぶっちゃけ端子が壊れて断線しただけですし」 確かにそりゃそうなんだが、でも、やっぱり。 「でも、何でだろう。違って見えるよ」 「身内びいきですよ。……でも嬉しいです。ありがとうございます」 アコは微笑んだまま小さく頭を垂れた。 元通りとなったアコ本体を彼女に見せつけながら、そっと。 「アコ、聴いてみたい」 「どうぞ、音源はありますか?」 「この日に備えてハイレゾ沢山買ったよ。高いね、一曲六百六十円はエグい」 「ですよねえ」 お陰で今月の食費を思い切り減らさなければならなくなった。大変な事態である。 でも、アコのためならば、アコを聴くためならば、やはり最上でなければ。 と言っても俺には音楽の善し悪しなどわからないからジャンルは適当だ。これについては色々聴いて、いずれ好きなタイプを確立していけばいいだろう。 と、俺の後ろからにゅっと紐育が首を突き出し、 「私も聴きたいな」 そう言ってぺろっといたずらっ子のように舌を出した。 そんな紐育の様を見て、アコがあははと苦笑する。 「勿論ですよ、さ、八島くん」 促され、俺はアコを耳に装着する。アコはシュア掛けではなく普通に耳につけるタイプだ
Última actualización: 2026-06-06
Chapter: 4章 6 神社を出て、てくてくと夕暮れに染まった街を歩きながら、俺たちはちらちらとお互いを見つめ合う。 「八島くん……八島くん!」 今にもだきついてきそうなアコの頭を、俺は優しく撫でる。 「アコ……いいんだ。もう大丈夫だから」 もっとも、倉戸京子と約束し、アコも納得し、俺も啖呵を切ったとはいえ、今更ながら悲しみと不安がぽこぽこと沸騰したお湯のようにわき出てきた。 このまま倉戸京子を裏切って逃げ出してしまおうか。あるいは開き直ってしまおうか。そんな考えがわずかに脳裏をよぎる。 「ただ、アコ……いいんだな?」 「……はい」 ためらいを感じた。でも、彼女は承諾を示した。 なら、その意志は尊重しなければならない。 でも、そんな気持ちさえも責任を押しつけるような、卑怯者の逃避であって、それが俺に自己嫌悪を与えていく。 ただ、それを口にすることは憚られた。 騙すなら、最後まで騙すべきだから。 「わかった。じゃ、行こうか」 俺はぽんぽんとアコの背中を叩く。 そんな俺たちをやりとりを見ていた紐育が、沈みゆく太陽をバックに、少しだけ申し訳なさそうに訊ねてくる。 「……私も、行っていいんだよね?」 「「勿論」」 家につき、部屋に戻ってから、俺はアコにすっとイヤホンを見せつける。 鈍色に光る、筒状のハウジング。金属の冷たさが夕日に照らされ、ルビーのように輝いている。 「アコの本当の姿は、これなんだよな」 「はい、これなんです」 アコはしっかと頷いた。寂しそうに、懐かしそうに。 俺は頬を静かに緩める。 「そうか……」 「大事にして、くれますよね?」 「勿論だ。ずっとずっと、愛用する」 言いながら、俺は強く頷いた。 アコが嬉しそうにぱん、と手を鳴らす。 「わあ、それはよかったです」 そして俺から顔を逸らし、窓から夜へ移行する藤色と薔薇色の混ざった空を見つめながら、 「お別れじゃないんですね」 と言った
Última actualización: 2026-06-04