Chapter: 終章 2「もう一度聴かせてよ」 「いいよ」 それからの日々。学校で、家で、あるいは紐育と遊ぶときでさえ、俺はアコを聴いていた。 紐育は怒りもしない。それどころかアコを聴きたがる。 HRが始まる前のつかの間に、俺は紐育と音楽を聴く。そんな日課が出来ていた。 紐育はアコをつけ、音楽を楽しむ。 「やっぱりいい音だよね。八島、他にイヤホンは買うの?」 「買わない。いらない」 「だよね」 ぱちんと紐育がウインクした。 俺は紐育からイヤホンを受け取ると、自分の耳につけて、スマホをタップ。 流れてくるのは、宝石のような、シルクのような、あるいは太陽のようなサウンド。 明るくて、きらめいて、なめらかで、心地よい。 「だってアコの音、こんなに綺麗なんだぜ? 聴いてるだけで涙が溢れてくるんだぜ?」 「わかった。だったらさ」 「……ああ」 俺はこくりと頷いた。 「しかしバイトって大変だな」 俺は紐育の勧めでバイトすることになった。 最初は神社でバイトするのかと思ったが、予想が外れた。ファミレスやスーパーのバイトだと紐育がつきあえない。 ということで、地元の村役場の手伝いというか、ゴミ捨てとか、井戸洗いとか、二十一世紀の今にもそんなものがあるかと驚きを隠せないような仕事で金を稼ぐこととなった。 「ぶつくさ言わない! 黙って仕事する!」 「いてっ! 叩かなくてもいいだろ!」 振り向くと、箒を手にした紐育がいて、彼女は巫女装束をまとい、髪の毛を結っていた。 おうおう、楽そうでいいねえ。 「だってDAP買うんでしょ? アコちゃんに相応しい、最高のDAPを」 「ああ、だってアコが可哀想じゃないか。最高の音を鳴らさせてやらないと」 とはいえ、それなりに音のいいDAPとなると、安くても十万円を超えるのだ。ファミレスのバイトを週五でやっても二ヶ月はかかる。 三十万も四十万もするハイエンド? 無理です。 それを一ヶ月で稼ぐとなると、そらもうキツくて、臭くて
Last Updated: 2026-06-10
Chapter: 終章 1 アコは還った。手のひらの上には鈍色に輝く小さなイヤホンが一つ、窓から差し込む光を反射して、それはまるでダイヤのようだった。 果たして俺は今、どんな表情をしているのだろう。泣いているのか、笑っているのか、あるいは無表情なのか。それすらもわからなくて、ただ、じっと手のひらを見つめ続ける。 と、紐育がにゅっと脇から顔を出して、 「ふふ、八島。いい顔してるよ」 そう微笑みかけた。 何故だろう、その一言を受けて救われたような気がした。 何気ない一言のはずなのに、まるで乾いたスポンジに一滴の雫が垂れたようで、物凄い勢いでそれは吸収されていく。 じわっと、体に染みこんでいく。 「紐育……まあ、ね。アコは……もう、いない」 理解していたはずなのに、納得してアコを還したはずなのに。 いざ口に出してみると、酷く胸が痛んだ。 なのに紐育はカラカラと笑いながら、そっとアコをつつく。 「いるじゃん、そこに」 「……そうだな」 はは、と苦笑した。 すると何故か紐育が俺の前に回り込むと、手を後ろに組んで、申し訳なさそうに眉を落とした。 「実はね、今だから言うけど、アコちゃんにお金借りたっての、あれ嘘なんだ」 「え?」 「ずっと私の家にいたんだよ。お母さんとも事情話して、ね」 ああ、やっぱり。 心の中ではどこか想像していた。覚悟もしていた。冷静に考えればそうだろうなという気もしてきた。 紐育は全てを知っていたのだ。 ただ、だとしたら疑問が残る。 「だったら……」 紐育は窓の方へ視線を移し、俺の机を三回つついた。とん・とん・とん。 「なんでだろうね。多分……いや、いいか」 それで察した。 俺が抱いた疑問は単純で、何故そんなことをしたのか。 そしてそれに対する答えが、うぬぼれかもしれないが、俺のためにやってくれたのだ。 彼女の少し不器用な、思いやりのカタチ。 「……そうか、わかった」 ふっと頬を緩める俺。それで紐育は気
Last Updated: 2026-06-09
Chapter: 4章 9 静寂のはずなのに、ちっとも冷たくなくて、少しも寂しくなくて。 ただただ、暖かい静謐が、俺たちの中に柔らかく漂っている。 そんな春のぬくもりを思わせる世界を切り裂くように、まず俺が―― 「アコ!」 ついでアコが―― 「八島くん!」 互いの力の全てを捧げ、強く抱きしめ合った。 もっとも、その時間は一秒にも満たない。 あっという間に感触が消えていき、アコの姿がまるで霞のように薄れていく。 「ああ、アコが……」 いよいよこの時が来たか。 言いたいことは沢山あった。伝えたい言葉はいくらでもあった。 でも、それはもう叶わない。 「あはは、そろそろお別れですね。あ、じゃあ最後に」 アコが目を閉じる。 そうだな、もう言葉はいらないな。する時間もない。 なら、俺に出来る、最後の思いを―― 「……ああ、実は最後に、これくらいはやっておきたかったんだ」 「じゃ、お願いします」 アコはわかっていた。いや違う。俺のしたいことと、アコがしたいこと。その思いが一致しているのだ。 おそらくは紐育もだろう。だから彼女は気を利かせて部屋を出たのだ。 「わかった」 俺はそう言って彼女と同じように目を閉じて。 ゆっくりと、自分の唇を彼女の唇と重ねていって。 「ん……」 「んんっ……」 アコが消える最後の瞬間まで。 俺たちは、ぬくもりの中に包まれ続けるのだった。
Last Updated: 2026-06-08
Chapter: 4章 8 ゆっくりとスマホを取り出す。スマホにポタアンを装着し、ポタアンのイヤホンジャックにアコ本体を差し込む。 電源を入れ、音楽の再生ボタンをタップする。 その、直後。 音が流れた。アコの音だ。 でも、今までみたいに指で差し込まれた時とは違う。低音も中音も高音もまるで違う。宝石のように澄んだキラキラの高音と、それに負けないパワフルで締まりのある低音。それでいてボーカルは前にしっかりときていて、それは非常に艶があり、エロい。 さらには様々な楽器が超高解像度の画像のようにあますとこなく『楽器』となって生み出され、それは全てが渾然一体となって『オーディオ』を形成している。 まさに、本物のアコの音だ。 そしてそれは、なんというか、 「……凄い、音」 だった。 「何度か私の指で聴かせましたけど」 俺は首を振る。 「いや、違う。全然違うよ。ずっとずっと、いい音だ。なんでだ? 贔屓じゃない。本当に違う。どうして違うんだ?」 「多分それはフィッティングの問題です」 「フィッティング?」 「イヤホンというのはしっかり耳の奥にフィットしないと音が隙間から抜けてしまうんですよ。具体的に言うと低音が。高音はしっかり聴こえるんですけどね」 なるほど、そういうことか。 確かに音そのものは指で聴いた時のアコの音と変わりない。シンプルでありながら重厚。それでいて煌びやかさが同居した気品ある音。 だが細やかな点は天と地ほど違う。そして大きな点も一つ違う。 それが―― 「確かに力強い低音だ。ドスドスして、ギュッとしまってる」 この強い低音が他の音を邪魔するどころかむしろ彩りとなってさらに中高音が引き立って聞こえてくる。 音に連動するように何故だろうか、涙が出てきたのである。 音があまりにも凄すぎて、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのである。 アコが嬉しそうに頷く。 「そうです。やはり指だとどうしても隙間が出来てしまいますが、完璧にフィットした私は、最高の音が出せるんです」 「凄い……本当
Last Updated: 2026-06-07
Chapter: 4章 7 それから俺たちは一旦イヤホン屋へと赴いた。 どうせなら神社から直行すればいいのではと思えそうだが、最後にアコを俺の部屋に連れて行って、そして、抱きしめたかったのだ。 まあ、すぐ消えるかと思ったら修理が完了してもアコは成仏しなかったわけだが。 冷静に考えたらそりゃそうだ。だって俺はまだ――アコを聴いていないのだから。 「これが……アコの直った姿」 見てくれは変わらないはずなのに。断線したのをただ直しただけなのに。 どうしてだろう。なんでだろう。 「はい。……どうですか?」 「綺麗だ……そうか、本当はこんな姿なんだね」 不思議な気持ちである。 アコがあはは、と苦笑する。 「といっても私はチタン筐体なので踏んだくらいじゃ壊れないんですけどね。ぶっちゃけ端子が壊れて断線しただけですし」 確かにそりゃそうなんだが、でも、やっぱり。 「でも、何でだろう。違って見えるよ」 「身内びいきですよ。……でも嬉しいです。ありがとうございます」 アコは微笑んだまま小さく頭を垂れた。 元通りとなったアコ本体を彼女に見せつけながら、そっと。 「アコ、聴いてみたい」 「どうぞ、音源はありますか?」 「この日に備えてハイレゾ沢山買ったよ。高いね、一曲六百六十円はエグい」 「ですよねえ」 お陰で今月の食費を思い切り減らさなければならなくなった。大変な事態である。 でも、アコのためならば、アコを聴くためならば、やはり最上でなければ。 と言っても俺には音楽の善し悪しなどわからないからジャンルは適当だ。これについては色々聴いて、いずれ好きなタイプを確立していけばいいだろう。 と、俺の後ろからにゅっと紐育が首を突き出し、 「私も聴きたいな」 そう言ってぺろっといたずらっ子のように舌を出した。 そんな紐育の様を見て、アコがあははと苦笑する。 「勿論ですよ、さ、八島くん」 促され、俺はアコを耳に装着する。アコはシュア掛けではなく普通に耳につけるタイプだ
Last Updated: 2026-06-06
Chapter: 4章 6 神社を出て、てくてくと夕暮れに染まった街を歩きながら、俺たちはちらちらとお互いを見つめ合う。 「八島くん……八島くん!」 今にもだきついてきそうなアコの頭を、俺は優しく撫でる。 「アコ……いいんだ。もう大丈夫だから」 もっとも、倉戸京子と約束し、アコも納得し、俺も啖呵を切ったとはいえ、今更ながら悲しみと不安がぽこぽこと沸騰したお湯のようにわき出てきた。 このまま倉戸京子を裏切って逃げ出してしまおうか。あるいは開き直ってしまおうか。そんな考えがわずかに脳裏をよぎる。 「ただ、アコ……いいんだな?」 「……はい」 ためらいを感じた。でも、彼女は承諾を示した。 なら、その意志は尊重しなければならない。 でも、そんな気持ちさえも責任を押しつけるような、卑怯者の逃避であって、それが俺に自己嫌悪を与えていく。 ただ、それを口にすることは憚られた。 騙すなら、最後まで騙すべきだから。 「わかった。じゃ、行こうか」 俺はぽんぽんとアコの背中を叩く。 そんな俺たちをやりとりを見ていた紐育が、沈みゆく太陽をバックに、少しだけ申し訳なさそうに訊ねてくる。 「……私も、行っていいんだよね?」 「「勿論」」 家につき、部屋に戻ってから、俺はアコにすっとイヤホンを見せつける。 鈍色に光る、筒状のハウジング。金属の冷たさが夕日に照らされ、ルビーのように輝いている。 「アコの本当の姿は、これなんだよな」 「はい、これなんです」 アコはしっかと頷いた。寂しそうに、懐かしそうに。 俺は頬を静かに緩める。 「そうか……」 「大事にして、くれますよね?」 「勿論だ。ずっとずっと、愛用する」 言いながら、俺は強く頷いた。 アコが嬉しそうにぱん、と手を鳴らす。 「わあ、それはよかったです」 そして俺から顔を逸らし、窓から夜へ移行する藤色と薔薇色の混ざった空を見つめながら、 「お別れじゃないんですね」 と言った
Last Updated: 2026-06-04
Chapter: 2章 9 目が覚めると、そこは倉庫で、缶詰が沢山見えた。 そして人。いずみと、由那だった。 「だ、大丈夫? 墓川のやつ、無茶苦茶するから……」 「いたた、だ、大丈夫……」 傷口に消毒薬をつけて、包帯を巻いてくれるいずみ。なんてありがたいんだ。 この悲惨な世界の中で、たった一輪だけ咲き誇る花のようだった。 「でもまさか花香が密告するなんて……」 忌々しそうにそうこぼすいずみ。だが俺はゆっくりと身を起こしながら、 「いや、油断した。そうだよな、そういうやつもいるよな」 そう、諦めたように答えた。 花香は今まで仕事らしい仕事をしていない。墓川が俺たちに要求するだけのノルマはどうやっても果たせまい。 なら違う仕事をさせた方がいいと考えるのは自然なことだ。花香には力もないし。 そして俺は定期的にパラレルワールド説を説いては墓川を苛立たせていた。銃についても知っているし、不穏分子だと思ってもなんら不思議ではない。 痛い。全身がズキズキする。 「ほら、痛い?」 「う、ううん。大丈夫」 気丈にそう答える俺だが、捻挫くらいはしたかもしれない。墓川は面木と違い、ダメージコントロールできるほどケンカ慣れをしていないからな。 しかもバレー部だったらしい。腕の力はかなり強く、一発一発が骨まで響いた。 まさに地獄。 だからこそ、いずみの優しさが本当にありがたかった。 「……いずみ、か」 とくん、まるで雫が心の中に落ちて、波紋を広げたような感覚。 温かくて、心地よくて、思わず頬が緩んでしまう。 「あれ、なんだ、この気持ち……」 多分だけど、俺はいずみのことが―― 「……ねえ、春弥。あんた本当に他の世界から来たの? 黒い渦に入って」 「…………」 思考を遮られた。 だけど、その質問はもっともだ。 答えるべきか、答えないべきか。 「大丈夫、私は春弥の味方だよ」 いずみなら、大丈夫。 俺は小さく首肯する。
Last Updated: 2026-09-11
Chapter: 2章 8 俺はこうしてはいられないと、仕事の最中に黒い渦を探すことにした。こっそりとではあるけれど、やらないわけにはいかなった。 「しかしここら辺のはずなんだよな……ない、ないなあ」 見つからない。毎日毎日街中を回っているのに、さっぱり見つからない。 「どうしてないんだ? 俺はこの世界にいた記憶がない! ない! おかしい」 墓川は俺の記憶を妄想とか、あるいは記憶喪失とか言う。だが違う。そんなはずはない。前の世界でのぬくもりや空気、肌の感覚。それらは全て残っているんだ! 「俺は絶対にこんな世界の住人じゃない。必ず、どこかに出口が、パラレルワールドへのホールがあるはずなんだ……っ!」 だけど、どこにもない。瓦礫の中にも、道ばたにも、川の中にさえも。 「絶対……あるはずだ。それさえ見つければ、みんなを助けられる。こんな崩壊した世界から、脱出できるんだ……」 気ばかりが焦る。 墓川時代はもう限界だ。これ以上付き合っていられない。 でもそのためには黒い渦を見つけないといけないのだ! 「でも、見つけないと……信用、されない……俺一人で、見つけるしかない……っ!」 しかし現実はどこまでも無情で、結局の所、今日も黒い渦を見つけることは出来なかった。 腕時計を見ると夕方の五時。リミットだ。 「あ、もう時間だ。帰らないと!」 しかし、これがまずかった。 「田下。君はどこにいた?」 「え?」 帰宅一番、俺は墓川に尋問された。 遅刻したことを怒っているのだろうか。最初はそう思った。 だが、違った。 「塔月から聞いた。まだパラレルワールドに固執しているのか?」 「な……っ!」 俺は慌てて花香を見る。花香はふふんと勝ち誇った笑みを浮かべていた。 そう言えば花香へのノルマは何故か口頭ではなくメモだった。それはつまり、あの中にあったわけだ。俺たちの、いや、俺の尾行というものがっ! 迂闊だった。そこまでは考えていなかった。 俺が思っていたよりもずっと、墓川は猜疑心が強かったのである!
Last Updated: 2026-09-10
Chapter: 2章 7 監禁されて何かあるかというと、拍子抜けするほど何もなかった。 ただ狭い倉庫の中に入れられただけだ。面木の時と違い食料は中にあったが、万一食べたら何をされるかわからないので、これには手をつけなかった。 案の定、釈放された後、墓川は帳簿を片手に在庫数をチェックした。陰湿なやつだ。そして減らなかったことを褒めてくれた。嬉しくもない。 朝食として乾パンをひとつまみ渡され、それをボリボリと食べながら仕事へと向かう。今日も食料担当だ。ノルマはかなり厳しく、缶詰五十個とあった。昨日の分も上乗せされている。あるわけないだろこんなに。 でも文句は言えない。仕方ないので遠出するしかない。あればいいけど。 道中、いずみが不安そうに訪ねてくる。彼女も昨日と同じ。ノルマを上乗せされた衣類担当だ。 「最近、墓川おかしくない?」 「ああ、おかしい」 銃を見つけてからだ。あれ以来明らかに墓川は変わった。 でも、そのことを誰かに言うわけにはいかなかった。 面木にバラそうか。ダメだ。どんな恐ろしいことになるか想像もつかない。 「でも、文句が言えない……」 「うん、墓川は贅沢は一切しない。誰よりも少ない食事で、誰よりも働いて、誰よりも責任感があるから……」 そう、墓川は性格こそ大きく変わったが、面木とは決定的に違う点が一つある。 墓川は決して贅沢をしなかった。サボらなかった。彼は人にも厳しいが、自分に対してもかなり厳しい男だったのである。 今までは自分の尺度を相手に要求しなかっただけだ。それを要求するようになった。それだけの違いとも言える。 ただし。 「でも、あれじゃ……」 いずみの表情が全てを物語っていた。 墓川時代は、恐怖によって統治されるようになっていったのである。 墓川の厳しさは当然花香にも向けられることになる。 「塔月、仕事をするんだ」 有無を言わさぬ口調。ノルマをギリギリ達成し、何とか墓川の許しを貰った翌日、今度の標的はとばかりに花香に要求を突きつけだしたのである。 花香は何とか抵抗しようとする
Last Updated: 2026-09-09
Chapter: 2章 6 それからというもの、墓川は明らかに変わった。 以前からリーダー面してあれこれ指示し、口うるさく、短気だったのはそうだが、最近の墓川は銃という無敵の武器を手にしたからか、以前よりも遙かに横柄に、そして乱暴になっていった。 「香坂。この程度しか衣服を持ち運べなかったのかね?」 「いや、だって他のは瓦礫に埋もれてて……」 今日いずみは服屋の跡地から服を持ち出すというものだった。服は破れてても小さくても問題無い。シェルターに持ち運び、作り直して貰うからだ。 しかし原材料がいる。そのために定期的に服屋から衣類を持ってくる必要があり、それがいずみに与えられた本日の仕事であった。 しかしその量が墓川のお気に召さなかったらしく、彼は明らかにいらついたようで眉間にしわをよせ、チッと舌打ちをしていた。 「ノルマを果たせていない。我々に無能を置いておく余裕はない。歯を食いしばりたまえ」 「え?」 いずみがきょとんと目を丸くした――刹那。 ぱぁん! 墓川が、思い切りいずみの頬を張った。 いずみは何が何だかわからないと言った様子で自分の頬を補さえ、呆然としている。瞳をわずかな涙でにじませて。 流石にこれは黙っていられない。俺は彼の元へ歩む。 「墓川!」 しかし、墓川はギロリと俺に睥睨を向けた。 「なんだね? 偉そうに」 「え、偉そうって……」 「田下、君は食料担当だったな。成果を見せろ」 何を言っているんだこいつは。まともじゃない。 「いや、そうじゃなく、今手をあげたろ!」 「それがどうした? 歯が折れるようには殴っていない。怪我されると仕事させられないからな、そういうことはしない。だが、罰を与えないわけにはいかないだろう?」 「な……っ!」 なんだ、この男は。 これが墓川なのか? いや、昔からこういう性格だったけれど、それにしても、こいつはなんだ? 君子豹変すという言葉があるが、まさにその通りだ。 権力と、それを保証する権威を手にした
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 2章 5 ひとしきり子供たちと遊んでから箱船に戻ると、墓川と花香が何やら口論していた。 「墓川くーん」 「塔月。君も仕事したまえ」 墓川は我関せずとばかりに倉庫にある食料を吟味し、帳簿をつけており、後ろから花香が抱きつきながら囁くという構図だった。 少々珍奇だったので、しばし聞き耳を立ててみる。 「えー、でもでもう、そんなことしたら手、荒れちゃう」 「ダメだ。怪我したら医薬品は出す。だがノルマは課せているはずだ」 「もう墓川くんキビシー」 どれだけ厳しくされても軽く受け流す花香。あれはあれで凄いと思うが、何よりもこのご時世にあれをやる神経が正直どうかしていると思う。 「それにしても……花香って」 俺が花香について訪ねようとするも、いずみは俺の肩を優しく叩きながら、少しだけ悲しそうに微笑む。 「あれはああいうタイプ。コウモリ。どの場で一番強い人の味方になって乗り切ろうとする。どこにでもいるよ」 その言いぐさに、俺はわずかに違和感を覚える。 いや、理由はわかっている。これだ。 「しかしみんな達観しているというか、なんか平時みたいというか」 「春弥。ラストフィナーレからもう半年経ったんだよ? 冷めるよ、みんな」 「冷め……る?」 「そ、冷める。最初はさ、みんな泣くんだよ。うろたえるんだよ、悲しむんだよ、壊れるんだよ。でも、いずれ何も感じなくなる。それが当たり前になる。そうして出来たケーキの上に、改めて感情がデコレートされる」 「…………」 なるほど、そこまでは考えていなかった。 そうだよな、最初は誰だって泣くよな。俺の場合、たまたま凄いことが重なりすぎてそういう気持ちに浸る余裕がないことと、黒い渦という希望があるから耐えられるだけで、彼女たちにはそれがないのだ。 絶望だけが大きく大きくのしかかる。それに耐えられるほど、人は強くない。 それでも生きていけるとすれば――心を壊すしかない。 俺の神妙な顔つきに、いずみはまずいことを言ったかなと思ったか、慌てて首を振った。 「あ、ごめんごめん、変なこと言ったね」 「君たち!
Last Updated: 2026-09-07
Chapter: 2章 4 翌日、今日はじめて俺は水汲みを命じられた。場所は墓川に渡された地図にある。結構近かった。この近くの川から取っていたらしい。ラストフィナーレの影響は甚大だったが、実はいいことも少しだけあった。 それは火山によって灰が舞い、大地が崩れ、台風が世界をかき混ぜた結果、川の水が浄化されたのである。勿論生水だからそのままは飲めないが、濾過すれば飲めるシロモノにはなってくれた。 俺はバケツに水を汲み、それを樽の中に入れる。この樽はリュックになっていて、満タンになったら背負うというものだ。しかしこれが重い。凄まじく重い。とてもまともに歩けない。 しかもこれを何往復もしなければならないのだから、はっきり地獄である。 重さは六十キロくらいあるだろうか。特にスポーツ経験のない俺にとってこの重さは相当堪え、一歩歩く度に背中がミシミシと嫌な音を立てるほどだった。 そんな帰宅途中のこと。 「おーい、春弥ー」 いずみが俺のもとへ駆けだしてきた。 「あ、いずみ。仕事は終わったの?」 「ううん、サボリサボリ」 いずむは手を後ろに組み、ぶんぶんと首を振った。ぺろっと出した舌が妙に可愛い。 俺は呆れたようにため息をつく。 「……墓川怒るよ」 「だから内緒。あはは」 「……ふふ」 なんというか、いずみは俺にとってかなりの癒しだった。 控えめに言ってもこの世界にはろくでもないやつが多すぎる。墓川ですら、正直あまり評価できない点も多い。 しかしいずみは違った。いずみの明るさや優しさ、屈託の無さは俺の疲れ切った心をどこまでも癒してくれて、それこそかつての世界ですらこれほどの安らぎは得たことがない。 正直、いずみと一緒なら元の世界に戻れなくてもいいかな、とさえ思うことがある。 それくらい俺にとってはいずみの存在は大きくて、だからこそ彼女を失わないように、俺はいつも紳士的に振る舞うのだ。 かっこ悪いところを魅せたくないから。 ガキ臭い見栄だけど、でも、仕方ないよな? 「これから私、子供たちと一緒に遊ぼうと思ってるんだ。実はさっきトラ
Last Updated: 2026-09-06
Chapter: 終章 2 さつきさんは笑顔だった。にやにやとして、小悪魔的で、とても楽しそう。 一体この顔はどういうことだろうか? 俺の疑問はしかし、さつきさんのこの一言で判明することとなる。 「だって、知ってて黙ってましたから」 声は弾んでいた。嬉しそうだった。 俺は肩を落とし、何故かつられて微笑んでしまう。 「さつきさん……ああ、君はそういう子だったね、そういえば」 「はい! 私、もうすっかりドキドキする楽しさに目覚めてまして、誠二様と一緒にサトラレ征伐するのが楽しくて、楽しくて、楽しくて」 彼女は一呼吸置いて、 「そして何より、誠二様のこと、好きですから」 そう言いながら、ぎゅっと、俺の手を握ってきた。 「さつきさん……」 「私、悪い子なんです」 ウインクするさつきさん。 ああ、確かに彼女は悪い子だ。いい子なんだけど、悪い子だ。矛盾しているようで実は何も矛盾していない。 そして、俺は、そんな彼女が―― 「嫌いになりました?」 とても愛しい。 「嫌い? まさか。俺がそんなことで手のひらを返すような矮小な細菌野郎だと思ったかい? 見くびられたモノだね」 俺はふぁさっと前髪を梳きながら背筋を伸ばし、キラリと歯を光らせて見せた。俺の歯は毎日徹底的に洗っているのでピカピカだ。宝石のようにきらめいている! さつきさんは俺を掴む手に力を込めながらわくわくと目を輝かせている。 なら、その思いに応えよう。 「そう、俺は怖じ気づかない! 俺は諦めない! 一度サトラレを征伐したんだ、何度だって倒してやるさ!」 「そうです! それでこそ誠二様です!」 さつきさんはわかってくれている。それがとても嬉しい。愛しい。 ああ、空は青空じゃないか! なんて清々しいんだ! うん、俺はそういうやつだ。 俺はさつきさんの手を握り返し、それを天に掲げながら雄叫びを上げる。 「ようし、さつきさん! ついこてこい! 早速サトラレ征伐
Last Updated: 2026-08-13
Chapter: 終章 実は悪い子なんです 1 冬休みが間近に迫った十二月中旬。少しだけ薄い雲のかかった青空。今日は風も吹いておらず、透徹しつつも穏やかな空気が支配する中、俺はのんびりした足取りで家を出た。 さつきさんはいつものようにメイド服を身にまとい、俺の見送りをしてくれている。 サトラレを征伐して早三日。さつきさんは市川家近くの借家で家族三人暮らしている。 でも、離れ離れじゃない。 「じゃあこれからは通いで奉公してくれるんだ」 俺が鞄をブランコのように振りながら声を弾ませると、さつきさんは優しく微笑みながら指を七本立てる。 「はい。やはり借金問題は……まあ入地さんの口添えで解決しましたけど、生活が苦しいのは変わりませんし、元は私のせいですから、助けるために夜の七時まで」 「家族団らんは?」 「ですから七時までです。夜は家に帰って、ですね。両親も私と一緒がいいみたいですし。いずれミルクホールを再建させられるように」 「なんていい子なんだ! それでこそ俺が愛しただけはある……」 別に家族団らんするだけでいい子かどうかなんてわかりゃしないのだが、こういうのは理屈ではないのである。俺のハートに眠る熱いパトスがうずく! それで十分だ。 「えへへ」 ほら、このようにさつきさんの笑顔を見ると、俺は言ってよかったと思えるのだ。 と、その時。 (いい調子だな……このまま続けば……) 念波が、声とは違うさつきさんの声が、俺の脳に直接響き渡った。 「っ!? あ、あれ、今、サトラレが発動しなかった!?」 「な、なんのことでしょう」 さつきさんは目を反らすが、 (ゲ……も、もうバレた……。やっぱり心の声は隠せないよう) またしても音とは違う言語が、脳の隅々を電気のように駆けめぐった。 わからない。理解出来ない。天を仰ぐとそこには青空があった。なんて無神経な空だ! 「ちょっと待ってくれ! サトラレはちゃんと征伐したじゃないかっ!」 ダメだ、冷静になれない。なんでサトラレが発生しているんだ。あり得ない。
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 4章 15「はぁ……ん……あ……はぁ……はぁ……」 さつきさんの荒い吐息。ぐったりと倒れそうになるのを俺は抱きかかえて防ぐ。 念波はもう聞こえてこない。彼女の心の声も響かない。 「やった、倒した……のか?」 確証はないが、おそらくはそうだろう。 と、メイド服をまとった聖子が俺のもとまで駆け寄り、ぽんと、背中を叩いてくる。 「強敵だったね、兄者……」 「さつきさん、サトラレは……ある?」 さつきさんは俺から離れると深呼吸を一つして、自分の体をまさぐり出す。 「え、えーと……あ……出ない。浸食を感じない……。あ、いえ、聞こえますか? 私が何て思ってるか、わかりますか?」 声? 何か言っているのか? 俺は耳を澄ませてみる。だが、何も聞こえない。 念のため聖子の方を向く。彼女は強く首を振った。それは、つまり―― 「聞こえない。聞こえないよさつきさん!」 「誠二様!」 手をぎゅっと握りあい、喜びを分かち合う。 周囲にいる名士たちが何事とばかりに目をぱちくりさせている。 「今だ、告白するには今だ、今しかない!」 既成事実を作る絶好のチャンス。これを逃してはならぬ。 「言うぞ……言うぞ……今は各界の名士も集まっている……今なら祝福……」 あれ? 何故だろうか。動機が激しくなってきた。 息が荒い。汗がにじむ。体がかっかして、耳など火傷しそうだ。 どうして? なんで? ホワイ? 「…………」 さつきさんが冷たい目でじっと俺を見つめている。不安と失望が双眸にありありと浮かんでいるのがわかる。 「言うぞ……言うんだ……勇気を出せ、市川誠二!」 俺は必死に自分に言い聞かせ、大きく息を吸って。 「あ、あの……その……さ、さつきさん……う、うぽお」 うぽおってなんだようぽおって! 「兄者……」 「誠二さん……」 気づくと、聖子と鈴子さんも非常に冷ややかな、南極みたい
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 4章 14「ではみなさん、しめっぽい話はこれまで、飲みましょう! グラスをお受け取りくださいな。さ、誠二さんもいらして」 「あ、ああ……えーと」 行って何をしろと? 謝罪? 不味い酒になりそうだ。 と、道中聖子がくるりと身をひるがえし、自身の姿を見せつけてきた。 「兄者、どう?」 「お前、その格好……」 メイド服着てどうするんだよ。しかもわざわざ掃除が終わってから着替え直したのかよ。こいつもまたバカなんじゃなかろうか。 「せっかくだから七岸さんと同じにしてみた! ほら、制服は沢山余ってるし!」 「にぃー」 「うりっちも喜んでる」 「はは……ま、いいや、じゃあさつきさんと聖子は給仕を頼むよ。あとお父さんとお母さんもよろしくお願いします」 「「はい、わかりました」」 二人はきちんとした格好だがスーツと着物で、当然メイド服など着ていない。当たり前である。だいたいさつきさんだって着物姿だ。聖子がおかしいんだ。 さて、俺は各界の名士たちに頭を下げる仕事を始めよう。正直気が重い。彼らはみんな爵位持った華族様なんだぜ? 怖いよ。俺平民の息子だし。 ――と、その時。 「く……あ……っ! いけない……な、なにこれ……っ!」 「さつきさん!?」 しまった! 今までなまじ順調だった分心の隙が! 「我が最後の力、思い知れ。何が何でも、余は生き残らねばならぬ!」 声までしやがる。黒い影が出てくる。名士たちが何事だとざわざわ声を立て始めた。 「く……この状況で、最後の抵抗か、サトラレが……上等じゃん」 でも、だからどうした? そういう状況だからこそ、俺は燃えるんじゃないか。今までも荘だったように、これからもそうなんだ。 俺は市川誠二! ミスター完璧超人をめざす|魂《おとこ》! いかなる困難もこの鍛えられた知能と体力と精神力で撃砕するのみ! いくぞ、サトラレ! 「誠二……様……」 さつきさんがうずくまりだす。霊体はどんどん濃く、大きくなっていく。 さらに念波
Last Updated: 2026-08-10
Chapter: 4章 13 全ての準備を終え、俺は顔を洗って改めて学ランをまとう。さっきのは掃除で汚れてしまったからな。さつきさんも聖子が縫った着物に着替え治した。 汚れたメイド服で給仕はさせられない。 ちなみに着物は相当上物だったようで、ひどく似合っていた以上にさつきさんは恐縮しっぱなしで、まあ、逆にそれが緊張を呼び、余計なことを考えさせられなくなる結果になったので怪我の功名と言えよう。 余計なことは考えてしまいそうだが、そこはお父様とお母様、そして聖子の頑張りに期待する。遠慮無く耳元に息を吹きかけてやって欲しい。 さて俺はというと、やはりというか、改めてまたしても十二単をまとった鈴子さんと共に壇上に立ち、名士たちを見下ろしている。 「さあ、最後。記者会見からのパーティーだな。鈴子さん、大丈夫なんだろうな?」 「勿論よ。私に任せて。楽団も用意したわ」 「いや、楽団はいらん」 しかし鈴子さんは音楽を奏でさせた。モーツァルトのピアノソナタ十一。 やっぱり彼女は変人だ。というか、俺の周囲には変人ばかりなのは何故だろう。俺もまた変人だからだろうか? 馬鹿な。 そんなことを考えていると鈴子さんは名士たちに向け、ゆっくりと、けれどしっかりした口調で言葉を紡いでいく。 「さて、お集まりの皆様。入地鈴子でございます。この度、わたくしの婚約破棄発表記念会見にお集まりいただきありがとうございます」 途端、ざわざわと名士たちの怪訝そうな声が響き渡る。 「市川の御曹司もわからんな」「どういうことだ?」「入地家と結婚なんて、日本人なら誰もがうらやむのに」「特に市川は爵位がない。この婚約は家の格を挙げる絶好の機会」 「散々言われてる……。針のむしろだぞこれ」 「大丈夫よ、まかせて」 鈴子さん、楽しそうにぱちんとウインク。 大丈夫だろうか、心底不安である。 鈴子さんはこほんと咳払いを一つすると、胸を張って。 「此度の破局におかれましては、わたくしの不徳の至るところにございます。みなさまご存知の通り、我が入地家は神代の頃より畏れ多くも皇室の藩塀としてお支えさせてい
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 4章 12 夜の帳が下り、月がひょっこりと顔を出すようになった時刻になって、 「お掃除終わりました!」「こっちもです!」 どうやら全員の掃除が終了したらしい。壁にかけられている時計を見ると現在六時。たしか七時から記者会見とパーティをやるんだったな。あと一時間しかない。掃除が予想以上に手間取った。まずい。 「よし、次は準備だ! 作る時間はない。鈴子さん、出前を……」 「ぬかりなくてよ? 近所の柳寿司さんから五十人前注文してあるわ」 鈴子さんはそういってふぁさっと前髪を梳く。やたらかっこよかった。 「流石だね。ただ、どう見ても洋風のパーティなのにまさかの寿司なのか」 洋式のテーブルに純白のテーブルクロス。そして立食。なのに食うのは寿司なのか。 しかし鈴子さんは困ったように頬をぽりぽりと掻き、目を反らす。 「洋食屋さんに出前できる量じゃなくて。お寿司だとこういう時便利なのよ」 「そりゃそうだ」 洋食の出前なんて聞いたこともないからな。おかもちに入らないだろうし。 確かに寿司はこういう時便利だ。そばだと高級感がなくてパーティには向かないが、寿司なら格好がつく。まあうちの使用人にやらせたらそばの方を注文しただろうがね。そばっ食いばかりだし。 「でも洋酒くらいは揃えましょう。グラスを並べましょうね」 鈴子さんはそう胃ってピカピカに磨かれたグラスをテーブルに配膳していく。 「寿司に洋酒……うーん、カオスの世界だ」 正直格好がつかない。どうしたものだろうか。 俺が腕を組み、首をひねっていると、おずおずとさつきさんが挙手をする。 「あの、日本酒の方がよろしいのではないでしょうか?」 確かに日本酒なら似合う。よし、これでいこう。だったら座敷の方がよかった気もするが、今更どうにもならないのでこのまま押し通す。和洋折衷だ和洋折衷。日本人らしくて大変結構ではないか。 鈴子さんもそう思ったようで、ぽんと手を鳴らしてくれる。 「じゃあそっちも用意なさって。あと煙草も揃えた方がいいわね。灰皿も並べて!」 「さつきさん、用意しよう」
Last Updated: 2026-08-08