Chapter: 4章 10 屋上に辿り着くと、白い空が世界の全てを覆っていた。猛烈なまでの雪が吹き荒れていて、世界がほとんどわからない。 屋上は完全にコンクリートの荒野と化しており、あちこちに入った亀裂が得体の知れない悲惨さを醸しだしていた。 そしてそんな黒い世界の果てに見える――ブラックホールを縦にしたようなデザインの渦。 高さは二メートルほど、幅は一・五メートルほどの小さな渦だ。 「これが……黒い渦」 墓川が目を丸くさせた。どうやら今の今まで半信半疑だったようだ。さもありなん。 俺はこくりと頷き、 「ああ、ゲート。これが……この世界から脱出する、唯一の希望」 そう答えた。体が震える。心臓が高鳴る。 あそこさえくぐれば、俺たちは助かるのだ。この極寒地獄からもおさらばだ。 面木が俺の肩を叩きながら、興奮気味に訪ねてくる。 「マジで黒い渦だな。この向こうにてめえの世界があるんだな、田下?」 「いや、由那の話ではどこの世界に繋がるかわからないみたいだ」 「アアァッ!? ナンダソリャ!?」 驚かれたか。いや、これは俺も知らなかったことだ。実を言うなら、俺だって思うことはある。お母さんに会えない。家に帰れない。あの黒い渦は俺の故郷へは繋がっていない。 そのことに悲しさはある。絶望もある。 でも、今は生きることが最優先だ。少なくとも黒い渦はあったし、あの向こうには生きる道が繋がっているのも、多分間違いない。由那のいうここ以上の地獄に繋がっていない限り。 なら、覚悟を決めろ。 俺はそれだけの気持ちを込めて、面木を見つめた。面木はチッと舌打ちして後ろに下がる。 と、違和感。 「ただ、なんか、それとは別に……あれ」 目の前には黒い渦がある。俺がこの世界に来た時と同じものだ。 同じ――同じ? 「渦が、黒い」 俺は目の前の渦について言葉に乗せてみて、気づく。 「黒……そうだ! 黒い! なんでだ!? 由那、確か君は言ったな? ゲートは一度くぐると色が変わるって! 最初は黒! そして次は――」 「紫」 由那がつまらなそうに答えた。 「なのになんで、なんであれは黒いんだ!? 由那、黒って確か……」 「最初と最後にしか現れない。つま
Last Updated: 2026-10-25
Chapter: 4章 9「な……」 そう、由那は言った。罠をしかけたと。色んなビルで練習したと。そして面木の時、実に都合良く新たな瓦礫が落ちてきた。 そこで仮説を立てた。ひょっとしてこの罠、このフロアのありとあらゆる所にあるのではないか? と。 ビンゴだった。由那の罠はこのレストランにも仕掛けられていた。俺はそれを五日目にしてようやく見つけることが出来、この時を待っていたのだ。 皆が一同に介し、由那に反撃できる、この時を! 瓦礫は丁度レストランの真ん中に落ちた。そこに墓川も面川も花香もいない。これも昨日発見し、ここにだけは絶対に立たないように厳命した。 面木に場所を指定させた。初めて目の当たりにする場所を血の文章だけで理解させるのは大変だった。でも、やり遂げた。 瓦礫は由那の頭上に降りかかる。これで逆転勝利――と思いきや、由那は凄まじいスピードで瓦礫を躱し、当たりそうなのは蹴飛ばし、殴り、平然と防いでいく。 だがそれでも限界はある。由那は瓦礫の処理に精一杯で、他のことが何も出来ないでいた。 さらに俺は由那の元へ突っ込み、その脚にしがみついた! 「墓川! 面木! 今だ! 由那を殴れ!」 「おっしゃあ! 田下てめえやるじゃねえかっ!」 「いいぞ田下! 天藤、そこを動くなああああっ!」 墓川も立ち上がり、面木と共に由那のもとへ駆け出す。 「ザクロにしてやるぜえええええっ!」 「あなたがね」 由那は俺の脚をふりほどこうとぶんぶんと振る。まるで遊覧船のように揺れる俺の体。さらに由那の拳が面木の眉間を撃ち抜く。 「ぐ……このアマ……田下。てめえもっと押さえとけ!」 「く……う……ぐ……由那……」 俺は必死に由那の脚にしがみついてはいるが、由那はものともせずに動き回り、墓川にフック――鉤打ちで耳を強打する。墓川の耳から大量の血があふれ出す。 「墓川。無駄」 「ぐ……なんて強さだ……人間じゃない……」 墓川が耳を押さえながらこぼした。全く同感である。彼女は人間じゃない。 「んなこ
Last Updated: 2026-10-24
Chapter: 4章 8 それからの日々は少し変わったものになった。 四日、五日、六日と経過し、瓦礫は少しずつ拡張しつつ、また由那にバレないように戻すという作業をした。脱出は面木側といずみ側の両方を一度にやらないと由那に迎撃されるから慎重を期した。 そしてついに、その時が来たのだ、 「よし、なんとか準備が整った……なんとか突破しないと……」 「どうしたの?」 俺は瓦礫に目を配らせた後、由那に甘く囁く。 「お姉ちゃん、寒くて」 「防寒グッズは沢山あるよ。あたたまろ」 「他のみんなにもあげないと、凍えちゃうよ」 「あ、そうだね。春弥、優しいね。いい子だなあ。私、行ってくる」 由那がそう言ってリュックを背負い、瓦礫に手をかけた――その時! 「よし! 隙が出来た! 今だっ! 面木!」 俺は叫んだ。それお同時に響き渡る面木の怒号! 「うおおおおおおおっ!」 「墓川ーっ! 聞こえるよな! 今だっ! やれっ!」 「わかった! まかせたまえ! ぬうっ!」 瓦礫がガラガラと音を立ててさらに崩れ、隙間が大きく広がった。そう、大の大人が複数でも通れるくらいには! 「おらあ! はぁはぁ……やっとブチ壊せたぞこのアマァ!」 「ふう……ふう、田下、よくやった! 君のお陰で助かった!」 「春弥!」 面木が、墓川が、いずみが、そして花香も。四人が俺の前に現れてくれた! 面木と墓川の顔が酷い。おそらく由那に殴られ続けてきたのだろう。内出血で真っ青になり、歯が欠け、鼻が潰れていた。 でも、生きていた。生きて、俺の前に現れてくれた。それだけで十分だ。 「ああ、やっと揃った……由那」 「お姉ちゃん」 この期に及んでまだ言うか。だが、俺はもうお姉ちゃんとは呼ばない。 「由那。お前の負けだ。投降しろ」 「ん」 由那は、素直に頷いた。 「え? あっさり……」 あまりにも意外な反応に、俺が呆けると―― 「バカヤロウ! どけ!」 誰よりも勘の鋭い面木が猛然と由那に向け
Last Updated: 2026-10-23
Chapter: 4章 7 翌日も変わらない。本当に変わらない。 ただただ俺は由那と寄り添うだけだ。ただ今は由那がいない。彼女は瓦礫の隙間をくぐり、他のメンバーに食料と水を提供しにいったからだ。 とはいえ、その間に俺が出来ることはない。あの瓦礫は由那しか通れないからだ。 「いずみとは離ればなれになってしまったし……もはやどうすることも出来ないのかよ……っ!」 悔しさのあまり、俺は床に転がっているテーブルを蹴飛ばした。しかしだから何が起こるわけでも無く、ただ痛いだけ。 空しかった。 「いや、何か、何かあるはずだ。あの魔女をどうにかする方法が……」 考えろ、考えるんだ。この奈落から抜け出す方法を。 しかし―― 「お歌うたお」 由那が戻ってきてしまった。俺はがっくりと肩を落とす。 「……お姉ちゃん、歌が好きなんですか?」 「敬語なんて使わないで。よそよそしいの、ヤ。歌は好き。あれだけが、私のいた世界を思い出せるから。弟とも沢山歌ったの。弟は病弱だからカラオケ行けなかった分、病院で、ね。だから春弥と歌う」 「……歌詞、知らないよ……お姉ちゃん」 「ちゃんと作ったよ、さ、うたお」 由那はそう言って俺に一枚のルーズリーフを渡してくるのだった。 ひとしきり歌った後、缶詰と白湯の食事を取り、あとは何をするでもなくただ壁によりかかってぼうっと窓の外を眺めるだけだった。 吹雪いている。ここに来て一ヶ月。雪なんか全然吹いていなかったのに最近はずっと降っている。いよいよ世界が終わりということだろうか。全球凍結は近い。ビルの中の気温もどんどん低下していっているし、急がなければならない。 幸い由那はトイレ中だ。すぐに戻るだろうが、ほんの数分でも俺が一人になれるこの時間はとても貴重だった。 「諦めるな……っ! 何かあるはずだ……何か……」 吹雪を見つめながらそうこぼす俺。 「考えろ、考えるんだ……あの魔女を突破する方法を……黒い渦は、ゲートはあるはずなんだ……」 と、そこであることに気づく。 「あれ? そういえばこの瓦礫……」
Last Updated: 2026-10-22
Chapter: 4章 6 それから俺と由那の奇妙な同棲生活がスタートした。 一日が経過し、二日が経過し、そして三日目。 することは同じ。ずっと同じ。廃墟となったレストランの中で何をするでもなく寄り添い、暖を取ることだけだ。腹が減ったら飯を食い、白湯を飲み、お菓子をかじる。 そうなれば当然人間の生理現象も発生する。 俺はこの三日間で『躾られた』ように、隣にいる由那に恐る恐る語りかける。 「お、お姉ちゃん……トイレ、したいんだけど」 お姉ちゃん。それが由那が俺に要求した呼び方だった。 逆らうことは許されない。決して。言わないとボコボコにされるからだ。鏡は見ていないが、きっと俺の顔は青タンだらけなのだろう。由那に死ぬほど殴られたからな。 もはやパブロフの犬。 「あ、うん春弥。わかった、よ。用意する」 由那はそう言うとレストランの食堂にあった備品で作った簡易トイレを持ってきて、 「はい、どうぞ」 そう、優しく微笑んだ。 「あ、ありがとう……み、見ない、で」 「うん、ごめん。お姉ちゃん、後ろ向いてるね」 というか俺を厨房に移動させれば済む話だと思うが、反乱や逃亡を恐れているらしい。食堂にあった包丁などの武器になりそうなものは由那が全て破壊したが、それでも油断はしてくれない。 俺はもはや、囚人も同然だった。 「あ、でも変なコトしたらわかるよ? 気配、私、読めるから」 「……っ!」 この女は……。 「お返事、は?」 「は、はい……お姉ちゃん」 「うん、いい子いい子」 由那は目を閉じながら振り返り、俺の頭を撫でた。目は一瞬も開けていない。これは気配を読めるのは嘘じゃないという脅迫を意味していた。 俺はみじめな気持ちになりながら小便をするしかなかった。 「くそ……なんで、こんなことに……」 と、瓦礫の向こう側から面木の怒号が。 「ゴラア! ここから出しやがれクソアマがああっ!」 「あれ? また面木、暴れてる。ちょっ
Last Updated: 2026-10-21
Chapter: 4章 5 由那は寂しそうに眉根を落とす。 「あとパラレルワールドだから当然私、戸籍がない。その世界では。頼れる親や知り合いもいない。私、たった一人で生き抜いてきた」 「ゆ、由那……」 そうか、戸籍か。この世界はたまたま滅亡していたから誰も気にも留めなかったが、そこに文明が息づいているなら、戸籍は絶対に必要だ。 よく考えれば当たり前の話。 いやその会話は前にもいずみや花香としたじゃないか。もう忘れてしまったのか。いや、思い出す余裕がなかったのか。 由那は遠い目をして立ち上がると、窓の方に向かい、雪が吹きすさぶ外を見つめながら、 「泥水をすすり、火山を渡り、ジャングルをめぐり、猛獣と戦った。そこでサバイバルの経験も積んだ」 そう背中で語った。 由那がどうして不気味にハイスペックなのか。その理由がついに判明した。 ある意味で非常に男らしい仕草を魅せた由那に、俺は何故かひくひくと頬が引きつる。 「だから、お前はいつもいつもやたら手際がよく、しかも的確だったのか」 「お姉ちゃん」 ギロリと、由那が俺をねめつけながら振り向いた。 ちょろっと、漏らしたかも知れない。なんだ、あの睥睨は。寒い。凍える。震える。天変地異の時の犬に睨まれた時ですら、こんな恐怖はやってこなかった。 ガチガチと、歯の根が凍るようだ。 と、俺が黙っていると―― 「ぐ……っ!」 由那が恐るべき速度で俺の元まで駆け寄ったかと思うと、頭をごんっと床にたたきつける。睨み付けた般若のような顔は、一ミリも崩さずに。 「お姉ちゃんでしょ? ほら、言って。お姉ちゃんって」 「ぁ……ぐ……」 ぎりぎりと万力みたいに押しつけられる俺の頭蓋。抵抗が出来ない。由那の顔を見るだけで指一本動かない。メデューサじゃあるまいしと突っ込みたいが、それすらも出来なかった。 恐怖は人の体を束縛すると、生まれて初めて知った。 由那がドスの利いた声で重苦しく囁く。 「お姉ちゃん」 言えというのか、言わないと殺すとでも言うのか。いや、殺しはしないだろ
Last Updated: 2026-10-20
Chapter: 終章 2 さつきさんは笑顔だった。にやにやとして、小悪魔的で、とても楽しそう。 一体この顔はどういうことだろうか? 俺の疑問はしかし、さつきさんのこの一言で判明することとなる。 「だって、知ってて黙ってましたから」 声は弾んでいた。嬉しそうだった。 俺は肩を落とし、何故かつられて微笑んでしまう。 「さつきさん……ああ、君はそういう子だったね、そういえば」 「はい! 私、もうすっかりドキドキする楽しさに目覚めてまして、誠二様と一緒にサトラレ征伐するのが楽しくて、楽しくて、楽しくて」 彼女は一呼吸置いて、 「そして何より、誠二様のこと、好きですから」 そう言いながら、ぎゅっと、俺の手を握ってきた。 「さつきさん……」 「私、悪い子なんです」 ウインクするさつきさん。 ああ、確かに彼女は悪い子だ。いい子なんだけど、悪い子だ。矛盾しているようで実は何も矛盾していない。 そして、俺は、そんな彼女が―― 「嫌いになりました?」 とても愛しい。 「嫌い? まさか。俺がそんなことで手のひらを返すような矮小な細菌野郎だと思ったかい? 見くびられたモノだね」 俺はふぁさっと前髪を梳きながら背筋を伸ばし、キラリと歯を光らせて見せた。俺の歯は毎日徹底的に洗っているのでピカピカだ。宝石のようにきらめいている! さつきさんは俺を掴む手に力を込めながらわくわくと目を輝かせている。 なら、その思いに応えよう。 「そう、俺は怖じ気づかない! 俺は諦めない! 一度サトラレを征伐したんだ、何度だって倒してやるさ!」 「そうです! それでこそ誠二様です!」 さつきさんはわかってくれている。それがとても嬉しい。愛しい。 ああ、空は青空じゃないか! なんて清々しいんだ! うん、俺はそういうやつだ。 俺はさつきさんの手を握り返し、それを天に掲げながら雄叫びを上げる。 「ようし、さつきさん! ついこてこい! 早速サトラレ征伐
Last Updated: 2026-08-13
Chapter: 終章 実は悪い子なんです 1 冬休みが間近に迫った十二月中旬。少しだけ薄い雲のかかった青空。今日は風も吹いておらず、透徹しつつも穏やかな空気が支配する中、俺はのんびりした足取りで家を出た。 さつきさんはいつものようにメイド服を身にまとい、俺の見送りをしてくれている。 サトラレを征伐して早三日。さつきさんは市川家近くの借家で家族三人暮らしている。 でも、離れ離れじゃない。 「じゃあこれからは通いで奉公してくれるんだ」 俺が鞄をブランコのように振りながら声を弾ませると、さつきさんは優しく微笑みながら指を七本立てる。 「はい。やはり借金問題は……まあ入地さんの口添えで解決しましたけど、生活が苦しいのは変わりませんし、元は私のせいですから、助けるために夜の七時まで」 「家族団らんは?」 「ですから七時までです。夜は家に帰って、ですね。両親も私と一緒がいいみたいですし。いずれミルクホールを再建させられるように」 「なんていい子なんだ! それでこそ俺が愛しただけはある……」 別に家族団らんするだけでいい子かどうかなんてわかりゃしないのだが、こういうのは理屈ではないのである。俺のハートに眠る熱いパトスがうずく! それで十分だ。 「えへへ」 ほら、このようにさつきさんの笑顔を見ると、俺は言ってよかったと思えるのだ。 と、その時。 (いい調子だな……このまま続けば……) 念波が、声とは違うさつきさんの声が、俺の脳に直接響き渡った。 「っ!? あ、あれ、今、サトラレが発動しなかった!?」 「な、なんのことでしょう」 さつきさんは目を反らすが、 (ゲ……も、もうバレた……。やっぱり心の声は隠せないよう) またしても音とは違う言語が、脳の隅々を電気のように駆けめぐった。 わからない。理解出来ない。天を仰ぐとそこには青空があった。なんて無神経な空だ! 「ちょっと待ってくれ! サトラレはちゃんと征伐したじゃないかっ!」 ダメだ、冷静になれない。なんでサトラレが発生しているんだ。あり得ない。
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 4章 15「はぁ……ん……あ……はぁ……はぁ……」 さつきさんの荒い吐息。ぐったりと倒れそうになるのを俺は抱きかかえて防ぐ。 念波はもう聞こえてこない。彼女の心の声も響かない。 「やった、倒した……のか?」 確証はないが、おそらくはそうだろう。 と、メイド服をまとった聖子が俺のもとまで駆け寄り、ぽんと、背中を叩いてくる。 「強敵だったね、兄者……」 「さつきさん、サトラレは……ある?」 さつきさんは俺から離れると深呼吸を一つして、自分の体をまさぐり出す。 「え、えーと……あ……出ない。浸食を感じない……。あ、いえ、聞こえますか? 私が何て思ってるか、わかりますか?」 声? 何か言っているのか? 俺は耳を澄ませてみる。だが、何も聞こえない。 念のため聖子の方を向く。彼女は強く首を振った。それは、つまり―― 「聞こえない。聞こえないよさつきさん!」 「誠二様!」 手をぎゅっと握りあい、喜びを分かち合う。 周囲にいる名士たちが何事とばかりに目をぱちくりさせている。 「今だ、告白するには今だ、今しかない!」 既成事実を作る絶好のチャンス。これを逃してはならぬ。 「言うぞ……言うぞ……今は各界の名士も集まっている……今なら祝福……」 あれ? 何故だろうか。動機が激しくなってきた。 息が荒い。汗がにじむ。体がかっかして、耳など火傷しそうだ。 どうして? なんで? ホワイ? 「…………」 さつきさんが冷たい目でじっと俺を見つめている。不安と失望が双眸にありありと浮かんでいるのがわかる。 「言うぞ……言うんだ……勇気を出せ、市川誠二!」 俺は必死に自分に言い聞かせ、大きく息を吸って。 「あ、あの……その……さ、さつきさん……う、うぽお」 うぽおってなんだようぽおって! 「兄者……」 「誠二さん……」 気づくと、聖子と鈴子さんも非常に冷ややかな、南極みたい
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 4章 14「ではみなさん、しめっぽい話はこれまで、飲みましょう! グラスをお受け取りくださいな。さ、誠二さんもいらして」 「あ、ああ……えーと」 行って何をしろと? 謝罪? 不味い酒になりそうだ。 と、道中聖子がくるりと身をひるがえし、自身の姿を見せつけてきた。 「兄者、どう?」 「お前、その格好……」 メイド服着てどうするんだよ。しかもわざわざ掃除が終わってから着替え直したのかよ。こいつもまたバカなんじゃなかろうか。 「せっかくだから七岸さんと同じにしてみた! ほら、制服は沢山余ってるし!」 「にぃー」 「うりっちも喜んでる」 「はは……ま、いいや、じゃあさつきさんと聖子は給仕を頼むよ。あとお父さんとお母さんもよろしくお願いします」 「「はい、わかりました」」 二人はきちんとした格好だがスーツと着物で、当然メイド服など着ていない。当たり前である。だいたいさつきさんだって着物姿だ。聖子がおかしいんだ。 さて、俺は各界の名士たちに頭を下げる仕事を始めよう。正直気が重い。彼らはみんな爵位持った華族様なんだぜ? 怖いよ。俺平民の息子だし。 ――と、その時。 「く……あ……っ! いけない……な、なにこれ……っ!」 「さつきさん!?」 しまった! 今までなまじ順調だった分心の隙が! 「我が最後の力、思い知れ。何が何でも、余は生き残らねばならぬ!」 声までしやがる。黒い影が出てくる。名士たちが何事だとざわざわ声を立て始めた。 「く……この状況で、最後の抵抗か、サトラレが……上等じゃん」 でも、だからどうした? そういう状況だからこそ、俺は燃えるんじゃないか。今までも荘だったように、これからもそうなんだ。 俺は市川誠二! ミスター完璧超人をめざす|魂《おとこ》! いかなる困難もこの鍛えられた知能と体力と精神力で撃砕するのみ! いくぞ、サトラレ! 「誠二……様……」 さつきさんがうずくまりだす。霊体はどんどん濃く、大きくなっていく。 さらに念波
Last Updated: 2026-08-10
Chapter: 4章 13 全ての準備を終え、俺は顔を洗って改めて学ランをまとう。さっきのは掃除で汚れてしまったからな。さつきさんも聖子が縫った着物に着替え治した。 汚れたメイド服で給仕はさせられない。 ちなみに着物は相当上物だったようで、ひどく似合っていた以上にさつきさんは恐縮しっぱなしで、まあ、逆にそれが緊張を呼び、余計なことを考えさせられなくなる結果になったので怪我の功名と言えよう。 余計なことは考えてしまいそうだが、そこはお父様とお母様、そして聖子の頑張りに期待する。遠慮無く耳元に息を吹きかけてやって欲しい。 さて俺はというと、やはりというか、改めてまたしても十二単をまとった鈴子さんと共に壇上に立ち、名士たちを見下ろしている。 「さあ、最後。記者会見からのパーティーだな。鈴子さん、大丈夫なんだろうな?」 「勿論よ。私に任せて。楽団も用意したわ」 「いや、楽団はいらん」 しかし鈴子さんは音楽を奏でさせた。モーツァルトのピアノソナタ十一。 やっぱり彼女は変人だ。というか、俺の周囲には変人ばかりなのは何故だろう。俺もまた変人だからだろうか? 馬鹿な。 そんなことを考えていると鈴子さんは名士たちに向け、ゆっくりと、けれどしっかりした口調で言葉を紡いでいく。 「さて、お集まりの皆様。入地鈴子でございます。この度、わたくしの婚約破棄発表記念会見にお集まりいただきありがとうございます」 途端、ざわざわと名士たちの怪訝そうな声が響き渡る。 「市川の御曹司もわからんな」「どういうことだ?」「入地家と結婚なんて、日本人なら誰もがうらやむのに」「特に市川は爵位がない。この婚約は家の格を挙げる絶好の機会」 「散々言われてる……。針のむしろだぞこれ」 「大丈夫よ、まかせて」 鈴子さん、楽しそうにぱちんとウインク。 大丈夫だろうか、心底不安である。 鈴子さんはこほんと咳払いを一つすると、胸を張って。 「此度の破局におかれましては、わたくしの不徳の至るところにございます。みなさまご存知の通り、我が入地家は神代の頃より畏れ多くも皇室の藩塀としてお支えさせてい
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 4章 12 夜の帳が下り、月がひょっこりと顔を出すようになった時刻になって、 「お掃除終わりました!」「こっちもです!」 どうやら全員の掃除が終了したらしい。壁にかけられている時計を見ると現在六時。たしか七時から記者会見とパーティをやるんだったな。あと一時間しかない。掃除が予想以上に手間取った。まずい。 「よし、次は準備だ! 作る時間はない。鈴子さん、出前を……」 「ぬかりなくてよ? 近所の柳寿司さんから五十人前注文してあるわ」 鈴子さんはそういってふぁさっと前髪を梳く。やたらかっこよかった。 「流石だね。ただ、どう見ても洋風のパーティなのにまさかの寿司なのか」 洋式のテーブルに純白のテーブルクロス。そして立食。なのに食うのは寿司なのか。 しかし鈴子さんは困ったように頬をぽりぽりと掻き、目を反らす。 「洋食屋さんに出前できる量じゃなくて。お寿司だとこういう時便利なのよ」 「そりゃそうだ」 洋食の出前なんて聞いたこともないからな。おかもちに入らないだろうし。 確かに寿司はこういう時便利だ。そばだと高級感がなくてパーティには向かないが、寿司なら格好がつく。まあうちの使用人にやらせたらそばの方を注文しただろうがね。そばっ食いばかりだし。 「でも洋酒くらいは揃えましょう。グラスを並べましょうね」 鈴子さんはそう胃ってピカピカに磨かれたグラスをテーブルに配膳していく。 「寿司に洋酒……うーん、カオスの世界だ」 正直格好がつかない。どうしたものだろうか。 俺が腕を組み、首をひねっていると、おずおずとさつきさんが挙手をする。 「あの、日本酒の方がよろしいのではないでしょうか?」 確かに日本酒なら似合う。よし、これでいこう。だったら座敷の方がよかった気もするが、今更どうにもならないのでこのまま押し通す。和洋折衷だ和洋折衷。日本人らしくて大変結構ではないか。 鈴子さんもそう思ったようで、ぽんと手を鳴らしてくれる。 「じゃあそっちも用意なさって。あと煙草も揃えた方がいいわね。灰皿も並べて!」 「さつきさん、用意しよう」
Last Updated: 2026-08-08
Chapter: 終章 2「もう一度聴かせてよ」 「いいよ」 それからの日々。学校で、家で、あるいは紐育と遊ぶときでさえ、俺はアコを聴いていた。 紐育は怒りもしない。それどころかアコを聴きたがる。 HRが始まる前のつかの間に、俺は紐育と音楽を聴く。そんな日課が出来ていた。 紐育はアコをつけ、音楽を楽しむ。 「やっぱりいい音だよね。八島、他にイヤホンは買うの?」 「買わない。いらない」 「だよね」 ぱちんと紐育がウインクした。 俺は紐育からイヤホンを受け取ると、自分の耳につけて、スマホをタップ。 流れてくるのは、宝石のような、シルクのような、あるいは太陽のようなサウンド。 明るくて、きらめいて、なめらかで、心地よい。 「だってアコの音、こんなに綺麗なんだぜ? 聴いてるだけで涙が溢れてくるんだぜ?」 「わかった。だったらさ」 「……ああ」 俺はこくりと頷いた。 「しかしバイトって大変だな」 俺は紐育の勧めでバイトすることになった。 最初は神社でバイトするのかと思ったが、予想が外れた。ファミレスやスーパーのバイトだと紐育がつきあえない。 ということで、地元の村役場の手伝いというか、ゴミ捨てとか、井戸洗いとか、二十一世紀の今にもそんなものがあるかと驚きを隠せないような仕事で金を稼ぐこととなった。 「ぶつくさ言わない! 黙って仕事する!」 「いてっ! 叩かなくてもいいだろ!」 振り向くと、箒を手にした紐育がいて、彼女は巫女装束をまとい、髪の毛を結っていた。 おうおう、楽そうでいいねえ。 「だってDAP買うんでしょ? アコちゃんに相応しい、最高のDAPを」 「ああ、だってアコが可哀想じゃないか。最高の音を鳴らさせてやらないと」 とはいえ、それなりに音のいいDAPとなると、安くても十万円を超えるのだ。ファミレスのバイトを週五でやっても二ヶ月はかかる。 三十万も四十万もするハイエンド? 無理です。 それを一ヶ月で稼ぐとなると、そらもうキツくて、臭くて
Last Updated: 2026-06-10
Chapter: 終章 1 アコは還った。手のひらの上には鈍色に輝く小さなイヤホンが一つ、窓から差し込む光を反射して、それはまるでダイヤのようだった。 果たして俺は今、どんな表情をしているのだろう。泣いているのか、笑っているのか、あるいは無表情なのか。それすらもわからなくて、ただ、じっと手のひらを見つめ続ける。 と、紐育がにゅっと脇から顔を出して、 「ふふ、八島。いい顔してるよ」 そう微笑みかけた。 何故だろう、その一言を受けて救われたような気がした。 何気ない一言のはずなのに、まるで乾いたスポンジに一滴の雫が垂れたようで、物凄い勢いでそれは吸収されていく。 じわっと、体に染みこんでいく。 「紐育……まあ、ね。アコは……もう、いない」 理解していたはずなのに、納得してアコを還したはずなのに。 いざ口に出してみると、酷く胸が痛んだ。 なのに紐育はカラカラと笑いながら、そっとアコをつつく。 「いるじゃん、そこに」 「……そうだな」 はは、と苦笑した。 すると何故か紐育が俺の前に回り込むと、手を後ろに組んで、申し訳なさそうに眉を落とした。 「実はね、今だから言うけど、アコちゃんにお金借りたっての、あれ嘘なんだ」 「え?」 「ずっと私の家にいたんだよ。お母さんとも事情話して、ね」 ああ、やっぱり。 心の中ではどこか想像していた。覚悟もしていた。冷静に考えればそうだろうなという気もしてきた。 紐育は全てを知っていたのだ。 ただ、だとしたら疑問が残る。 「だったら……」 紐育は窓の方へ視線を移し、俺の机を三回つついた。とん・とん・とん。 「なんでだろうね。多分……いや、いいか」 それで察した。 俺が抱いた疑問は単純で、何故そんなことをしたのか。 そしてそれに対する答えが、うぬぼれかもしれないが、俺のためにやってくれたのだ。 彼女の少し不器用な、思いやりのカタチ。 「……そうか、わかった」 ふっと頬を緩める俺。それで紐育は気
Last Updated: 2026-06-09
Chapter: 4章 9 静寂のはずなのに、ちっとも冷たくなくて、少しも寂しくなくて。 ただただ、暖かい静謐が、俺たちの中に柔らかく漂っている。 そんな春のぬくもりを思わせる世界を切り裂くように、まず俺が―― 「アコ!」 ついでアコが―― 「八島くん!」 互いの力の全てを捧げ、強く抱きしめ合った。 もっとも、その時間は一秒にも満たない。 あっという間に感触が消えていき、アコの姿がまるで霞のように薄れていく。 「ああ、アコが……」 いよいよこの時が来たか。 言いたいことは沢山あった。伝えたい言葉はいくらでもあった。 でも、それはもう叶わない。 「あはは、そろそろお別れですね。あ、じゃあ最後に」 アコが目を閉じる。 そうだな、もう言葉はいらないな。する時間もない。 なら、俺に出来る、最後の思いを―― 「……ああ、実は最後に、これくらいはやっておきたかったんだ」 「じゃ、お願いします」 アコはわかっていた。いや違う。俺のしたいことと、アコがしたいこと。その思いが一致しているのだ。 おそらくは紐育もだろう。だから彼女は気を利かせて部屋を出たのだ。 「わかった」 俺はそう言って彼女と同じように目を閉じて。 ゆっくりと、自分の唇を彼女の唇と重ねていって。 「ん……」 「んんっ……」 アコが消える最後の瞬間まで。 俺たちは、ぬくもりの中に包まれ続けるのだった。
Last Updated: 2026-06-08
Chapter: 4章 8 ゆっくりとスマホを取り出す。スマホにポタアンを装着し、ポタアンのイヤホンジャックにアコ本体を差し込む。 電源を入れ、音楽の再生ボタンをタップする。 その、直後。 音が流れた。アコの音だ。 でも、今までみたいに指で差し込まれた時とは違う。低音も中音も高音もまるで違う。宝石のように澄んだキラキラの高音と、それに負けないパワフルで締まりのある低音。それでいてボーカルは前にしっかりときていて、それは非常に艶があり、エロい。 さらには様々な楽器が超高解像度の画像のようにあますとこなく『楽器』となって生み出され、それは全てが渾然一体となって『オーディオ』を形成している。 まさに、本物のアコの音だ。 そしてそれは、なんというか、 「……凄い、音」 だった。 「何度か私の指で聴かせましたけど」 俺は首を振る。 「いや、違う。全然違うよ。ずっとずっと、いい音だ。なんでだ? 贔屓じゃない。本当に違う。どうして違うんだ?」 「多分それはフィッティングの問題です」 「フィッティング?」 「イヤホンというのはしっかり耳の奥にフィットしないと音が隙間から抜けてしまうんですよ。具体的に言うと低音が。高音はしっかり聴こえるんですけどね」 なるほど、そういうことか。 確かに音そのものは指で聴いた時のアコの音と変わりない。シンプルでありながら重厚。それでいて煌びやかさが同居した気品ある音。 だが細やかな点は天と地ほど違う。そして大きな点も一つ違う。 それが―― 「確かに力強い低音だ。ドスドスして、ギュッとしまってる」 この強い低音が他の音を邪魔するどころかむしろ彩りとなってさらに中高音が引き立って聞こえてくる。 音に連動するように何故だろうか、涙が出てきたのである。 音があまりにも凄すぎて、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのである。 アコが嬉しそうに頷く。 「そうです。やはり指だとどうしても隙間が出来てしまいますが、完璧にフィットした私は、最高の音が出せるんです」 「凄い……本当
Last Updated: 2026-06-07
Chapter: 4章 7 それから俺たちは一旦イヤホン屋へと赴いた。 どうせなら神社から直行すればいいのではと思えそうだが、最後にアコを俺の部屋に連れて行って、そして、抱きしめたかったのだ。 まあ、すぐ消えるかと思ったら修理が完了してもアコは成仏しなかったわけだが。 冷静に考えたらそりゃそうだ。だって俺はまだ――アコを聴いていないのだから。 「これが……アコの直った姿」 見てくれは変わらないはずなのに。断線したのをただ直しただけなのに。 どうしてだろう。なんでだろう。 「はい。……どうですか?」 「綺麗だ……そうか、本当はこんな姿なんだね」 不思議な気持ちである。 アコがあはは、と苦笑する。 「といっても私はチタン筐体なので踏んだくらいじゃ壊れないんですけどね。ぶっちゃけ端子が壊れて断線しただけですし」 確かにそりゃそうなんだが、でも、やっぱり。 「でも、何でだろう。違って見えるよ」 「身内びいきですよ。……でも嬉しいです。ありがとうございます」 アコは微笑んだまま小さく頭を垂れた。 元通りとなったアコ本体を彼女に見せつけながら、そっと。 「アコ、聴いてみたい」 「どうぞ、音源はありますか?」 「この日に備えてハイレゾ沢山買ったよ。高いね、一曲六百六十円はエグい」 「ですよねえ」 お陰で今月の食費を思い切り減らさなければならなくなった。大変な事態である。 でも、アコのためならば、アコを聴くためならば、やはり最上でなければ。 と言っても俺には音楽の善し悪しなどわからないからジャンルは適当だ。これについては色々聴いて、いずれ好きなタイプを確立していけばいいだろう。 と、俺の後ろからにゅっと紐育が首を突き出し、 「私も聴きたいな」 そう言ってぺろっといたずらっ子のように舌を出した。 そんな紐育の様を見て、アコがあははと苦笑する。 「勿論ですよ、さ、八島くん」 促され、俺はアコを耳に装着する。アコはシュア掛けではなく普通に耳につけるタイプだ
Last Updated: 2026-06-06
Chapter: 4章 6 神社を出て、てくてくと夕暮れに染まった街を歩きながら、俺たちはちらちらとお互いを見つめ合う。 「八島くん……八島くん!」 今にもだきついてきそうなアコの頭を、俺は優しく撫でる。 「アコ……いいんだ。もう大丈夫だから」 もっとも、倉戸京子と約束し、アコも納得し、俺も啖呵を切ったとはいえ、今更ながら悲しみと不安がぽこぽこと沸騰したお湯のようにわき出てきた。 このまま倉戸京子を裏切って逃げ出してしまおうか。あるいは開き直ってしまおうか。そんな考えがわずかに脳裏をよぎる。 「ただ、アコ……いいんだな?」 「……はい」 ためらいを感じた。でも、彼女は承諾を示した。 なら、その意志は尊重しなければならない。 でも、そんな気持ちさえも責任を押しつけるような、卑怯者の逃避であって、それが俺に自己嫌悪を与えていく。 ただ、それを口にすることは憚られた。 騙すなら、最後まで騙すべきだから。 「わかった。じゃ、行こうか」 俺はぽんぽんとアコの背中を叩く。 そんな俺たちをやりとりを見ていた紐育が、沈みゆく太陽をバックに、少しだけ申し訳なさそうに訊ねてくる。 「……私も、行っていいんだよね?」 「「勿論」」 家につき、部屋に戻ってから、俺はアコにすっとイヤホンを見せつける。 鈍色に光る、筒状のハウジング。金属の冷たさが夕日に照らされ、ルビーのように輝いている。 「アコの本当の姿は、これなんだよな」 「はい、これなんです」 アコはしっかと頷いた。寂しそうに、懐かしそうに。 俺は頬を静かに緩める。 「そうか……」 「大事にして、くれますよね?」 「勿論だ。ずっとずっと、愛用する」 言いながら、俺は強く頷いた。 アコが嬉しそうにぱん、と手を鳴らす。 「わあ、それはよかったです」 そして俺から顔を逸らし、窓から夜へ移行する藤色と薔薇色の混ざった空を見つめながら、 「お別れじゃないんですね」 と言った
Last Updated: 2026-06-04