深雪はよくわかっていた。芽衣が今日わざわざ静雄を連れてここに来たのは、自分に対して優越感を誇示するためだ。しかし深雪は笑った。なぜなら、彼女と芽衣はもう同じ土俵にはいないからだ。芽衣の視線は常に男の上にしかない。だが深雪が求めているのは金、そして静雄が生き地獄に堕ちることだけだった。「深雪!俺を甘く見るなよ今回のプロジェクトを落としたら、お前がどんな惨めな姿で松原商事から追い出されるか見ものだ!」静雄は奥歯を噛みしめ、初めて本性をむき出しにした。いつもは冷静で体裁を崩さない彼が、青筋を浮かべ歯を食いしばる姿は初めてのことだった。だがたとえこの場で静雄が息絶えたとしても、深雪にとっては何の意味もなかった。彼女は肩をすくめ、平然と答えた。「そう?他人の心配する前に、自分の心配したら?」そう吐き捨て、てんてんを抱きしめたまま病院を出ていった。彼女が去ると同時に院内の空気は一気に冷え込み、医者たちでさえ声を潜め、息をひそめるほどだった。静雄の感情の揺れを敏感に察した芽衣は、胸の奥に戦慄を覚えた。まさか静雄が深雪のことを思ってここまで取り乱すなんて、想像すらしなかったのだ。「静雄......大丈夫?」「全部私が悪いの。はなちゃんのドッグフードを一緒に買おうなんて誘わなければ、深雪さんを怒らせることもなかったのに......」芽衣はうつむき、小さく謝罪をつぶやいた。「彼女が怒ろうが怒るまいが、俺に関係あるか!」静雄はとうとう怒声を上げた。その瞬間、芽衣の目から涙が溢れ出した。全身を震わせ、腕の中のティーカップ犬でさえ主人の感情を察し、小さく鳴いた。その姿を見て、静雄ははっとして慌てて近寄り、彼女をなだめるように声をかけた。「すまない。そんなつもりじゃなかったんだ」「いいの、わかってる。私が悪いの。あなたにべったりしてはいけなかったのよ。ごめんなさい、静雄......でもね、あなたがいない時、私が本当に怖くて......」芽衣は泣きじゃくりながらも、必死に涙を拭った。静雄は急いで彼女の手を取って宥めた。その声は先ほどまでの苛烈さが嘘のように柔らかく、まるで別人のようだった。深雪はその様子をガラス越しにじっと見つめていた。胸の奥が締めつけられるように痛んでいた。静雄は寧々にあんな優しさを一度
延浩は深雪に向かって柔らかく笑みを浮かべた。つい先ほど、彼は深雪が毅然と自分を守る姿をこの目で見ていたのだ。延浩の真剣な眼差しを見て、深雪はわずかに眉を寄せ、ためらいながら口を開いた。「でも......私のこと、ただの口うるさい女だと思わない?」「どうしてそう思うんだ?挑発され、侮辱されても黙って耐えるのが優しさか?それは温厚じゃなくて、無能っていうんだ」延浩の言葉は鋭く核心を突いた。くだらない教養なんて、芽衣のような厚顔無恥な相手には何の意味もない。必要なのは戦う力だ。その評価を聞いて、深雪の鼻の奥がつんと熱くなった。これまで彼女が少しでも声を荒らげれば、静雄は延々と叱りつけてきた。だが、そもそも静雄の言う松原家の人間とはどんな存在なのか、深雪には最後までわからなかった。しかし今となっては、どうでもよかった。松原家がどうであれ、自分とはもう関係がない。ペット病院に着くと、医師もてんてんを見て驚いたようだった。細かく診察した後、「てんてんは生まれつき小柄で、兄弟姉妹に押されて母乳を十分に飲めなかったせいで小さいですが、体は健康です。大切に育てれば、これからどんどん大きくなりますよ」と告げた。その言葉に、深雪の顔はぱっと明るくなった。惜しむことなく、てんてんのために次々と最高の品を買い揃えていった。その間、延浩はカウンターのそばに立ち、てんてんと大きな目で見つめ合っていた。動物が苦手なはずなのに、不思議と最初の恐怖は薄れてきていた。「にゃあ!」「うわっ!」てんてんが鳴くと、延浩も思わず声を上げてしまった。音に気づいた深雪はすぐに戻り、てんてんを抱き上げて眉をひそめ、呆れたように言った。「大きな声出さないで。てんてんが怖がるでしょ」「あいつが怖いなら、俺だって怖いんだぞ!」延浩はすぐさま不満をぶつけてきたが、深雪はてんてんを抱いたまま、彼を見てくすくすと笑った。その笑いはどう見てもからかいだった。「静雄、はなちゃんのお気に入りはここのドッグフードなの......」「あら、深雪さんも来てたの?」芽衣が静雄の腕に絡みつきながら入ってきた。彼女の腕には小さなティーカッププードルが抱かれていた。芽衣は少し驚いたように目を瞬かせた。静雄の表情は暗く沈んでいた。深雪と延浩の親しげな様子を目にして
深雪は腕の中でてんてんを抱きしめながら、芽衣を不機嫌そうに見やった。「この時間なら会社にいるはずでしょ。ここに何の用?」芽衣はわざとらしく身につけた服を引っ張り、そこに残る曖昧な痕跡を見せつけた。「昨日、静雄は飲みすぎちゃってね。一晩中看病してあげていたの。彼が私を気遣って、今日は休ませてくれた」母親になった深雪に、その痕跡の意味がわからないはずがない。昔なら、そんなものを見れば胸が張り裂けるほど傷ついたかもしれない。だが今の深雪にとっては、取るに足らないものだった。「昨日の夜、何時間も声をあげ続けたから、疲れたんでしょ?それなら大人しく休んでなさいよ。わざわざここまで来て何のつもり?まさか、また昼間から声を張り上げたいって?残念だけど、私にはそんな芸当できないわ」深雪は芽衣を頭からつま先まで冷ややかに眺め、毒舌を次々と浴びせた。どうせ二人は最も恥知らずなことをやっているのだ。ならば、自分が少し言葉を投げつけたところで怖れる理由などなかった。芽衣は明らかに意外そうな表情を浮かべた。かつては自分の前で怯えていた女が、今ではこうして面と向かって言い返してくるのだ。「恥も外聞もないのね!」苛立ちを隠せない芽衣は、もはや淑女を装うこともできなくなっていた。深雪はほとんど反射的にてんてんの耳を覆い、彼女を軽蔑するように見た。「男に痕をつけてもらって、それを得意げに私に見せつける。そんなあなたが、私に『恥知らず』って言うの?今どき、愛人ってそんなに威張れる立場だったかしら?」「愛されてない方が愛人よ!」芽衣は歯を食いしばり、一歩踏み出して冷たい目で深雪をにらみつけた。「偉そうに私たちを責め立てるけど、あなたはどうなの?他の男といちゃついてるくせに!」深雪は一歩下がり、延浩のそばに立つと、わざと頭を彼の肩に預け、ウィンクしてみせた。「そうよ。私たちはいちゃついてるの。何か?あなたのご主人ですら私を責めに来てないのに、どうしたの?あんたが耐えきれなくなった?ここで虚勢を張る暇があるなら、主人に尻尾を振ってクレジットカードの限度額を上げてもらう方法でも考えなさいよ」そう言って深雪は延浩の袖を軽く引っ張った。「この人怖すぎ。早く行きましょ。狂犬病でもうつされたら大変だもの」「うん」延浩は堪えきれず吹き出
静雄は少し疲れたように眉を揉んだ。二日酔いに加え疲労も重なり、今の彼の状態は本当に良くなかった。「そんな意味じゃない。誤解しないでくれる?」芽衣はその様子を見て、すぐに身を寄せ、細い指先で静雄のこめかみをそっと揉みはじめた。「疲れすぎなんじゃない?こうしたら少しは楽になる?今日は仕事に行かない方がいいわよ。どうせ会社も大した用事はないんだし、家でゆっくり休んで。私が牛すじ煮込みを作ってあげる。いい?」芽衣はそう言いながら静雄の胸に身を預けてきた。従順な子猫のようで、拒むことなどできなかった。静雄の心に溜まっていた重苦しさは、その言葉で一気に消え去り、自然と芽衣の肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。「芽衣、君だけがこんなに俺を気にかけてくれる。君だけが、俺を癒してくれる」たとえ静雄が言葉にしなくても、芽衣にはわかっていた。もしこの程度のこともできないなら、とっくに彼のそばに居られなくなっていただろう。この数年、芽衣はずっと屈辱を忍んできた。本来なら、あの小娘が死んだ後は自分が静雄の妻になるはずだった。だが思いもよらず、小娘は死んだのに、深雪がまるで別人のように変わってしまった。今では静雄に取り入るだけでなく、深雪をも警戒しなければならない。子を失ってからの深雪は逆に眩しく輝くようになり、本当に憎らしい。静雄はしばらく休んで気力を取り戻すと、「一緒に会社へ行くぞ」と言った。一方そのころ、深雪は今日は会社に休みを取っていた。てんてんを迎え入れたからには責任を持たなければと思い、宝物のように抱きかかえて外に出て、動物病院で健康状態を診てもらうつもりだった。家を出ると、延浩の車が門の前に停まっているのを見つけ、深雪は少し驚き、眉をひそめながらてんてんを抱いて近づいた。延浩は車から降り、笑みを浮かべて深雪を見たが、彼女の腕の中のてんてんに気づくと顔がこわばった。「仕事にてんてんを連れて行くのか?」「違うわ。今日は休みを取って、病院に連れて行こうと思って」「......怖くないのか?」実は昨夜から深雪は気づいていた。彼がてんてんを避けていることに。だが昨夜ははっきりとは見えなかった。今日よく見てみると、それは拒絶ではなく恐怖だった。延浩は、まだ自分の拳ほどの大きさもない小さな毛玉を見て、気まずそうにして
深雪は、自分が静雄の相手になるはずがないことを分かっていた。でも、彼とこれ以上の親密な接触など、絶対にしたくなかった。ただただ耐えがたい嫌悪しか覚えないのだ。涙が頬を伝って零れ落ち、彼女はまっすぐに静雄を見据えた。「......あんたが大嫌い」涙と、隠そうともしない憎しみの眼差しに、静雄はその場で凍りついた。彼女の上に覆いかぶさったまま、初めて味わう動揺に息を呑んだ。「お前......これが欲しいんじゃなかったのか?」声は掠れていた。「消えて!」深雪は怒鳴り、瞳に憎悪をあらわにした。その瞬間、静雄は胸の奥に鋭い痛みを感じた。思わず手を伸ばし、彼女の頬に触れた。そこにあったのは冷たい涙。触れた途端、彼は逃げるように部屋を飛び出していった。扉が閉まる音が響くと同時に、深雪はベッドに突っ伏し、声をあげて泣き崩れた。すぐさま中子が駆け込んできた。乱れたベッドと、縛られたままの深雪を目にして、心底心配そうに近づき、急いで彼女の手のネクタイを解いた。「大丈夫ですか?」「......大丈夫」深雪は誰とも話したくなく、手を振って中子を休ませた。中子も察していた。実際に酷いことは起きていないと分かり、安堵して部屋へ戻った。深雪は顔の涙を拭き取り、階下へ降りた。カーペットの上で震えているてんてんを見つけると、急いで抱き上げた。「てんてん、ママが守ってあげる。必ず守るから」小さな猫はまるで彼女の気持ちを理解するように胸に身を寄せ、答えるように喉を鳴らした。その仕草が深雪の心をさらに揺さぶり、涙はあふれ続けた。「てんてん、あなたにはお姉ちゃんがいたの。寧々っていうのよ。ママは今でも寧々に会いたくてたまらない......」寧々が亡くなってから、深雪は毎晩泣きながら眠りについていた。本当に娘に会いたくて、何を犠牲にしてもいいと思っていた。車の中。静雄は苛立たしげにシャツのボタンを二つ外し、ハンドルを強く叩いた。バックミラーに映った自分は、どうしようもなくみじめだった。幼い頃から何事も思い通りに進んできた。これほど狼狽することは一度もなかった。そんな自分の姿に怒りが込み上げた。最近の自分はどこかおかしい。以前なら眼中になかった女から、なぜか目が離せなくなっている。その事実に、さらに苛立ちが
延浩には理解できなかった。深雪はあんなに忙しいのに、どうして子猫を飼って気を散らすのだろうか。「てんてん!かわいいね」深雪は小さな子猫をそっと胸に抱きしめ、涙が一気にこぼれ落ちた。彼女はてんてんを延浩に差し出しながら言った。「見て。この子、とても可愛いでしょう?」ぼろぼろで小さな塊にしか見えず、とても可愛いとは言えなかったが、延浩はうなずいた。「送っていくよ」店主は本当に子猫を気に入ったのを見て、ヤギのミルクパウダーの袋をおまけに渡してくれた。「まだ小さいから、キャットフードは食べられませんので」と説明した。帰り道、深雪はずっと子猫を手に抱え、愛おしそうに目を離さなかった。てんてんを見ていると、どうしても寧々を思い出す。胸の奥が言葉にならないほど柔らかくなる。深雪は微笑みながらつぶやいた。「これは私の寧々が戻ってきたんだわ。帰ってきたのよ」延浩はその言葉を聞いて胸が締めつけられた。深雪が娘への愛情を一匹の子猫に託しているとは思いもしなかった。動物は苦手だったが、彼女が喜んでいるのを見て、込み上げる嫌悪を抑え込みながら、深雪を家まで送り届けた。玄関先で、延浩は心配そうに言った。「子猫を育てるのは大変だ。気をつけて。明日、一緒に動物病院へ連れて行こう。いい?」「うん」深雪は素直にうなずき、荷物を抱えて家の中に入った。しかし、扉を開けた瞬間、深雪は全身の血が凍るのを感じた。静雄がソファに座り、足を組み、全身から冷酷な殺気を漂わせていたのだ。彼女が入ってきて表情を変えると、静雄の顔色はさらに険しくなり、目の前のテーブルを指先でとんとんと叩いた。「どこに行っていた?」深雪は一瞥すらくれず、手の中の子猫をブランケットの上にそっと置き、買ってきた物を片付け始めた。これほど無視されたのは初めてだった。静雄の怒りは燃え上がり、目の前のテーブルを激しく蹴り飛ばした。「俺が聞いてるんだ!」「私がどこに行こうと、あんたに何の関係があるの?」深雪は苛立ったように眉をひそめ、逆に問い返した。静雄は勢いよく立ち上がり、深雪の前に大股で近づくと、顎をつかんだ。二人の顔は至近距離にあり、深雪には彼の怒気がはっきりと感じ取れた。その姿に、彼女の胸には吐き気と嫌悪が込み上げた。彼女は全力で