另一方、マネージャーはうつむきながらオフィスに戻り、緒莉に電話をかけて進捗を報告した。「お嬢様、ご指示の件、無事に手配しました」「よくやったわ」向こうから緒莉の満足げな声が聞こえてきた。仕事が終わると、マネージャーは車のキーを手に取り、紗雪を連れてレストラン・コウリョウへ向かった。個室に入ると、すでに二人の腹の出た男たちが待っていた。「早川社長、松本社長、ご無沙汰しております、お変わりなく」マネージャーは笑顔で近づき挨拶を交わした。二人の社長は椅子に座ったまま、ふんぞり返った態度でマネージャーに杯を掲げた。「柴田さんは最近、椎名グループのプロジェクトの準備で忙しいと聞いているよ、忙しいのは理解できるがね」マネージャーは笑って手を振り、紗雪に目配せしながら席に着くよう促した。「そんなことはありません、私の招待が行き届かず、もっとお二人とお付き合いすべきでした」それぞれがそれぞれの思惑を抱えながらも、こうした場ではお世辞を交わし合う。いずれにせよ、ビジネスの世界は駆け引きばかりだ。紗雪は松本社長の左側に座り、まるで飾りのように静かにしていた。マネージャーは彼女を一瞥しながら話を切り出した。「お二人にご紹介します」「こちらは当社の二川紗雪、椎名プロジェクトのメインの担当者です」その言葉を聞いた二人の社長は、紗雪に視線を向けた。そして、彼女の姿を目にした瞬間、二人の目が合い、一瞬のうちに互いの意図を察した。「柴田さん、ずるいですね、こんなに美しくて優秀な社員がいるのに、我々は今日初めて知るなんて」「そうだよ、柴田さん、これは罰として一杯飲んでもらわないと」二人は次々とマネージャーを追い詰めるように言葉を繰り出した。マネージャーは彼らの性格をよく理解している。こういう場で取引を進める人間たちだ。最後には苦笑しながら杯を手に取った、「お二人がそうおっしゃるなら、ありがたくいただきますよ」そう言いながら、マネージャーは杯を一気に飲み干した。彼があまりにあっさりと飲み干したので、二人の社長は物足りなさそうに舌打ちし、次の標的を紗雪へと向けた。「二川さんはお若いのに、すでに椎名グループのプロジェクトを担当されているなんて、すごいですね」「私の部下たちより、ずっと優秀
紗雪は口を閉ざし、かすかに微笑んだ、「はい、ご厚意に甘えて」「本日お邪魔したのは、ぜひとも利益をもう5パーセント上乗せしていただきたいからです、これが二川グループとしてご提示できる最低ラインです」早川社長と松本社長は視線を交わした、二川グループの狙いはこれだったのか。このタイミングで椎名グループのプロジェクトがある以上、彼らの商品はどこへ行っても引く手あまただ、売上について心配する必要はない。あとは、この案件をどこが勝ち取るかだけの問題だ。現状、二川グループには十分な勝算がある、もし本当にこの契約を手に入れれば、利益を譲ることもやぶさかではない。ただし、酒の席はまた別の話だ。「二川さん、商談というのは、酒が回ってからが本番というものです」早川社長は意味ありげな表情で、さも不満げに言った。松本社長もすかさず続ける、「そうですよ、まだまだこれからじゃないですか、まずは飲みましょう」「存分に飲んでこそ、腹を割った話ができるというものですよ」紗雪の目がかすかに陰り、唇に浮かんでいた微笑がほんの少し薄れた。彼女は思い出した、以前からこの二人が女好きで有名だという話を聞いたことがある。しかし、仕方がない、どちらの会社も鳴り城のトップ企業だ。彼らの商品は、二川グループにとっても不可欠なものだ。「おっしゃる通りですね。では......」そう言って、紗雪は盃を仰いで飲み干した、飲み終えると、盃を逆さにして見せ、確かに空になったことを示した。その様子を見て、松本社長と早川社長の目には、さらに愉悦の色が濃く浮かんだ。「二川さんは実に潔い方ですね」「ああ、二川グループの方々が皆、二川さんのように話の分かる方なら、とうにこの商談は決まっていたでしょうに」「そうそう、こんな面倒な手続きなんて、必要なかったかもしれませんよ」二人が掛け合いのように話すのを聞きながら、紗雪はすべてを察した。これはまさに鴻門の会――つまり、罠だった。マネージャーが席を立って、すでに十数分経っているのに、まだ戻ってこない、それが何よりの証拠だった。紗雪の瞳が冷たく沈み、脳内で脱出の手を考えていた、そんなとき。「ドンッ!」個室の扉が勢いよく押し開けられた。半ば酔いの滲んだ目を薄く開くと、そこにはすらりと
京弥は気だるげに言った。「そういうことなら、この商談は......」最後まで言葉を続けなかったが、早川社長と松本社長はすぐに察した。二人はすぐに紗雪を見て、「二川さん、先ほどおっしゃっていた条件、承諾します。契約書はお持ちですか?今すぐにでもサインしましょう」と言った。「あ、はい」紗雪はまだ少し夢の中にいるような気分だった。契約書を手にした瞬間でさえ、現実味がなかった。その後の食事は、紗雪にとっては心地よいものになったが、早川社長と松本社長にとっては、京弥の圧にさらされ、味も何もない食事となった。だが、京弥は一切気にしていなかった。彼が今日ここに来た目的はただ一つ――紗雪の後ろ盾となること。彼の妻だというのに、彼でさえ傷つけるのを惜しむ存在を、こんな小物どもに好き勝手されるなど、到底許せるはずがなかった。そう考えながら、京弥は匠にメッセージを送った。「早川家と松本家を調べて、少しトラブルを作ってやれ」匠は首を傾げつつも、命令通り動いた。だが、早川家や松本家とは特に深い関わりがあるわけでもないのに、なぜ急に社長は彼らを狙うのだろうか。まあ、ボスの考えを詮索しても仕方ない。紗雪は、店を出るころになってようやく実感が湧いてきた。京弥が現れてから、驚くほど物事がスムーズに進んでしまったからだ。彼に腕を抱かれながら店を出ると、ようやく彼女は口を開いた。「どうしてここに?」ここは個室なのに、どうやって彼女の居場所を知ったの?そんな疑問を抱く紗雪に対し、京弥は顎をわずかにしゃくり、示すように視線を向けた。紗雪がそちらを見ると、壁際に立つ柴田の姿があった。彼は落ち着かない様子で、まるで逃げ出したいかのように身を縮こまらせていた。紗雪の目が鋭く細められる。この食事会を段取りしたのは柴田さんのはずなのに、席についてからずっと姿を見せなかった。「これはこれは、柴田さんじゃありませんか」紗雪は皮肉げに言った。「もう帰ったのかと思っていましたけど、まだここにいらしたんですね」「......っ」柴田さんは怯えたように京弥を一瞥し、覚悟を決めたように目をつむると、一息に言った。「お察しの通りですが、これは私の意思ではありません」「どういう意味?」紗雪の目がさらに
京弥は紗雪の様子がおかしいことに気づいていた。だからこそ、マネージャーが去るのを止めることはなかった。今は、何よりも紗雪の体調が最優先だった。「大丈夫か?」京弥はわずかに身を屈め、優しく尋ねた。紗雪は首を振り、平静を装った。「大丈夫。ちょっと飲みすぎただけ」そう言いながら、京弥の手を押しのけ、外へ向かって歩き出した。しかし、たった二歩踏み出したところで、体がふらつき、そのまま倒れそうになった。幸いにも、京弥がすぐに支えた。その様子を見て、京弥はすぐに分かった。紗雪はただ無理をしているだけだと。次の瞬間、彼は紗雪の腰を抱き上げ、そのまま腕の中に包み込んだ。突然の出来事に、紗雪は思わず小さく声を上げた。「ちょ、ちょっと!何してるの?」「当然、家に帰るんだ」京弥はそう言いながら、紗雪を助手席に優しく座らせ、丁寧にシートベルトを締めてやった。彼女の鼻先をかすめると、強い酒の匂いが感じられた。顔を覗き込むと、ほのかに上気した頬が目に入る。京弥は思わず手を伸ばし、彼女の小さく整った鼻を軽くつついた。「この飲んべえ。俺がいない時は、こんな飲み方はダメだぞ」紗雪は不機嫌そうに小さく唸り、顔をそむけた。だが不思議なことに、京弥のそばにいると、どこか安心できる気がした。何も考えず、ただ家に帰ればいいという気楽さがあった。その様子を見て、京弥はくすりと笑い、運転席へと回った。そして車を発進させ、コウリョウを後にした。実は、今日紗雪と会ったのは偶然ではなかった。彼もまた、この場所で商談があったのだ。彼女のいる個室を突き止めたのも、入り口で落ち着かずに歩き回る柴田を見かけたからだった。嫌な予感がして、匠に軽く探りを入れさせたところ、柴田はあっさりと口を割れた。本当に、間に合ってよかった。同じ頃、緒莉のもとにも報せが届いた。計画は失敗に終わった、と。「お嬢様、こんなことはもうご勘弁を......」柴田の声は明らかに怯えていた。緒莉は眉をひそめた。「どういう意味?」柴田の脳裏には、早川社長と松本社長すらも震え上がらせたあの男の姿が浮かんでいた。彼の正体は分からないが、ただならぬ人物であることだけは確かだった。「お嬢様、これ以上聞かないでください。もうこんなことには関
紗雪は小さく「うん」と返事をし、続けて尋ねた。「これは何?」「ヘジャンククだ」京弥は紗雪の隣に腰を下ろし、自然と彼女を広い肩へと寄りかからせる。「昨日あんなに飲んだんだから、今日の朝はきっと頭が痛いだろうと思ってな。それで、ヘジャンククを作ったんだ」「少しでも飲めば、楽になるよ」紗雪は目の前の橙色の液体を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。視線をそっと横に移すと、精緻な横顔と高く通った鼻筋が目に入る。不意に心臓が一拍、跳ぶのを忘れたかのような感覚に襲われた。結婚相手として見るならば、京弥は申し分ない存在だった。少なくとも、以前の加津也と比べれば、はるかに優れているのは間違いない。京弥は紗雪がぼんやりとしているのを見て、首を傾げた。「どうしたの?熱いうちに飲まないと効果がないぞ」紗雪はハッとして、小さく頷いた。そっと唇を開き、京弥にスープを飲ませてもらう。最初の一口を含んだ瞬間、驚きが走った。見た目からして苦いと思っていたのに、まさかのオレンジの味がしたのだ。京弥は優しく微笑んだ。「君がオレンジ好きなの知ってたからな。ネットでレシピを探して作ってみた」紗雪の耳が一瞬で真っ赤になった。なんだか気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。「もう、自分で飲むから......」顔から首筋まで、まるで茹で上がったエビのように真っ赤だった。その姿があまりにも可愛くて、京弥はつい、指先で彼女の耳を軽く触れた。紗雪は羞恥と怒りに満ちた顔で耳を押さえ、非難の眼差しを向けた。「何するのよ!」「いや、耳が赤いなーって」紗雪はもう京弥を見ずに、彼の手から椀プを奪った。「自分で飲むから」そう言って、一気にスープを飲み干す。その間、京弥は何も言わず、穏やかな表情で見守っていた。スープを飲み終えると、紗雪の体はだいぶ楽になり、力が戻ってきた。彼女は布団をめくり、起き上がるとすぐに仕事へ行く準備を始めた。「今日は休まないのか?」京弥はまだ完全に酒が抜けていないのではないかと心配そうに尋ねる。紗雪は首を横に振った。「大丈夫、昨日のことを思い出したの」「会社に戻って、片付けることがあるの。家のこともあるし。ここで時間を無駄にはできないわ」京弥は紗雪を引き
円はこんな紗雪を見るのが初めてで、少し怯えた様子で小さく頷いた。「うん......すごく慌ててる感じだったし、家の事情じゃないかな。そうじゃなかったら、あんなに急ぐ理由がないよ......」紗雪はそれを聞いても、ただ冷笑するだけで、円の言葉には答えなかった。柴田がなぜ退職したのか、彼女には分かりきっている。彼女と顔を合わせるのが気まずかっただけのこと。それに、彼女と緒莉の間に挟まれて、どちらにも都合のいい態度を取るのは難しかったのだろう。紗雪は考えをまとめると、二人の社長と交わした契約書を手に持ち、足早に会長室へ向かった。ドアをノックし、中から声が聞こえてから、扉を押して中へ入る。部屋に入ると、美月がチェーン付きの眼鏡をかけ、洗練された雰囲気を漂わせていた。紗雪は恭しく口を開いた。「会長」美月は顔を上げ、来たのが紗雪だと分かると、少し驚いたようだった。「珍しいわね。どうしたの?」会社に勤めてこれだけの時間が経っているのに、紗雪が彼女を訪ねてくることはほとんどなかった。この娘には厳しく接してきたが、それは彼女を早く成長させたかったからだ。温室で甘やかされた花にはしたくなかった。「会長、お話があります。この契約書を見てください」紗雪は契約書を美月に差し出した。美月はじっくりと目を通し、それが今の二川グループにとって重要なものだとすぐに理解した。さらに、通常よりも5%も安く契約を結んでいる。その瞬間、美月の表情には隠しきれない称賛の色が浮かんだ。「よくやったわね。今回の件は見事だったわ」叱るべきときは厳しくするが、褒めるべきときは惜しみなく称賛を与えるのが美月のやり方だった。だが、紗雪は冷静に口を開いた。「会長、実はお願いがあって来ました」その言葉に、美月の笑顔が少し引き締まる。紗雪の表情が真剣だったため、ただ事ではないと察した。この子は、いつも自分で問題を解決しようとする性格だった。たとえ何かあっても、他人に頼ることはほとんどない。そんな彼女が「お願い」を口にするのは、今回が初めてだった。「続けて」紗雪は昨日の出来事を包み隠さず、すべて話した。美月の顔色がみるみるうちに険しくなっていったが、思わず緒莉を庇うような言葉が口をついて出た。「そんなは
二川グループを出ると、紗雪は目を細めた。陽射しは暖かく降り注いでいるのに、心の奥底はひやりと冷え切っていた。証拠は揃っているというのに、それでも美月は信じようとしなかった。紗雪は挫折感を覚えた。自分の言葉が、母親にとってこれほどまでに信憑性のないものだったとは。ならば、一人で調べるしかない。どんなに隠されていようと、必ず真相を突き止めてみせる。千の言葉を並べるより、一つの確かな証拠を突きつけた方が、よほど説得力があると分かった。そう考え、私立探偵に連絡を取ろうとしたその時。美月から電話がかかってきた。一瞬、出るべきかどうか迷ったが、結局心が揺らぐ。もしかしたら、母親の気が変わったのかもしれない。指が受話ボタンに触れた。しかし、言葉を発する間もなく、美月の焦った声が耳に飛び込んできた。「紗雪、何をするつもりでも、今は一旦やめなさい」紗雪の目が冷え込み、完全に失望しきった表情になる。反論しようとしたその時。まるで彼女の考えを読んだかのように、美月が続けた。「私を責めてもいいわ。でもこれは由々しき事態なの」「椎名のプロジェクトの入札会が、予定より前倒しになった。さっき椎名グループが発表したばかりの情報よ。すぐにあなたに知らせなければと思って」紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、深呼吸を数回繰り返す。わずかな時間で、気持ちを切り替えた。「分かりました。そちらを優先します」美月は小さく息をついた。「私たちは家族よ。今はプロジェクトがかかっているのだから、足並みを揃えて外部と戦わないと」「......ええ」紗雪はそれ以上何も言わず、一歩引いた。この件は、ひとまず棚上げするしかない。電話を切ると、彼女はもはや他のことを考える余裕もなかった。椎名プロジェクト。彼女にとって、それはまるで自分の子どものような存在だ。何があっても、この企画を台無しにするわけにはいかない。一瞬のうちに決断を下し、二川グループへ戻るべく足を踏み出した。入札会の準備へ。......一方、緒莉は、社内に配置していた手下から「紗雪が会長室を訪れた」との報告を受けた。彼女は持っていたスマホを「ガンッ!」と床に投げつける。バキッと無惨な音を立て、画面が粉々に砕け散った。緒莉は理解していた。
紗雪に気づいた人々が、次々と彼女に声をかけてきた。彼女は微かに頷くだけだった。その頷きの角度すら計算されたように完璧だった。上流の人々の間を歩く姿には違和感がない。まるで、彼女がいる場所こそが自然と中心になってしまうようだった。経営者たちでさえ、彼女の振る舞いを称賛していた。会場の端で、その様子をじっと見つめる男がいた。加津也は拳をゆっくりと握りしめる。「......あの女、俺から離れた途端に、ずいぶんといい気になってるじゃないか」その装いを見れば、以前のような貧乏学生には到底見えない。こんな高級な服、一体どこで手に入れた?そばにいた初芽が、心配そうな顔で口を開く。「こんな服を着られるなんて、おかしいと思わない?もしかして、レンタルしたのかも」その言葉を聞いた瞬間、加津也の表情が和らいだ。初芽を満足げに見つめる。「確かに」そう考えれば納得がいく。初芽はさらに話を続ける。「こんな大事な場でレンタルのドレスを着てるなんて、バレたらどうなると思う?こんな人が、まともにプロジェクトを取れるのかしら?」加津也もそれは分かっていた。だが、今ここで紗雪に言いがかりをつけるつもりはなかった。本番は、もっと後だ。彼はスマホを取り出し、届いたメッセージを確認する。椎名グループの幹部から、「手はずは整った」との報告が来ていた。加津也の唇がゆっくりと吊り上がる。「紗雪、お前がどこまで余裕でいられるか、楽しみだ」今回の件が終われば、このプロジェクトは二度と手に入らないだろう。一方、紗雪はそんなこととはつゆ知らず、椎名グループの幹部たちと今回の案件について話し合っていた。彼女の意見は高く評価され、周囲の反応は上々だった。「二川さん、こんなに若いのに、視点と洞察力が本当に素晴らしいですね」「まったくだ。今の時代は、君たち若い世代のものだよ」紗雪は柔らかく微笑む。「光栄です。まだまだ勉強中ですので、ぜひご指導ください」その謙虚な姿勢がさらに好印象を与えた。若さに驕ることなく、しっかりと礼を尽くす。周囲の評価はますます上がっていった。その時、ステージに司会者が上がり、声を張った。「えー、皆様、お時間ですので。そろそろお席にお戻りください」会場にいた者たちは、
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「
紗雪の対応があまりにも素早く、秘書は心の中で驚きと同時に安堵の色を浮かべた。彼女は最近昇進したばかりで、紗雪のことをそこまでよく知らなかった。今朝ニュースを見たときは、「もう終わりだ」と思ったくらいだった。だが、思った以上に紗雪はしっかりとした手腕を持っていた。その姿を見て、秘書の中でも不安が少しずつ薄れていった。しかし。二人がようやく一息つこうかというその時、さらなる事態があっという間に爆発した。まさかここまで早く連鎖反応が起きるとは、誰も想像していなかった。しばらくして、秘書はもう自分一人では収拾がつかなくなり、またしても紗雪の元へ駆け込んだ。「大変です、会長!」「先ほど見ていただいたメーカーだけでなく、その後も次々と多くの業者が納品契約を解除してきています。このままだと、今手がけているプロジェクトすべてが一時停止になりそうです!」紗雪の手がペンを持ったまま止まった。ようやく彼女も、事態の展開の早さに気づいたのだった。まるで背後に巨大な手が動いているような、そんな不穏な流れ。彼女は直感的に、これがただの風評被害ではないと感じていた。だが今は真相を探る暇もない。最優先すべきは、大手メーカーたちとの関係をどうにかして維持すること。プロジェクトが一日でも遅れれば、その分人件費と時間が無駄になる。もし納期を守れなければ、椎名にどう顔向けすればいいのか。これが最初の取引なのに、もうこんな泥を被る羽目になるとは。「まずは納品メーカーをなだめて。あと、ネットでデマを流してる連中を突き止めて。指をくわえて見てるだけってわけにはいかない」「わかりました、すぐに調査します!」秘書は慌ててその場を去った。今の彼らには、一秒たりとも無駄にできない。時は金なり。一歩間違えば、すべてが崩れていくだけ。これが大企業の背負う重圧。紗雪はネット上に出回っている情報を注意深く読み返した。何か見落としている気がしてならない。だが、それが具体的に何なのか、今の彼女には思い出せなかった。今はとにかく、秘書がメーカーと連絡を取るまで待つしかない。二川グループにとって、メーカーとの信頼関係は命綱だった。それを失えば、彼女一人で背負いきれるような損失では済まされない。しばらく
伊澄は昨日耳にした「スピード婚」という言葉を思い出し、心の奥がまるで蟻にかじられているかのようにムズムズした。今の彼女の唯一の願いは、二人が一刻も早く離婚することだった。そうすれば、兄を説得して、彼女の京弥兄と一緒に鳴り城に留まれるのだ。「そんなことはどうでもいいでしょ。私は今、共通の敵を倒すことしか考えてないわ」その言葉を聞いた加津也は、それ以上言うのをやめた。今の彼にはよくわかっていた。自分のこの協力者も、早く紗雪を潰したいと思っているに違いない。「そうですか」加津也はそう言って、一本のタバコを取り出し、伊澄に向かって美しい煙の輪を吐いた。「あとは、いくつかメディアと繋いで、この件を事実として世間に認識させればそれでいいです」伊澄は彼の口から吐かれる煙の香りと、その見事な煙の輪を見て、少し不機嫌そうに言った。「私の前でタバコを吸わないで」「それと、あなたが言ってることってそんな簡単にできるの?」加津也は軽く笑い、彼女にタバコを禁じられても、ゆっくりとその一本を吸い終えた。「はい。あとはもう、成り行きを見守ればいいだけです」「最後の勝つ組は、私たちになるでしょう」その自信に満ちた笑みを見て、伊澄の胸中にも少し安心が広がる。「私たちの初めての協力に、うまくいくことを願ってるわ」「はい。必ず勝利を」加津也は、今の伊澄が何を求めているかをよく理解していた。二人は視線を交わし、その瞳の奥には、同じく野心の炎が見え隠れしていた。......二川グループ。紗雪はオフィスで最近の業務に追われていた。そのとき、秘書が慌てた様子でドアをノックしてきた。「ドンドンドン」という音からも、その切迫感が伝わってくる。紗雪は眉をひそめ、胸の中に嫌な予感が広がった。「入って」返事を聞くや否や、相手は一切の躊躇もなく扉を開けて中に入ってきた。「会長、大変です!」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は不快そうに言った。「大変って、どんな?」「これを見てください」息も整わないまま、秘書は手にしていたタブレットを彼女に差し出した。右目のまぶたがピクッと跳ね、紗雪の中の不安がさらに強まる。タブレットを受け取り、彼女は素早く内容に目を通した。瞳孔が、わずかに収縮する。「
「大丈夫か?」優しく、そしてどこか心配そうな男性の声が響いた。紗雪は額を押さえながら顔を上げると、無表情なまま問いかけてくる京弥の姿が目に入った。「大丈夫」京弥の顔を見ると、それ以上の言葉はもう出てこなかった。そう言って、彼女は身をかわして中へと歩を進めた。だが、京弥が紗雪の手首を掴む。彼の瞳の奥に、一瞬だけ傷ついたような光が差す。「紗雪......ちょっと話さない?」二人はそのまま、しばらく無言で向き合っていた。まるで、お互いにこの均衡を壊したくないとでも言うかのように。けれど紗雪には分かっていた。もう二人の関係は、以前のままではいられないのだと。伊澄が現れてから、彼らの時間は止まってしまった。「京弥さん......これは私自身の問題。あまり深く考えないで」紗雪は無理やりに笑顔を作った。「それに......私たち、元々スピード婚だったでしょう?お互いの親のためだったのよ。そんなに感情にこだわる意味なんてある?」その言葉に、京弥は彼女の顔から嘘の痕跡を探そうとした。だが、彼女の演技はあまりにも完璧で、違和感のかけらも見つけられなかった。「紗雪......それは、本心から?」紗雪は鼻で笑った。「本心かどうか、まずは自分に聞いたら?」そう言って、彼女は彼の手を振り払って部屋の奥へと歩いて行った。部屋の中にいた伊澄は、その様子を見て心の中で花火が上がるほど喜んだ。まさか、二人がスピード婚だったとは。しかもただの親の都合。これはチャンスだ。彼女の攻略難易度が一気に下がった!やっぱり......京弥兄は、最後には自分のものになるに決まってる!「二川紗雪......後から来たあんたごときが、私に勝てると思ってるの?」「あんたが破滅する日が待ち遠しいよ!」伊澄はその勢いのまま、加津也にメッセージを送った。「そっちはもっと頑張って。こっちは全力で合わせるから」その頃、加津也は初芽とベッドの中で交わっていた。メッセージに気づいた瞬間、動きを止める。「......え?」初芽が不満げに身を寄せる。加津也の目が一瞬暗くなるが、共通の敵のためにと気を取り直してメッセージに返信した。その様子を見て、初芽は内心で拳を握りしめながら悪態をついた。こんな
彼もすぐに手を差し出し、二人は軽く握手を交わした。それで、この協力関係は正式に成立した。なぜだか分からないが、伊澄はそれまで心の奥にあった不安が、手を握ったその瞬間、不思議と静まっていくのを感じた。加津也も続けて言った。「安心してください、神垣さん。失望させません。なんたって、共通の敵を持っているんですから」伊澄は手を引き、礼儀正しくも距離感を保った笑みを浮かべた。「そういうことなら、誠意を見せなさい。そっちはどう動くつもり?」加津也は彼女が手を引いたことに特に気を悪くすることもなく、表情を崩さずに笑みを保ったまま答える。「神垣さんの会社は二川グループとライバル関係にあります。だからこそ、海ヶ峰社からの情報には説得力があるんです」伊澄は眉を少し上げる。「続けて」「我々がやるべきことは単純です。二川グループが最も気にしているのは名声。だから、まずは外部からプレッシャーをかけて、それから内部を崩すのがベストです」「そうすれば、あとは一気に片がつきます」加津也の笑みには含みがあった。伊澄はその話を真剣に咀嚼しながら、確かに一理あると判断した。「なるほどね。じゃあ、手助けが必要なときは、直接言ってちょうだい」加津也の計画を聞きながら、伊澄は彼のやり方をある程度認めた。心の中で冷たく笑う。本当に信じられない。この世には紗雪を憎んでいる人間がこんなにもいるなんて。普段からあの人のキャラがよっぽど嫌われてるのね。だからこんなにも敵が集まる。「ちょうど一つ、頼みがあります」加津也はそう言いながら、彼女のそばまで歩み寄る。伊澄は急に距離を詰められたことで、思わず眉をひそめた。「なに?話をするなら、離れて話して。近づかないで」彼が突然立ち上がっただけでも、彼女の警戒心は強くなった。なにせ、この男は紗雪の元カレ。もし彼に何かされたら、自分は京弥哥にどう言い訳すればいい?そんな彼女の反応を見て、加津也は眉を軽く動かして、小さく笑った。「まだ私のこと、信用していないんですね。もうパートナーなんですから、信頼関係は大事ですよ」「始まったばかりで信頼できるわけないでしょ」伊澄は鼻で笑った。「初対面の相手にいきなり信頼なんて、そんな都合のいい話あるわけないじゃない」加津也
紗雪は深く息を吸い込んだ。加津也の存在がすでに仕事にまで影響を及ぼしている。これ以上放っておくわけにはいかない。次はもっと手厳しくやらなければ。前回警察に突き出したくらいじゃ、きっと十分な教訓にはならなかったのだろう。あの男は、痛い目を見てもすぐに忘れてしまう。紗雪は手首のブレスレットをくるくる回しながら、細めた目で次の一手を思案し始めた。......「西山加津也?」伊澄はその名前を聞いた瞬間、一瞬ぽかんとした。頭の中には、その人物に関する記憶がまったく浮かんでこなかった。秘書が説明する。「はい、その人は西山家の御曹司です」「どうしても神垣さんと直接話がしたいと訪ねてきていて、彼の手元には神垣さんが欲しがっているものがあると言ってました」それを聞いて、伊澄の興味が湧いた。彼女は立ち上がり、秘書を見つめた。「本当に、そう言ったの?」「ええ、自信満々に話してました。今は応接室でお待ちです」伊澄は赤い唇を上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、どんな人物なのか見てやろうじゃない。私の興味を引くものがあるって言うなら、相当のものじゃないとね」そう言って、彼女は応接室へと向かった。どうやら加津也は、彼女の注意を引くことに成功したようだ。応接室に入ると、伊澄はそのまま彼の正面に腰を下ろした。気取らない態度で問いかける。「あなた、私の興味を引くものがあるって言ったわね?」加津也は彼女の清楚で可愛らしい容姿と、瞳の奥に潜む野心を見て、この人物はなかなかの協力者になると直感した。「もちろんです。神垣さんが二川グループと競っている関係だって、よく耳にしています」伊澄の目が一瞬だけ光を帯びたが、すぐに表情を引き締める。「それは聞いた話だけでしょう?証拠もない話を鵜呑みにしてもらっちゃ困るわ」加津也は薄く笑みを浮かべ、紗雪と一緒にいたときの写真など、証拠を差し出した。「神垣さんが狙っているのは彼女でしょう?私のターゲットもまさにその彼女です」「敵の敵は味方だって、よく言うじゃないですか。手を組んでみるのも悪くないと思いませんか?」伊澄は写真を見つめ、目が輝いた。だが次の瞬間、何か引っかかるものを感じた。もし二人が以前恋人関係だったのなら、なぜ今になって彼女を陥れようと
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪