Mag-log inそれに、今一番急ぐべきなのは二川グループを引き続き攻め落とすことだ。紗雪はすでに戻ってきた。この機会を掴まなければ、あとになってからではまず不可能になる。そのことを分かっているからこそ、加津也も気を抜けなかった。彼は初芽にメッセージを送り、自分の今の状況を伝えた。目的は、初芽に早く来て自分を看病させること。そうすれば回復も早くなると思ったのだ。初芽はスタジオのことで忙しかった。彼女はもう決めていた――伊吹と一緒に海外で暮らし、国内ではもう発展させるつもりはない。海外なら、もっと大きな舞台があるし、こんな狭い街に縛られる必要もない。鳴り城では、彼女の発展にはどうしても限界があることも理解していた。大学で学んだのは服飾デザインで、今はその夢を叶えている最中だ。だから、初芽は迷うつもりなんてなかった。だが加津也からのメッセージを見た瞬間、胸の奥で少しだけ迷いが生まれた。スタジオには今すぐ移動しなければならない物がたくさんある。どう考えても身動きが取れない。そこへ伊吹が歩み寄り、優しく腰を抱き寄せて柔らかく声をかけた。「どうしたんだ、初芽。すごく緊張した顔してる」伊吹に対して、初芽はもう隠すことはなかった。スマホをそのまま彼に見せながら言う。「この件で迷ってるの」「看病する時間なんてないよ。スタジオのことで手一杯で、抜けられる余裕なんて......」初芽は自分のキャパをよく分かっていた。もしその時間を加津也に割けば、スタジオに使える時間は確実に減る。もう出ていくと決めた以上、躊躇は捨てないといけない。ここで引き延ばしても、何ひとつ良いことはない。伊吹はメッセージを見て、少し考え込んでから口を開いた。「行けないって伝えるのはどうかな。それと二川の件だが、変な気は起こさないほうがいい。背後にあるモノは、お前たちじゃ耐え切れない」伊吹にも分かっていた。今の京弥は、心のすべてを紗雪に向けている。紗雪が目を覚ました以上、その裏にあるのは京弥の力に決まっている。これは疑いようがない。このまま争い続けるのは、本当に身の程知らずというものだ。初芽は伊吹を見つめ、その言葉を頭の中で噛みしめた。ただ、少しばかり衝撃もあった。自分でスタジオを立ち上げ
「飯食ってただけで自分で転んで、挙句の果てに脳震盪まで起こしたのに、他人のせいにするなんて......」看護師は思わず小声でぼやいた。加津也みたいな人間は、助ける価値もないと感じている。せっかく治療してやっても、自分の体にまるで責任感がない。そういう患者が一番腹立たしい。医者や看護師にとって、言うことを聞かない患者ほど厄介な存在はない。しかも治してやったのに全然大事にしないなんて、理解に苦しむ。加津也はその言葉を耳にしても、すぐには頭が回らなかった。傷口に手を当てながら、ぽつりとつぶやく。「......俺が、自分で転んだって?」ちょうど出ていこうとしていた看護師が、その声に足を止め、振り返って言った。「そうですよ。自分で転んだって、病院に運んできた人もそう言っていました。傷の感じからしてもそうみたいですから」その瞬間、加津也はベッドにぐったり倒れ込んだ。胸に手を当て、上下に呼吸が揺れる。何がどうなっているのか、全く分からない。自分の記憶では、確かに食事をしていたはずだ。そのあとは――考えようとした途端、頭がズキンと痛み出す。それを見た看護師は呆れたように戻ってきて、諭すように言った。「まさか信じていないんですか?軽い脳震盪なので、無理に思い出そうとしないこと。大したことないようで、放っておくと面倒ですよ」言われても、加津也の頭の中はまだ整理できない。「でも俺、あの時飯食っただけで、他は何も......」看護師は心の中で盛大に白目をむいた。世の中、いろんな人がいるものだ。呆れつつも顔をまじまじと見てみれば、確かに顔立ちは悪くない。ただ残念なことに、頭がよろしくない。「はいはい、とりあえず点滴またつけ直すから。用があっても針は抜かないでくださいね。記憶に関しては、ゆっくり思い出せばいいんです。時間が経てばそのうち分かるので」さっきまでの威圧感は消えて、ボサボサの髪が額にへたりと落ちている。放心したような顔を見ていると、看護師のほうが少し同情してしまうほどだ。――これだけ顔が整ってるなら、そこまで悪い人じゃないのかも......そんな考えが、一瞬だけ胸をかすめる。病人というだけで、ちょっと哀れにも見えてくる。それでも看護師は職務優先だ。「
そうでもなければ、彼女がここまで考え込むこともなかっただろう。京弥は思わず笑い、紗雪をぐっと抱き寄せた。男は彼女の耳元で低く囁く。「紗雪、そんなことしなくたっていいんだよ。紗雪は、このままでいて。俺が好きなのは紗雪の全部だから。いいところも悪いところも、全部含めて」その言葉に、紗雪は一瞬ぽかんと固まってしまった。自分の迷いや躊躇を、こんなふうに気にかけてくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。小さな感情の揺れに気づいて、受け止めて、理解してくれる人がいるだなんて。紗雪は一歩踏み出し、そのまま勢いよく京弥の胸に飛び込んだ。彼の胸に顔を預けた瞬間、心の奥まで満たされるような安心感に包まれる。小さく息を落として囁く。「ありがとう、京弥。分かってくれて、受け止めてくれてありがとう。これからはずっと傍にいて、離れないから」今の自分に与えられているものすべてが、彼女にとっては宝物だ。神様は自分を見捨てなかった、と初めて思えた。巡り巡って、そばに残ってくれた人は、みんな今の自分に必要な人たち。誰も離れていかなかった。その瞬間、紗雪は人生に満たされていると感じた。けれど、同時にもっと努力しなければとも思う。守り切れなければ、すべては一瞬で崩れる。あの加津也こそ、その一番の例だ。自分の会社すら守れなければ、大切な人をどうやって守るのか。京弥は顎を紗雪の頭にそっと乗せ、二人は強く抱き合った。この瞬間の幸福は、間違いなく二人のものだった。その頃、匠はというと、人を病院に運び、店の監視映像の処理にも奔走していた。さらに個室の損害についても話をつけなければならない。京弥の事業はあちこちにあるが、残念ながらこの店は系列ではない。だから匠は支配人のところへ行き、損害額を確定してから賠償の話を進める必要がある。一方その頃、加津也は病院で目を覚まし、起きるなり大騒ぎしていた。気を失う前の出来事が、次々と頭にフラッシュバックする。今までで一番の屈辱だった。自分は西山グループの跡取り息子で、家には自分しかいない。こんな扱いを受けたことがなかった。納得などできるはずもない。この一ヶ月積み上げてきたものが、一瞬で水の泡になったような気分だ。紗雪という女、やはり厄介極まりな
ちょっとしたことで相手を勝手に疑ったりはしない。紗雪は思わずぼやいた。「本当は、加津也と話をつけに来たの。一体どういうつもりか、聞こうと思って。でも、向こうが素直に話す気がなかったから、こっちも容赦するわけにはいかなかったってこと」「加津也」という名前が出た瞬間、匠は一気に目が冴えた。床で顔が判別できないほど殴られて倒れているのが、あの加津也だと?自分の三ヶ月分の給料を吹き飛ばした張本人が、こんなところに転がってるなんて!そう思うと、心の中で拍手を送りたくなる。本当にスカッとする光景だ。こういう、人の弱みに付け込むような奴には、遠慮なんて不要だ。京弥は紗雪の頭を軽く撫で、笑いながら言う。「紗雪がやりたいようにやればいい。俺が後始末するから。それに、今の話を聞く限り、悪いのは明らかに向こうだろ」紗雪もやわらかく笑ってうなずく。「私もそう思ってる。だってこっちは何も悪くないし」京弥も満足げに深くうなずいた。その様子を横で見ていた匠は、内心かなり衝撃を受けていた。この二人、何なんだ......?どうしてこんなに平然と、とんでもないことを口にできるんだ?同じ穴の狢というか、まさに似た者同士とはこのことだ、と心の中でツッコミを入れる。「では椎名様、西山の方はどう処理しますか?」匠は思わず口を開いた。外では京弥のことを社長とは呼ばず、秘書や付き人を装って「椎名様」と呼ぶのが常だ。紗雪も「椎名様」という呼び名には驚かない。京弥の家柄がいいことは最初から知っていた。ただ、どんな業種なのかは大まかにしか聞いていない。彼女にとっては、穏やかに暮らせればそれでいいのだ。とはいえ、時々目の前で調子に乗る小物が現れるのはどうしようもない。「病院に運んでおけ。死なせるなよ」京弥は倒れたままの加津也を心底うんざりしたように見下ろす。まったく、懲りないにもほどがある。西山グループは最近どう考えても気が緩みすぎだ。あの老いぼれが育てたのが、よりによってこんな役立たずとは......会社を潰す気満々じゃないか。指示を受けた匠はすぐに人を呼び、加津也を担ぎ出した。その後の監視カメラの処理も抜かりなく済ませ、京弥が動く必要はなかった。紗雪と京弥は一緒に家へ戻る。リ
「手加減しすぎたみたいね。まだ動けるとはね」そう言いながら、紗雪はさらに追い打ちをかける。その後、入り口にいた匠が思わず口を挟んだ。「あの、もう気絶寸前だと思います......」はっきりとは断言できないが、白目をむいて床に転がっている様子を見ると、なぜか胸の奥が少し痛んだ。男って本当に大変だ。ここまで殴られて、一言も言えないとは。いや、もう喋る力すらないのかもしれない。匠は隣にいる京弥を横目で見た。彼はと言えば、機嫌の良さそうな顔で紗雪を眺めている。その目には、むしろ感心すら浮かんでいた。こういう手を出してくる男には、そのくらいでちょうどいい。遠慮なんてしたら、ますますつけ上がるだけだ。京弥の笑みを見た瞬間、紗雪は思わず固まった。「えっ......なんでここに?」その瞬間、彼女の頭の中に浮かんだのは「終わった」という言葉だけ。よりによってこんな時に、京弥に自分が加津也をボコボコにしているところを見られるなんて。今まで築いてきた印象、全部吹き飛んでしまったのでは......紗雪は慌てて足をどけ、そそくさと京弥の前まで駆け寄る。何か言おうとするが、どう切り出せばいいか分からない。すると京弥は、まるで察したように手を伸ばして彼女の手を取った。「大丈夫?疲れてない?」匠と、床に転がる加津也「......」まさかこんな図太いセリフを堂々と口にするとは、二人とも予想外だった。しかも妙に自然で、悪びれた様子が一切ない。だが紗雪は返す言葉に迷うばかりだった。「あのね、これにはわけがあるの。私がここに来たのは、ただ仕事の話をしに来ただけで、なのにそいつが......」そこから先は言葉が続かない。まさか「手が出たからお仕置きしただけ」とは言えないし。しかし京弥は首を振り、楽しそうに微笑んだ。「大丈夫。俺は紗雪を信じてるから。そんなに慌ただしくする必要はないよ。俺もちょうど、別件で隣で商談してただけ。外から君が見えたから、ちょっと焦ったけど」「ちょっと焦った」という言葉を聞いた匠は、思わず目を剥いた。視線は自然と、蹴り破られて床に転がっているドア板へ向かう。さっきこの個室の前を通ったとき、加津也がやたら威張っているのを見かけた。その時点では、京弥
まさかここまで言ったのに、まだ引く気がないとは思わなかった。口調すら変わらないその様子に、加津也はますます苛立ちを覚えた。彼は手を振り上げ、紗雪に思い知らせてやろうとする。紗雪は目を見開き、男が本気で手を上げようとしていることに驚いた。「警告してやるわ。もし私に触れたら、西山グループもただじゃ済まないから」一瞬だけ彼はためらった。だがそれも本当に一瞬だった。初芽のことが頭をよぎる。あの女も可哀想な人間で、紗雪に散々な目に遭わされてきた。にもかかわらず、自分のために何かと動いてくれている。自分のことなど後回しで、ただ自分が紗雪のせいで牢屋に入れられたことばかり気にしている。そこまで思い出すと、目の前の紗雪がさらに癇に障った。「俺を脅すつもりか?」加津也は首をわずかに傾け、意地の悪い笑みを浮かべる。その瞬間になってようやく、紗雪は少しだけ恐怖を覚えた。今回は自分が軽率だった、と悟る。もっと慎重に動くべきだった。あるいは、吉岡を連れてくるべきだった。そうすれば多少は対抗できたはずだ。だが、加津也がここまで狂っているとは思わなかった。紗雪は息を整え、タイミングを計って反撃に出ようとしたが、その動きはすぐに見抜かれてしまう。目を大きく見開き、信じられないという表情になる。どうして自分の動きが読まれているのか。以前の加津也はこんなタイプだっただろうか。自分の中の彼のイメージは、もっと頭の悪い単細胞な男だったはずだ。だが今、まるで別人のように見える。加津也は鼻で笑い、吐き捨てるように言う。「どうした、まだ俺が昔のままだと思ってたのか?俺はもう前とは違う。甘く見るなよ」紗雪は振りほどこうとするが無駄で、彼の傲慢な顔を睨みつけるしかない。ところが次の瞬間、彼は手を出すのをやめた。代わりにニヤリと笑った。「これだけの美人を殴るなんて、もったいないじゃないか」そう言い、顔に触れようと手を伸ばしたその瞬間――ドン、と勢いよく扉が蹴破られた。室内の二人は揃って息を飲む。特に加津也は驚きで紗雪の顎を放してしまった。紗雪はその一瞬を逃さず、頬に平手打ちを叩き込み、続けざまに肩を取って投げ飛ばす。今が最高の好機だと判断しての行動だった。誰が来たのか