まさか女の身でありながら、これほどの気迫を持っているとは。だが次の瞬間、受付は「ここは自分のテリトリーだ」と思い直し、怯んでいられないと考えた。「な、何よ、名誉毀損だなんて。証拠でもある?」受付は首を突き出して強気に言った。「証拠もないくせに、でたらめ言わないでよ!」言えば言うほど勢いづいて、自分が正しいと確信しているようだった。二人のやり取りはすぐに周囲の注目を集めた。ちょうどそのとき、材料工場の早川社長と秘書が外に出るところで、この騒ぎを目にしてしまった。紗雪の姿を見た瞬間、早川社長の顔はみるみる黒くなった。「この女、何しに来たんだ。追い出せ!」早川社長は紗雪を見ると、昨日の件を思い出して非常に不快になった。あれほどきっぱり拒絶したのに、よくもまぁまた顔を出せるものだ。この女、こんなに面の皮が厚いのか?もう今後、たとえどんな会社でも、二川グループとは絶対に取引しないと心に誓った。こんな人間とは、関わるだけ無駄だ!秘書が小声で尋ねた。「社長、本当に会わなくてよろしいのですか?」「会わん!」早川社長は冷たく睨みつけた。「気になるなら、お前が代わりに会えばいい」その言葉に、秘書は慌てて口をつぐんだ。もうこれ以上、紗雪を庇うことはできない。秘書は、以前紗雪とやり取りした時、彼女が軽率な行動を取る人間ではないことを知っていた。何事にも分別をわきまえ、自分の立場をよく理解していた。だからこそ、昨夜早川社長が見たあの写真の真相が、今となってはどうにも腑に落ちない。紗雪は本当は、ここで早川社長を待ち伏せしようと思っていた。だが、あの受付の無礼な対応に、すっかり気が削がれてしまった。ため息をつき、仕方なくその場を離れる。その様子を見た早川社長は、鼻で笑った。「これからは、どんな人間でも簡単に社内に通すな。うちに相応しくない連中もいるからな」まさに、今日の紗雪のような存在のことだ。......会社を出た後、紗雪はしばらくその場に立ち尽くしていた。心の中には、得体の知れない空虚感が広がっていた。一体、どうしてこんな状況に?つい最近までは、何もかも順調だったはずなのに。なぜ、突然取引先が次々と手を引くような事態になった?全く予想もしていなか
緒莉の顔の笑みが固まった。「何を急いでるの?まだ全部終わってないでしょ。引き続きあの女を見張ってもらうからね」「お金のことは急がなくていいわ」そんな態度を見て、探偵も仕方なく引き受けるしかなかった。彼は少し考えた後、緒莉なら踏み倒すようなことはしないだろうと思った。彼女には自分という武器が必要なのだ。今このタイミングで切り捨てるなんて、絶対に割に合わないはずだった。「わかりました」「ちゃんと紗雪の動きを見張って。あとは静観で」緒莉は何度も念を押した。不安だったのだ、探偵が手を抜くことを。「ご安心ください。何度も組んできた経験がありますので、理解しております」緒莉がどういう人間か、探偵はよく知っていた。だからこそ、彼女が報酬を渋るとは思わなかった。......「言いたいことがあるなら言え」京弥はうんざりしたように言った。目の前を行ったり来たりして、ため息ばかりつく匠を、何度見たかわからない。今日は一体どうしたんだ。言いかけては飲み込むような態度ばかり。匠は京弥の厳かな表情を見て、ついに覚悟を決めた。「社長、奥様のことで少し問題が......」匠は言葉を選びながら告げた。京弥はすっと背筋を伸ばした。「何があった?」眉間に皺を寄せ、心も自然と緊張した。このところ、紗雪の感情ばかり気にかけて、彼女の会社での様子はすっかり見落としていた。匠は一つ一つ、詳しく報告し始めた。「具体的に、あの社長たちが何を理由に奥様を締め出したのかまでは、まだ突き止められていません」京弥の顔はさらに険しくなり、手にしていたペンをぎゅっと握りしめた。彼は何も言わなかった。ただ心の中で、自分を強く責めた。なぜ、もっと早く気づかなかったのか。なぜ、紗雪に一人であんなことを背負わせたのか。「関わってるのはどこの業者だ?」「えっ?」匠は一瞬呆然とした。すぐには理解できなかったが、京弥の冷たい眼差しと目が合った瞬間、すぐに察した。「すでに調査済みです。中でも、早川という社長が率いる材料会社が主導していて、他の業者もその流れに乗って二川グループとの取引を断っている状況です」京弥は指先でリズムを取りながら机をトントンと叩いた。「そいつの素性は?」匠は素早く
匠は京弥の指示に従い、材料工場の早川社長を訪ねた。最初、進次郎は匠を見るなり不機嫌な顔をした。また紗雪の使いかと勘違いしたのだ。ちゃんと断ったはずなのに、しつこくやつだ。早川進次郎(はやかわ しんじろう)という男は、名前こそ少し古臭いが、ここ数年で鳴り城の中でもそれなりの人脈を築き上げた実力者だった。特に材料業界では、彼の顔を立てなければ話が進まないことも多かった。進次郎は苛立った様子で言った。「二川グループが送り込んだ奴か?会わないって言っただろうが。何人来ようが俺の返事は同じだ」このしつこさに、進次郎は本当に呆れていた。どこまでもまとわりついてくる、本当に鬱陶しい。そもそも、先に不義理を働いたのは二川グループ側だったはずだ。それなのに、まるで自分たち材料工場に非があるかのような話になっているのが気に食わなかった。匠は進次郎の態度を見て、彼の中にかなりの誤解があると察した。やはり、今必要なのは「対話」だ。「私は二川グループの人間ではありません」その言葉に、進次郎はきょとんとした。「じゃあ、何の用だ?」匠は回りくどい説明をせず、すぐに椎名の社員証を取り出した。進次郎は最初、小馬鹿にしたような表情で眺めていたが、「しい......な......?」はっきりとしたロゴを認識した瞬間、彼の顔色が変わった。思わず声を上げた。「椎名グループ、椎名家の会社か!」匠は無言で社員証をしまい、当然のように冷静だった。「さて、これでお話いただけますか?」匠は軽く顎を上げ、自然と傲然たる態度を取った。進次郎はまったく気にしなかった。むしろ、内心では「今日俺、運がいいかもしれない」とすら思っていた。「井上さん......今回、わざわざいらしたのは......?」進次郎は言葉を濁したが、匠はそれをすぐに察した。「率直に言います。ひとつ、お願いがありまして」「た、頼み事なんて......!」お願いという言葉を聞いた瞬間、進次郎は思わず椅子からずり落ちそうになった。椎名の秘書からの依頼、そんなもの断れるはずがない。進次郎は額の汗をぬぐいながら言った。「何でもおっしゃってください」匠は短く頷き、口を開いた。「二川グループに、もう一度チャンスを与えてほし
西山 加津也(にしやま かづや)が初恋を誕生日パーティーに連れて来たその瞬間、二川 紗雪(ふたかわ さゆき)は自分の負けを悟った。部屋の隅で、母親からのメッセージを開く。「紗雪の負けよ」「三年間、加津也は愛さなかった。約束通り、戻って責任を果たすべき時が来た」紗雪の視線は、ほど近くで加津也が抱きしめる少女に向けられた。それが、彼が『初恋』と呼ぶ人物だった。彼女にとって初めて見るその姿は、純粋で柔らかく、穏やかな雰囲気をまとっている。決して高価な服を着ているわけではないが、不思議と目を引く魅力があった。加津也の好みがこういう女性だったと知り、紗雪は口元に苦笑を浮かべる。ふと、四年前のことを思い出した。派手な令嬢が加津也に告白しに行った時、彼はタバコの灰を払いつつ、桃花眼の瞳に冷たさと遊び心を滲ませながら言った。「ごめん、お嬢さん。俺はもう少し素直で、普通な女が好みなんだ」当時、紗雪は密かに彼を二年間想い続けていた。しかし、母親はその恋を固く反対した。両家の事業が衝突している上、母は恋愛を軽んじる性格で、奔放な加津也の生き方も彼女の理想とは程遠かった。だが、彼の好みを知った紗雪は母と賭けを交わすことにした。「もし加津也が私を愛したなら、母さんも認める」と。それ以来、彼女は彼に付き従い、一夜にして二川家の令嬢から貧乏でおとなしい女学生へと変貌した。ある晩、酔った加津也が微酔いの瞳を輝かせながら尋ねる。「俺のこと、好きなのか?」「じゃあ付き合ってみる?」この三年間、彼女はすべての情熱と勇気を注ぎ、彼のために料理を覚え、病気の際は昼夜を問わず看病した。皆は彼女が加津也に夢中だと口々に言った。加津也もまた、かつてのチャラ男から改心したように見えた。彼は何度も笑顔で「俺の妻になってくれ。養ってやる」と言って彼女を気遣ったが、紗雪はそれを断った。彼女は長い葛藤の末、誕生日の日に賭けの全貌を明かす決心をしていた。そんな時、小関 初芽(おぜき はつめ)が現れた。彼女の沈黙に気づいた誰かが意味ありげに冗談を言う。「初芽が戻ってきたってことは、誰かさんの失恋決定だな」「せっかく玉の輿に乗ったのに、君の帰還で計算が狂いそうだね」初芽は柔らかな声で皆の話を遮り、紗雪に申し訳なさそうに語りかけた。
紗雪は恕原に長く留まることはなかった。本来、彼女がこの地で学業を続けたのは加津也のため。しかし、大学は卒業したし、彼の心にはもう別の女性がいる。この街に、もはや彼女がいる理由はない。紗雪はその夜のうちに航空券を手配し、鳴り城へと飛び立った。空港に降り立ったとき、迎えに来ていたのは松尾 清那(まつお せいな)だった。「今度は、もう行かないの?」「うん」かつて、紗雪は加津也を追いかけるため、鳴り城に滞在する時間が少なく、清那と過ごす機会も限られていた。しかし、賭けには敗れた。もう、離れる理由もない。清那は彼女と加津也のことを聞き、少し複雑な表情を浮かべたが、何も言わずに紗雪の腕を軽く引いた。「暗い話はやめよう。今日はあなたの歓迎会よ」紗雪は微笑みながら頷き、断ることなくその言葉を受け入れた。清那は彼女を鳴り城で最も高級な会員制クラブへ連れて行き、最高級の酒を注文し、独身パーティーを開いてくれた。グラスを傾けるごとに、紗雪の胸に残っていたわだかまりは少しずつ薄れていく。「紗雪が加津也と別れてくれて、正直ほっとしたよ」清那が冗談めかして言った。「あのときの紗雪、本当に別人みたいだった。加津也に合わせるために、猫かぶって大人しくしてたし、酒もやめて、スポーツカーも手放して、毎日図書館にこもってたの、今思い出しても衝撃だったわ」加津也の好みとは真逆のタイプだった紗雪。二川家は鳴り城でも屈指の名家であり、かつての紗雪は華やかな世界を好み、カーレースや乗馬、登山やバンジージャンプに夢中だった。明るく、情熱的で、自由奔放。恋愛など、人生のささやかな彩りに過ぎないと考えていた。それなのに、加津也のためにすべてをやめ、静かで従順な少女に成り変わった。「あの時の私はどうかしてる」過去を思い出しながら、紗雪は気怠げに言う。彼女は絶世の美女だった。ただ、かつては無理をして、自分に合わない姿を作っていただけ。今の彼女には、そんな違和感はない。その自然な美しさに、隣で酒を注いでいた男性すら、思わず頬を赤らめるほどだった。清那は笑いながら問いかけた。「紗雪、加津也とは終わったことだし、本当に二川家を継ぐの?」「約束はちゃんと守らないと」紗雪はグラスの酒を一口飲み、淡々と答えた。
清那は、この従兄に対して少しばかり畏れを抱いていた。大人しく車に乗り込むと、一言も発さなかった。車内は異様なほど静かだった。紗雪の視線は京弥の手首にある数珠に落ちる。どこかで見たことがあるような気がしたが、酔いのせいで頭がぼんやりしていた。ただ、脳裏には彼に初めて出会った時の光景がかすかに浮かんでいた。数年が経っても、この男の容姿は少しも衰えていなかった。清那の家は近かった。京弥は彼女を送り届けた後、紗雪をホテルまで送るつもりだった。車内に残るのは二人きり。男の声がふいに響いた。「鳴り城に留まるのか?」「ええ」紗雪は一瞬怔み、軽く頷いた。彼とはそこまで親しい間柄ではなかった。それゆえ、彼がこの一言を発した後、再び沈黙が訪れる。車内のエアコンが効きすぎていたせいか、紗雪はいつの間にか眠りに落ちてしまった。どれほど時間が経ったのか。低く落ち着いた声が響く。「紗雪、着いたよ」紗雪はゆっくりと目を開け、男の深い瞳とぶつかった。視線が交錯し、一瞬、現実感が薄れる。「......京弥?」声には倦怠感が混じる。車のドアが開き、男の体が半ば車内に差し込まれる。その端正で目を引く顔が、すぐ目の前にあった。彼は伏し目がちに紗雪を見つめ、冷ややかで端正な表情を浮かべていた。身にまとう気配には、冬の松の清涼感のある香りが含まれている。それは心地よく、どこか懐かしい香りだった。少年時代、彼女が心奪われ、忘れがたかった姿と重なった。紗雪は赤い唇をわずかに弧を描くように歪めた。「やっぱり、すごく綺麗だね」酔いが回る中、彼女はまばたきを繰り返しながら、ふいに手を伸ばし、彼の首に絡める。「ねぇ、私としない?」尾を引く甘ったるい声。挑発的な色が濃い。京弥は一瞬、動きを止めたようだった。彼は彼女の乱れた髪をそっと払うと、平静な声で答えた。「君、酔ってるだろ」紗雪はくすぐったさを感じつつも、彼を逃がさなかった。「酔ってない」彼女の頭の中には、加津也との過去、二川家のことがちらつく。反抗的で、破天荒で、自由で。それなのに、加津也のために良い子を演じ、賭けのせいで家に縛られた。もしかすると、これが最後の自由かもしれない。「さあ、どうする?」彼女はさ
彼は自分と加津也のことを知っているのか?そんな疑問が頭をよぎったが、紗雪はただ微笑を浮かべたまま、「いや?ただ、京弥さんも楽しんだんだから、この話はもう終わりってことでいいでしょ?」と軽く言った。そう言いながらも、彼女の心の奥底には一抹の不安があった。京弥は特別すぎる。彼は天才的な才能を持ち、若くして成功し、さらに有名な「高嶺の花」。まるで空高く輝く月のような存在だった。やり過ぎた。紗雪は心の中で悪態をついた。京弥は煙を軽く払うと、肯定も否定もせず、ただその目を深く沈ませた。「好きにしろ」冷たくそう言われ、紗雪は密かに息をついた。彼女は服を整え、ホテルを後にし、タクシーで二川家へと向かった。ちょうどその時、ホテルの入り口近く。初芽は遠くに見えた紗雪の姿に気づき、ふと足を止めた。そして、そばにいた加津也の袖を軽く引いた。「加津也、二川さんを見かけたかも」「紗雪が?」加津也は眉をひそめた。このホテルは五つ星クラスの高級ホテルだ。紗雪のような貧乏人が泊まれるような場所ではない。「加津也への未練が断ち切れないんじゃない?加津也が椎名社長に会いに来るって聞いて、わざわざ待ち伏せしてるとか......」「気にするな」加津也は不機嫌そうに言った。彼はしつこい女が大嫌いだった。誕生日パーティーで騒ぎを起こしただけならまだしも、今度はストーカーのように追いかけてくるなんて。それに、自分は紗雪に対して十分に親切だったつもりだ。普通なら、彼のような男と交際できること自体が紗雪にとって一生に一度の幸運だったはず。考えながら、加津也は祖父の言葉を思い出した。「椎名社長の方が先だ。椎名のプロジェクトは何が何でも手に入れるんだ」西山家はここ数年、衰退の一途をたどっている。もし椎名と繋がることができれば、立て直すチャンスが生まれるかもしれない。しかしホテルに到着した時には、京弥はすでに姿を消していた。彼の秘書すら会わせてもらえなかった。「加津也、大丈夫よ」初芽は柔らかく微笑んだ。「椎名は近いうちにビジネスパーティーを開くらしいわ。その時にまた接触できるはずよ」「ああ」加津也は深く考え込むように頷いた。「どうしても、このプロジェクトを手に入れてみせる」一方、紗雪はそんな
紗雪は冷静に言った。「ご心配なく。加津也とはもう終わったよ。ただ、これから二川家を継ぐなら、結婚は安定したほうがいい。少なくとも、嫌いじゃない相手を選びたいね」二川母は最初から加津也との関係に否定的だった。理由の一つは、紗雪が恋愛に溺れ、冷静な判断を失っていたこと。もう一つは、西山家と二川家が競合関係にあったことだ。規模でいえば二川家のほうが上だったが、それでも敵は敵だった。実のところ、二川母は紗雪の結婚に強い支配欲を持っているわけではなかった。二川家の跡取りとして期待はしていたが、紗雪の人生に過度に干渉することはなかった。少なくとも、緒莉に対する関心ほどではない。二川母はじっと紗雪を見つめた。冷静で鋭いまなざしで、しばらく考えた後、口を開いた。「いいでしょう」「相手は自分で選びなさい。でも、賭けに負けた以上、覚悟はしておきなさい。紗雪、私を失望させないで」「ええ」紗雪は淡々と答えた。二川母はそれ以上何も言わず、踵を返して二階へ上がっていった。広いリビングには、緒莉と紗雪だけが残った。姉妹という肩書きはあっても、二人の関係は希薄だった。緒莉は、二川母が高額で落札した翡翠の数珠を指で弄びながら、冷笑を浮かべた。「紗雪、本気で自分が辰琉よりいい男を見つけられると思ってるの?」「この社交界で、あなたが加津也のためにどれだけ格を落としたか、知らない人はいないわ。まさか、嫁にしたがる人いるなんて思ってないでしょうね?」小関家と西山家の付き合いは少ないが、紗雪が男と関係を持ったことは、市内で噂になっていた。紗雪は緒莉を一瞥した。もともと彼女に対して特別な感情は持っていない。ましてや、辰琉との婚約が破談になったときはむしろホッとしていたくらいだ。それなのに、緒莉はなぜかいつも彼女に敵意を向けてくる。「辰琉?」紗雪は眉を上げ、くすっと笑った。「好きならあげるわ。あ、そうそう、彼、結構遊んでるみたいだから、定期的に検査させたほうがいいわよ?」「あなたっ!」緒莉は顔を真っ赤にして怒りに震えた。彼女には分かっていた。二川母が紗雪に厳しく、彼女に甘いのは、紗雪に期待していたからだ。それでも納得できなかった。なぜ紗雪が二川家を継ぐのか。自分は継げないのか
匠は京弥の指示に従い、材料工場の早川社長を訪ねた。最初、進次郎は匠を見るなり不機嫌な顔をした。また紗雪の使いかと勘違いしたのだ。ちゃんと断ったはずなのに、しつこくやつだ。早川進次郎(はやかわ しんじろう)という男は、名前こそ少し古臭いが、ここ数年で鳴り城の中でもそれなりの人脈を築き上げた実力者だった。特に材料業界では、彼の顔を立てなければ話が進まないことも多かった。進次郎は苛立った様子で言った。「二川グループが送り込んだ奴か?会わないって言っただろうが。何人来ようが俺の返事は同じだ」このしつこさに、進次郎は本当に呆れていた。どこまでもまとわりついてくる、本当に鬱陶しい。そもそも、先に不義理を働いたのは二川グループ側だったはずだ。それなのに、まるで自分たち材料工場に非があるかのような話になっているのが気に食わなかった。匠は進次郎の態度を見て、彼の中にかなりの誤解があると察した。やはり、今必要なのは「対話」だ。「私は二川グループの人間ではありません」その言葉に、進次郎はきょとんとした。「じゃあ、何の用だ?」匠は回りくどい説明をせず、すぐに椎名の社員証を取り出した。進次郎は最初、小馬鹿にしたような表情で眺めていたが、「しい......な......?」はっきりとしたロゴを認識した瞬間、彼の顔色が変わった。思わず声を上げた。「椎名グループ、椎名家の会社か!」匠は無言で社員証をしまい、当然のように冷静だった。「さて、これでお話いただけますか?」匠は軽く顎を上げ、自然と傲然たる態度を取った。進次郎はまったく気にしなかった。むしろ、内心では「今日俺、運がいいかもしれない」とすら思っていた。「井上さん......今回、わざわざいらしたのは......?」進次郎は言葉を濁したが、匠はそれをすぐに察した。「率直に言います。ひとつ、お願いがありまして」「た、頼み事なんて......!」お願いという言葉を聞いた瞬間、進次郎は思わず椅子からずり落ちそうになった。椎名の秘書からの依頼、そんなもの断れるはずがない。進次郎は額の汗をぬぐいながら言った。「何でもおっしゃってください」匠は短く頷き、口を開いた。「二川グループに、もう一度チャンスを与えてほし
緒莉の顔の笑みが固まった。「何を急いでるの?まだ全部終わってないでしょ。引き続きあの女を見張ってもらうからね」「お金のことは急がなくていいわ」そんな態度を見て、探偵も仕方なく引き受けるしかなかった。彼は少し考えた後、緒莉なら踏み倒すようなことはしないだろうと思った。彼女には自分という武器が必要なのだ。今このタイミングで切り捨てるなんて、絶対に割に合わないはずだった。「わかりました」「ちゃんと紗雪の動きを見張って。あとは静観で」緒莉は何度も念を押した。不安だったのだ、探偵が手を抜くことを。「ご安心ください。何度も組んできた経験がありますので、理解しております」緒莉がどういう人間か、探偵はよく知っていた。だからこそ、彼女が報酬を渋るとは思わなかった。......「言いたいことがあるなら言え」京弥はうんざりしたように言った。目の前を行ったり来たりして、ため息ばかりつく匠を、何度見たかわからない。今日は一体どうしたんだ。言いかけては飲み込むような態度ばかり。匠は京弥の厳かな表情を見て、ついに覚悟を決めた。「社長、奥様のことで少し問題が......」匠は言葉を選びながら告げた。京弥はすっと背筋を伸ばした。「何があった?」眉間に皺を寄せ、心も自然と緊張した。このところ、紗雪の感情ばかり気にかけて、彼女の会社での様子はすっかり見落としていた。匠は一つ一つ、詳しく報告し始めた。「具体的に、あの社長たちが何を理由に奥様を締め出したのかまでは、まだ突き止められていません」京弥の顔はさらに険しくなり、手にしていたペンをぎゅっと握りしめた。彼は何も言わなかった。ただ心の中で、自分を強く責めた。なぜ、もっと早く気づかなかったのか。なぜ、紗雪に一人であんなことを背負わせたのか。「関わってるのはどこの業者だ?」「えっ?」匠は一瞬呆然とした。すぐには理解できなかったが、京弥の冷たい眼差しと目が合った瞬間、すぐに察した。「すでに調査済みです。中でも、早川という社長が率いる材料会社が主導していて、他の業者もその流れに乗って二川グループとの取引を断っている状況です」京弥は指先でリズムを取りながら机をトントンと叩いた。「そいつの素性は?」匠は素早く
まさか女の身でありながら、これほどの気迫を持っているとは。だが次の瞬間、受付は「ここは自分のテリトリーだ」と思い直し、怯んでいられないと考えた。「な、何よ、名誉毀損だなんて。証拠でもある?」受付は首を突き出して強気に言った。「証拠もないくせに、でたらめ言わないでよ!」言えば言うほど勢いづいて、自分が正しいと確信しているようだった。二人のやり取りはすぐに周囲の注目を集めた。ちょうどそのとき、材料工場の早川社長と秘書が外に出るところで、この騒ぎを目にしてしまった。紗雪の姿を見た瞬間、早川社長の顔はみるみる黒くなった。「この女、何しに来たんだ。追い出せ!」早川社長は紗雪を見ると、昨日の件を思い出して非常に不快になった。あれほどきっぱり拒絶したのに、よくもまぁまた顔を出せるものだ。この女、こんなに面の皮が厚いのか?もう今後、たとえどんな会社でも、二川グループとは絶対に取引しないと心に誓った。こんな人間とは、関わるだけ無駄だ!秘書が小声で尋ねた。「社長、本当に会わなくてよろしいのですか?」「会わん!」早川社長は冷たく睨みつけた。「気になるなら、お前が代わりに会えばいい」その言葉に、秘書は慌てて口をつぐんだ。もうこれ以上、紗雪を庇うことはできない。秘書は、以前紗雪とやり取りした時、彼女が軽率な行動を取る人間ではないことを知っていた。何事にも分別をわきまえ、自分の立場をよく理解していた。だからこそ、昨夜早川社長が見たあの写真の真相が、今となってはどうにも腑に落ちない。紗雪は本当は、ここで早川社長を待ち伏せしようと思っていた。だが、あの受付の無礼な対応に、すっかり気が削がれてしまった。ため息をつき、仕方なくその場を離れる。その様子を見た早川社長は、鼻で笑った。「これからは、どんな人間でも簡単に社内に通すな。うちに相応しくない連中もいるからな」まさに、今日の紗雪のような存在のことだ。......会社を出た後、紗雪はしばらくその場に立ち尽くしていた。心の中には、得体の知れない空虚感が広がっていた。一体、どうしてこんな状況に?つい最近までは、何もかも順調だったはずなのに。なぜ、突然取引先が次々と手を引くような事態になった?全く予想もしていなか
今のこの状況、秘書はこの先どう動くのか興味津々だった。紗雪は首を振った。「まだ分からないわ。今できることは、運を天に任せるくらいだよ」「ともかく、まずは向こうの責任者に直接会って、何が起きたのか聞かないと。理由も分からず切られるなんて納得できないから」その言葉に、秘書は何度も頷いた。本当にその通りだった。紗雪はリストの一人を指差した。「この早川社長がカギだよ。まずは材料工場の頭を押さえないと」秘書はピンと来ていない様子だったが、紗雪は多くを語らなかった。「とにかく、直接彼らの会社に行ってみるよ。あとはその場で臨機応変に動くしかないね」秘書はしぶしぶ頷いた。もちろん、紗雪の言いたいことは分かっている。だからこそ、その難しさと、時間の無駄になりかねない厳しさもよく理解できた。「会長、直接あちらの本社に行くんですか?」紗雪は頷いた。「それしかないよ。連絡が取れないからって諦めるわけにはいかないわ」「分かりました。美月さんのところには私からきちんと伝えておきます」秘書は気を利かせて言った。上司が順調なら、自分の仕事もやりやすくなる。何より、彼はもう紗雪との仕事に慣れていた。紗雪は立ち上がり、バッグを手に取った。「このあと誰かが私を訪ねてきても、全部断って。契約書があったら私に送って、確認してから決めるから」秘書は理解したと返事をした。「どうかお気をつけて」「心配しないで、ちゃんと考えて動くから」そう言い残して、紗雪はオフィスを後にした。彼女はこの目で確かめたかった。あの連中が一体何を考えているのか。秘書はオフィスを注視し続け、誰かが来たら「会長は忙しいので、伝言があればお預かりします」と答えた。それを聞いた人たちは、だいたい諦めて帰っていった。一方、紗雪は、目当ての社長たちの会社に直接向かい、いちばん単純な方法――待ち伏せで彼らに接触を試みた。こういう時、一番大事なのはやっぱり「直接話すこと」だった。どれだけ理屈を並べても、顔を合わせて話さないと意味がない。紗雪は受付に行き、早川社長に会いたいと伝えた。受付は彼女を上から下まで値踏みするように見たあと、内心で鼻で笑った。二川グループ?うちの社長、もうきっぱり断ってるのに。まだノコ
紗雪は、この二人、本当に面白いと思った。軽く食事を済ませたあと、紗雪は二川グループへ向かった。道中、彼女の脳裏には再び仕入先のことが浮かんでいた。今や事態はどんどん悪化しており、もうこれ以上先延ばしにはできない。彼女一人ならともかく、椎名のプロジェクトはもう待てない状況。あれは彼女一人の案件ではなく、皆で力を合わせて進めてきた結果なのだ。紗雪は地下駐車場に車を停め、エレベーターに向かって歩き出した。まずは仕入先をなだめること、それが最優先だ。しかし、オフィスに到着したとき、状況は彼女の想像を超えていた。彼女は業者たちに面会のアポを取り、食事でもしながらしっかり話をしようと考えていた。だが、思いもよらず、彼らは紗雪の連絡先を全員ブロックしており、それどころか電話すら繋がらない状態になっていた。その光景を見た紗雪は、呆然としてしばらく動けなかった。ブロックの表示を見つめながら、彼女は理解できずにいた。本当にここまで徹底的に切り捨てる必要があるのか?以前はまだ交渉の余地があったはずなのに。紗雪は直接相手の会社に行って事情を聞こうと考えた。何せ、これらはすべてビジネスの付き合いであり、そう簡単に完全に断絶するものではない。この業界は狭い。むやみに関係を断ち切るのは、相手にとっても得策ではないはずだ。そのとき、突然ドアの向こうから急かすようなノック音が響いた。紗雪は眉をひそめ、不安な気持ちを覚えた。「入って」彼女は声を張って言った。秘書がA4用紙の束を抱えて、焦った様子で紗雪の前に現れた。「会長、これを見てください。今朝になって、何社かの会社からファックスが届いて、今後はもう取引しないと......」「それに、相手の秘書たちまで、一斉に私を削除しました」その言葉を聞き、紗雪の顔色はますます悪くなった。「私もです。取引先の社長たち、全員に削除されました。一体何が起きているのか......」紗雪の表情はますます険しくなった。今、彼女は強く感じていた。背後には、確実に何者かの大きな力が働いている。そうでもなければ、これほど同時多発的に問題が起きるはずがない。紗雪の考えを聞き、秘書はさらに焦った様子で尋ねた。「会長、これからどうしましょうか?」「もし
紗雪の一言に、京弥の身体は火照りきっていた。だが、紗雪は自分が何をしているのか、よく分かっていた。黙り続ける彼女に、ついに京弥が口を開く。「さっちゃん......いつから始める?」「この間、本当に大変だったよな」彼の言葉には、明らかな含みがあった。だが紗雪はくるりと振り返り、さっきまでの笑顔がすっかり消えた真剣な表情で言った。「京弥さん、さっきのは全部冗談だから。本気にしないで」腕を組み、真面目な顔で告げる。彼が怒ることは分かっていたが、あの女のあまりにも傲慢な態度に、どうしても我慢できなかった。「冗談」という言葉を聞いた瞬間、京弥は全てを理解した。「......つまり、君は伊澄を怒らせたかっただけ?」京弥の声は冷たく、その黒い瞳は鋭く紗雪を射抜いた。まるで彼女の言葉次第で、すぐにでも飛びかかってきそうなほどに。紗雪は両手を広げ、あっけらかんと答える。「分かってるなら、それでいい。いちいち口に出すことじゃないでしょ。シャワー浴びてくるよ」今回、伊澄を怒らせるために、紗雪も相当の代償を払っていた。今夜はここで一緒に寝る羽目になってしまったのだ。彼の顔を見るのも正直、気まずい。筋が通っていないのはわかるが、伊澄のあの引きつった顔を思い出すたびに、どうしても心の奥がスッとする。そんなことを考えながら、軽やかな足取りでバスルームへ向かった。残された京弥は、一人ぽつんとリビングに立ち尽くす。どこか、寂しげな雰囲気さえ漂っていた。しかし紗雪は、そんなこと気にも留めない。後で出てきたときは、ソファで寝るつもりだ。京弥はしばらくその場に立ち尽くした後、結局彼女の芝居に乗ることにした。妻である以上、甘やかして当然だ。ベッドの縁に腰を下ろし資料に目を通していると、紗雪がシャワーを終えて出てきた。それを見て、京弥も立ち上がる。「俺も入ってくるよ」「それと......もうソファで寝ないで、ベッドで寝ろよ」言いにくそうに言葉を詰まらせた後、しぶしぶと付け加える。「君はここで寝る。俺がソファで寝るから」そう言い残して、着替えを持ってバスルームに入っていった。広い背中を見送りながら、今度は紗雪が呆気に取られてしまう。風呂から上がった京弥は、何のためらいもなく
本当に面白かった。紗雪は瞳を軽く動かし、京弥に向かって言った。「もういい?妹さんとは話し終わった?」「終わったならさっさと部屋に戻って。今日一日働きっぱなしで、腰も背中もバキバキ。早く来て、マッサージしてよ」そう言いながら腰に手を当てて、京弥にチラリと睨みを利かせ、そのままスタスタと部屋の方へ歩き出す。その後ろ姿に、京弥の目が思わず吸い寄せられた。特に、さっきのあのちょっと拗ねたような上目遣いは、まさに妖艶という言葉がぴったりで、骨の芯まで痺れるような感覚を覚えた。「なに突っ立ってんの?来たくないの?」紗雪はわざと意地悪く言う。「嫌なら別にいいよ?私一人で部屋戻るから」伊澄は手のひらをぎゅっと握りしめ、いつもの無邪気な瞳には抑えきれない怒りが渦巻いていた。彼女は京弥のことをじっと睨みつけている。信じられない。京弥兄は絶対に、絶対にあっちに行ったりしないはず!なのに、次の瞬間、その信念は容赦なく打ち砕かれた!「......いや。今行くよ」京弥はそう言うと、ふと何かに気づいたように顔をしかめ、黒く深いその目を伊澄に向けた。「君も早く部屋に戻りな」紗雪がさっき言っていた言葉が頭をよぎり、京弥の胸の内は今にも弾けそうだった。伊澄が来てからというもの、こんな紗雪の姿は久しく見ていなかった。今日はいったいどういう風の吹き回しなのか。「京弥兄、本気なの......?」伊澄は信じられないという顔で目を見開いた。「伊吹兄が言った言葉、もう忘れたの?」その言葉に、京弥の目には明確な冷たさが宿る。「君の兄は、君のことを面倒見てくれとは言ったけど、妻を捨ててまで一緒にいてくれなんて頼んでない。少しはわきまえろ」その冷え切った横顔を見て、伊澄はまるで今日初めて京弥という人間を知ったかのような感覚に襲われた。まさか、彼がここまで冷酷だったなんて......その様子を見て、紗雪も心の中で少し驚いた。この男が、彼にとっての初恋の人にこんな態度を取るなんて、普通じゃないかも。もしかして、わざと自分に見せてる芝居?でも......伊澄のあのショックと失望に満ちた顔は、どう見ても演技には思えなかった。「わかった......私、行くから」そう呟いたとき、伊澄の心はナイフで抉ら
彼女は何度もうなずいた。「安心してよ、兄さん。私は絶対に紗雪を裏切ったりしないから!」清那は車を降りると、スキップしながら去っていった。彼女がいなくなると、車内は一気に静まり返った。二人きりの空間、それに加えて最近の微妙な空気もあって、どうにも息苦しくて気まずい。京弥は無理に話題を振ろうとした。「あー、その......後部座席、もう誰もいないし、こっちの助手席に座ったらどう?」「いい。後ろの方がいい」紗雪はきっぱりと断った。一切の迷いも見せなかった。あの日、京弥が伊澄と同じ部屋にいたのを見て以来、紗雪の中の感情は複雑に絡み合っていた。彼の顔を見るだけで、自然と伊澄のことが頭に浮かぶ。まるで、自分のほうが第三者であるかのような感覚に襲われるのだ。その事実を思い出すたびに、紗雪は自分でも可笑しくなってくる。京弥はハンドルを握りしめ、低くセクシーな声で言った。「助手席から見える景色の方が、後ろよりずっと綺麗だよ」その意図は分かっていたが、紗雪は淡々と返した。「でも、後部座席よりもずっと危ない」たった一言で、京弥の言いたいことを完全に封じ込めた。紗雪は会話ができないわけじゃない。ただ、彼と話す気がないだけだった。そんな彼女のつれない態度に、京弥も最後は何も言わず、無言のまま二人は家に帰った。家に着いたとき、ちょうど伊澄が二人の姿を見て、ドキッと胸が跳ねた。まさか二人一緒に帰ってきたなんて......もしかして、もう仲直りでもした?伊澄は探るように聞いた。「お義姉さん、こんな時間に......京弥兄とどこへ?」「私たちの行動を、いちいちあなたに報告しなきゃいけないわけ?」紗雪は伊澄の目に宿る好奇心を見て、可笑しくなった。そうか、京弥はこの初恋に、堂々と自分たちの生活を覗かせてるんだね?伊澄は口を開きかけて、戸惑った表情で京弥に説明を求めた。「京弥兄、私はそういうつもりじゃないの。ただ......こんな遅くまで帰ってこなかったから、心配で......」「こんなにきつく当たるなんて......京弥兄、お義姉さんにちゃんと言ってよ、私、別に悪気があるわけじゃないんだから......」伊澄の目に涙がにじみ、まるで酷い仕打ちを受けたような悲しそうな顔をしていた
やっぱり正直に言うしかない。紗雪は視線の端で清那の様子を見て、彼女が何を考えているのかすぐに察した。内心で「本当に情けない」と舌打ちする。最初から清那がスパイだと分かっていたら、絶対に呼ばなかったのに。紗雪は今、そのことばかりを後悔していた。二人が車に乗り込んでからというもの、三人の間には沈黙が流れ、紗雪は未だにどうやって京弥に説明すべきか決めかねていた。そんな時、清那が口を開く。「兄さん、私を先に家まで送ってくれない?」京弥が口を開こうとした瞬間、清那は両手を合わせて懇願するような表情を見せた。「お願いだよ、兄さん。父さんと母さんには絶対に言わないで」「今後は、何でも言うこと聞くから。一生のお願い!」以前、両親に「またバーに行ったら足の骨を折るからな、二度と小遣いはやらん!」とまで言われていた彼女。今回バレたら、本当に小遣いは絶たれてしまう。そんなの、死ぬより怖い。京弥は何気なく紗雪に目をやり、わざとらしくぼそりと呟く。「誰がバーに行っていいと言った?」「自分一人で行くならまだしも、紗雪まで巻き込むとは......きっちり罰を与えなきゃな」その言葉を聞いて、清那は目を大きく見開いた。すぐに京弥の意図を悟る。彼女はすかさず紗雪の腕をつかみ、ゆさゆさと揺さぶりながら懇願する。「ねえ、紗雪も知ってるでしょ?私、本当は今日は行きたくなかったって。親友のために、自分を犠牲にしただけ!」「お願い、紗雪!兄さんに言ってあげて?」紗雪はため息をついた。京弥の探るような目と期待がこもった視線に出くわし、そして清那の潤んだ赤い目を見て、最後には観念して口を開く。「もう清那をからかわないで。ご両親にも言わないであげて。今回が最後なんだから」京弥は眉を一つ上げて、機嫌よさげに問い返す。「でも、こういうことって誰が保証してくれるんだ?なんといっても、こいつは松尾家の一人娘なんだよ?もし何かあったら、俺も責任問われるよ」そう言われて、清那はますますうつむいた。それこそが、彼女が家族にバーへ行くことを一度も言わなかった理由だった。家族は過保護すぎるほどで、危険なものからは徹底的に遠ざけられてきた。だが、清那は子供の頃からスリルのあることが大好きだった。それが、紗雪と馬が合