LOGIN最後に、名津美に残された「生き延びる最後の扉」を、彼は振り返りもせず閉ざした。執事が出て行って間もなく、案の定、屋内から名津美の鋭い悲鳴が響いた。やがてそれも途切れた頃、彼は再び扉を開く。床に倒れ、血を流し続ける名津美を見て、胸の奥がひきつるように痛んだ。変えられないことなのに、どうして気にしてしまうのだろう。執事は、ソファにぐったりと座り、荒い息を吐きながら、足元に血のついた鞭を落としている孝寛の様子を見て、何が起きたかすぐに悟った。「旦那様、二川家の方が戻って来る可能性もありますし......居間を片付けさせましょうか」小さくそう告げると、孝寛は倒れて気を失っている名津美に目をやり、少しだけ気が晴れたような顔をした。「医者を呼べ。死なせるな」「かしこまりました」執事は名津美を支え、彼女の部屋へと連れて行く。孝寛は二人の背中を眺めながら、一本一本、指先を拭っていった。名津美に怒りをぶつけた後、ようやく胸の中が少し軽くなる。この女は、自分がどうしても娶りたくて選んだ相手だった。だがそれは、あの頃彼女の父が巨大な権力を握っていたからだ。その力が欲しかっただけ。だが今、彼女の父はもういない。長年寄り添った妻といえど、利用価値がなくなれば何の意味もない。そんなことを思いながら、孝寛の口元には深い笑みが浮かぶ。忘れかけていた自分の一番惨めだった時代。わざわざその話を持ち出したのは彼女だ。ならば仕方がない。ほどなくして執事が戻る。「旦那様、処理は済みました」「そうか」孝寛は立ち上がり、手にしていたウェットティッシュをそのままゴミ箱に投げ入れた。「二川家の者がまた来たら、俺は留守だと言え。さっきは家に誰もいなかったから出られなかったと、そう説明しろ」二川家とはまだ揉められない。名津美の父親はもう死んだ。安東家はかつて妻の父の後ろ盾があったとはいえ、今は一人だ。そして二川グループの案件は、安東グループにとって無視できない比重を占めている。少しでも動けば全体に影響が出る。案件は絶対に変えられない。執事は孝寛の焦りを見て、内心滑稽だと感じたが、ただ「承知しました」とだけ答えた。そして再び玄関付近へ様子を見に行く。可哀想に、と思う。妻をあんな目
それに、辰琉の言うとおりだった。あの日、二川家の前で自分が口にした言葉は、まさに彼を「見捨てる」という宣言そのものではないか。一度見捨てたのに、今更子どもの許しを願うなんて馬鹿げてる。辰琉はしばらくその場に立ち尽くし、名津美の姿が二階で完全に見えなくなると、ためらいなく背を向けて家を出た。だが彼は知らなかった。二階の角に隠れるようにしていた名津美は、声も出せず泣き崩れていた。静まり返った夜、胸元を押さえて押し殺すように泣くしかなかった。彼女は分かっていた。今ので、本当に息子を失ったのだと。命がけで産んだ我が子を、愛さないわけがない。この不幸な子が、これからどれだけ苦しい道を歩むのか。外の世界で、ひとりでちゃんと生きていけるのか。その不安に胸が張り裂けそうだった。――そして回想は終わる。辰琉が逃げてから、名津美の生活は案の定地獄になった。孝寛は以前から「しっかり見張れ」と念を押していたのに、結果はこれだ。息子は失踪。大ごとにはできず、孝寛はひそかに探させたが、手がかりは一つもない。三日が過ぎようとする頃、焦りと苛立ちは限界に達し、ついには名津美に八つ当たりした。名津美は心が冷え切っていても、反論できずに耐えるしかなかった。彼女には何もできない。ただの「金を使うだけの主婦」。長年、外の世界から隔絶され、社交だけの生活に縛られてきた。大きな掌が飛び、鞭が肌を裂く。それでも、名津美は歯を食いしばって耐えた。これは自分が息子につけてしまった罪の代償だと信じた。自分が悪かった、息子を裏切ったのは自分なのだから。しかし孝寛は、倒れた妻を見下ろし、怒りを燃え上がらせた。「役立たずが。同じ女でも、二川会長を見てみろよ。どうして俺はこんな無能を嫁にもらったんだ」その言葉は、刃より鋭く名津美の心を突き刺した。暴力は耐えられた。だが、実家を侮辱された瞬間、彼女の瞳が見開かれ、額に汗がにじむ。「この恩知らず......!うちの父親が、あなたをどれだけ助けたか忘れたの?しかも、私と結婚したいと泣きついてきたのはあなたよ!父さんがいなかったら、今の安東なんて存在しないわ!」もう耐える気はなかった。息子には罪を犯した。しかし、孝寛に対しては一片の借
息子が正気を取り戻しているのだとしたら、彼はもうすぐ刑務所に送られることを分かっているはずだ。そうなれば、当然この家から逃げ出そうとする。正気の人間なら、刑務所が人の住む場所ではないことくらい分かる。もし息子がまだ「本当に壊れている」と思っていたなら、名津美は心を鬼にしてでも彼を警察に引き渡しただろう。だが、今の彼は違う。彼は「正常な息子」だ。母親として、それを知ってしまった以上、どうして見捨てられようか。自分の生んだ子を、このまま地獄に送るなんて、どうして受け入れられようか。子どもを一番よく分かっているのは、やはり母親だ。予感は的中し、翌晩、辰琉は行動を起こした。その夜、名津美はたまたま水を飲もうと階下へ降りた。そして、廊下の影でこそこそと動く息子の姿を見つけた。その瞬間、彼女は言葉を失った。立ちすくむ母を見て、辰琉の胸には冷たい殺意がよぎる。――自分の両親が、自分を監獄に突き出そうとしていた。いま自分が正気だと知られれば、次に死ぬのは自分だ。父親の目に映るのは、もはや金だけ。あの人にとって、自分という存在はもういない。婚約者には裏切られ、親にも見捨てられた。もう何も残っていない――そう思いながらも、彼の脳裏にはひとりの女の顔が浮かぶ。真白だ。「すぐに戻る」と約束したのに、あれからどれほど経っただろう。今、彼女はどうしているのか。なぜか、胸騒ぎがして仕方なかった。その不安が焦りを煽る。長く伸びた髪が目を覆い、乱れた前髪の下から、細く鋭い瞳が母親を射抜く。右の拳が、ゆっくりと握られた。もう覚悟はできている。もし母が声を上げたら、その瞬間にでも口を塞ぐつもりだった。夜更けの家に自分が立っている時点で、「正気の証拠」なのだから。だが次の瞬間、名津美は何事もなかったかのように背を向けた。まるで何も見なかったように、水をひと口、またひと口。そして階段を上るとき、足音を静かにして、ぽつりとつぶやいた。「......そういえば、東側の監視カメラ、最近壊れたのよね。明日、誰かに見てもらわなきゃ」その言葉を聞いた瞬間、辰琉の心臓が強く跳ねた。彼は理解した。母は、自分を逃がそうとしている。まさか、孝寛と同じだと思っていた母が.....
名津美の瞳には、完全な絶望が宿っていた。執事の報告を聞いた孝寛は、煙をひと口吸い込みながら言った。「あのガキの消息は?」執事はおずおずと首を振った。「わか......」「『若様』なんて呼ぶな!」執事の言葉が終わる前に、孝寛が怒鳴り声で遮った。「あのクソガキが。あんな奴はうちの息子じゃない!」怒りで胸が上下に激しく波打つ。まさか辰琉が、ずっと演技していたとは思いもしなかった。警察に連れて行かれた時、本気で怯えて頭が混乱しているのだと思っていた。だが、全部芝居だった。三日が経った今、やつの姿はどこにもない。しかもよりによって、自分の銀行カードまで持ち逃げしたのだ。あの口座は、もともとあいつの将来のために自分が別に作っておいたものだった。「どうせ出世もできんだろうから、せめて金ぐらいは残してやるか」――そう思っていたのに。まさかこのタイミングで、その金の存在を思い出すとは。だが、いまさら悔やんでも遅い。どれだけ時間が経ったのか、もう追う術はない。執事は再び頭を下げ、言葉を選びながら口を開いた。「旦那様、辰琉の消息はいまだに掴めておりません。最初に部屋を出る映像までは確認できましたが、その後は意図的に監視カメラを避けたようで......」「鳴り城の警察どもは何をしている!」孝寛は部屋の中を苛立ちまぎれに歩き回る。「観察期間中だって言ってたじゃないか!そばで見張ってた警察官は一人も気づかなかったのか!?」執事は再び首を振る。「交代の時間を計算して、その隙を突いて逃げたようです。彼は、最初からそのつもりだったのかもしれません」その一言に、孝寛の怒りがさらに爆発した。泣き崩れている名津美に視線を向け、苛立ち紛れに思いきり足を蹴りつける。床の上で、名津美が鈍い呻き声を漏らした。「この、何の役にも立たん女!」孝寛は罵声を浴びせ続ける。「息子一人見張ることもできないのか!飯食うことしか能がないのか!?この出来損ないが!」汚い言葉が次々と吐き出される中、名津美は目を閉じ、何も聞こえないふりをした。「......もう少しの辛抱。息子が幸せでいてくれるなら、それで......」――そう、実は辰琉を逃がしたのは、名津美の黙認だった。美月が緒莉を連れて安
「安心しなさい。辰琉のことは、必ず刑務所にきっちりぶち込んでやるわ」娘が受けた屈辱と苦しみ――それを与えた人間を、このまま許すわけにはいかない。美月の胸の奥には、燃えるような執念が宿っていた。彼女にとって、その報いを受けさせるのは当然のことだ。娘を傷つけた者には、必ず同じ痛みを味わわせる。美月の目的は、最初からはっきりしていた。狙うべき相手は「安東辰琉」――それだけだ。安東グループを潰すことになど、最初から興味はなかった。なぜなら、彼女には分かっていたのだ。娘たちを不幸にしたのは会社でも、他の誰でもない。ただ一人、辰琉という男だけ。紗雪も、緒莉も。二人が受けた傷は、全て彼のせいだった。だから、他の誰かまで巻き込む必要はないと思っていた。だがいま、安東家の態度を目の当たりにして、美月は初めて自分の判断に疑いを持った。もしかして、最初からやり方を間違えていたのでは?いっそ、安東グループそのものを狙うべきだったのではないか?心の奥でざらりとした迷いが広がる。しかし、もう言葉は外に出てしまった。今さら引き返すことなどできない。次に行くときに、あの老いぼれが何を考えているのか確かめてやる――美月は心の中で冷たく吐き捨てた。この数日、孝寛が屋敷から一歩も出ていないことなど、彼女には分かっている。何も知らないと思ったら大間違いだ。彼女は安東家の動きをほぼ把握していた。特別に探らせたわけではないが、情報はすべて手の中にある。だからこそ分かる。孝寛は、ただ家に隠れているだけだ。少しだけ猶予を与える。だが、もし次も出てこないようなら、その時は容赦しない。必ず、安東家そのものを潰してやる。――次に行くときは、理由を聞かせてもらう。美月は冷ややかにそう決め、車を出させた。誰も、今日の安東家の対応がここまで頑なだとは思っていなかった。もし予想していたなら、彼女は必ずボディーガードを連れてきただろう。今は母娘と運転手だけ。美月は、無防備な行動を好まない。車が遠ざかり、安東家の視界から完全に消えると、ようやく屋敷の門がゆっくりと開いた。執事が恐る恐る外へ出て、周囲を確認してから中に戻る。「旦那様、あの人たちはもう帰りました」そして言い
これは、わざと......?緒莉は胸の奥でひやりとした。「まさかあの人たち......逃げた?」そう口にした瞬間、自分でもおかしいと気づいた。孝寛は会社を何よりも大切にしている人間だ。金への執着は、見ていれば誰でも分かるほどだった。もし本当に逃げるつもりなら、あの時わざわざ頭を下げて謝罪なんてしなかったはずだ。美月も首を横に振った。「彼がそんなことをするわけがないわ」その点については、多少なりとも信頼があった。長い付き合いだ。孝寛という男の性格はよく知っている。あの気の強い商人が、何も言わず逃げるなんてあり得ない。あの時の屈辱的な謝罪こそが、その証拠だ。美月はそのことを分かっていた。それでも、今日のこの状況には納得がいかなかった。どう考えても妙だった。事情があるのかもしれない。だから、もう少しだけ待とうと思った。それは、昔からの仲間に対する礼儀であり、彼らに最後の準備をする時間を与えるためでもある。実の息子を刑務所へ送る――誰にとっても辛いことだ。その気持ちは理解できる。だが、罪を犯したのなら、罰を受けるのは当然のこと。それが世の理だ。緒莉はそんな母の考えを察して、何も言わなかった。母の決めたことに、今の自分が口を出す立場ではない。自分はただ、被害者という「飾り」の役をきっちり演じていればいい。運転手はしばらく門を叩いていたが、中からは何の反応もない。仕方なく戻ってきて、首を横に振った。「奥様、何度か呼びかけましたが、反応がありません」美月の顔はどんどん険しくなっていった。早く片づけたいと思っていたというのに、数日でこんなに問題が起きるとは。考えただけで頭が痛くなる。「戻りましょう」秋が近づいているとはいえ、残暑の陽射しは容赦がない。ほんの少し外に立っていただけで、汗が滲み、頭がぼうっとしてきた。緒莉は唇を噛み、何も言わなかった。今の母の機嫌を見れば、下手に口を挟むべきでないことはすぐ分かる。それに、さっきの安東家の対応には、確かに違和感があった。――なぜ、誰も出てこなかったのか。胸の奥がざわざわと落ち着かない。何か大事なことを見落としているような、そんな嫌な予感が拭えない。門の閉ざされた光景を思







