この「緒莉」を呼ぶ声で、緒莉の胸の中にあった全ての不満とわだかまりが、一瞬で消えてなくなった。彼女はくるりと振り返り、美月の目に浮かぶ涙を見て、自分も思わず目頭が熱くなった。「お母さん......」「緒莉?そんなとこでボーッとしてないで、早くこっちに来って」美月は手を差し伸べながら、早く来るようにと彼女を呼んだ。「私に気づいてたのに声もかけないなんて、どうしたの?まさかお母さんのこと、もう認めないとかじゃないでしょうね?」緒莉は慌てて首を横に振った。「そんなわけないよ、お母さん。たとえ私がどんなにダメでも、自分が誰の娘かぐらい、ちゃんとわかってるから」「今までわがままだったのは私だし。むしろお母さんには大目に見てもらいたいな」緒莉は、これは自分と紗雪の問題であり、美月には関係ないことだとずっと思っていた。母のことは、今でもずっと慕っている。むしろ、美月が病気になったときには、紗雪以上に心配していたくらいだ。だからこそ、誰よりも早く病院に駆けつけた。母を心から尊敬し、大切に思っているからこそ、彼女は自然とそういった行動を取っていた。緒莉の言葉を聞いた美月は、内心少し驚いたが、それ以上に胸がいっぱいになった。まさか二人の娘がここまで思いやりのある子に育っていたとは。それを思うと、もう自分の人生に悔いはないとすら思えた。「今までごめんね、緒莉」そう言ったあとで、美月はふと、あの日紗雪と話した時の自分の態度や言葉を思い出した。少し不安がよぎる。ずっと、姉妹の仲は順調で、問題ないと思い込んでいた。でも、あの日――緒莉の言葉で、そのバランスが壊れた。ようやく気づいたのだ。二人の間には、実は多くの感情が渦巻いていたことに。緒莉はちょっと拗ねたような顔で美月を見上げた。「お母さん、何言ってるの?」美月は緒莉の柔らかい髪にそっと手を置き、優しく頷いた。「私は自分の娘を信じてるからこそ、認めたのよ。緒莉がどれだけ素晴らしいか、お母さんもちゃんとわかってる」「だけどね......」その一言が出た瞬間、緒莉の心はぎゅっと締め付けられた。さっきまでの和やかな空気が、一気に緊張に変わる。「緒莉、お母さんが望を、一つだけ」そう言いながら、美月は緒莉の手を両手でぎゅっ
どうやら、京弥は思ったより早く起きたらしい。あとの二度寝も、きっとあまり長くは眠っていないだろう。紗雪は心の中にほんのりと甘さを感じながら、彼の細やかな気配りに改めて感心していた。朝食を終えると、彼女はすぐに車を運転して会社へ向かった。家ではあまり長く留まらず、頭の中には常に会社のことがあった。出発前に、紗雪は母親に「退院したの?」とメッセージを送った。母親の性格が負けん気の強いことは知っているが、いつ退院したいと思っているかまでは読めない。だからこそ、念のために確認しておくことにしたのだった。美月の方は、実は昨日すでに退院していた。娘たちには知らせておらず、「子どもたちも大きくなったのだから、あまり手間をかけさせたくない」という気遣いから、付き添いの秘書一人だけを連れて帰宅していた。そのとき美月は自宅で休んでおり、紗雪からのメッセージを見て、一瞬手を止めた。そしてスマホを手に取り、返信を送った。【私は大丈夫よ。もう退院してるから、心配しないで】紗雪はその頃、ちょうど運転中で、メッセージにはすぐには気づかなかった。会社に着いてからようやくスマホを取り出し、母からの返信を確認した。思った通りだった。母親はきっと先に退院しているだろうと予想していたのだ。病院があまり好きではないことを、彼女はよく知っている。まさかここまで早いとは思わなかったけど。紗雪は長くしなやかな指でスマホの画面を数回タップし、母に返信を送った。【ちゃんと休むんだよ。会社のことは心配しないで、私が全部やるから】そのメッセージを見た美月の胸には、じんわりと温かい想いが広がった。やっぱり、子どもが大きくなるって、悪いことばかりじゃない。今ではこうして親のことを気にかけてくれるようになった。これまで何年もかけて育ててきた甲斐があった。この瞬間、美月は心の底から実感していた。娘の成長が、これほどまでに嬉しく、心を満たしてくれるものだとは。以前は、紗雪はまだ幼くて、ずっと自分の庇護のもとでしか生きられないと思っていた。外の世界に一人で立ち向かわせることなんて、到底できないと。あの賭けに出たときも、内心はずっと不安だった。それでも最後には、覚悟を決めた。だが、今になって振り返れば、それはすべ
瞳がゆっくりと閉じられていく――京弥が風呂から出て、ウキウキしながらベッドにやって来ると、紗雪はすでに深い眠りに落ちていた。最初、京弥は彼女がただ夫婦の遊びをしているだけだと思ったが、紗雪の安定した長い呼吸を聞いて、本当に寝ているのだと理解した。その光景に、京弥は少し呆然とした。彼は俯いて紗雪を一瞥し、次に困ったようにまた彼女を見つめる。......まあ、いいか。自分も悪いんだし。そう呟いて、再び浴室へと向かった。水の音が流れる中、約30分後、ようやく戻ってきた。その後、彼はベッドに入り、紗雪を腕の中に抱きしめて心地よく眠りについた。紗雪は一度眉をひそめたが、馴染んだ香りと安心できる腕の中に包まれると、自然と眉が緩んでいった。自分にとって一番落ち着く体勢を見つけると、そのまま京弥の胸元にすっぽりとおさまって眠り続けた。京弥は心の中でしみじみと感じていた。ずっとこんな日々が続けばいいのに。誰にも邪魔されず、静かに穏やかに、ずっと一緒にいられたら、それだけで幸せなのに。......翌朝。紗雪が目を覚ますと、隣にはまだ京弥がいた。その瞬間、彼女はパッと額に手を当てた。どうにも昨晩、何か大事なことを忘れている気がしてならない。紗雪の動きで、京弥も目を覚ました。彼は片目だけうっすらと開けて紗雪を見つめ、伸びをするように彼女を腕の中へ引き寄せる。「もう少し寝ようよ、まだ早いから......」寝起きのせいか、彼の声はどこか甘ったるく、妙に引き込まれる響きがあった。そしてその神がかり的なルックスと相まって、紗雪は思わず心を乱されそうになる。まったく......罪深い男だ。紗雪は彼の胸を軽く押したが、彼は胸の奥で「ん」と声を漏らしたきり、反応がなかった。それがなんだか面白くなってきた紗雪は、今度は彼の腹筋をツンと突いてみた。すると京弥は一瞬、下腹部に力が入ったように身をこわばらせ、すぐにそのやんちゃな手をがしっと掴んだ。「朝っぱらから、いたずらしないの......さっちゃん」その言葉と彼の手のぬくもりに、紗雪の肌もじわじわと熱くなっていく。すぐに、彼の意図を悟ってしまった彼女は、おとなしく動かず、もう一度一緒に仮眠を取ることにした。京弥は細めた目で彼女を見つめながら
もし彼女が想いを寄せている相手が人妻の夫でなければ、それはきっと素敵な恋物語になっていただろう。だが、間違った時に間違った人を好きになっただけ。もう、あの頃とは何もかも違ってしまったのだ。京弥が部屋に戻ると、紗雪はまだシャワーを浴びている最中だった。少し待っていると、彼女がバスタオルを巻いただけの姿で出てきた。あまりに疲れていたせいか、服を持って入るのを忘れてしまったらしく、どうせ京弥は部屋にいないだろうと思って、そのまま出てきたのだった。だが、リビングに彼がいるのを見た瞬間、紗雪は驚いて胸元を押さえた。「なんで急に入ってきたの?音も立てずに......」京弥はどこを見ればいいのかわからず、視線が泳いでいた。「いや......君がシャワー浴びてるの見て、ちょっと服を取りに入っただけなんだ。まさか、いきなり出てくるとは......」さっきの伊澄に対する態度とはまるで別人のようだった。外では冷たくて支配的で、近寄りがたいオーラを放っている京弥も、紗雪の前ではすぐ照れてしまう。まるで純情な青年のように。バスタオル一枚の姿にすら目のやり場に困っているようだった。「じゃあ、服取りに行ってシャワー浴びてきなよ」紗雪はそんな彼の様子を見て、逆に堂々とした態度を取った。どうせ一度や二度のことじゃないし、今さら恥ずかしがるような関係でもない。京弥は、紗雪が胸元の手を下ろすと、その美しいスタイルが一気にあらわになったことに目を奪われた。引き締まった部分と柔らかさが欲しい部分のバランスが完璧で、息をのむほどだった。その様子を見た京弥の喉仏が上下に動く。まだシャワーも浴びていないのに、体が熱くなり始めていた。「何ボーッとしてるの?早くシャワー浴びてきなよ」紗雪が催促するように言った。ようやく我に返った京弥は服を手にしてバスルームへ向かった。そのすれ違いざま、紗雪の香りがふわりと鼻をくすぐり、それが彼の理性をさらに混乱させる。彼はそのまま紗雪の後頭部を引き寄せ、彼女が反応する間もなく唇を重ねた。男のキスは、この期間に随分と技術が上がっていた。あっという間に紗雪も反応し、彼の首に腕を回して、必死に応えた。二人は互いを求めるように、深くキスを交わした。やがて息が苦しくなってきた頃、
京弥は目の前の伊澄を見つめながら、内心ではますます苛立ちを感じていた。しかし伊澄は、まるでそれに気づかないふりをするかのように、京弥の問いには答えず、一方的に話し続けた。「実はね、私が欲しいものはすごく単純なものなんだよ。もう忘れちゃったの?」「何が欲しいんだ」京弥は自分の体を這うその手に鳥肌が立つのを感じ、思わず伊澄の手を振り払った。眉間に深いしわを寄せながら、蚊も潰せそうなほど顔をしかめて言った。「自重しろ」伊澄の笑顔はぎこちなくなったものの、今のところはまだ我慢できる範囲だった。少なくとも、京弥が話を聞いてくれている時点で、部屋に引っ込んでしまうよりはずっとマシだった。「そんなに冷たくしないでよ。ただ一緒にご飯を食べてほしいだけなの」京弥は意外そうに伊澄を見つめた。その目には驚きの色が浮かんでいた。「飯だけ?」「そうよ」伊澄の瞳が輝く。「それとも、京弥兄は私と他のことがしたいの?それもいいけど」京弥は背筋に悪寒が走るのを感じた。これが、自分の知ってる伊澄か?こんなにも変わってしまったのか?あんなに可愛かったあの子が、今では欲にまみれた目で自分を見るなんて......京弥の脳裏には、先ほど彼女が自分を見つめたあの執着に満ちた視線がよみがえる。まさか、彼女はずっと前から自分にそんな気持ちを抱いていたのか?深く息を吸って、京弥は低く言い放った。「まともに話せないなら、今すぐ出ていけ」「いいよ。お義姉さんもきっと、京弥兄の『正体』を知りたいよね」伊澄はにっこりと笑いながら言った。「騙されてたって知ったら、いい気はしないかな?この数日で気づいたけど、あのお義姉さん、結構気が強そうだし?」京弥は拳を握りしめ、その気配だけで周囲の空気がピリつくほどの威圧感を放っていた。さすがは伊吹の妹だ。とんでもない根性してやがる。その視線に一瞬たじろいだ伊澄だったが、相手の顔を見て、また気を張り直す。まるで「死ぬ気で突っ込む」ような覚悟の表情だった。人生なんて短いんだし、好きな人と一緒にいられないなら、生きる意味がない。だから今を全力で生きる。彼女はそっと京弥に近づきながら、自分の太ももをつねっていた。抖えるな......しっかりしなさいよ.....
「死にたいのか?」京弥は、誰かに脅されることが何よりも我慢ならなかった。彼はこの件について何も知らなかったが、どうして伊澄が知っているのかも分からなかった。けれど彼女が口にした瞬間、京弥の胸は一瞬ざわついた。ずっと隠してきたことが、突然他人に指摘されるなんて。そんなの、絶対に駄目だ。伊澄は少し怯えていたが、それでも必死に平静を装って言った。「京弥兄が他人に脅されるのを嫌がるのは分かってるよ。でも、私も仕方なかったの。だから許して」「それに、こんなことしない限り、京弥兄は私のことを少しでも見てくれないの」京弥は深く息を吸い込み、彼女の言い訳を聞く気などなく、その腕を振り払った。「さっさと言え。何が欲しい?」伊澄の目がぱっと輝き、心の中で密かに喜んだ。やっぱり、こうするしかなかったのだ。無理やり追い詰めなければ、京弥の目に映るのはいつも紗雪だけ。あの人以外、彼の目には何も映らない。それが伊澄には到底許せなかった。彼を諦めて、他の女の腕の中に行かせるなんて、絶対に無理だ。そんなの、彼女にとっては恐怖そのものだった。だからこそ、伊澄はますます京弥を手放す気にはなれなかった。「お願い、京弥兄、少しだけ抱きしめさせて。今はお義姉さんもいないし......」彼女はキッチンに来る前にちゃんと調べていた。今の紗雪は部屋でシャワーを浴びている最中。こんな時にキッチンに様子を見に来るなんてこと、あるわけがない。その言葉を聞いた瞬間、京弥のこめかみに青筋が浮かび、彼女に対する我慢は限界を迎えた。「これが最後の警告だ。手を離せ」その一言には、明らかに怒りが込められていた。伊澄はびくりと身を震わせ、恐る恐る手を放した。「怒らないで、京弥兄。私はただ、京弥兄とちゃんと話したかっただけなの。それ以上の意味はないから」「そうか」京弥は唇を引き結び、ますます険しい顔で彼女を睨んだ。「で。何が欲しい?」京弥は、人に弱みを握られる感覚がとにかく嫌だった。命を握られているようで、たまらなく不快だった。でも、立場を逆にすれば、誰だってそんな風に扱われるのは嫌だろう。ましてや京弥は特にそういうタイプだ。彼は脅されるのも、脅されて嫌なことをさせられるのも大嫌いだった。今の