医者の言葉を聞いた緒莉は、またしても焦り始めた。どういうこと?さっきまで「無理」って言ってたのに、どうして急に「方法がある」とか言い出すの?これじゃ、まるで自分の言ってたことを全否定されたみたいじゃない!そんなの、絶対にダメ!何があっても、紗雪はこの中央病院から離れさせるわけにはいかない。そう思った緒莉は、皆が注意を払っていない隙に、こっそりと辰琉にメッセージを送った。「すぐに木村を連れてきて」と。なにせ、良才は紗雪の主治医だ。彼の言葉なら、あの狂犬のような京弥でも多少は耳を貸すはずだ。メッセージを送り終えると、緒莉は再び顔に笑みを浮かべた。外国人医師は無意識に唾を飲み込んで言った。「二川さんを海外に搬送する途中、数人の介助者を同行させればいいんです。細心の注意を払って看護すれば、きっと問題ありません。私は医療機器も一緒に持って行きますから」それを聞いた京弥は、確かに一理あると感じた。紗雪を海外に送ることになれば、自分が同行するのは当然だ。彼女を一人で行かせるなんて、ありえない。何より、彼自身が安心できないのだ。しかし、緒莉は内心大慌てだった。顔の笑みも崩れかけている。もう一度スマホを確認すると、辰琉から「わかった、すぐに向かう」という返事が来ていた。けれど、まだ時間を稼ぐ必要があった。今この段階で紗雪を転院させるわけにはいかない。もしそうなったら、その後で薬を注射する計画が全部無駄になるじゃないか。今までの努力が水の泡になるなんて、絶対に許せない。それに、自分もやっとあのプロジェクトに関わり始めたばかりで、全体像もまだ掴めていないというのに......そんな状態で、あの紗雪に全部を返すなんて、冗談じゃない!そんなこと、絶対に認めない!「先生、その方法、本当に大丈夫なんですか?」緒莉はあえて不安げなふりをした。「私には、この子だけが妹なんです。普段は会社のために身を粉にして頑張ってくれていた......そんな方法だと、かえって負担をかかるようなことになるじゃ......?」「えっ、それは......」外国人医師は、緒莉の言葉に口ごもった。そもそも彼には紗雪を見捨てるつもりなんて一切なかったのだが、あんなふうに言われると、まるで本当に何か裏が
彼の様子を見て、京弥の忍耐力も徐々に擦り減っていった。彼はもうほぼ一週間も待っているのだ。今さら医者のくだらない話をここで延々と聞かされる必要があるのか?「無駄話に付き合う暇はないぞ」そう言われた瞬間、医者は今にも京弥にひざまずきそうだった。この男、どうして突然こんなに圧が強いんだ!?緒莉も思わず心が揺さぶられた。彼女がこれまで出会った中で最も威厳があると思っていたのは、母親だった。だが母親ですら、ここまで圧倒的な気迫を放ってはいなかった。自然と服従したくなるような強烈な存在感。それが、あまりにも恐ろしく感じられた。この人、本当にただのヒモ男だけなのか?緒莉は再び自分の考えを疑い始めた。けれど、心の中に浮かんだその疑問に、答えてくれる人はいない。彼女はただ、自分の手で少しずつ探っていくしかなかった。そして、京弥のこの威圧的な姿を見て、緒莉は本当に怖くなった。もし彼が「紗雪を転院させろ」と言い出したら、どうするのか。次の瞬間、ようやく外国人医師が口を開いた。「私は思うんですが、国内の設備ではやや不十分です。もし可能であれば、二川さんを海外の病院に移したほうが......私の研究所もありますし、そこでさらに彼女が目を覚まさない原因を詳しく調べることができます」京弥がその提案について考えていると、緒莉が突然叫んだ。「だめです!」その声はあまりにも大きく、静まり返った病室の中でとても耳障りで目立った。緒莉の突然の叫びに、全員の視線が彼女に集まった。夫である京弥ですらまだ考え中なのに、なぜ緒莉がこんなに感情的になっているのか、誰にも理解できなかった。京弥は細めた眼で彼女を見つめた。何かがおかしい、と感じた。緒莉もまた、皆の視線に気づき、そして自分が感情的になりすぎたことを悟った。疑念を抱かれても仕方がない。彼女は表情を整えて、軽く咳払いをした。「えっと......私が言いたいのは、今は患者を移動させないほうがいいのでは、ということです。来た時に、紗雪の主治医からその話を聞いていました。彼の意見では、紗雪はできるだけ安静に、ひとつの場所で静かに過ごすべきだと。さもないと、体がもたないそうです」その言葉を聞いても、京弥は何も言わなかった。だが、その目の奥には
他のことはともかく、彼はつい最近まで海外にいたのだ。仮に情報を得ていたとしても、顔と名前が一致するはずもなく、誰が誰だか区別もつかないだろう。京弥は彼らに一切注意を払わなかった。どうせ無関係な連中の集まりにすぎない、何を言おうが勝手にさせておけという心持ちだ。この中で、唯一本当に紗雪を見舞う気持ちで来たのは、あの幹部だけだった。彼は、かつて堂々として輝いていた紗雪が、今は顔色も悪くベッドに横たわっているのを見て、言葉にできないほど胸を痛めた。こんな紗雪を見るのは、初めてだった。普段の彼女は、化粧ひとつ取っても華やかで自信に満ちており、いわゆる「か弱い女性」とはまったく違った。だからこそ、一目見ただけで誰もが心から敬意を抱くのだ。まさに、他人に頼らずとも輝く女主人公のような存在だった。しかし今は、その姿があまりにも痛々しい。この様子を見ると、心が締めつけられる。京弥はずっと紗雪のベッドのそばに立ち、黙って医者の処置を見守っていた。彼にはわからない。彼のさっちゃんがいつ目を覚ましてくれるのか。だが、仮にもう目を覚まさないとしても、彼は一生そばに寄り添う覚悟だった。ただ、これからの人生には少し楽しみが減るだけだ。そう思うと、京弥の胸はどうしようもなく痛んだ。この数日、紗雪のそばを片時も離れずにいたが、それでも「ただの抜け殻」と暮らしているような感覚からは抜け出せなかった。彼は紗雪の笑顔や声、しぐさの一つひとつが恋しくて仕方なかった。もし彼女が無事に目を覚ましたなら、今度こそ、どんな喧嘩やすれ違いがあっても、全部受け入れると決めていた。そう思えば思うほど、京弥の視線は医者の手元に集中していった。病室には、だんだんと気まずい空気が流れ始める。そもそも彼の持つ圧倒的な存在感は凄まじい。それに加えて、部屋が突然静まり返り、彼の視線が一点に注がれているとなれば、医者も緊張するのは当然だった。医者が軽く咳払いをした時、京弥が声をかけた。「どうした?」その声のトーンに、伊澄の嫉妬心が限界まで膨れ上がった。なんで......なんで京弥は、あんな女のためにそこまで尽くせるのよ?彼と一番長く一緒にいたのは自分のはずなのに。それなのに今では、見る影もなく、二人の関係には憎しみ
「紗雪が好きな果物」と聞いて、京弥の心が一瞬揺れた。目の前に運ばれてくる果物を見つめながら、ふと以前の元気に溢れていた紗雪の姿を思い出した。今、ベッドに横たわる彼女とはまるで別人のようで、とても同じ人物とは思えなかった。伊吹はその様子を見ながら、視線を京弥へと移した。まさか、こんな女に京弥が心を奪われるなんてな......しかも今では、その姉があんなふうに棘のある物言いをしても、黙って京弥に従うしかない。それが今の彼の立場だ。伊吹は笑みを浮かべて言った。「ありがとうございます。まさかお義姉さんの好きな果物を買ってくるなんて」お義姉さん?緒莉と幹部は顔を見合わせた。二人とも、目の前の男が誰なのかまったく分からなかった。その様子を見て、伊澄は不満げに兄を睨みつけた。お兄ちゃんは一体?なんでいきなり話に入ってくるの?そもそも、この話は自分たちには関係ないじゃないか。緒莉は軽く咳払いをして、少し気まずそうに口を開いた。「こちらは......?」伊吹は笑顔を崩さずに言った。「京弥の親友です。もう何年もの付き合いでしてね」「今回、お義姉さんが体調を崩したと聞いて、お見舞いに来たんですよ。それに、このお医者さんたちも俺が手配しました」その言葉を聞いて、緒莉の心は少し軽くなった。なんだ、やっぱりこの医者たちはあの男が連れてきたわけじゃないのか。彼自身がすごいわけじゃなくて、金持ちの友達がいるだけなのね。そう思うと、緒莉の気分はぐっと楽になった。やっぱり、自分の方が上だ。少なくとも、彼女には辰琉というしっかりした金持ちがいるのだ。鳴り城でも安東家は由緒ある名家だし、そんな家と比べたら、いい顔をしただけの男なんて話にならない。表情にも余裕が戻り、緒莉は笑顔を浮かべながら、伊吹に向かって言った。「そうだったんですか。妹婿のご友人なら、家族同然です。妹が今までお仕事でお世話になりました」その言葉に、伊吹は一瞬戸惑った。ついさっきまで彼女は、まるで誰に対しても棘のある態度だったのに。特に京弥に対しても遠慮がなく、さらには実の妹にすら、どこか冷淡な態度を取っていた。それが今では、急に笑顔で迎え入れられて......少し対応に困った。とはいえ、これは悪くない兆候
「姉?紗雪が入院してから五日も経った今日で、ようやく見舞いに来たか」京弥は冷たく笑いながら言った。「それとも......その『姉』はただの肩書きで、口先だけのものかな?」緒莉はごくりと唾を飲み込んだ。京弥の鋭い言葉に、どう反論すればいいのか分からず黙り込んでしまった。幹部も思わず驚いた顔を見せた。「どういうことですか?」少し焦ったように言った。「紗雪さんが倒れたって、今日で起きたことじゃなかったんですか?もう五日も経ってたんですか?」その言葉を聞いても、緒莉はどう返せばいいのか分からなかった。正直なところ、彼女はもう幹部を連れて紗雪の見舞いに来たことを後悔していた。味方になってくれるどころか、むしろ逆に自分の立場を悪くするばかりだ。そう考えると、緒莉の気分はますます苛立ち、幹部に対する態度も悪くなった。まるで最初からいなかったかのように、無視するような様子すら見せた。それを見て、京弥はただ呆れ果てるばかりだった。こんな時になっても、まだ強がるつもりなのかと、心底可笑しく感じた。「......で?説明とかないのか?」緒莉は一瞬視線を伏せ、そしてすぐに作り笑いを浮かべながら言った。「そういうつもりじゃなかったんですけど......実は仕事が立て込んでいて、なかなか来られなかったんです。それに会社の仕事の引き継ぎもあって......母からも紗雪が入院しているとは聞いてなくて......だからつい、その......先延ばししてしまって......」そう言いながら、いかにも「申し訳ない」と言いたげな表情を浮かべ、心から反省しているように見せた。その様子に、京弥は目を伏せたが、何も言わなかった。紗雪を大切にしない人間は、理由をいくつ並べてもただの言い訳に過ぎない。どうでもいい。紗雪のそばに必要なのは、自分ひとりで十分だ。その他の人間なんて、みんな霞のようなものにすぎない。緒莉の説明を聞いて、幹部たちもようやく合点がいったようだった。なるほど、緒莉が来なかったのは怠慢ではなく、本当に忙しかったから。それに、美月が知らせていなかったのなら、仕方がないと納得した様子だった。自分が早とちりしてしまったのだ、と気づいた幹部は、緒莉に対して申し訳なさそうな目を向けた。
もし自分が病気になったら、辰琉も同じように自分を気遣ってくれるだろうか?どうしてだか分からないけれど、緒莉にはそれが起こるとは到底思えなかった。だからこそ、彼女は紗雪に対して、これほどまでに羨望と嫉妬の気持ちを抱いていた。どうして彼女だけが、こんなにも簡単に全てを手に入れることができるのか?まるで何もしなくても、すべての素晴らしいものが自然と目の前に差し出されるように。京弥は緒莉が病室に入ってきたのを見たが、何も言わず、ただ紗雪をじっと見つめ続けていた。彼の中には小さな不満があった。眉をひそめながら、口を開いた。「それで?」緒莉はまだ紗雪を見つめていて、返事を忘れていた。だが、隣にいた幹部が彼女の服の袖を引っ張り、急いで返事を促した。彼にとっては、これが初めて見る京弥だったが、男の放つ威圧感に完全に呑まれていた。あんな圧のある空気を、自分は会長からすら感じたことがなかった。この男、一体何者だ?ようやく我に返った緒莉は、軽く咳払いをして、気まずそうに話し始めた。「いや、その......私は紗雪の姉ですし、様子を見に来たんです。妹ですから、やっぱり気になりますし。妹を見舞いに来ただけなのに、妹婿にまで文句言われるんですか?」そう言って、緒莉はにこやかに、だがその目は挑むように京弥を見つめ返した。一切の怯えを見せることなく。伊吹と伊澄は目を合わせた。最初は、この女が何者なのかと疑問に思っていたが、紗雪の姉だと知って、その態度の理由も納得がいった。なるほど、だからこんなにも強気なのか。彼らは、生まれて初めて、京弥に真正面から楯突く女性を見た気がした。これまで彼に逆らった女は、今頃きっと墓の草も伸びきっているだろうというのに。この緒莉、ただ者ではない。彼女の態度を見て、八木沢兄妹だけでなく、幹部までもが感心していた。本当に恐れ知らずだ。彼などは京弥を見るだけで足が震えていたのに、緒莉は全く平然としている。その様子に、幹部の緒莉への印象も変わりつつあった。もしかしたら、彼女にもっと社内の仕事を任せても良いのかもしれない。狭いオフィスに閉じ込めておくような器ではない。書類の処理なんてもうどうでもいい。彼女に自由にやらせてみれば、案外紗雪に劣らぬ成果を出す