それを思うと、美月の中でどんどん罪悪感が募っていった。自分でもどう言葉にすればいいのかわからないが、この子が今こんなふうになったのは、自分にも責任があるのだ。緒莉も、どう答えていいのかわからなかった。「椎名がどこに行ったのか分からないの。彼の側にはたくさんの人がついてる。私にできることなんてないの。それに、お母さんも『転院すればいい』って。私、考えすぎたかも」その言葉に、美月も何と言っていいか分からず、沈黙するしかなかった。まさかその言葉が、いまになって自分を刺すとは思わなかった。あの時は大したことないと思っていた。まさか、紗雪がこんなにも深刻な状態になっているとは。だが、伊藤が戻ってきた時も、そんなに深刻そうには言っていなかったはず。いったい何がどうなっているのだろう?以前までは、紗雪の身体はずっと健康だと思っていた。だが今回は、まるで山崩れのように一気に悪化しているようで、まさに様々なことが起きていた。「ごめんなさい。私がちゃんと状況を把握してなかったのが悪かったわ」その言葉を聞いた緒莉は、辰琉の方を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。美月に頭を下げさせるなんて、簡単なことではない。何よりも、彼女はこれまでずっとプライドの塊のような人だった。そんな母が謝ったのは、これが初めてかもしれない。緒莉自身も、まさか本当に謝ってくるとは思っていなかった。軽く言ってみただけだったのに、まさか本当に効果があるとは。「そんなつもりじゃないの。私はただ、ちゃんと状況をお話ししたかっただけだから」緒莉は、いかにも困ったように演じながら言葉を続ける。「でも、今はどうすればいいの?椎名が紗雪を連れて行っちゃった。私も紗雪の状態が心配なの。私は紗雪の姉。目の前で妹の身体が傷つけられるのを、黙って見ていられないよ」緒莉の演技を見て、辰琉は完全に言葉を失っていた。まさか、ここまでやるとは......実際、緒莉が電話口で話している間、彼女の表情は一切変わっていなかった。むしろ、どこか嘲るような目つきすらしていた。紗雪のことなど、最初からどうでもいいと思っているのは明らかだ。この女がどういう人間か、辰琉はよくわかっていた。もともと偽善的で、腹の中では何を考えているかわからない女。
緒莉を多少甘やかしているとはいえ、だからといって好き放題にさせるつもりはなかった。そのため、美月の声にも少しばかりの厳しさがこもる。「椎名くんがそこまでするってことは、それなりの理由があるのよ。そんなに気にしなくていいの」緒莉は目を見開いた。信じられないといった様子で辰琉を見つめる。まさか母親がそんなことを言うなんて、夢にも思わなかった。「気にしなくていい?どういう意味?私が心配してるのに、それが間違いだっていうの?お母さんは全然わかってない!」緒莉の声が、思わず大きくなる。美月もその様子にやや苛立ちを覚え、語気を和らげつつ言い返した。「じゃあ緒莉が思う『問題』を言ってごらん。私が知らないって言うなら、ちゃんと説明して」美月は唇をきゅっと引き結んだ。今、もし緒莉が目の前にいたら、美月の表情が明らかに険しくなっていることがすぐにわかっただろう。よく耳を澄ませば、声にも僅かな苛立ちが滲んでいた。だが、緒莉はそれに気づく余裕もなかった。彼女はいま、怒りと悔しさ、そして一連の裏切りに打ちのめされていた。京弥の態度、幹部の無力さと裏切り、そして自分の立場が脅かされているという現実。全てが重なり、もはや精神的に限界に近づいていた。「私、先生の話を聞いたのよ。それで紗雪の主治医にも確認したの」「それで?」「主治医は言ってた。今の紗雪の容態じゃ、勝手に移動させるのは危険だって。無理に動かせば、最悪の場合、もう二度と目覚めなくなるかもしれないって......!」その言葉を聞いた辰琉は、思わず緒莉の横顔を見つめた。この女、演技派すぎるだろ。こんなに自然に、しかもたった数言で、すべての責任を他人に押しつけるとは......自分はあくまで「妹のことを心配している姉」という立場を完璧に演じきっている。聞いている側からすれば、まるで緒莉は善意のかたまりのように見えるはずだ。辰琉はその演技力に、もはや呆れすら感じていた。全部計算ずくなんだな。緒莉は、わざと「最悪目覚めないかもしれない」とまで言って不安を煽り、母親を自分の味方に引き込もうとしていた。案の定、その「二度と目覚めない」という言葉を聞いた瞬間、美月の心臓はギュッと痛んだ。紗雪はつい最近まで、一緒に普通に過ごしていた
最後には、状況がまずいと分かった瞬間、一人で逃げ出したなんて!緒莉は深く息を吸い込んだ。周りにはどうしてこうも頼りにならない人ばかり。なぜ紗雪の周りには、あんなに順調で信頼できる人間ばかり集まるの?まるで氷の上を歩くような人生を送ってきたのに。出会ってきた人間も、どれも平凡で、心から頼れるとは言いがたい。たとえば辰琉。見た目はまあ悪くない。顔立ちで言えば、京弥には一歩及ばないかもしれない。でも、鳴り城ではそれなりに名のある金持ちの一人であることは確かだし、他と比べれば十分「上の人間」に属する。これまで多くの男性と接してきた中で、緒莉はある意味、現実をよく見ていた。辰琉は、元々それなりに「いい男」なのだ。ただ、彼が「彼女のため」にどこまで本気で動くかとなると話は別。その点が引っかかって、何度も胸が痛くなる。ここまで歩み寄ってくれていること、それがどれだけ貴重なのかは、緒莉自身もよく理解している。だからこそ、彼との「結婚」という話に関しては、ずっと迷っていた。結婚は一度きりの決断だ。一度縛られれば、それは一生続く拘束だ。女の人生にとって、それは決して軽い話ではない。後になって後悔しても、二度目となれば「再婚」となる。社会的にもダメージは大きいし、未来に悪影響を及ぼしかねない。緒莉は、いつも冷静だった。少なくとも、判断力を失うようなタイプではなかった。でも美月の声を聞いた今、何をどう伝えればいいのか分からなくなっていた。「大丈夫よ。会社は何も問題ないの」その言葉を聞いた美月は、ようやく少し安心した様子だった。とはいえ、やはりどこか引っかかる。「じゃあ、どうして今電話してきたの?会社に問題ないなら、今ごろは仕事中のはずでしょう?」美月は勘が鋭い。いつもなら、何があっても頼ってこない緒莉が、このタイミングで連絡してくること自体が、異常なのだ。彼女は昔から自立心が強く、自分のことは自分で処理する性格だった。他人に助けを求めるようなことは滅多になく、それが美月にも伝わっていた。だからこそ、今回の電話には妙な違和感が残る。もしかして、何かあった?美月の脳裏に、さっきの京弥の言動がよぎる。違和感が確信に変わる前に、緒莉が口を開いた。「紗雪
これでこそ、次の一歩に進む準備が整う。そうでなければ、いつまでも同じところで足踏みするだけだ。そう思うと、辰琉の頭にもまた鈍い痛みが走った。彼は手を伸ばし、緒莉の背中を軽く叩いた。声も、自然と柔らかくなる。「そんなに落ち込まないで。君はもう十分頑張ったじゃないか。これからのことは、二人で一緒に乗り越えればいい。周りの噂なんて、気にすることないさ」緒莉は顔を上げ、辰琉を見つめる。今の彼女の目には、辰琉がまるで光を纏っているように見えた。「本当に?」辰琉は真面目な顔で誓うように言った。「もちろん本当さ。こんなことで君に嘘をつく理由なんて、俺にはないだろ?俺たちはいずれ一緒に人生を歩むんだから。一緒に立ち向かうのは当然のことだよ。そんなに驚くことかな?」その瞬間、緒莉の心には、もはや何の迷いもなかった。彼女の視線の中には、ただ目の前の辰琉だけがいた。彼は、まるでヒーローみたい。たとえ今、彼の言葉に多少の鋭さがあったとしても、彼女にはすべて受け入れられた。「疑うようなことを言ってごめんね。信じてるから、辰琉」緒莉はぎゅっと辰琉に抱きつき、その腕を離そうとしなかった。その熱烈さに、辰琉は少し驚きながらも微笑んだ。「緒莉のこと、ちゃんと大切にするよ。だから、君は安心して、俺に身を預けてくれればいいんだ」その言葉に対し、緒莉は何も返さなかった。この男がどういう人間か、彼女にはよくわかっている。言葉がどんなに甘くても、本心は別のところにあるかもしれない。過去に何度も「逃げた」彼を、彼女は見てきた。彼がどんな性格かは、誰よりも彼女が理解している。結婚するとなれば、もう一度冷静に考える必要がある。でも、表向きはまた別の顔。今の彼女は、辰琉の前では素直な「緒莉」でいるしかない。気持ちを整えた緒莉は、すぐに美月に電話をかけた。京弥が紗雪を連れ出すのを、黙って見ているわけにはいかない。辰琉はその様子を見て、少し戸惑いながら口を開いた。「本当にいいのか?」「やってみなきゃわからないでしょ。お母さんだって紗雪のことが気が気じゃないはずよ。なのに、京弥は紗雪の安全をまったく考えてない。きっとお母さんも怒るわ」その自信満々な様子に、辰琉は結局なにも言わず、黙って彼女の判
緒莉が外に出たあと、彼女の心はひどく混乱していた。これから、いったい何をすればいいの?京弥を追いかけて止めに行くべき?でも、もうだいぶ時間が経ってるし、どの方向に行ったのかすら分からない。探しようがない。緒莉の顔には、これまで見たことのないような「迷い」の色が浮かんでいた。本当に、怖くなってきた。もし紗雪が目を覚ましたら、自分の人生は、どう変わってしまうのだろうか。やっと会長代理の座に就いたばかりなのに、こんなにも早く引きずり下ろされるなんて......そんなの、絶対に認めない。どうして?同じ二川家の子どもなのに、なぜ自分ばかりが身体の弱さに苦しめられるの?それに比べて紗雪は健康で、頭もよくて、顔も綺麗で......思い出すたび、緒莉の胸には嫌悪感がこみ上げてくる。母は一体どうしてるんだ?同じ子どもなのに、どうしてあんなにも不公平なの?彼女だって一生懸命頑張ってきた。なのに、どれだけ努力しても紗雪の背中さえ見えない。だからこそ、今回の「手段」を選んだのだ。せっかく計画はもう大半成功していたのに。今一番大事なのは、しっかりとその座を確保すること、それだけだった。なのに、まだ邪魔が入る。どうして?京弥も、彼の友人も。みんなして、自分の邪魔をする。緒莉は心の底から不満だった。これまで積み重ねてきた努力を思えば思うほど、彼女の心には絶望が広がっていく。その時、辰琉が出てきた。道端にぽつんと立ち尽くしている緒莉を見つけたのだ。彼女の表情は暗く、感情の読めない顔をしていた。それを見ただけで、辰琉には分かった。計画は失敗したのだと。こんな顔をしているのが、何よりの証拠だった。彼自身も気分は最悪だったが、こんな時だからこそ、男としてしっかり立ち上がらなければならない。彼は緒莉のそばに歩み寄り、そっと肩に手を置いた。「緒莉......大丈夫か?」聞き慣れた声に、緒莉はついに堪えきれず嗚咽を漏らした。「どこに行ってたの?あの人たちが、私を......!」そう言うと、彼女はついに声をあげて泣き出した。ここまでの毎日が、あまりにも過酷だった。身体も心も疲弊していて、母の目を警戒しながら会社を回し、あの年配連中の監視の中で、一瞬の気の
彼女と紗雪は実の姉妹なのに、それでもあんなことをするなんて。本当に信じられなかった。もしこれが現実なら、この先どれだけ恐ろしいことがこの豪門の世界で起こるのか......考えるだけでゾッとする。「この件は、お前が口を出すことじゃない。もう関わるな」伊吹の声には、いつになく冷たい響きがあった。「なんで?」伊澄は首を傾げ、納得のいかない様子で兄を見つめた。こんなときこそ出番なのに、どうして止めるのか。もし本当に緒莉の仕業だと証明できれば、京弥の評価も上がるはず。そうなれば、八木沢家が受ける恩義だって増えるに決まっている。そんな考えをよそに、伊吹はため息をついた。「お前は男ってものが、わかってないんだよ。もしそれが本当に緒莉の仕業だったとしたら、京弥は自分の手でケリをつけたがる」「どうして?」伊澄は頭を掻きながら、首をひねった。男同士のよく分からないプライドとか、復讐心とか、全然理解できなかった。勝ち負けだの、支配欲だの、そういうのが何なのかすらピンとこない。そんな妹を見て、伊吹は思わず白目をむいた。「いいから、お前の脳みそで無理に考えるな。変に考え込むより、これからの自分のことでも考えてろ」その表情は、どこか達観したようにも見えた。「緒莉がやったとすれば、京弥は、紗雪のために自分の手で復讐することにこそ意味を感じるんだ。男ってのは、そういうもんだ」そう聞かされても、伊澄には理解できなかった。彼女はまだ男という存在を深く知るほど、人間関係を築いてきたわけではない。ましてや、京弥のような人間とは。彼女の人生は、ずっと京弥中心に回っていた。他の男性なんて、ほとんど眼中になかった。だから今さら、「男心を理解しろ」と言われても、どう答えればいいのか分からない。その事実に、彼女自身が一番傷ついていた。――私は、結局、なにも分かってなかった。伊吹はそんな妹の気持ちを察して、優しく頭をぽんと叩いた。「よし、今度はこの兄が外の世界を見せてやる。もう、こんなことで悩むな。この鳴り城には、もう長くいられそうにないし......また海外に戻ることも考えよう」「うん」伊澄はしょんぼりと頷いた。確かに、彼女には他に行く場所なんてなかった。そうなるのが、自然な流れだった