紗雪は何食わぬ顔で視線を上げ、店の外にいる男に気づいた。キャップを深くかぶり、マスクで顔を隠しているが、じっと彼女と清那を見つめている。どこかで見たことがある気がする......まさか加津也?じっくり目を凝らすと、間違いない。コソコソと様子を窺っているこの男は、まさしく加津也だった。紗雪は思わず眉をひそめた。こいつ、この前捕まったばかりじゃなかった?出てきたばかりなのに、また私にちょっかいを出すつもり?とはいえ、さすがに堂々と何か仕掛けるほどの度胸はないだろう。紗雪はそれ以上気にするのをやめ、「ねえ、向かいのワンピース見た?Aブランドの新作だけど、絶対清那に似合うよ!」と清那に話を振った。Aブランドの熱狂的なファンである清那は、その一言に目を輝かせ、「本当?見に行かなきゃ!」と、さっそく紗雪の手を引いて向かった。さっきまで「京弥にネクタイを買おう!」とはしゃいでいたのに、すっかり忘れてしまったらしい。紗雪は密かに安堵する。正直、京弥にネクタイを買いたくなかった。もし買って帰ったら、清那はきっと「ネクタイを贈るのは『あなたを一生自分のそばに留めたい』って意味なのよ」と京弥に吹き込むに違いない。そんなことになれば、「身代わりのくせに、妻の座に収まろうとしてるのか?」彼にそう嘲笑される未来が目に浮かぶ。この考えがよぎると、胸の奥がチクリと痛んだ。紗雪は無理やりコーヒーを一口飲み、冷静さを取り戻そうとする。ふと清那に目をやると、彼女はワンピース選びに夢中で、紗雪の変化には気づいていないようだった。それを確認し、そっと息をつく。再び外を見ると、もう加津也の姿はなかった。ただの偶然?だが、この小さな出来事を深く気にすることなく、紗雪は清那と一緒にショッピングを続けた。2時間後。両手いっぱいの戦利品を抱えた二人は、レストランに入りランチをとることにした。清那は満足げに息をつく。「はぁ~、買い物って最高のストレス解消よね!」「でも、紗雪はほとんど何も買ってないじゃない。買ってたの、私ばっかりじゃなの」紗雪はくすりと笑い、「何食べる?」とメニューを差し出した。清那はひらひらと手を振り、「何でもいいわ、私の好み分かってるでしょ」と言いながら、バッグからスマホを取り出す。「せっかく
紗雪の対処法は至ってシンプルだった。事実を突きつけ、流言を粉砕することだ。彼女はすぐにショッピングモールの管理者を見つけ、事件発生時の監視カメラの映像を入手。その映像をそのままネットに投稿した。映像には、紗雪と男がただの偶然の接触でぶつかった様子が映っていた。男は反射的に紗雪を支えたものの、二人の間には言葉すら交わされていない。ただの通行人同士の些細な衝突に過ぎなかった。ネット上の風向きは一瞬で変わり、デマを流したアカウントは炎上。罵倒され、謝罪に追い込まれた挙句、アカウントを削除する羽目になった。だが、紗雪にとってこれで終わりではない。彼女はこの件の黒幕を突き止めるつもりだった。「ほらこいつ、やたらコソコソしてたよ」清那は監視カメラの映像を指し示した。画面の隅に、バケットハットとマスクをした男の姿が映っている。「まるでパパラッチね。ただ、正面の顔が映ってないのが残念ね。顔さえわかれば、警察に突き出して終わりなのに」紗雪もそれを惜しく思ったが、簡単に引き下がるつもりはなかった。彼女の瞳が細められ、その中に鋭い光が閃く。「大丈夫。黒幕はまだ諦めてないはず。きっとまた仕掛けてくるわ」「~♪」京弥からの着信だった。普段なら即座に電話を取るところだが、紗雪は一瞬躊躇した。そんな彼女の変化に気づかず、清那はニヤニヤしながら囃し立てる。「うちの兄さん、普段は仕事で超多忙でしょ?自分の誕生日パーティーすら遅刻するくらいなのに、紗雪のこととなるとすぐ動くのよね」「今の時間なら、ちょうど定例会議が終わった頃。きっと紗雪のことが心配してるんだよ」だが、紗雪は結局電話に出ず、コールが切れるまで放置した。「えっ、出ないの?」清那は驚いた。紗雪自身も、ここまでためらうとは思っていなかった。だが、電話が切れた後、京弥からの再着信はなかった。彼女はほっと胸を撫で下ろす。「急に思い出したわ。プロジェクトのプラン、もう少し修正すれば完璧になる」「え?今から?」「会社に戻って仕上げる!」清那が何か言う前に、紗雪は足早に立ち去った。清那は鼻をこすりながら、独りごちる。「いやいや、ほんとこの二人、お似合いすぎでしょ......どっちもワーカホリックだもんね。ショッピング中にいきなり仕事に戻る人、普通いる
紗雪はますます京弥とどう向き合えばいいのかわからなくなり、視線を逸らした。「ここまで大ごとになったんだから、もう現れる勇気はないんじゃない?」でも、もしもまた現れたら?京弥は心の中で小さくため息をつき、それ以上はこの話題を引きずらなかった。「わかった、とりあえず家に帰ろう」すでに部下に盗撮者の調査を命じており、結果が出るまでは紗雪を外に放っておくのが心配だった。紗雪は小さく「うん」とだけ返し、大人しく京弥の隣を歩いた。京弥はふと眉を寄せた。昨夜からずっと、紗雪の態度がどこかおかしい。まるで彼を避けているかのようだ。試しにそっと手を伸ばしてみる。だが、彼女の手はちょうどポケットに収まってしまい、空を切った。偶然か、それともわざと?紗雪は何事もなかったかのように車を見て、「車、どこに停めたの?」と尋ねた。「ここだよ」京弥はひとまず胸の内を押し隠し、紳士的に助手席のドアを開けてやる。紗雪が座るのを確認してから、静かにドアを閉めた。運転席に回り込み、車を発進させる前に、京弥は何気ない口調で聞いた。「晩飯は何が食べたい?冷蔵庫の食材も少なくなってきたし、帰りにスーパーに寄ろうか?」紗雪は少し頭が重い気がした。できれば早く帰って休みたい。けれど、また断ったら京弥が余計なことを考えそうで、結局うなずいた。スーパーに着くと、京弥は慣れた様子でショッピングカートを押した。「食材以外にも、何か見ていく?」紗雪は首を横に振った。今は体調が悪いのをこらえて買い物している状態だ。喉が少しむずがゆく、咳が出そうだった。体がだるくて、少しふらつく。さっき急いで歩いたせいで汗をかいたのに、外に出て冷たい風に当たったからかもしれない。ちょっとした風邪かな。「げほっ......魚が食べたいかも」「じゃあ俺が選んでくる」京弥はカートを紗雪に預け、魚屋へ向かった。新鮮な魚を一匹選び、店員に下処理を頼む。ふと振り返ると、紗雪はその場から動いていなかった。けれど、彼女の視線の先にはチョコレートがずらりと並ぶ棚があった。甘いものが食べたいのか?「お客さん、できましたよ」京弥が店員に応じたその瞬間、紗雪の体がぐらりと揺れた。彼女はとっさに棚の柵をつかみ、倒れるのを防ぐ。額に手
京弥は、じっくり煮込んだ肉のお粥を運んできた。その香りだけで、胃が鳴りそうになるほど食欲をそそる。紗雪は丼を受け取り、待ちきれない様子でひと口すする。本当に美味しい。とろみのあるなめらかな舌触り、米粒のほろほろとした柔らかさ、独特な風味が絶妙に絡み合っている。胃に流し込むと、全身がぽかぽかと温まる気がした。気づけば、皿の中はすっかり空っぽになっていた。紗雪が顔を上げると、まだ隣に座っている京弥と目が合い、思わず頬が熱くなる。「京弥さんはもう食べたの?早く食べてきなよ、私は大丈夫だから」京弥は、紗雪の手から空になった皿を受け取りながら、何気なく尋ねた。「おかわりは?」紗雪は一瞬迷ったが、少し恥ずかしそうにこくんと頷く。京弥は小さく笑って、もう一度立ち上がり、お粥をよそって戻ってきた。今回は、一緒にぬるめの白湯と薬も持ってくる。「お粥を食べたら、ちゃんと薬も飲むこと。薬を飲んだら、眠くなったら寝ていい。食器はそのまま置いといて、後で片付けるから」まるで子どもを相手にするように言い聞かせる京弥。彼が先ほど隣に座っていたのは、紗雪の体調を注意深く観察するためだった。お粥を食べて少し落ち着いたようなので、これ以上そばにいて気を遣わせるのも悪いと考え、席を外すことにした。紗雪は密かに安堵の息をつく。皿を手に取ると、今度は半分ほどの量しか入っていないことに気づく。「足りなかったら、また取りに行こう」そう思って食べ始めたが、食べ終わる頃にはちょうど満腹感を覚えた。自分の食べる量、計算してた?そんな驚きが胸をよぎったその時、窓の外がふっと一瞬光った。紗雪は無意識に顔を向け、静かにカーテンの隙間から外を覗く。すると、建物の下に怪しげな人影が見えた。パパラッチ、かもしれない。ここは十八階建ての高級マンション。上下の階には有名人が住んでいたはずだ。何しろ市内で最も便利な立地にあり、資金に余裕のある人々が好んで住む場所なのだから。リビングでは、京弥がスマホを見ながらお粥を食べていた。彼が調査を依頼していた件は、すでに結果が出ていた。調べがついたのは、金のためならどんな手段でも使う悪質なパパラッチ。高額の報酬を貰えれば、どんな捏造記事でも書き、ターゲットを社会的に破滅させ
俊介はすぐに笑みを浮かべた。「つまり......」加津也は彼に顎をしゃくり、目を細める。その様はまるで毒蛇のようだった。「どうするか、いちいち教えなくても分かるだろ?」「はい」俊介は頷いた。策を練り終えた加津也は俊介を追い払う。今の彼にとって最優先なのは、椎名のプロジェクトを手に入れること。どれだけ認めたくなくても、現実は変わらない。最大の競争相手は二川グループだ。だからこそ、二川グループがどんな提案を準備しているのかを知る必要がある。「~♪」スマホの着信音が鳴る。加津也は電話を取り上げた。友人からの電話だった。二川家の次女を紹介してやるというのだ。「椎名のプロジェクトを取りたいんだろ?二川家の次女が関わってるって聞いたぞ。あの子は恋愛脳だから、お前みたいなプレイボーイならちょっと甘い言葉を囁けばすぐに落ちるんじゃないか?」「ほう?わかった。話がまとまったら礼は弾む」「でも女を口説くなら、それなりのプレゼントも用意しないとな?」「フッ、もちろんだ」加津也は、新しく買ったダイヤモンドのブレスレットに視線を落とした。元々は初芽に贈るつもりだったが、考えを変えることにした。まずは二川家の次女を籠絡し、椎名のプロジェクトを手に入れる。そうすれば、晴れて初芽との結婚を家族に認めさせることができる。京弥の強い勧めで、紗雪は一日中家で休むことになった。今の彼女にできるのは、椎名の結果を待つことだけ。自分の努力と京弥のアドバイスがあれば、成功の確率は80%以上はあるはずだ。夕方、清那から電話がかかってきた。パーティーに誘われたのだ。紗雪はあまり乗り気ではなかったが、清那のしつこい誘いに根負けする。彼女が鳴り城に戻ってからほとんど顔を出していないせいで、周囲の人々が彼女のことを忘れかけているというのだ。新しい人脈を築くためにも、たまには顔を出した方がいい。最終的に紗雪は行くことを決めた。体調を考慮し、今夜の服装は暖かめにする。ダークブラウンのタートルネックセーターに、深いブルーのデニムパンツ。黒く艶やかな長い巻き髪は無造作に下ろしたまま。彼女の整った顔立ちは、メイクなしでも十分に映える。ただ、軽くリップクリームを塗った。会場に到着し、清那
加津也は視線を下げ、いやらしく笑いながら続けた。「まあ……お前の態度次第では、俺が囲ってやってもいいぞ。俺の愛人になれば、あの役立たずのヒモといるより、よっぽど稼げるんじゃないか?」紗雪は彼の目をじっと見つめた。その卑しい表情が、ただただ気持ち悪い。二川家のお嬢様の男?何をバカなことを言っているのか。紗雪は眉をひそめた。清那は「ただの気軽なパーティー」と言っていたはず。それなのに、彼女を加津也に紹介する?当の二川お嬢様本人は、そんな話聞いたこともないのだが。「二川お嬢様?」紗雪は冷笑した。「そうさ!二川家の次女だ!」加津也は得意げに笑う。「お前みたいな田舎者には縁のない世界だろうが、二川お嬢様は名門の令嬢だ。お金持ちのサークルは、金持ちに取り入ったところで入れるものじゃないんだからな」彼は紗雪の顔色をじっくり観察し、ニヤリと笑った。「そんなに悔しいのか?それとも……怖い?」紗雪は呆れたように笑った。なるほど、加津也にとって「二川お嬢様」の肩書きは特別らしい。そして彼の目には、自分はどんなに頑張ろうと「二川お嬢様」に及ばない存在なのだろう。「心から成功を祈ってるわ」と皮肉げに言い捨てる。自分と加津也をくっつけようなんて、そんな話、冗談じゃない。来世でも御免だ。彼女はさっさと踵を返し、清那を探しに行った。残された加津也は、その背中を目を細めて見つめた。紗雪が自分の前に跪いて懇願する姿を想像し、思わず舌なめずりする。「お前のプライドがどこまで持つか見ものだな」すぐにでも、地獄に突き落としてやる。お前の破滅を待ち遠しいよ。加津也はそう呟くと、意気揚々とパーティー会場に足を踏み入れた。彼は手をこすり合わせ、仲間のもとへ駆け寄った。「二川お嬢様、まだ来てないのか?」「来るなら、きっと派手な登場をするはずだ」と仲間の成金が肩を組んでくる。「心配するな、ちゃんと手配してある。俺はちょっと用事があるから、後で写真でも送ってくれ」仲間が去ると、加津也は満足そうにうなずいた。「サンキューな。二川お嬢様を落としたら、礼をするよ」そんな会話を、近くで聞いていた清那が、思わず冷笑する。はっ、このバカが二川お嬢様を落とすって?ホント笑わせる。清那はす
瞬間、紗雪は会場で最も注目を集める存在となった。その場にいる者たちは、皆面白がるような表情を浮かべていた。「まさか、復縁を懇願しにこんな場に来たんじゃないだろうな?」誰かが嘲笑混じりに言う。紗雪は眉をひそめた。この場にいるのはみな放蕩者ばかりで、彼女が二川家の次女であることを知らないのも無理はない。だが、復縁を懇願しに来たとまで言われるのは、さすがに聞き捨てならなかった。ある名門令嬢が口元を手で覆いながら、くすくすと笑う。「ほんと、それよね。こんな身分の子がどうやって私たちの界隈に入り込んだのかしら?西山さん、もしかしてまだ未練があるんじゃない?」加津也は鼻を鳴らした。「田舎出身だからな。昔は俺がちょっと面倒を見てやっただけだ」「田舎者はやっぱり田舎者ね。こんな場に来るのに、そのダサい服装は何?ほんと世間知らずって感じ。西山さん、なんでこんな女を選んでたの?」別の者が皮肉っぽく言った。加津也はシャンパンを手に取り、紗雪の服装を値踏みするように眺めた。考えれば考えるほど、違和感が募る。これはお金持ちたちの社交の場だ。紗雪が来る理由がない。ここにいるのは成金ばかりで、彼女が狙うような大金持ちはいないはず。ということは、復縁を求めに来た?道理で......彼は冷たく言い放った。「俺がこんな女に惹かれるわけがない。昔付き合ってたってのも、向こうがしつこくすがりついてきたからだ」「なんだ、結局は西山さんに使い捨てられた哀れな女か」紗雪の瞳が冷たく光った。凛とした声音が静寂を切り裂く。「言葉には気をつけたほうがいいわ。口は災いの元よ」「何よ、田舎者のくせに。私たちはお金持ちよ?あなたみたいな人間が手に届くほどの存在じゃないわ」名門令嬢が嘲笑する。「この狐女、西山さんを色仕掛けで落とせるとでも思ってる?あなた、彼に相応しくないのよ」加津也はその言葉に満足げに頷き、得意げに顎を上げる。しかし、次の瞬間、紗雪は左手を持ち上げ、周囲に指輪をはめた指を見せつけた。「私はもう結婚してる。根も葉もない噂を流すのはやめてくれる?」その声には、鋭く冷たい響きがあった。直後、誰かが吹き出すように笑う。「えっ、誰がそんな中古品を引き取ったんだよ?西山さんに散
京弥は嘲笑混じりに鼻を鳴らし、「二川家の次女」と聞いて、さらに口元の皮肉を深めた。視線を紗雪に向けると、彼女はわずかに首をすくめる。「お前が誰であろうと、俺の妻を侮辱するなら、跡形もなく消してやる」彼はゆっくりと言い放つと、さらに続けた。「それに、俺の知る限り、振られたのは西山さんの方だったはずだが?そこまでしつこく絡んでくるってことは、手に入らないものだから、悔しくて壊そうとしてるのか?」「貴様......!」加津也は顔を真っ赤にして怒りを滲ませたが、次の瞬間、氷のように冷たい京弥と目が合い、全身が硬直した。動けない。言葉すら出ない。ただのヒモのはずなのに、どうしてこんな威圧感があるんだ?それどころか、その優雅な仕草、身に纏う品格——とても場違いなほど洗練されている。こいつ、本当にただのヒモなのか?紗雪はふっと笑い、わざとらしくため息をついた。「それから、もう私の下ネタを捏造しないで。『遊ばれた』とか言ってるけど......西山って、そもそもだめなのよ、最後までいったことないのよね」その言葉が落ちるや否や、加津也は歯ぎしりしながら怒鳴った。「このクソ女が!」「パシンッ!」次の瞬間、乾いた音が響いた。紗雪が遠慮なく、全力で彼の頬を打ち据えたのだ。こういう身の程知らずの男には、容赦ないお仕置きが必要だ。加津也は目を見開き、唖然とした。拳を握りしめ、今にも殴り返そうとしたが、京弥の冷徹な眼差しに射抜かれ、その場で凍りつく。このクソヒモが!まともに睨み返すことすらできず、加津也は奥歯を噛み締めたまま、唇を震わせながら言い放った。「覚えていろよ!」そう吐き捨てると、乱暴に踵を返し、そのまま会場を後にした。会場の外。加津也は怒りに震えながら、親しい友人に電話をかけた。「今日のパーティーに来てた女は、全員顔見知りだ!お前、確か『二川家の次女が来る』って言ってたよな?!」電話の向こうで、友人が少し間を置いて答えた。「もしかしたら、何か用事があって来られなかったのかも。二川グループの本社に行けば会えるかもしれない」パーティー場では、加津也が去った後、残った者たちの視線が一斉に京弥へと集中した。とりわけ、社交界の令嬢たちは、彼の姿をじっと見つめていた。
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「
紗雪の対応があまりにも素早く、秘書は心の中で驚きと同時に安堵の色を浮かべた。彼女は最近昇進したばかりで、紗雪のことをそこまでよく知らなかった。今朝ニュースを見たときは、「もう終わりだ」と思ったくらいだった。だが、思った以上に紗雪はしっかりとした手腕を持っていた。その姿を見て、秘書の中でも不安が少しずつ薄れていった。しかし。二人がようやく一息つこうかというその時、さらなる事態があっという間に爆発した。まさかここまで早く連鎖反応が起きるとは、誰も想像していなかった。しばらくして、秘書はもう自分一人では収拾がつかなくなり、またしても紗雪の元へ駆け込んだ。「大変です、会長!」「先ほど見ていただいたメーカーだけでなく、その後も次々と多くの業者が納品契約を解除してきています。このままだと、今手がけているプロジェクトすべてが一時停止になりそうです!」紗雪の手がペンを持ったまま止まった。ようやく彼女も、事態の展開の早さに気づいたのだった。まるで背後に巨大な手が動いているような、そんな不穏な流れ。彼女は直感的に、これがただの風評被害ではないと感じていた。だが今は真相を探る暇もない。最優先すべきは、大手メーカーたちとの関係をどうにかして維持すること。プロジェクトが一日でも遅れれば、その分人件費と時間が無駄になる。もし納期を守れなければ、椎名にどう顔向けすればいいのか。これが最初の取引なのに、もうこんな泥を被る羽目になるとは。「まずは納品メーカーをなだめて。あと、ネットでデマを流してる連中を突き止めて。指をくわえて見てるだけってわけにはいかない」「わかりました、すぐに調査します!」秘書は慌ててその場を去った。今の彼らには、一秒たりとも無駄にできない。時は金なり。一歩間違えば、すべてが崩れていくだけ。これが大企業の背負う重圧。紗雪はネット上に出回っている情報を注意深く読み返した。何か見落としている気がしてならない。だが、それが具体的に何なのか、今の彼女には思い出せなかった。今はとにかく、秘書がメーカーと連絡を取るまで待つしかない。二川グループにとって、メーカーとの信頼関係は命綱だった。それを失えば、彼女一人で背負いきれるような損失では済まされない。しばらく
伊澄は昨日耳にした「スピード婚」という言葉を思い出し、心の奥がまるで蟻にかじられているかのようにムズムズした。今の彼女の唯一の願いは、二人が一刻も早く離婚することだった。そうすれば、兄を説得して、彼女の京弥兄と一緒に鳴り城に留まれるのだ。「そんなことはどうでもいいでしょ。私は今、共通の敵を倒すことしか考えてないわ」その言葉を聞いた加津也は、それ以上言うのをやめた。今の彼にはよくわかっていた。自分のこの協力者も、早く紗雪を潰したいと思っているに違いない。「そうですか」加津也はそう言って、一本のタバコを取り出し、伊澄に向かって美しい煙の輪を吐いた。「あとは、いくつかメディアと繋いで、この件を事実として世間に認識させればそれでいいです」伊澄は彼の口から吐かれる煙の香りと、その見事な煙の輪を見て、少し不機嫌そうに言った。「私の前でタバコを吸わないで」「それと、あなたが言ってることってそんな簡単にできるの?」加津也は軽く笑い、彼女にタバコを禁じられても、ゆっくりとその一本を吸い終えた。「はい。あとはもう、成り行きを見守ればいいだけです」「最後の勝つ組は、私たちになるでしょう」その自信に満ちた笑みを見て、伊澄の胸中にも少し安心が広がる。「私たちの初めての協力に、うまくいくことを願ってるわ」「はい。必ず勝利を」加津也は、今の伊澄が何を求めているかをよく理解していた。二人は視線を交わし、その瞳の奥には、同じく野心の炎が見え隠れしていた。......二川グループ。紗雪はオフィスで最近の業務に追われていた。そのとき、秘書が慌てた様子でドアをノックしてきた。「ドンドンドン」という音からも、その切迫感が伝わってくる。紗雪は眉をひそめ、胸の中に嫌な予感が広がった。「入って」返事を聞くや否や、相手は一切の躊躇もなく扉を開けて中に入ってきた。「会長、大変です!」その言葉を聞いた瞬間、紗雪は不快そうに言った。「大変って、どんな?」「これを見てください」息も整わないまま、秘書は手にしていたタブレットを彼女に差し出した。右目のまぶたがピクッと跳ね、紗雪の中の不安がさらに強まる。タブレットを受け取り、彼女は素早く内容に目を通した。瞳孔が、わずかに収縮する。「
「大丈夫か?」優しく、そしてどこか心配そうな男性の声が響いた。紗雪は額を押さえながら顔を上げると、無表情なまま問いかけてくる京弥の姿が目に入った。「大丈夫」京弥の顔を見ると、それ以上の言葉はもう出てこなかった。そう言って、彼女は身をかわして中へと歩を進めた。だが、京弥が紗雪の手首を掴む。彼の瞳の奥に、一瞬だけ傷ついたような光が差す。「紗雪......ちょっと話さない?」二人はそのまま、しばらく無言で向き合っていた。まるで、お互いにこの均衡を壊したくないとでも言うかのように。けれど紗雪には分かっていた。もう二人の関係は、以前のままではいられないのだと。伊澄が現れてから、彼らの時間は止まってしまった。「京弥さん......これは私自身の問題。あまり深く考えないで」紗雪は無理やりに笑顔を作った。「それに......私たち、元々スピード婚だったでしょう?お互いの親のためだったのよ。そんなに感情にこだわる意味なんてある?」その言葉に、京弥は彼女の顔から嘘の痕跡を探そうとした。だが、彼女の演技はあまりにも完璧で、違和感のかけらも見つけられなかった。「紗雪......それは、本心から?」紗雪は鼻で笑った。「本心かどうか、まずは自分に聞いたら?」そう言って、彼女は彼の手を振り払って部屋の奥へと歩いて行った。部屋の中にいた伊澄は、その様子を見て心の中で花火が上がるほど喜んだ。まさか、二人がスピード婚だったとは。しかもただの親の都合。これはチャンスだ。彼女の攻略難易度が一気に下がった!やっぱり......京弥兄は、最後には自分のものになるに決まってる!「二川紗雪......後から来たあんたごときが、私に勝てると思ってるの?」「あんたが破滅する日が待ち遠しいよ!」伊澄はその勢いのまま、加津也にメッセージを送った。「そっちはもっと頑張って。こっちは全力で合わせるから」その頃、加津也は初芽とベッドの中で交わっていた。メッセージに気づいた瞬間、動きを止める。「......え?」初芽が不満げに身を寄せる。加津也の目が一瞬暗くなるが、共通の敵のためにと気を取り直してメッセージに返信した。その様子を見て、初芽は内心で拳を握りしめながら悪態をついた。こんな
彼もすぐに手を差し出し、二人は軽く握手を交わした。それで、この協力関係は正式に成立した。なぜだか分からないが、伊澄はそれまで心の奥にあった不安が、手を握ったその瞬間、不思議と静まっていくのを感じた。加津也も続けて言った。「安心してください、神垣さん。失望させません。なんたって、共通の敵を持っているんですから」伊澄は手を引き、礼儀正しくも距離感を保った笑みを浮かべた。「そういうことなら、誠意を見せなさい。そっちはどう動くつもり?」加津也は彼女が手を引いたことに特に気を悪くすることもなく、表情を崩さずに笑みを保ったまま答える。「神垣さんの会社は二川グループとライバル関係にあります。だからこそ、海ヶ峰社からの情報には説得力があるんです」伊澄は眉を少し上げる。「続けて」「我々がやるべきことは単純です。二川グループが最も気にしているのは名声。だから、まずは外部からプレッシャーをかけて、それから内部を崩すのがベストです」「そうすれば、あとは一気に片がつきます」加津也の笑みには含みがあった。伊澄はその話を真剣に咀嚼しながら、確かに一理あると判断した。「なるほどね。じゃあ、手助けが必要なときは、直接言ってちょうだい」加津也の計画を聞きながら、伊澄は彼のやり方をある程度認めた。心の中で冷たく笑う。本当に信じられない。この世には紗雪を憎んでいる人間がこんなにもいるなんて。普段からあの人のキャラがよっぽど嫌われてるのね。だからこんなにも敵が集まる。「ちょうど一つ、頼みがあります」加津也はそう言いながら、彼女のそばまで歩み寄る。伊澄は急に距離を詰められたことで、思わず眉をひそめた。「なに?話をするなら、離れて話して。近づかないで」彼が突然立ち上がっただけでも、彼女の警戒心は強くなった。なにせ、この男は紗雪の元カレ。もし彼に何かされたら、自分は京弥哥にどう言い訳すればいい?そんな彼女の反応を見て、加津也は眉を軽く動かして、小さく笑った。「まだ私のこと、信用していないんですね。もうパートナーなんですから、信頼関係は大事ですよ」「始まったばかりで信頼できるわけないでしょ」伊澄は鼻で笑った。「初対面の相手にいきなり信頼なんて、そんな都合のいい話あるわけないじゃない」加津也
紗雪は深く息を吸い込んだ。加津也の存在がすでに仕事にまで影響を及ぼしている。これ以上放っておくわけにはいかない。次はもっと手厳しくやらなければ。前回警察に突き出したくらいじゃ、きっと十分な教訓にはならなかったのだろう。あの男は、痛い目を見てもすぐに忘れてしまう。紗雪は手首のブレスレットをくるくる回しながら、細めた目で次の一手を思案し始めた。......「西山加津也?」伊澄はその名前を聞いた瞬間、一瞬ぽかんとした。頭の中には、その人物に関する記憶がまったく浮かんでこなかった。秘書が説明する。「はい、その人は西山家の御曹司です」「どうしても神垣さんと直接話がしたいと訪ねてきていて、彼の手元には神垣さんが欲しがっているものがあると言ってました」それを聞いて、伊澄の興味が湧いた。彼女は立ち上がり、秘書を見つめた。「本当に、そう言ったの?」「ええ、自信満々に話してました。今は応接室でお待ちです」伊澄は赤い唇を上げて笑みを浮かべた。「じゃあ、どんな人物なのか見てやろうじゃない。私の興味を引くものがあるって言うなら、相当のものじゃないとね」そう言って、彼女は応接室へと向かった。どうやら加津也は、彼女の注意を引くことに成功したようだ。応接室に入ると、伊澄はそのまま彼の正面に腰を下ろした。気取らない態度で問いかける。「あなた、私の興味を引くものがあるって言ったわね?」加津也は彼女の清楚で可愛らしい容姿と、瞳の奥に潜む野心を見て、この人物はなかなかの協力者になると直感した。「もちろんです。神垣さんが二川グループと競っている関係だって、よく耳にしています」伊澄の目が一瞬だけ光を帯びたが、すぐに表情を引き締める。「それは聞いた話だけでしょう?証拠もない話を鵜呑みにしてもらっちゃ困るわ」加津也は薄く笑みを浮かべ、紗雪と一緒にいたときの写真など、証拠を差し出した。「神垣さんが狙っているのは彼女でしょう?私のターゲットもまさにその彼女です」「敵の敵は味方だって、よく言うじゃないですか。手を組んでみるのも悪くないと思いませんか?」伊澄は写真を見つめ、目が輝いた。だが次の瞬間、何か引っかかるものを感じた。もし二人が以前恋人関係だったのなら、なぜ今になって彼女を陥れようと
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪