京弥もそのことに気づいた。紗雪が目覚めたばかりで、きっと恥ずかしく思っているに違いない――そう考え、彼は腕をほどいた。けれど、それでもなお、彼は紗雪の手を強く握り続けた。紗雪はちらりとその手を見たが、何も言わなかった。今の京弥が、どれほど不安を抱えているのか、彼女には分かっていたからだ。実のところ、自分も同じ。長い時間を記憶の中で過ごし、今となってはもう京弥なしではいられない。まして、彼があのとき自分を救ってくれた男子生徒だと知ってからは......紗雪の目には、彼がいっそう愛しく映って仕方なかった。以前はそこまで特別な感情を持たなかったのに、今はもう、彼と離れるのがつらいほどだった。京弥は彼女の手を固く握りしめ、床で呻いている辰琉を鋭く見据えた。「紗雪......こいつ、何をしようとした?君に何をした?」低く落ちた声は、全身から危険な気配を滲ませていた。その気迫に、辰琉はびくりと体を震わせる。「俺はまだ何も言ってないだろ!勝手に決めつけるな!」床に這いつくばりながら、必死に叫ぶ辰琉。だがその様子を見て、緒莉は思わず眉をひそめた。ただ「違う」と喚くだけ?そんなものが弁解になるわけないでしょう。証拠も現場も揃っているのに、無駄なあがきね。今さら取り繕ったところでどうにもならない。緒莉は逃げ出したい衝動に駆られたが、病室はきっちり人で塞がれていた。無理ね。ここからは逃げられない。京弥が見逃すはずもない。観念した緒莉は、心の中で溜め息をつき、仕方なくその場に立ち尽くした。一方、京弥は辰琉の言い訳を聞き、鼻で笑った。彼は床に落ちていた注射器を拾い上げ、冷ややかに突きつける。「じゃあ、これは何だ?」「っ......!」辰琉の顔色が一気に青ざめ、慌ててそれを奪い返そうとする。だが次の瞬間、京弥の蹴りが飛び、彼は再び床に叩き伏せられた。その光景に、緒莉は静かに目を閉じる。もう、この駒は終わりね。次は別の人間を探すしかない。それに、紗雪が目を覚ました以上、自分の立場はますます危うい。母とあの老人の性格からして、紗雪を権力の座に据えるのは間違いない。そうなれば、自分には何も残らない。今の経理の地位どころか、この会社に居場所があるかどう
つまり、今の状況は、仕組まれた連鎖の罠。京弥はもう怒りを抑えきれず、辰琉に左フックを叩き込み、その勢いのまま床に叩きつけた。一連の動きは淀みなく、まるで計算されたように流れる。「お前、なぜここに」低く響いた声には、抑えきれぬ怒気がこもっていた。その気配はまるで地獄の底から這い上がってきたかのように恐ろしく、周囲の空気さえ震わせる。本来なら、最愛の紗雪が目を覚ました、それだけで彼は狂喜に満ちていたはずだった。だが、その喜びは辰琉の姿を目にした瞬間、一気に吹き飛んだ。京弥の胸は激しく上下し、怒りに支配されているのが一目でわかる。紗雪はその様子を見て、胸が締めつけられるように痛んだ。思わず身を起こそうとしたところを、京弥がすぐに支え、彼女を抱き寄せる。温かい身体が腕の中にある感触に、彼は思わず震えを覚えた。これは現実なのか。自分が愛してやまない人が、本当に目を覚ましたのか。紗雪は気づく。京弥の体が、かすかに震えていることに。それでも彼は力強く抱きしめ、片時も離そうとしなかった。その姿に、紗雪の目頭は熱くなる。まさか、自分が彼にこれほどまでの影響を与えていたとは思ってもいなかった。これが本当に、京弥?以前も優しかったけれど、ここまで感情をあらわにすることはなかった。その変化に、彼女は言葉を失う。だが現実は待ってくれない。辰琉がこのまま何を言い出すかわからない以上、いつまでもこうしているわけにはいかない。「京弥さん......もういいから。離して。まだ人が見てるわ」紗雪は小さく囁いた。京弥が騒ぎを起こしたせいで、廊下の人々も駆けつけてきていた。外国人の医師まで病室へ入り込み、紗雪が目を覚ました光景に言葉を失っていた。「なんということだ......これは医学の奇跡だ!目を覚ますなんて!」その声に、緒莉もようやく呆けた顔を引き締める。紗雪が目を覚ました――それは彼女にとって致命的に不利な展開だった。しかもそこに辰琉の姿まである。母の電話での言葉と合わせれば、少し考えればすべてが繋がってしまう。愚か者め、辰琉。ただ薬を打つだけのこと、なぜこんなに手間取るのか。さっさと注射して立ち去れば済むものを......捕まるとは。緒莉は思わず額に手
これで、彼女はもう確信していた。辰琉は気まずそうに笑いながら口を開いた。「そ、そんなことはないよ、紗雪。これは違うよ......俺、用事があるから先に帰る」だが、紗雪がそんな逃げ道を与えるはずがなかった。ここが病室であることを、彼女はすでに把握している。紗雪はすぐに外へ向かって叫んだ。「誰か!早く来て!部屋に泥棒が入ってるの、早く!」彼女自身はまだベッドに横たわっていて、身体に力が入らないのをはっきりと感じていた。つまり、ここに長いこと寝かされていた証拠だ。今の彼女にとって一番大事なのは、正面から無理に争わないこと。そうしなければ損をするのは自分だ。記憶の世界から戻ってきた今、紗雪は何よりも自分の健康を大切に思っていた。危険な賭けは絶対にしない。だってまだ、京弥に会えていないのだから。ようやく彼の正体を知り、どれほど大切な人か気づいたばかり。彼に伝えたいことだって山ほどある。こんなところで命を無駄にするわけにはいかない。そう考えると、これまでの自分がどれだけ愚かだったかと思えてきた。もっと自分のために時間を使うべきだったのに。でも、もう同じ過ちはしない。これからは未来の自分と京弥のために、時間を大切にする。誰にも自分の命を浪費させたりはしない。一方その頃、京弥は病室の外で電話をかけていた。しかし、彼には違和感があった。美月がやけに話を引き延ばしている気がしてならない。その上、つい先ほど見た緒莉の笑みを思い返すと、胸の奥に嫌な予感が広がった。彼の瞳が鋭く光り、一転して病室へと足を向けた。「ちょっと、どこ行くの?まだお母さんと話が終わってないでしょ!」緒莉が立ちはだかる。「お母さんを敬う気持ちがないのね?」京弥の目が細く吊り上がり、冷たい声が落ちた。「祈る方がいい。紗雪に何も起きていないことを。そうでなければ......お前の命で償わせる」その殺気に、緒莉は思わず身をすくめた。だがすぐに頭を切り替える。自分には母がついている。怖がる必要なんてない。昼日中に、まさか本当に手を出せるわけないじゃない。案の定、次の瞬間、電話口から美月の声が響いた。「なるほどね。私の娘をそんなふうに扱う人なのね」冷笑混じりの声音。「安心
紗雪はふと、これまでずっと気になっていたことを思い出した。京弥の「初恋」は一体誰なのか、と。今になって考えると、それってもしかして学生頃の自分だったのでは?でも、彼がさっき瓦礫の中で言っていた、「ずっと前に会ったことがある」。あれはいったい、いつのことなのだろう?どうして自分にはまったく記憶がないのか。それはさておき、今の紗雪は喜びのあまり涙を流すばかりだった。長い時間をかけて探し、恩を返したいと願っていた人が、ずっとそばにいた。しかも、その人は今や自分の夫になっているのだ。こんな話、誰に言っても信じてもらえないに違いない。でも、よかった。神様は彼女に、やり直すチャンスを与えてくれた。まだ遅くはない。彼女にはまだ、誰が自分を陥れようとしたのかを探し出す時間が残されている。それ以上に、これからは京弥のために時間を費やすべきだと思った。長い間誤解し続けてきた彼を、これからはちゃんと愛していこう。それは最低限のこと。そしてもっと大事なのは、二人の関係をどうやって育んでいくかを学ぶこと。今の紗雪の胸の内は、甘やかな思いでいっぱいに満たされていた。一刻も早く現実に戻りたい。ここでこれ以上時間を浪費したくない。知りたかったことは、ほとんど解き明かされた。残りは自分で調べればいい。ここに居続けるのは、もはや意味のない時間の浪費に過ぎなかった。そう心の中でつぶやいたその瞬間、視界が唐突に暗転した。だが、訪れたその感覚は恐怖よりもむしろ喜びをもたらした。体がどんどん軽くなり、頭の中も澄みわたり、全身が心地よさに包まれていく。これは、現実に戻る前触れでは?そう気づいた瞬間、紗雪の唇から笑みがこぼれた。今はただ、京弥に一刻も早く会いたい。一分一秒すら無駄にしたくなかった。現実の京弥さんは、今どうしてるの?心の中でそう問いかけながら、彼への想いがあふれ出す。特に、彼こそが自分が長年探し続けてきた人だと知ってしまった今、京弥に対する気持ちは以前とは比べものにならない。京弥、待っていてね。そう願った瞬間、視界がぱっと明るくなった。次に気づいた時、紗雪は病室のベッドに横たわっていた。考える暇もなく、視線の先で「誰か」が注射器を手に、自分に向けて針
紗雪は川島先生の慌てた様子を見て、思わず苦笑いを浮かべた。けれど今の彼女には、返事をするだけの気力すら残っていなかった。母は、ボロボロになり虚ろな娘の姿を見ると、目の縁を一瞬にして真っ赤に染めた。しかし、その表情を若い紗雪は気づくこともない。彼女の視線は必死に周囲をさまよい、さっきまで一緒にいた「お兄さん」を探していた。けれど見えたのは、ただ誰かが支えられて立つ背中だけ。紗雪はぼんやりとその方向へ手を伸ばしたが、力尽きるように首を傾け、そのまま意識を失ってしまった。瓦礫の下で酸素の薄い空気に長く晒されていたせいで、ようやく新鮮な空気を吸った身体がすぐには対応できなかったのだ。「医者!医者はどこにいるの!?早くこの子を病院に!」母は声を張り上げた。「何をしてるの!?娘が気を失ったのが見えないの?もし何かあったら、絶対にただじゃおかないから!」その必死の叫びを、紗雪は呆然と見つめていた。泣き叫び、取り乱す母の姿――それはあまりに見慣れないものだった。これが......本当に、母さん?初めて見るその姿に、彼女は驚きを隠せなかった。これまでの母は、常に冷静沈着だった。どんな状況でも困惑することなく、まるで超人のように解決策を見つけていく人――そんな印象しか持っていなかったのに。だが今、目の前にいるのは違う。娘を心から案じ、涙を流し、取り乱すひとりの母親。母は、自分を愛している。それだけは、もう疑う余地がなかった。紗雪はふっと微笑んだ。そして「お兄さん」の方へと顔を向けた瞬間――彼の顔が、はっきりと見えた。「......えっ」思わず口を大きく開ける。目の前に広がった光景は、信じられないものだった。「なんで......どうして?」頬を伝う涙。信じられない思いと共に、胸の奥から熱い感情が込み上げてきた。そう。ずっと探し求めていた人は、最初からすぐそばにいたのだ。なぜ今まで気づけなかったのか。理由は単純だった。瓦礫から救い出されたとき、若い彼女が目にしたのは加津也の背中。それが「あの人」のものだと思い込み、無意識に手を伸ばしてしまった。だから、皆は勘違いした。紗雪を救ったのは加津也だと。けれど、本当は違ったのだ。その場に
母は本当に自分を心配していたのだ。その瞬間、紗雪の心は揺れ、迷いでいっぱいになった。一体どういうこと?それまでの母の態度は全部、仮面だったのだろうか。それとも......人の心配は演技で表せるものなの?紗雪は唇をきゅっと噛みしめ、言葉を失った。焦りで顔を強ばらせ、行ったり来たりを繰り返す母の姿――その光景がはっきりと告げていた。母は本気で自分を心配している。以前のように放っておくような態度では決してなかった、と。もし伊藤が止めていなければ、母は本当に瓦礫の中に飛び込み、救助隊と一緒に瓦礫を掻き出していたに違いない。その思いに気づいたとき、紗雪の目頭は熱く染まっていった。もし埋まっている間にこの姿を見ていたら――母の愛を疑うことは、きっとなかっただろう。長年の誤解も、抱かずに済んだはずだ。けれど、一度経験してしまった出来事は消せない。簡単に「なかったこと」にすることもできない。これは自分の成長の痛みとして、受け止めるしかないのだろう。忘れることはない。たとえ後になって「母は自分を愛していた」と理解したとしても、幼い自分が抱いた母への思いは、そのまま残り続ける。それを解きほぐすには、きっと長い時間が必要だ。未来の自分が、若い自分に代わって答えを出すことはできない。それは若い自分にとって、学ばなければならないことなのだ。多くを経験するほどに、紗雪は少しずつ達観していく。彼女は小さくため息をつき、隣にいるあの「お兄さん」の方へと視線を向けた。けれど、不思議なことに、その顔が全く見えない。まるで時間が彼女を弄んでいるかのようだ。過去へ送り返されたかと思えば、今度はこんな意地悪をしてくる。どうして顔が見えない?これまでの必死の努力は、いったい何のためだった?また学生頃と同じ苦しみを、もう一度なぞらされている?胸に深く刻まれた記憶を、再び味わわされる意味なんてあるのだろうか。彼女は何度も近づこうとした。けれど、その男子生徒の顔はいつまでも霧に覆われたまま。目鼻立ちさえ影のように捉えることができない。その光景は紗雪を打ちのめした。これまでのすべては、この瞬間のためだと思っていたのに。目の前に真実があるはずなのに、手が届かない。彼女の