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静かにベルベットの箱に戻す。
カレンダーの裏に書かれたメッセージも折りたたんで、肝油ドロップの缶に入れた。
ガムテープ付きの蓋は……まあ、いいか。
このままにしておこう。
白いビニール袋はもう捨てていいよね。
どうすんのこれ。
とりあえず見なかったことにするべき?
せっかく直径1cm超えなのに。
こんなゴツい台座じゃ、どう考えても着けられない。
肝油ドロップの缶にしまう。
クローゼットの中の、引き出しになっている衣装ケースの一番奥に入れてみた。
どうすんのこれ。
現実逃避に昨日読み終わった漫画でも読んでみる?
それともダイヤの存在全無視して晩ごはんでも作ろうか。
そもそもこれ、どうしておばあちゃんは私にくれたのだろう?
スマホが光った。
母からのLINEだ。
『もらった?』
『ダイヤのこと?』
『そう。おばあちゃんがね、深月にあげたいって話してたの』
『これ、お母さんが貰わなくて良かったの?』
『お母さんが貰ったら、お父さんに取られちゃったかもしれないでしょ』
……否定できない。
3年前に亡くなった父は、宝飾品や株に価値を見出さない人だった。
「現金じゃないなら、そんなの死に金だ!俺に任せてみろ。すぐ倍にしてやる!」
そんなことを平気で言う人だった。
なんで母がこの父と結婚したのかは未だにわからない。
当時お見合いをしたとしか聞いていない。
このダイヤを私が貰うことについて、母と祖母との間で話がついているなら、それでいいや。
母の話によると、黒瀬の祖父は昭和当時、かなりのバブリーだったそうで。
「大きなダイヤが欲しい」と外商さんに話したところ、このダイヤの指輪が出てきたらしい。
当時小学生だった母は、その指輪をこっそり着けて習字教室に行ったり、デパートに行っていたらしい。
怖すぎる。
小学生当時のうちの母、こんなでかいダイヤの指輪つけて出歩くとか。
このサイズだと、そもそも本物だって周りの大人は思わなかったのかもしれない。
ガラス玉に見えたとか。
社会人3年目、一人暮らしのOLのアパートの部屋に、宝石箱なんて無い。
──司《つかさ》にだけは、見られない方がいい。
藤崎《ふじさき》司。
2歳下の、私の彼氏。
最近手癖の悪さが露呈してきた。
ATMで下ろしたはずの一万円札。
2枚あったはず。
絶対にあったはずなのに、司が部屋に泊まって朝起きたら減っていた。
代引きの荷物のために下ろしたはずのお金。
まだ宅急便が来ていないのに減っているのは明らかにおかしい。
先日、司が盗んだことを前提として会話していたら「そりゃ盗《と》ったけど」と自白した。
あれ以来、司をこの家に呼んでいない。
でも問題がひとつ。
司は、この部屋の合鍵を持っている。
だからあのダイヤは、絶対に司に見つかってはいけない。
おばあちゃん、謎の肝油ドロップ缶に入れておいてくれてありがとう。
これなら、衣装ケースの奥深くにあっても、司にはバレないもんね。
自分の家なんだけどな。
何で隠さなきゃいけないんだろう。
家の中に泥棒がいる。
そういうことだ。
何で付き合ってるかって?
わからない。
もうよくわからない。
いなくなったら寂しいから?
「──いや深月。それ、別れた方がいいって」
職場の食堂。
大学からの友達で同僚の高瀬《たかせ》環《たまき》は顔をしかめた。
ダイヤの話をしたわけではない。
「最近一緒に食事するとき、財布すら出さなくなった。毎回私が奢らされてる」ってこぼしただけだった。
「うん、そうだよね……」
私の抱いていた違和感は間違っていなかったか。
第三者から見ても、司の行動はおかしい。
「そうですよ。深月先輩は、もっと大事にしてくれる彼氏の方が似合いますって」
4月入社の新卒ちゃん、小川《おがわ》日菜《ひな》も続いた。
配属されてすぐ、私が教育係に任命された。
まだ私3年目なんだけど。
いいのかな?
教育係なんて引き受けて。
課長に言われたときは少し抵抗があった。
やっと自分の仕事が、少し余裕を持ってできるようになったばかりなのにって。
言いくるめられた感はあった。
でも、日菜ちゃんが慕ってくれているのがわかるから、引き受けて良かったと思っている。
環は環で、商品開発部の人達からよく声を掛けられている。
営業よりも開発を志望していた環は、そのうち商品開発部に異動するんだろうな。
希望はずっと出しているらしい。
環がいなくなったら、私は少し不安だ。
ヴィラに戻った。慎一郎さんが私を、彼以外の誰にも会わせないようにしていたということを後から知った。思えば帰国の日まで、スタッフの姿を見なかった。全て慎一郎さんが対応してくれていた。私が過ごしたのはヴィラとプライベートビーチだけ。部屋で服を着ようとすると「それ必要?」と問われ脱がされてまた前からも後ろからも愛された。プライベートビーチでお気に入りの水着を着ていたけど、紐を使った素材だったからかすぐに解かれた。右の紐も左の紐も焦らすようにゆっくりと解かれて早く暴いてほしいとすら思った。優しい軟禁ってこんな感じなのかなってちょっと思った。まずいのは、その日々が私は全く嫌ではなかったことだ。服もろくに着ていないのに、ずっと触れられて愛されて。慎一郎さんの指の些細な動きだけで身体の一部が疼くようになった。私、重症。あのローカルマーケットでの一件以来、慎一郎さんが私に触れるとき、前よりも慈しまれているような気がした。遠慮しているわけでもないみたいで、一つひとつの動作がすごく丁寧になったように感じて、余計に焦らされて慎一郎さんが欲しくなった。明日帰国だと言われたときには、私は社会人として成立するのかどうか不安になっていた。身も心も慎一郎さんに溶かされてたからだ。責任取ってよ?帰国して1週間が過ぎた。私、ちゃんと社会人に戻れた。良かった。あのまま飼い慣らされた愛人みたいな生活をしてたら脳の機能が一部働くのをやめてしまいそうだった。私、ちゃんと妻やらなきゃね。慎一郎さんはクロセ製薬とは別の案件で忙しいみたい。「クロセ製薬の最適化は終わってない。時間がかかるんだよ。でも俺の会社、他とも取引してるからね」と言いながらも「仕事中に俺に会えないのさみしい?」って聞いてきちゃうこの人は披露宴であのいい声でギター片手に歌った人とは思えない。モルディブのローカルマーケットで助けてくれたときも格好良かったんだけどな。仕事で遅くなっても会食があっても、どうしても私のご飯が食べたいと言う。「深月のご飯で俺の身体はできてるの」なんて言われたら作らないわけにはいかない。玉子焼きを出すと喜ぶ。どんなに夜遅くてもこれだけは食べる。慎一郎さんの帰宅が遅くて「先に寝てて」と言われても何とかして起きてる……つもりなんだけど、いつも帰宅した慎一郎さんに起こされてる。「ベッドで寝てて」って言うけど、私
「はい、慎一郎さん。あーん」当然のように口を開ける。一緒に食べるとき、食べ物を口に向けるといつも口を開ける。餌付けしてる気分になる。たぶん餌付けなんだろうな。「うん、うまい。深月も」「え」口を開けてみた。「──甘っ!」「そうか?俺は好きだけど」かなり甘い。濃いココナッツとキャラメルっぽいコクが口の中に広がる。今すぐ烏龍茶を飲みたい。一気飲みで。そうだった。慎一郎さん、私に近づくためにアフタヌーンティーを予約して連れて行った人だった。あの当時、甘党だと話してたけど本当だったんだな。烏龍茶は見当たらないからペットボトルの水を飲んで口を落ち着かせた。……ん?あっちの方、スパイスっぽいな。「慎一郎さん、あっち見たい」すっと大股で歩く。一瞬慎一郎さんの手が離れたけど、すぐに合流できるでしょ。何だろうあれ。シナモンかな。隣にある物も面白そう。刺繍や細工のある小物がずらりと並ぶ。棚の高いところまで。え、あれめっちゃ可愛い。部屋に置きたい。「ね、慎一郎さん」後ろを振り返った。いない。嘘。右にも左にも、彼らしき姿が無い。まずい。はぐれた。バッグの中から慌ててスマホを取り出そうとしていた。「Darifulhaa(ダリフラー)」現地の人っぽい男性が右に、左にいた。それも、5人くらい。にこにこして……はいない。にやにや、が正しいかも。まずい。これはまずい。生存本能がこれはまずいよと訴えかける。「あの、ちょっとどいてくだ……」どいてくれるわけがない。どうする私。これピンチじゃん。よくわからない言葉を話して目配せをしているこの人たち。この後絶対何かされる。「しんいちろうさ……」「慎一郎!そこ、真っ直ぐ歩いて!角を左に曲がるのよ!今から私、光るから!」「ダイヤさん?」恐怖で蚊の鳴く声しか出ない私に対して、大音
海の音が、ずっと聴こえる。モルディブの水上ヴィラのベッドの上。ここに来てから、食事でしか服を着ていない。新婚旅行で子どもを作る、とは聞いたことあるけど、ここまでとは。慎一郎さん、元気過ぎる。泳ぐ時はかろうじて水着を着ている。でも「ここはプライベートビーチだから着なくても大丈夫」なんて言われたときは「そういうものか」とついに何も身に付けずに海で泳いだ。ここに来てから本当に感覚が狂う。慎一郎さん、私が何も身に纏ってないからいつでも触る。色んなところを触る。ずっと触られ続けて脳がおかしくなってきたかもしれない。私がどんなにやらしい声をあげても全く気にしない。隣の水上ヴィラとは距離があるからって。私は聞こえてると思うんだけど。触れられて貫かれて洗われて食べさせられて。一日中ずっとヴィラから出ない日すらあった。わたし、もう日本であんなにバリバリ働けないかもしれない。囲われるってこんな感じなのかもしれない。わたしがぼんやりしてるのをいいことに慎一郎さんがPCを開こうとしていたことがあった。それだけは没収した。わたしを見ない時間があるなんて許しません。「ねえ慎一郎さん。旅行中、ずっとこうしてるの?」口に含んだシャンパンを口移しされる。会話をするたびにこれだ。「どこか行きたい?」与えられる快楽に、わたしはまた溺れた。「地元の人が行くような市場とか、街みたいなところ」「ここでも十分だろ?」「せっかく外国まで来たのに、してることが家と同じじゃない」「……確かにな」「じゃあ、出掛けようよ」やっと服が着られる。新婚旅行で着ようと思ってたワンピースがやっと着られる。ガウンを羽織ってベッドから出ようとしたのに、また視界が反転した。「慎一郎さん?」「その前に、もう一回」「さっきしたでしょ」「俺は足りない」唇を塞がれてまた触れられる。この数日で慎一郎さんは前よりも私の身体について知り尽くしたのだろう。私の理性を、意識を削るのはお
演奏が終わった。披露宴会場がライブハウスみたいになっていた。涼しい顔して戻ってくるのは慎一郎さん。「し、慎一郎さん……」「ん?」着席してグラスのシャンパンを飲んでにっと笑う。悪い顔ってこういう顔だ。「ギター弾けたんですね。てか、歌、めっちゃ上手いんですね。で、あの、その……私、聞いてない!」「聞かれてないからな」「バンドやってたなんて知らないから聞かないですよ!何で黙ってたんですか⁈」「聞かれてないからな」「……もう」「どうだった?」高砂で耳元で囁かないで!「かっこよかったです……」自分でサプライズしておいて固まらないでよね。「続きまして。新婦、深月様のご実家では温泉旅行での卓球が恒例のイベントになっているそうです」さっきのドラムセットのある舞台とは反対側に卓球台が入ってきた。床が絨毯だからか、ガラガラと音はしない。スタッフがラケットとボールを持って入場。よし。「ただいまから、花嫁杯、新婦のご親戚の時国様、黒瀬様による卓球大会を開催致します」「え?」「よし」グローブを脱いで立ち上がった私を見て、慎一郎さんがまた固まった。「じゃ、慎一郎さん。私行ってくる」「え?深月?」お色直しはAラインのカラードレス。試着のとき、こっそり卓球の動きができるかどうかを確認していた。靴も低いヒール。うん、戦える。卓球台の前でスタッフからラケットとボール、そしてマイクを受け取った。軽く息を吸う。「──今日こそ祖母を、倒します!」「いいぞ深月!」黒瀬の親族席から声が上がった。「第1試合。対戦相手は黒瀬悠様です。深月様のお母様に審判をしていただきます」「悠兄ぃ。上着脱がなくていいの?」「深月相手に本気出さねえよ」「ふうん。負ける予定ってことでオッケー?」「ぎりぎりのと
祭壇に到着。「久世さん。泣かしたら返してもらうぞ」隼兄ぃ。この期に及んでそれ?大きな声でやめて。全員聞いてるよ?「嬉し泣きはさせます」慎一郎さん。負けてない。「深月。いつ帰ってきてもいいんだぞ」「悠兄ぃ。縁起悪いこと言わないで」 「悠さん。もう戻って」美咲ちゃんの小声でやっとふたりが着席した。やっと慎一郎さんの隣に立てた。「綺麗だ」「慎一郎さんも。かっこいい」祭壇の前で固まらないで慎一郎さん。「ソレデハ、式ヲ執リ行イマス」慎一郎さんが我に返った。良かった。この神父さん、日本在住20年。日本語ペラペラなのに式の間だけカタコトにしてるらしい。スタッフさんが教えてくれた。彼なりの演出なんだって。「私たちは今、神と皆さまの前で、この二人の結婚を祝福するために集いました。結婚は、互いに愛し、敬い、支え合い、生涯を共に歩むことを約束する尊い契約デス」「新郎、久世慎一郎。アナタハ時國深月を妻とし、健やかな時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、生涯変わることなく誠実であることを誓イマスカ?」「誓います」うわ。ぐっと来る。「新婦、時國深月。アナタハ、久世慎一郎を夫とし、健やかな時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、生涯変わることなく誠実であることを誓イマスカ?」「誓います」ん、背筋伸びるね。「ソレデハ、指輪ノ交換デス」それぞれママに抱っこされた湊くんと翠ちゃんがリングピローをつまんで持っている。湊くんがぐいっと自分の方に寄せると同時に翠ちゃんが負けじと引っ張った。「ふえ、ふええ……」と翠ちゃんがぐずり始めた。ひええ。式場のスタッフから「乳幼児のお子さんが持たれる場合は、リングピローに載せる指輪はダミーにされて縫い付けられる方が多いです。誤飲防止です」と教えられていた。ダミーにしておいて本当に良かった。ハリー・ウィンストンで婚約指輪と共に購入していた結婚指輪をスタッフがそっと神父さんに預けた。リングピローが到着……しない。自分たちのおもちゃと認識していたのか、台に置くタイミングで湊くんが「そえっ!ぼっ!」と抗議している。たぶん「それ、ボクの!」と主張しているな。ここで湊くんのママ、奈緒さんがアンパンマンのぬいぐるみを見
──会社をクビにされてから、本当についてない。何で私がクビにならなきゃいけないのよ?世の中は要領の良い人が得をするようにできてるってだけなのに。私の会社人生が紙切れ一枚だけで終了した。そりゃ企画書貰ったけどさ。でもそんなの三宅課長が勝手にくれただけだし!頼んでないし!証拠無いし!黒瀬専務と久世さんの目が怖かったから引き下がっただけ。しまったな。課長よりも久世さん落とす方が大事だった。久世さんだったら、このハリー・ウィンストンで指輪とか買ってくれるんだろうな。「理紗にはこれぐらいのブランドじゃないと似合わない」とか言ってくれる。美形でお金持ってる。最強だったな。司がくれたこのルビーなんかじゃ、私の価値に追いつけない。「おい理紗、ちょっとは荷物持てよ!」「司くん力持ちだから。私、重いとケガしちゃうの」はい谷間見せとけばオッケー。ちょろ。ハリー・ウィンストンのショーウィンドウの奥にカップル。おかしいな。そこにいるのは私のはずなのに。何でハリー・ウィンストンにふさわしいはずの私が外にいるのよ!「……え?」あれ、久世さんじゃない!私に渡すための指輪でも買ってくれてるのかな。サプライズか。しょうがないな。どこかで待ち伏せされてあげるよ。……って!隣の女!時國深月!何でハリー・ウィンストンの店内で久世さんに肩抱かれてんのよ!「……そっかあ」時國深月のインスタにあった、アフタヌーンティー。伊勢。志摩の旅館。車内のスタバ。あれランクルだよね。写真スクショしてAIで検索かければ一発なんだよね。司じゃなかったな。時國深月から貰うもの。久世さんにふさわしいのは、時國深月じゃない。この私!「久世さん、待っててね」司に聞こえないように小さく誓った。赤い石に渦巻きのような模様があることに、このとき誰も気付かなかった。「ちょ、ふたりとも本当に狭いんだけど!」「隼がもうちょいそっち行けばいいんだよ」「悠が場所取り過ぎだろ」挙式開始まであと10分。慎一郎さんは扉の向こうでスタンバイ完了。ヴァージンロード、本当に父親役をはや兄ぃとはる兄ぃがやってくれることになった。ただ問題がひとつ。ヴァージンロードって、基本ふたりで歩くもんなんだよね。ヴァージンロードから落ちたくないふたりに挟まれて私、とっても狭い。マーメイドラインにして本当に良かった。タキシー