Masuk「黒瀬専務の隣にいる人って……環、わかる?」はる兄ぃ──黒瀬専務のことだ。はる兄ぃは、年の離れた従妹である私の世話を、昔からよく焼いてくれていた。社内では絶対!言えないけどね。その、はる兄ぃの隣で、長身の見慣れない男性がはる兄ぃに笑いかけていた。私の知らない人。「ああ、久世さんね」「久世さん?」「外部の方らしいですよ。何だっけ。何か難しい役職名の方」「bizdevっていうらしいよ」「ビズ……何?」「ビズデブ」「ビズ、デブ?」「ちょ、深月! そこで区切らない!」久世さんがこっちを見た、気がした。心臓が冷える。「まずい!環、さっさとさっきの音声を」「そうだね。じゃあ日菜ちゃん、イヤホン右と左、一個ずつ同時に聴こうか」動画の映像を通りすがりの人達に見られたら、それこそ事件。私は膝の上で、画面はハンカチで隠して再生ボタンを押した。「……うわ、これ……深月、よく撮ったね」「うわー……知ってる人のこんな声、初めて聴きました」「何、聴いてるんですかあ?」環と日菜ちゃんの背後に、大原理紗。声の主、御登場。やば。「大原さんと私の元彼の喘ぎ声を鑑賞してたんだよ?」って爽やかに言うわけにはいかない。──言ってみたいけど。
「……イヤホン、あるよ?」「持ち歩いてんの?さすが深月」「私も聴きたいです!」アダルトビデオみたいな音声を聴きながらA定食の冷やし中華を食べようとする環と日菜ちゃん。女傑って言葉があるけど、このふたりにだいぶ相応しいよね。Bluetoothをスマホと繋いでいた、そのときだった。「……ね、あれ。黒瀬専務じゃない?」声を潜める環の視線の先には、食堂の入り口に立つ黒瀬《くろせ》悠《はるか》専務。現社長の弟、という血筋は社内で知られている。ちょっと訳ありの血筋であることは公開されていない。言う必要も無い。そう、言う必要が無いから誰にも言ってないけど。黒瀬悠専務は、年離れた私の従兄だ。私の母、時國真紀は、現会長の年離れた妹。現社長と黒瀬悠専務は、私の年離れた従兄達ということになる。私にダイヤをくれた祖母、黒瀬栄子は現会長と私の母の母親にあたる。特別扱いされたくないから、黒瀬の家の人たちには、私の出自について社内では伏せてもらっている。……まあ、結局縁故採用だったのだけど。それでも、私は、私の腕だけで頑張りたい。黒瀬一族だからって言われるの、本当に嫌。名字が時國で良かった。今のところ、誰にもバレていない。目の前の、最も信頼できる、環と日菜ちゃんでさえも。
「ほんと……深月、本気出せばできる子だよね」昼休み。大原理紗もいるかもしれない会社の食堂で、司の部屋に乗り込んだ話と債権回収の話を環と日菜ちゃんにした。「深月先輩……そういうところですよ。だから後輩女子達からのバレンタインチョコが山のように」「すごかったよね。紙袋3つ分だったっけ?」「4つだよ。持ち帰るの大変だった」今年の2月、バレンタイン。どういうわけか私のデスクには、私が席を離れる度にラッピング済みのチョコレートが積まれていた。おじさん達から向けられる視線には、苦笑いと冷たいものが入り混じっていた。「しっかし。一括とは思い切ったよね」「深月先輩にはその権利ありますよ。手持ちが無いならサラ金行くなり、大原さ……っと」環が慌てて日菜ちゃんに向けて人差し指を唇に立てる。「日菜ちゃん。私達、悪いこと何ひとつしてないけど、一応気をつけて」「はあい」日菜ちゃん真っ直ぐだからな。素直で良い子なんだけど、たまに危なっかしい。「……で。深月さん」「どした環」「その、証拠の動画ってさ……」「このスマホの中にございましてよ。クラウド上にもね」「食事中だから動画はちょっと……音声だけ、さ」環の悪い顔。嫌いじゃない。むしろめっちゃ好き。
そうだいけない、忘れてた。司にLINE、送ってあげないとね。『あなたに貸していた、総額15万円についての件です。今月末までにこの口座に一括で振り込んでください。』銀行口座まで入力してあげる私、なんて親切。あれ?もう返信来た。司、ちゃんと仕事してる?『金なんて借りた証拠ねえだろ』しょうがないなあ。司が書いた借用書、昨日のうちに写真撮ってて良かった。画像、送信っと。借用書には“20万円借りました。藤崎司”と司の字で油性ボールペンで書かれていた。司は20万のうち、6万を返していた。本来14万だけど、こないだ財布から抜かれた1万をまだ取り返していないから、合わせて15万にした。相手に手間をかけさせない、私、いい女。えへ。『金なら返しただろ』『数字、読めないの?いいよ、その返事でも。内容証明送るか、司のお父さんに連絡するだけだから』返信が止まった。30分後、司から返信。『わかった』よし。大人しく返す気になったか。司と付き合っていた当時。裁判所事務官をやっている大学の友人、梓に知恵を借りたことがあった。当時大学4年だった司がバイト先で給料が振り込まれない、というトラブルがあったからだ。新卒1年目だった私は、うまく調べることができなくて、梓に感謝した。もちろん、給料が振り込まれた司も。だから司は、私が法律用語を持ち出すと大人しくなる。
「おはようございまあす」「おはよう。今日も理紗ちゃん、可愛いねえ」「ええ、そんな。合ってますけどお?うふふ」始業時間は9時。現在8時58分。大原理紗はいつも遅刻ぎりぎりの出勤。裏で重役出勤とも言われている。裏で語る皆さん、感覚は私と同じようで安心する。「おはようございまあす」「おはようございます」聞きたくもない、この甘ったるい声。おじさん達のウケMAXの声の持ち主、大原理紗。昨日司の部屋で全裸でいるところを私に証拠動画を撮られているこの人。きっとこの人、クロセ製薬で五本の指に入る図太さの持ち主。図々しい人ともいう。 始業時間になった。私は30分前から整えていた企画書の続きをプリントアウトしようと立ち上がった。大原理紗のデスクが視界に入る。パソコンに、電源すら入れていない。ランプが赤にも緑にもなっていない。当の本人は、デスクに置いてある鏡でメイクの最終チェックでもしているのだろうか。さっきから、髪と肌しか触っていない。──うん、この色にしてよかった。フォントもバランスがいい。今月に入って、3つ目の企画書。今度こそ、採用されるといいな。課長に提出して自席に戻る。大原理紗は記憶喪失にでもなったのだろうか。気まずそうなそぶりが全くと言っていいほど、無い。ええ……それでは聞いてください。大原理紗は、私の隣の席なんです。
「司。鍵」「へ?」変わらず全裸の司が間の抜けた顔をする。「私の部屋の合鍵。返して」「な、何でだよ!」「いやあなた全裸。挿入してたところまで私ばっちり見ちゃったんですけど?」「か、勝手に入ってくるからだろ!不法侵入だ!」「合鍵で入るのって不法侵入になるのかしらね?まあいいや。さっきのはちゃんと証拠としてクラウドに上げたし」股間のそれを揺らしながら私に掴み掛かろうとした司は、証拠と聞いて動きが止まった。司のキーケース。いつもと同じ、カレンダーの下のトレイに入っていた。キーケースから私の鍵を外して、私のキーケースへ。私のキーケースから司の、この部屋の合鍵を外してベッドの上に鍵とキーケースを投げた。そのキーケースは、私が誕生日にあげたものだ。「これで、私と司は他人。もう、彼氏でも彼女でも何でもない。大原さん、欲しいならあげる。ただこの人、浮気する上に財布の中身まで手をつけるから気をつけて」「お、俺は別れるなんて」「往生際が悪過ぎ。そのぷらぷらしたもの、そろそろ隠してよ気持ち悪い」「……っ!」「さようなら。もう二度と、私に声掛けないでね」玄関の床に置いたトートバッグにキーケースを投げ入れる。落ち着いてパンプスを履いて外に出た。うん、終わった。司とは。問題は。大原理紗が明日も同じ職場にいることだ。