登入「なんだって!?」
「だから、ご近所さんが見たらしいのよ。沙織さんがベンツに乗ってるところを――」 高山隼人はスマホをぐいと握りしめ、顔はたちまち豚のレバーのように赤黒く染まった。 朝、母親が作った味噌汁がやたらとしょっぱくて苦く、もともと腹の虫がおさまらなかったところへ、知り合いから聞いた話に、怒りは一気に頭のてっぺんまで突き上げた。 ――沙織なら、もっとマシな料理を作ったのに。 「もしもし? おまえ、調査会社にいたよな?」 調査会社の知り合いに電話を入れた隼人は、不機嫌なまま味噌汁を飲み込む。 隼人の脳裏には、塔矢奏多の顔が浮かんでいた。 沙織の幼馴染で、隼人と沙織の結婚式の最中に悔し気な顔をしていた男。 ――まずい。 いやいや口の中に放り込んだあと、知り合いから「雪中白梅」という香水が塔矢フレグラスで爆発的に売れ、その調香レシピが沙織のオリジナルレシピだと聞かされた。おそらく、レシピの発案者である沙織に、かなりの額が入っているはずだと言われた。 かなりの額。 それは、沙織に騙されていたと同じだ。婚姻中の財産は夫婦のものなのに。 「沙織、オレをだましていたな! 婚姻中の香水の利益を半分寄こせ! 寄こさないなら裁判だ!」 隼人の恫喝は、沙織が電話を取ってすぐに飛び出した。 言い終わらないうちに、電話は一方的に切られた。かけ直すが、もう話し中だ。 着信拒否されたのだ。 隼人は荒い息をつきながら、スマホをテーブルに乱暴に叩きつけた。 四年間ずっと、おとなしく扱いやすいと思っていた専業主婦の分際で、よくも噛みついてきたものだ。 「面倒なことしやがって!」 *** 「鮎川沙織です、今日からよろしくお願いいたします」 品質管理部のアシスタントという下っ端の仕事だったが、上司も同僚も丁寧に接してくれた。 社長である塔矢奏多直々のお達しのせいかもしれない。 沙織は、元に戻った苗字を名乗ったが、心はざわついていた。 しかし、品質管理部ではちょうど混乱が起きていた。 看板商品香水の、雪中白梅の第三ロットの製品にごくわずかな香りのずれが生じていて、精密機械でも問題を解決できないままだった。 出荷の期限は迫っており、部署のあちこちが慌てふためいていた。 沙織は、香りそのものを嗅げれば問題が分かる。 あの……香りのブレの件なんですが、少しだけお話ししてもよろしいですか?」 恐る恐る口をだすと、部長が真剣な顔になる。 「そうだ、君が雪中白梅の産みの親だ。気づいたことがあったら、教えて欲しい」 言い終わるが早いか、そばにいたベテラン社員がたちまち眉をひそめた。 「しかし君は今日入ったばかりのアシスタントだよね? ここにいるのはみんな五、六年の経験がある品質管理の担当者だ。機器でもわからないことを、君に何がわかるんだ。新人が生意気に口を挟むんじゃない」 部長も戸惑いの表情を浮かべたが、それでも「言ってみなさい」と促した。 「三つのサンプルをいただけますか?ロットの異なるものを」 サンプルはすぐに彼女の前に並べられた。 沙織はラベルを見もせず、ムエットを順番に嗅いでいくと、正確に違いを言い当てた。 「二番目のサンプルが標準品です。トップノートの白梅のほろ苦さの比率は十二パーセント。三番目のロットは白梅のコンクリートが0.3パーセント不足していて、代わりに安価な青梅エキスが使われています。そのため、ラストノートに酸味が残り、清涼感に欠けます。それから溶剤の比率もずれていて、脱アルデヒドアルコールではなく、二重脱アルデヒドアルコールではないものが使われているため、香りの持続時間が二時間ほど短くなります」 オフィスが一瞬で静まり返った。 誰かがすぐにサンプルを手に再検査に走り、十分後に戻ってきた顔は驚きに染まっていた。「ま、まさにその通りです!データが彼女の言ったことと一字一句違わない!」 さっきまで沙織を咎めていたベテラン社員は、顔を真っ赤にして、しばらく言葉を発せられなかった。部長は大きな安堵の息をつき、何度も礼を述べた。 「本当に助かったよ、鮎川さん。さすがは元レシピの開発者だ!」 沙織は微笑んだ。胸のなかで、小さな重しがそっととれたような気がした。 必要とされる感覚は、本当に心地よい。 誰かの顔色をうかがう必要も、辛いことを呑み込む必要もなく、自分の腕一本で立てていることが、何よりもしっかりとした手応えだった。「……なにかあったのか?」夕飯の席で、ふいに奏多に顔を覗きこまれた沙織はドキリとした。「なにもないよ?」「それならいいが……」今日の夕飯は、天ぷらとそうめん、小松菜の和え物だった。最近の奏多は、早く帰ることができれば夕飯の手伝いに参加している。えびの背ワタをとったのも、ほたての処理も、奏多によるものだ。「なんでいきなりそんなこと……」「いや、沙織には珍しく天ぷらに全部塩を振ってあったからな」「え、やだ、うそ!?」沙織は悲鳴をあげた。天つゆで食べるものと、塩で食べるものがあるから、小皿に塩を置こうと思っていた。園村エリカのことを考えていたせいで、全部の天ぷらに塩を振ってしまったらしい。「ごめん、奏多……! 奏多はなすは天つゆ派なのに……!」「いいさ。テンパる沙織も見られたことだし」ククク、と奏多が面白そうに笑う。外では絶対にこんな顔を見せない。にこやかに笑っているこの現場を、職場の人間が見たら「誰だ?!」と驚くだろう。「そういえば、来月パーティーがあるんだ。沙織も来てくれないか?」シャンパンを開けながら、ふいに奏多が切り出した。「パーティー……? あ、もしかして……奏多の誕生日パーティー?」「ああ……。父と秘書が取り仕切るから、どうも派手になるんだが……きてくれるか?」「でも、一介の社員のわたしがいいの?」沙織は酒に強くない。シャンパンで、彼女の微かに頬が赤い。それでも、酒系香水というジャンルがあるようにお酒の香水はある。何か参考にならないかと、香りは堪能していた。「沙織はもう少し自覚すべきだ。雪中白梅だけでなく、ウードの祭典、アデリア、インスパイア、スウィートハミング、青の世界、他にも沙織が手掛けた調香レシピが我が社の売り上げのトップを走っている。塔矢フレグラスを四倍にした実績を誇っていい。いくら営業の腕がよくても、商品がよくなければ流行らない」「でも、雪中白梅が大ヒットしたのはハリウッドスターのお陰でしょう?」いくつものメガヒット作品に出演する、親日家のノーマン・ギゼルがふ
「――なんだこれ」瀬名大地が呟いた。香水を売り買いする業界の、専門掲示板が荒れている。午前中、どっぷり調香して鼻を休める間だけパソコンを開いたのだが、中は中傷の荒らしだった。匿名の誰かが、沙織の名を伏せてはいるが、ゴールデンノーズという沙織の称号でほぼ名指し状態だ。ゴールデンノーズの調香リストは盗作だとか、誰それの猿真似だとか、あちこちに書きなぐっている。それに対して、何人かが――おそらく塔矢フレグラスの内部の者――が、そんなはずはない。と主張しているが、荒らしの主はそんなことでは止まらないようだった。「悪質だな……沙織さんの目に入るかもしれない」大地は、釣りをすることにした。わざと、匿名主に同意して見せて、そういえばそうかもしれない……などと書き込むと、しばらくして匿名主から仲間認定されたような発言が来た。大地は個人情報は明かしていないが、アイコンは会社のミライのマークを使っている。やや待っていると、匿名主からフレンドコードが届いた。ミライになら、沙織の調香レシピを横流ししていい、と言う。「はっはぁ、私怨かな?」塔矢フレグラス全体に恨みがあるなら、他の言い方をするだろう。なにがなんでも、沙織の責任にしたいようだ。大地としては、他に流出する前にここでせき止めたい。”それは是非、教えて欲しいです……”できれば、この匿名主の本名を知りたい。激情型なので、うまくおだてれば喋るだろう。大地は、しばらくは試香室に戻らずに、パソコンを叩き続けた。うまいこと情報を握ったら、全部沙織に話して塔矢フレグラスの中で解決をさせたい。大地は、やりとりをさかのぼってスクショを始めた。*** 園村エリカは、ご機嫌で塔矢フレグラスの社内を歩いていた。エリカが東京にいることを反対する奏多が先代に敗れ、エリカは一年だけ東京本社にいることを許可された。エリカの計算によれば、一年あれば奏多にくっついている忌々しい鮎川沙織を引きはがせる。そして、エリカは見事社長夫人の座を射止めて、結ばれる。過去にエリカが
「ろくでなし! あんたのことが子育て失敗したから、うちの息子が迷惑してんのよ!」高山みさきの怒鳴り声が、止まった。あゆかわ食堂に乗り込もうとしたみさきの前に、朝霧司が立ちふさがる。「あんたは――」「弁護士の朝霧司です。これほどお目にかかるなら、名刺をお渡ししましょうか」嫌味をさらっと口にして、司はみさきを見下ろした。沙織は、家庭の愚痴をSNSなどに一切あげなかった。それでも、愛人をつれて元妻の元に怒鳴り込む隼人や、似たことをしてだすその母を見ているだけで、離婚前の沙織がどれだけ辛かったのか推し量れる。――もっと早く気が付いていれば。「こちらとしては警察に相談を入れています。お話した通り、あなたがたの一挙手一投足でいつでも裁判が開けるのですよ」厚顔無恥のみさきでも”警察”という言葉は、恐怖を感じたようだ。つばでもとばしそうな顔をしながら、みさきはあゆかわ食堂から遠ざかっていく。司は、その姿が見えなくなるまでずっと立ち尽くしていた。裁判をするのは、たやすいことだ。司も、沙織に頼まれればいつでもやる準備は出来ている。ただ、実際法廷に立てば、沙織は過去にされてきた辛い話もしなければならない。せっかく笑顔の戻りかけた沙織に、できることなら傷口をえぐるような真似は避けたかった。司ができることは、法的な力で沙織に被害が及ばないことだけだ。大学時代、司は沙織に助けられた。だからこそ、恩返しがしたいし、好意も抱いた。あの日の沙織を、司は忘れられない。 *** 大学生の司は、奨学金で法学部に入った。実家からは、家業の医者の道に進めと言われて、かすかな送金は家賃で消えた。買わなくてはいけない参考書などがかさみ、必然的に司は食費を減らし続けた。サークルに入ったのは、集中して勉強ができるスペースが欲しかっただけだが、そこで沙織と出会った。見るからに飢えて痩せている司に、沙織は自作の弁当を譲ってくれた。それも何度も。「いつか、恩返しします」そう言った司に、沙織はよく微笑んで
「……やらかしたか? まあいいか」 塔矢奏多は、業務の合間に独り言を呟いた。 先代の塔矢フレグラスの社長である父と、電話で散々もめたあとだ。 ストレスのあまり、ブランド通販サイトで沙織に着せたい服を買いあさってしまった。 靴、アクセサリー、時計から部屋着まで買ってしまったのは、やりすぎた感がある。 「社長、園村エリカが面会のアポをと……」 「仕事に関係するか、内容を確認してから慎重に取り次げ。万が一関係ない内容なら、取り次いだおまえの給料を下げる」 怒りを目に宿らせて奏多が突っぱねると、秘書は慌てて立ち去った。 自分にも不利益があるとわかったら、やたらにエリカを通しはしないだろう。 父は奏多と違って冷徹に合理性を選ぶタイプではない。 エリカが泣いて日本を恋しがっているという演技を真に受けて「可哀そうじゃないか」と、呑気なことを言っている。 エリカの本心がどこにあるかは、今いち分かっていない様子だった。 奏多が好きな人がいると言っても、笑って流された。 それどころか「エリカくんは、元は園村グループ総裁と遠縁だ。仲良くして損はない」などと勧めてくる。 「……チッ」 奏多はパソコンを叩きながら舌打ちする。 そういう政略的な結婚が嫌で、独力で会社を大きくしたのだ。 父の頃は中流以下だった会社が、海外で売れるほどの規模にしたのは奏多だ。 そして、塔矢フレグラスが奏多の勢いについて大きくなったのは、沙織の調香レシピのお陰だ。 父はその辺の沙織の凄さが、分かっていない。 その時、奏多のプライベート番号が鳴った。 この番号を知るものは限られている。 「社長、鮎川さんの元結婚相手の母親がエントランスで騒いでいます」 「……わかった、よく知らせてくれた」 電話を切ると、奏多はスーツのジャケットを着る暇もなく飛び出した。 *** 「いいから、隼人の言う通り金を払いなさい! こっちが名誉棄損で訴えてやるよ! あんな石女《うまずめ》のくせに、なんて図々しいんだろうね。四年待っても産めない女を、仕方なく受け入れてやったこっちの優しさに付け込んで」 沙織は、落ち着こうとして深呼吸した。 唾をとばし、つまみ出そうとする守衛には「セクハラだ」と騒ぎ立てる義母は、醜く見えた。 おそらく、
奏多がホテル最上階のレストランに駆けつけたとき、その顔は氷のように冷たかった。エリカは窓際の席に座り、ゆったりとステーキを切っているところで、奏多の姿を見ると笑顔で手を挙げた。「奏多、座って。ここのトリュフパスタは絶品よ」「断る。人事から、君の件は報告されていない。なんだって沙織にそんなでたらめを吹き込んだんだ!?」奏多は、エリカからの着信もメッセージも無視していた。ブロックしたいところだが、さすがに会社の人間をブロックするわけにはいかない。沙織に、少し遅れるとメッセージを打つときに、誤ってエリカのメッセージを開いてしまった奏多は目を疑った。”沙織さんに会ったけど、思ったより美人よね””奏多が社長になりたての頃に、飾ってた写真の女の子ってあの人?””奏多に近づかないでね、って言ったら、はいって言ってたわよ”意味が分からなかった。奏多は一度でもエリカに、優しく接したことはない。こんな意味不明な言いがかりに、沙織が巻き込まれたかと思うと胸が痛んだ。それと同時に、変な誤解を与えたのではないかと不安になる。エリカが沙織に、何の嘘をついたのか聞き出すまでは、家に帰れない。「私のフランス支部から東京への移動は、先代社長の意向よ。確認してみれば~?」ディナーを楽しむエリカの横で、ただ立っている奏多はかなり目を引いている。そんなことは、今の沙織の気持ちを考えれば、何も気にならなかった。「父が!? 顧問とは名ばかりで、引退しているのに……!」奏多は父のスマホを鳴らしたが、留守電に切り替わるだけだ。父の秘書にも電話をかけたが、「入浴中です」と言われてしまった。「ねえ、座ったらー? すごい目立ってるよ~?」「……沙織に、なんて言ったんだ。なにを言ったんだ、君は」エリカがこれで仕事をできなければ、とっくに首にしている。帰国子女のエリカは、最初のイギリス支部で結果を出し、フランス支部でも結果をだしていた。社長である奏多のプライベートを乱したというだけでは、首の理由にならない。「べつに~? ヒラ社員が同じマンションとか、夕
「あなた、鮎川沙織さん?」声をかけてきた女性は、シルエットのきれいなオフィススーツに身を包み、メイクは洗練され、爪は控えめなワインレッドに彩られていて、全身から海外のビジネスシーンで鍛えた強さが漂っていた。沙織は記憶を探ったが、この顔に見覚えはなかった。「園村エリカと申します。社長の部下で、ずっとフランス支社で営業を担当しておりました。帰国したばかりで、ぜひ“ゴールデンノーズ”の噂の方にお会いしたくて」口調は笑っているが、その目は値踏みするような視線を向けている。「そうですか。ご丁寧に……」沙織は、不思議に思いながら挨拶を返した。今日は奏多は重役会議で遅くなる。それで、仕事あがりに沙織はスーパーで買い出しに出ていた。マンションから近い店だが、沙織は塔矢フレグランスの制服を着ているわけでもない。何故、奏多の知り合いが沙織の顔を知っているのだろう。「沙織さん、有名人なんですよぉ~。ゴールデンノーズって呼ばれてるの知ってますぅ?」「買いかぶりです。運が良かっただけです」「ほんとですよねー、調香しか取り柄がないのに」エリカに言われて、沙織は言葉に詰まった。事実だけれど、今の言い方はとげがある――どこかで嫌われることをしただろうか。脳裏には、沙織の調香レシピで失敗をして左遷させられた話だ。園村エリカという目の前の人物にも、なにか迷惑をかけたのだろうか。「なんで、社長に気に入られてるの~? 見た目はそこそこいいみたいだけど、それだけでしょぉ~?」「別に……気に入られてません」「え、うっそ自覚ないの? 奏多と同じ高層マンションに住んでて、一緒に食事してるんでしょ?」その言葉は細い針のように、沙織の心に小さく刺さった。 物置き代わりだと言われたが、沙織はお金を払っていない。給料日がきても、まだ沙織の給料ではあの高層マンションの部屋代は払えないのだ。どうしてエリカが知っているのかはわからないが――もし、奏多がエリカに愚痴を言っていたら?沙織の顔色が青ざめる。もしかすると、エリカは奏多と付き合っているのか