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「……こんなものかしら」
高山沙織は、テーブルを見下ろして呟いた。 今日は、沙織と隼人の結婚四周年だった。 テーブルいっぱいに、隼人の好みの料理が広がっていた。 バラの形に彩ったローストビーフ。ミネストローネからは、トマトとローリエの香りが漂う。 コロッケは、普通のコロッケとカニクリームコロッケの二種類を用意してある。 ローストビーフは前日から仕込んだもので、コロッケ二種類にも手が混んでいた。 花も飾り、テーブルクロスも、今日のために新しいものを買ってきた。 「あとは……」 念入りに掃除して、沙織は、ほこりひとつない部屋にホームフレグラスを焚いた。 ジャスミンが複雑に香るこのホームフレグランスは、ラベルすらない、誰も知らない香りだ。 深呼吸すると、強すぎない香りが沙織の鼻孔をくすぐる。 こちらの準備は万端だ。 隼人は何時に帰るのだろう。 それ次第で、コロッケを揚げなければ。 ふと、沙織のスマホが鳴ってメッセージの着信を知らせた。 「今日は残業。飯は待たなくていい」 隼人からの、あまりにもそっけない一言メッセージだった。 今日が結婚記念日だということにも、一言も触れていない。 沙織は昨日の晩にも、ビールを飲む隼人に「明日は結婚記念日だから、ごちそうを作るね」と伝えていた。 忘れたとは思えないが、せっかく作ったごちそうが寂しくテーブルに並べられたままだ。 沙織の気持ちはテーブルに置き去りで、隼人の冷たい一言が嘲笑するように結婚記念日の空気を破壊していく。 「残業なら、コンビニご飯かな……? どうせなら、食べて欲しいよね」 沙織はあえて傷ついていないふりをして、弁当箱を用意した。 その背後から、毎日聞きなれた悪意に満ちた声がする。 「どうでもいいことばかりにお金を使って。花だのテーブルクロスだの。そんな暇があるなら、ちゃんと体を整えなさいよ。そんなだから、結婚して四年、子供一人産めないなんて」 また、お決まりの義母のみさきの”いつもの”長い一言だ。 掃除をしても、片付けをしても、なにかと理由をつけては子供がいないことを責められる。 血圧の高い義母には、いつも減塩食を作っていたのだが、毎日苦情のない日はない。 沙織はうつむいたまま、隼人の弁当箱を取り出した。 それでも、作ったものを隼人に食べてもらいたい。 花の形に盛り付けたローストビーフを崩しながら、弁当箱に詰めていく。 義母は悪態をつくだけつくと、気が済んだのか去っていった。 「はぁ……」 沙織は、小さなため息をつく。 温まったミネストローネはスープジャーに移し、揚げたてのコロッケも食べやすくカットした。 色どりのために足したプチトマトが、ころりと弁当箱で揺れた。 沙織は、エプロンを脱いで買ったばかりのワンピースに着替える。 隼人に毎日言われるので、節約に節約を重ねてようやく買ったワンピースだった。 最低限整えた化粧をすると、沙織は買い物用バッグに弁当箱とスープジャーを詰めた。 *** 隼人の会社に着くと、ひとけは少なかった。 隼人のオフィスに行きたくとも、沙織は場所を知らない。 受付で「高山隼人の妻ですが――」と名乗ると、受付嬢の視線が一瞬滑った。 「高山係長のオフィスですね。あちらになります」 ぎこちない笑みに、沙織は嫌な予感がした。 なにか、沙織の知らないところでなにかが起こっている――そんな気がしてしかたがない。 気のせい、気のせい。そう言い聞かせながら、あちこち照明の落ちたオフィスを歩いていく。 彼女は買い物バッグをぎゅっと握り締め、ほとんど照明の落ちた廊下の奥へ進んでいく。 ヒールが床を打つ音が、コツンコツンとひとけのないオフィスに妙に響いた。 「隼人――残業おつかれさ、ま……」 続く言葉が喉に詰まった。手にしたバッグがにわかに重くなり、なかのスープジャーが鈍い音を立てる。 沙織が予想もつかない光景が、目の前に広がっていた。帰国した沙織と塔矢(とうや)奏多(かなた)は、すぐさまそれぞれの仕事に追い込まれた。 幸いなことに、ノーマン・ギゼルと沙織のニュースは沙織の身辺に広がっていなかった。 沙織が海外ではゴールデンノーズと呼ばれるレベルの調香師なのは、家族と知加子にしか話していない。 あとは、同じ仕事の瀬名(せな)大地や会社の人間、朝霧(あさぎり)司(つかさ)くらいなものだ。 それでも、朝のニュースでちらりとノーマン・ギゼルが”ゴールデンノーズ”と言われる日本人調香師に振られたことは軽く触れられていた。 昼のニュースで、深く掘り下げられなければいいのだが。 ノーマン・ギゼルの主演する”ブラック・ルール”は、日本でもそれなりにファンと知名度は高い。 頭痛を押さえて、沙織は本格的な調香を開始した。 今回は、完全なオーダーメイド。 他のスキンタイプを気にする必要はない。 香料が甘くなりがちなノーマンの肌情報だけを念頭に置いて、作業するだけだ。 プールに入るまえと、プールに入ってからのノーマンに、香料サンプルは乗せている。 あとは、思い浮かんだものをどんどん重ねていくだけだ。 アラームを設置して、沙織は作業に集中した。 *** 『ノーマン、あんなことカメラのまえで言ってよかったの?』 『あんなことってなんだい?』 ノーマン・ギゼルは、ブラック・ルールの監督の娘であるレイチェルと、カクテルを飲む。 レイチェルが危惧したとおり、ノーマンは沙織に気が合った。 しかし、公共の電波で振られたと告げたということは、沙織のことは諦めたのだろうか。 ノーマンに思いを寄せる女は、アメリカだけでも凄い数がいる。
「はぁ~~やられたぁ……」 もみくちゃになったまま、ファーストクラスのラウンジに辿り着いた沙織はため息をついた。 ノーマン・ギゼルによって、沙織のフルネームと、ゴールデンノーズという正体がさらされてしまった。 おまけに、ノーマン・ギゼルを振った女として、世界に知られてしまった。 「個人のSNSは鍵かけとこう……何言われるかわかんないよ」 実際、瀬名(せな)大地からも「大丈夫ですか」というやんわりとした疑問のメッセージが届いている。 タイミングからして、もう記事はネットに流れているのだろう。 奏多(かなた)がラウンジでドリンクを受け取っているあいだ、沙織は大地に詳細を送り返した。 大地にはもう、色々な葛藤を含めて話してしまっている。 今更隠すことはない。 大地にメッセージを送り終えると、スマホの画面が電話に切り替わる。 電話相手は、弟の順一郎だった。 咄嗟に沙織は、電話を切った。 心臓が、ぎゅっと痛くなる。 出なくても、おそらくまた金の催促だと本能が告げた。 「沙織、どうした? 顔色が悪いが……」 「なんでもな……」 言いかけた沙織の電話が、またすぐに鳴り出す。 奏多が、丸見えの画面を見て「沙織の弟の順一郎じゃないのか?」と聞いた。 「日本からの電話だろう? 向こうはまだ朝の6時くらいじゃないか?」 「うん、多分……」 「出ないのか?」 沙織は、どうしたらいいのか分からなくなった。 奏多の目の前で、弟からのたかり電話は聞かれたくない。 それでも、いきなり電
朝霧(あさぎり)司(つかさ)は、弁護士業務のあいまにネットニュースを追っていた。 沙織と、ハリウッドスターのノーマン・ギゼルとのスキャンダル写真に、心が乱されている。 ノーマン・ギゼルが親日家で、ドラマ宣伝のたびに来日するから日本でもニュースになったのだろうが、そうでなければそうそうハリウッドスターのニュースなどは流れてこない。 SNSなどで情報は追っているが、中国か韓国の女優が相手ではないかという噂で終わっていて、沙織の名前は出ていない。 「――なんで、こんなことに」 司は、沙織の恋人ではない。 今はまだ。 単なる大学の先輩・後輩の間柄だ。 どうしてこうなったのか、聞く権利はない。 それでも、嫉妬がぎりぎりと胸をしめつける。 半裸で沙織をプールで抱きしめるなど――やっていいのは恋人だけだ。もしかすると、沙織はハリウッドスターの魅力に流れたのか。 だとしても、それを糾弾する資格は司にはない。 高山(たかやま)隼人(はやと)のときのように、沙織を見送るのはもう嫌だ。 イライラしながら仕事をする司のスマホが揺れる。 開くと、それは沙織の親友である知加子(ちかこ)からだった。 『沙織のネットニュース、もしかして見た? 見てなかったらごめん。一応私から聞いたけど、プロポーズをされたけど断ったんだって。あの写真は、いきなりプールからひっぱられたときに、パパラッチに取られたみたい』 プロポーズをされたけど、断った。 そこを二度読みして、司は眼鏡をはずすと深呼吸する。 良かった。 なにも言える権利も資格もないけれど。 今だけは、ホッとできる。眼鏡をかけなおすと、司は知加子に返信した。 おそらく、知加子は司が沙織のことを好いているのを知っている。 そうでなけば、三人ででかける約束を知加子だけがいきなり断っ
一瞬、キッチンがしんとした。 ノーマン・ギゼルの唐突なプロポーズに、沙織も奏多(かなた)も固まった。 「ノーマン、冗談はそこまでに……」 『ジョークじゃないよ。沙織のことは前々から気になってた。会って話せばキュートだしね。”ゴールデンノーズ”の沙織と、ハリウッドスターの結婚って、センセーショナルでいいと思うな』 こわばっていた沙織の体が動いた。 ノーマン・ギゼルが欲しいのは名声だ。 沙織本人のことは、ついでに聞こえる。 「そういうお話は、お断りします。お仕事はしますが、プライベートのことは干渉しないでください」 『オレって魅力ない? もう少し考えてもいいんじゃない?』 そっと小さくため息をついた奏多は、水を飲む。 凛とした沙織の姿勢は、ぶれない。 もう、心を決めたのだろう。 「魅力的な方だとは思いますが、お付き合いをしたいとは思いません」 『そうか、残念だな。レッドカーペットに連れて行きたかったのに』 ノーマンとしては、そこで話が終わりらしい。 沙織は、また調香に思案を伸ばし始めた。 ――今回のことで、分かった気がする。”ブラック・ルール”のエドワードと、ノーマン・ギゼルは違う。 ノーマンはひとなつっこく、エドワードは他者を拒絶する。 それでいて、ノーマンは沙織にしたように、軽々とプロポーズをする。 沙織のなかで、もしあのプロポーズを本気にしていたらそれはそれで大変だろうという予感がある。 明るい香料と、どこかひやりとするラストノートを、何パターンか書き込んだ。 陽気で、それでいてプライドの高い、男っぽいノートだ。 あとは、日本に戻って作るだけ。来て良かったと思う。 とんでもないことは起きたが、表面上のノーマン・ギゼルを見ても、この調香ノートは出
『嫌いな香料……そうだな、バラの香りは好きだけど、バラの香水は好きじゃないな』「わかりました……次にこれを試してほしいんですが』沙織は、ノーマン・ギゼルの豪邸の中のプールサイドで、ノーマンと会話していた。嫌いなもの、好きなもの。香水のデータだけでなく、プライベートの質問にもどんどん踏み込んでいく。家の中に、大きなプールがあるという財のありかたに、もうすくんではいなかった。『これはなに?』『肌のスキンタイプがわかるサンプルです』泳ぐノーマンは、検査をしている間、沙織をまじまじと見つめていた。『サオリもどうだい、一緒に泳がない?』『仕事中ですから』ハリウッドは気候がいい。プール際にいると、ジャケットがいらないほどだ。ノーマンの肌タイプは、スイートタイプだった。香料が、成分より甘めに肌で香ってしまうタイプだ。沙織は予定していた香料を、脳内で弾いていく。『サオリ、おいでよ』作業をしていると、沙織はいきなり腕をひっぱられた。「沙織!」プールサイドの椅子に座っていた奏多が大声を出す。ドボン! 水音がして、沙織は泳いでいるノーマンの腕の中に抱き留められた。「な、なにす……奏多っ……!」『びっくりした? せっかくハリウッドにいるんだから楽しまなきゃ』突然の着衣水泳になって、沙織は混乱した。筋肉質なノーマンの肌に抱きすくめられて、それも恥ずかしい。『誰です!?』それまで傍観していたキャロルが、塀に向かって大声を出す。カマラを持った複数人の男が、キャロルと目が合って逃げ出した。――カメラ? ってことは、スクープにされちゃう!?沙織の体が、ぐいっと上がってプールの上まで引き上げられる。両腕を濡らしてまで、引き上げたのは奏多だ。「滑るぞ、立てるか?」「――こちらに。私のですが、着替えがあり
「おはようございます!」 「おはようございます」 沙織は、迎えにきたノーマン・ギゼルの秘書のキャロルと挨拶を交わした。 奏多は、今日も仕立てのいいスーツだ。 沙織も、引き続きブランド服と靴とバッグで全身を整えている。 ホテルでは豪華な朝食が出るはずだが、ノーマンから朝食は摂らずにくるように言われているので空腹だ。 キャロルの丁寧な運転で、ホテルからビバリーヒルズの豪邸の並ぶ道へと入っていく。 「観光バスツアーがいなくてよかったです」 キャロルが高級車のハンドルを切りながら告げる。 あまり雑談などは好まないが、必要なことはこうして告げてくれる。 「バスツアー?」 「海外ドラマで見たことないか? ハリウッドスターの豪邸を見て回るツアーがあるんだよ」 「そうなんだ……知らなかった! って、自宅が観光地ってことですか?」 「そういうことです。ノーマンの家にもバスが通ります」日本では知らない文化だ。 マスコミはきっとスターの家など知っているのだろうが、日本のスターが住所を明らかにするなど聞いたことがない。 ストーカーや、ファンがごったがえしてそうだ。 キャロルも、ここはだれだれの家ですと言いながら教えてくれるが、ビッグ・ネームばっかりだ。 適当な私服でコンビニに行ったりできなさそう……と思ったが、沙織の視界にはコンビニエンスストアは見えない。 高級住宅地には、ないのだろうか。 「買い物とか、どうするんですか?」 「メイドがやりますから。私は秘書ですが、掃除するメイドと食事を作るメイドがいます」 「メイドさん……ですか……」 ノーマン・ギゼルの家にいくと、メイドがいるようだ。 ハリウッドスターは、やはりいろいろと規模が凄かった。***「ここです、ノーマン・ギゼル