LOGIN5年前、愛した財閥御曹司に裏切りを疑われ、身重のまま捨てられた彼女。たった一人で育てた息子が難病に倒れ、治療のため財閥の支援制度を頼ることに。ところが、後継者を探していた元恋人が、息子の才能に目をつけてしまう。自分と瓜二つの瞳、希少な血液型、そして不可解な既視感――。彼はまだ知らない。養子に迎えようとしているその天才児が、5年前に自ら捨てた実の息子だということを。
View More結婚式から3年が過ぎた春。怜司は、小さな椅子の前で一度立ち止まった。「座れそうですか?」紗月が聞くと、怜司は慎重に膝を曲げた。小学校の教室の椅子は、大人には低い。背筋を伸ばそうとして諦め、机の下へ両足をきちんと揃える。前の席にいた悠真が振り向いた。「パパ、音立てないで。授業始まるよ」8歳になった悠真は、昔のように小さな鞄をパパへ預けなくなった。たまに手をつなごうとしても、友達が見えるとそっと離すこともある。怜司はもう、その手を追って握り直したりしなかった。黒板には、『家族と一緒にしたこと』を紹介する順番が書かれていた。紗月は研究所の休みを取り、怜司も同じ時間に別の予定を入れなかった。悠真にとって初めての授業参観だった。子どもたちは、写真や絵を一枚ずつ持って前へ出た。ある子はおばあちゃんと市場へ行った話をし、別の子は弟と喧嘩したあと、お菓子を分けた話をした。悠真が持って出たのは、長い電車の線路を写した写真だった。「これは、うちで作りました」怜司が紗月を見る。昔、トレーの上へ作ったものよりずっと長い。家のリビングと部屋の間をぐるりと回る線路だった。「道はぼくが描いて、ママが紙の家を作りました。パパは橋を押さえてました。手を離すと、すぐ倒れるから」友達が笑った。先生が写真の片側を指した。「ここは、どうして線路が切れてるのかな?」「トイレに行かなきゃいけないからです。つなげたら、踏んで通らないといけないでしょ」今度は後ろに座った大人たちも笑った。説明を終えると、悠真は写真の下に書かれた三つの名前を指で示した。「水瀬悠真、水瀬紗月、鷹宮怜司。三人で作りました」紗月は拍手しながら、怜司の手の甲を軽く叩いた。怜司は写真を見るのに夢中で、拍手のタイミングを逃していた。「上手だったでしょう?
「パパ。ママの誕生日なのに、なんでぼくの電車を予約してるの?」悠真が指で怜司の携帯電話を隠した。画面には、電車の形をしたレストランで誕生日会ができるという写真が出ている。怜司は数秒その画面を見てから、予約ページを閉じた。「おまえが喜ぶかと思って」「ママの誕生日だってば」指摘は正しかったが、悠真が考えたプレゼントも似たようなものだった。大きなロボットを買って、ママが大変なときに荷物を運んでもらうという案だ。「そのロボット、本当に荷物持てるのか?」怜司が聞くと、悠真の声が小さくなった。「まだ持てない」二人は食卓へ並んで座り、最初から考え直した。紗月は研究所から遅くならないよう帰ると言っていた。父子は『夕飯は任せて』とだけ言ってある。「ママは黄色い花が好き。栗の入ったパンも」怜司が言うと、悠真が新しい紙に花を描いた。「それ、ぼくも知ってる。ママ、パパに花あげたじゃん」「ああ。今度はママにも買おう」「パンは、桃と一緒に作ってないか聞いてね」怜司はうなずいた。三人で一緒に食べるものは、いつも必ず確認する。悠真は花の下に大きな箱を描きかけ、鉛筆を止めた。「ママ、何してるとき楽しいの?」「研究の話してるとき。本読んでるとき」「ぼくが寝てるときも嬉しそうだけど」怜司は吹き出した。悠真は自分が何を面白いことを言ったのか分からない顔で首を傾げた。***紗月が帰宅したとき、家は妙に静かだった。玄関には、小さなガラス瓶に黄色い花が挿してあった。新しく買った花瓶ではなく、紗月が水挿しに使っていた瓶だ。隣には悠真の字で、【お誕生日おめでとう、水瀬紗月】と書いたカードが立ててあった。紗月は花びらに触れかけて、先に手を洗いに行った。リビングか
「これ、誰が片づけたの?」悠真がリビングの床を見回した。紗月はノートパソコンから目を上げ、息子が指した場所を見る。朝、足に引っ掛かりそうだったので箱へ入れておいたブロックだった。「ママ。掃除しようと思って」「まだ作り終わってなかったのに。駅と線路、つなげてたのに」悠真は箱を引き寄せ、ひっくり返した。途中まで完成していた部分まで外れているのを見て、頬を膨らませる。紗月は椅子を引いて立った。「そうだったんだね。ママ、聞いてから動かせばよかった。ごめんね」「もう一回作って」「どうやって作ってたか、見せてくれる?」「ママも分かんないの?」「うん。ママが見たのは、悠真が作ったあとの形だから」悠真の顔に、さらにがっかりした色が浮かぶ。ちょうどキッチンから出てきた怜司が、床へ座った。手には三人分の水がある。「悠真。さっき、絵に描いてなかったか?」悠真は机へ走った。戻ってきたときには、鉛筆の跡が濃い紙を持っていた。怜司が受け取ろうとして、肘で紗月の資料へ触れる。薄い書類の束が床へ散らばった。悠真はしばらく両親を交互に見た。「うち、どうなってるの」紗月はとうとう笑ってしまった。怜司も紙を拾いながら頭を下げる。「パパまでやらかしたな」「ママはぼくの線路。パパはママの紙。ぼくは何もしてない」「今のところはね」紗月が付け足すと、悠真は目を細めた。三人はまず資料を集めた。紗月がページを揃える間、怜司と悠真はブロックを色ごとに分ける。隅にあった水のコップを移して、ようやく線路を広げる場所ができた。「食卓にはパパのパソコンがあって、ここにはママの紙がある。ぼくの電車はどこ?」悠真の言葉に、紗月と怜司はリビングを見回した。一緒に暮らし始めてか
「5時には迎えに来てくださいね」佐伯が腕時計を見ながら言った。怜司がうなずくと、悠真が彼の袖を引っ張った。「パパじゃなくて、ぼくに言ってるの。ぼくが『もっと本見る』って言うかもしれないから」子ども図書館へ行きたいという悠真の頼みで、佐伯が土曜の午後を空けてくれたのだ。紗月はおやつと水筒の入った鞄を渡した。「何か困ったことがあったら、すぐ連絡してください」「お二人も、本ばかり眺めて帰ってこないでくださいね」佐伯の言葉に、怜司が眉を上げた。悠真はもう図書館の入口へ体を向けている。息子を見送ると、二人の間が妙に空いた。いつも真ん中にあった小さな手が、一つなくなったからだ。先に怜司の手を取ったのは紗月だった。「行きましょう。私たちも遅れます」「予約してないけど」「気持ちが、です。変に家へ帰りたくなる前に」***大通りから少し外れた本屋は静かだった。紗月は研究書の棚をそのまま通り過ぎた。旅行エッセイを一冊取り出し、数ページ読んでから怜司へ開いて見せる。「この海の色、見てください」「行きたい?」「今は本で見ます。また先に飛行機を調べないでくださいね」怜司が携帯電話をしまった。その動きを見て、紗月は笑いをこらえられなかった。「本当に調べようとしたんですか?」「場所だけ」「もう」言い訳の代わりに、怜司は隣の棚から一冊選んだ。紗月は表紙を見て少し驚く。子どもの頃に住んだ家を記憶する人たちについての本だった。「こういう本も読むんです?」「今日は読んでみようと思って。俺が子どもの頃に住んでた家は部屋があんなに多かったのに、思い出せる場所はあまりないから」紗月はもう一度表紙を見た。怜司は角を撫でてから、そのままレジへ持っていった。カフ