Masuk5年前、愛した財閥御曹司に裏切りを疑われ、身重のまま捨てられた彼女。たった一人で育てた息子が難病に倒れ、治療のため財閥の支援制度を頼ることに。ところが、後継者を探していた元恋人が、息子の才能に目をつけてしまう。自分と瓜二つの瞳、希少な血液型、そして不可解な既視感――。彼はまだ知らない。養子に迎えようとしているその天才児が、5年前に自ら捨てた実の息子だということを。
Lihat lebih banyak5年前、晩秋の夜。東京・成城にある鷹宮家の屋敷には、肌を刺すような冷たい雨が降りしきっていた。妊娠6週のエコー写真を入れた封筒を胸に抱き、水瀬紗月は門の前に座り込んでいた。全身ずぶ濡れで、地面の冷たさが容赦なく体温を奪っていく。
唇が震え、歯がかちかちと鳴った。重い鉄の門が開き、濃紺のスーツを着た鷹宮怜司が、傘を差しかける従者たちを伴って出てきた。 「怜司さん……お願い、一度だけでいいから話を聞いて。ほかの人と付き合ったことなんてない。この子は、本当にあなたの子なの」 紗月は血のにじむ指先を伸ばし、彼のズボンの裾にすがろうとした。怜司はためらいもなく、その手を革靴で払いのけた。 「その汚い口で、俺の名前を呼ぶな」 低く、硬い声だった。彼はコートの内ポケットからくしゃくしゃになった泌尿器科の診療記録と、偽造されたホテルの写真を取り出し、紗月の顔に投げつけた。 「先天性無精子症。俺には医学的に子どもができない。病院長の印まであるこの診療記録が、嘘だとでも言うのか?」 「違う……そんなはずない。検査が間違ってるのよ!」 「ホテル・セレスティアのスイートルームに、ほかの男と出入りしている写真まである。俺を裏切った挙げ句、よその男の子を俺の血筋だと偽って、鷹宮家の女主人に収まるつもりか?」 怜司の顔には、裏切られた怒りと確信が入り交じっていた。診療記録も写真もすべて仕組まれたものだと、当時の彼は少しも疑わなかった。そのとき、屋敷の玄関から、ダイヤモンドを身につけた母の静江と黒崎麗奈が、口元に笑みを浮かべて歩いてきた。 「怜司、そんな卑しい詐欺師と、いつまで話しているの。警備員を呼んで、早く追い払いなさい」 静江の険しい声に続いて、麗奈がわざとらしくため息をついた。 「紗月さん、子どもができないとわかって、怜司さんがどれほど苦しんだか知っているでしょう。それなのに、ひどいわ」 紗月は泣くのをこらえ、怜司を見上げた。けれど彼は冷たく背を向けた。 「二度と俺の前に現れるな。次にこんな詐欺を働いたら、おまえの父親の命綱から断ってやる」 重い門が、音を立てて閉じた。その夜、集中治療室にいた紗月の父は、鷹宮グループによる治療費と転院の支援を打ち切られ、息を引き取った。 葬儀場へ向かうタクシーに、黒いSUVが2度ぶつかって逃げたのも、その夜だった。警察は雨による事故の可能性をまず考えた。だが紗月は、運転席の隣に麗奈の護衛に似た顔があったのを、確かに見ていた。 *** 5年後。東京、鷹宮医療センターの救命救急センター。 「先生、血圧が下がり続けています! 酸素飽和度82パーセントです!」 看護師の切迫した声と、モニターの警報音が響いた。治験コーディネーターとして働きながら一人で息子を育ててきた紗月は、血の気の引いた顔で処置台へ駆け寄った。そこには、全身に赤い斑点を浮かべ、苦しそうに息をする4歳の息子、水瀬悠真が横たわっていた。切れ長の濃い目元が、怜司にそっくりな子だった。 「ママ……息、できない……」 悠真が細い指で紗月の手を握った。 「悠真! ママ、ここにいるよ。しっかりして!」 こらえていた涙があふれた。小児科の教授は、険しい顔でカルテをめくってから紗月を見た。 「急性の免疫異常で、骨髄の働きが強く抑えられています。血小板が下がり続けているので、緊急の成分輸血が必要です。問題は、Rh陰性AB型で、抗体の組み合わせまで難しいことなんです」 Rh陰性AB型。国内でもめったに見られない血液型。紗月の知る限り、同じ血液型の人は一人しかいなかった。 鷹宮怜司だった。輸血室のドアが閉じても、紗月の言葉は変わらなかった。「勘違いしないで。あなたは今、悠真を助けられるドナーにすぎません。許可された手続きだけに従って。これで許されるなんて思わないでください」怜司は濡れた袖をまくり、うなずいた。「わかった。悠真に必要なことから進めてくれ」午前3時、怜司は成分採血室のベッドへ横になった。悠真はガラスの向こうの小児輸血区画にいる。紗月は両方が見える位置で、説明を聞いた。「実の親でも、そのまま輸血できるわけではありません。ABO・Rh、不規則抗体、HLAの適合性を確かめてから、血小板の成分採血を行います。採取した製剤は交差適合試験と放射線照射を経て、悠真くんへ投与します」教授の説明を聞き、怜司は同意書を受け取った。「どれくらい、かかりますか?」「緊急手順でも2時間は必要です。ドナーの安全限界を超えることはできません」「その範囲で、できるだけ早くお願いします」看護師は名前と生年月日を再確認し、両腕の血管を調べた。「唇や指先がしびれたら、すぐに教えてください。めまいがしても、我慢してはいけません」「わかりました」ガラスの向こうでは、紗月が同意書の控えを握っていた。「一度でも隠したら、すぐに止めてください。悠真を助けるために、ドナーまで倒れさせるつもりはありません」怜司は短くうなずいた。両腕に太い針が入り、成分採血装置が低く動き始めた。血液から血小板だけを分離し、赤血球と血漿を体へ戻していく。冷たい血液が戻るたび、怜司の唇がかすかに震えた。指先がしびれると、我慢せず看護師へ伝えた。看護師はすぐにカルシウムの補充速度を上げ、血圧を測り直した。「教えてくださってよかったです。引き続き、隠さないでくださいね」ガラス越しに、紗月と一瞬目が合った。彼女は褒めず、目もそらさなかった。ただ、今度は医療スタッフの言葉に従っていることを確かめていた。向こうでは製剤バッグのラベルと悠真のリストバンドが何度も照合された。やがて放射線照射を終えた血小板製剤が、ポンプを通って悠真の静脈へ流れ始めた。紗月は開始時刻を手帳へ記した。小児科の教授は、最初の15分はアレルギー反応と発熱を重点的に観察すると説明した。紗月は息子の手のひらへ指でチェス盤を描き、呼びかけ続けた。「悠真、ママの声、聞こえる? 白のキングは、どこへ行けばいい?」目
冷たい秋の豪雨が、救命救急センター前のアスファルトを打っていた。他の国立病院から運ばれる予定だった放射線照射済み血小板製剤。その専用救急車が、首都高速の多重衝突事故に足止めされ、間に合わないとの連絡が入った。医療チームが示した安全な猶予は、残り4時間ほど。紗月は傘も持たずに外へ飛び出し、濡れたまま電話に叫んだ。「先生、悠真の血小板が2万を切ったんです! 別のヘリでも何でも、飛ばせませんか? お願いです……息子を、助けて……!」だがドクターヘリは、強風警報で運航を止めていた。紗月は道路管制と輸送責任者へ順に連絡し、車の位置を確かめた。救急車は事故現場の手前から動けず、迂回路も塞がれていた。担当教授もスピーカーフォンで同じ説明を聞いた。『待っていたら、いつ投与できるかわかりません。今は院内採取のほうが早いです』最後の選択肢まで塞がれ、紗月は膝から崩れた。雨水のたまったアスファルトへ座り込む。5年前、成城の門の前でも、同じ雨音を聞いた。あのときと同じように、一番必要な瞬間に道が閉ざされる。「悠真……ごめんね。ママ、守ってあげられなくて……」泣き出した耳に、雨水を踏む革靴の音が近づいた。顔を上げると、濡れた濃紺のスリーピース姿の男が、足元へ膝をついた。鷹宮怜司だった。濡れた路面に両膝をつき、深く頭を下げた。「紗月……俺が悪かった。許されないことをした」差し出された防水ファイルには、成分採血の同意書と、提供を理由に親権・面会交流・養子縁組審査で権利を主張しないという確認書が入っていた。「許してくれなくていい。俺は適合ドナーらしい。必要な成分を採って、悠真に使わせてくれ。引き換えに、何も求めない」5年前、紗月がすがった場所に、あまりにも似ていた。怜司は顔を上げられず、肩を震わせていた。紗月はその頭を見下ろした。膝をついたからといって、5年が消えるわけではない。濡れた髪を耳へかけ、口を開いた。「それで私の5年と、父の命が埋め合わせられるとでも思った?」雨音の間に、紗月の声がはっきり響いた。「あなたの涙で、私の5年は消えない。でも悠真を助けられるなら、医師が必要だと言う分は、すべて出してもらう」怜司はすぐにうなずいた。「ああ。今は悠真のことだけ考えてくれ」立ち上がりかけて、一度足を滑らせた。紗月は助け起こさなかった。代わりに、救命救急セン
病院へ戻る間、怜司は悠真の検査の進み具合ばかりを確認していた。午前2時、鷹宮医療センター502号室前。ガラスの向こうで悠真は酸素マスクをつけて呼吸し、紗月はその手を握ってモニターを見ていた。残りは6時間だった。怜司は濡れた服を感染対策用の衣服に着替え、廊下の椅子へ座った。中へ入れろとは言わなかった。佐伯が検察の受理書と海外検索の状況を差し出した。別の国立病院で適合の可能性がある製剤が1件見つかったが、豪雨のため到着時刻を確約できなかった。「紗月さんにも、同じ報告を?」「はい。元の画面をそのまま共有しています」怜司はタブレットを置き、ガラスのドアから二歩下がった。謝罪の言葉一つで入れる病室ではない。そのとき警報が鳴り、怜司が立ち上がると、佐伯が検査室からの連絡を伝えた。「血液型と抗体スクリーニングは適合しています。HLA検査と交差適合試験が終われば、ドナー候補になるそうです」看護師が怜司を問診室へ案内した。最近の感染、服薬、献血時の副作用、睡眠や食事の状況が確認された。怜司は早く済ませろと急かさず、すべて正直に答えた。体温、ヘモグロビン値、心電図も再確認された。「ドナーの方が倒れたら、製剤そのものを作れなくなるかもしれません。質問には、漏れなく答えてください」「わかりました。隠しません」早くしろと言いかけて、口を閉じた。焦りを理由に手続きを飛ばせば、また事故を起こすだけだ。「結果が出たら、すぐ知らせてください。許可される手続きは、すべて受けます」教授が採取できる量と、副作用について説明した。「実の親でも、そのまま血液をつなぐわけではありません。必要な成分だけを採り、放射線照射と交差適合試験を経て使います。危険があれば中止します」「判断は先生にお任せします。俺が続けてくれと言っても、聞かないでください」佐伯が驚いたように見たが、怜司は説明書の各項目へ自分でチェックを入れた。紗月はガラスのドア越しに、その様子を見ていた。血縁者からの血小板輸血では、輸血後移植片対宿主病を防ぐために放射線照射が欠かせないとの説明も、担当教授からもう一度聞いた。怜司が最後まで話を聞いていると確かめてから、悠真のベッドへ戻った。息子の手を握りながら、気持ちが変わったわけではないと言い聞かせた。憎いからといって、適合する可能性のある人を排除はできない。息子を助け
血液の検体を預けてから1時間後。激しい雨を突いて走ってきた黒いセダンが、成城の本邸の前に止まった。濡れたまま怜司が中へ入ると、静江はリビングで紅茶を飲んでいた。「怜司、こんな夜中に、その格好は何? どうして雨に濡れているの。みっともない」何事もないような声だった。怜司が近づくと、静江はようやくカップを置いた。「母さん」低く押さえた声が出た。「5年前のあの夜、なぜ紗月の父親の治療を止め、人工呼吸器を外せと命じたんですか?」静江は一瞬こわばったが、すぐに鼻で笑った。「そんなことのために、この夜中に騒ぐの? あんな素性の知れない女が鷹宮家の女主人に収まろうとするから、芽を摘んだだけよ。父親の命綱でも断たなければ、二度とあなたから離れないでしょう」治療の中断を命じた事実を、隠す気すらないらしかった。怜司は歯を食いしばった。「その女が身ごもっていたのは、誰の子だと思いますか?」コートから参考鑑定の結果と桐生の供述書を出し、テーブルへ投げた。紙がカップに当たり、床へ散った。【父子関係の確率99.9999パーセント/非公式・参考検査】「あの子は……俺の息子です!」怜司の声が、初めて大きくなった。「5年前、母さんが消そうとした子です。今日、麗奈に点滴を引き抜かれたあの子が……あなたの、たった一人の孫なんですよ!」「な……何ですって?」静江の手から落ちたカップが割れた。自分が排除しようとした子が、鷹宮家唯一の孫だと聞き、顔から血の気が引いた。「なら、なおさら連れてこなさい。鷹宮家の血を引く子を、水瀬紗月なんかの手元に置いておけるはずがないでしょう」怜司はしばらく目を閉じた。「子どもの命より、家の体面が大事ですか?」「あなたには子どもができないというのに、誰があの子をあなたの子だと思うの。私は家を守ろうとしただけよ」「診断書を改ざんした人間へ送られた金は、母さん側の口座から出ています。本当に何も知らなかったんですか?」静江は答えず、目をそらした。怜司は最初から録音を続けていた携帯電話を、テーブルへ置いた。「あなたの欲と、その身勝手さが、紗月と息子の人生を壊しました」静かなリビングに、言葉が重く響いた。「家の名で隠してきたことも、すべて捜査機関に渡します。俺も知っている限り、何も隠さず取り調べを受けます」録音は止めなかった。母が最後に