Masuk「何かさ、わからなくなってきちゃったんだよね」
「結婚が?」 「うん。これでいいのかどうなのか。はっきり言って、彼氏、頼りないし、ツッコミ所が多すぎるんだ」冗談めかして笑い飛ばそうと思ったのに、気づいたら私の口は止まらなくなっていた。
正広のこと、両親への挨拶のこと、長男だから実家をもらうと言われたときの衝撃、そして――なにより結婚という言葉に縛られて、身動きが取れなくなっている自分のこと。
江藤くんは、黙って聞いてくれていた。うなずきも、相槌も、絶妙なタイミングで。その優しく聞き役に回ってくれる行為が、とんでもなく心地よくて、私の口は止まらず、思いの丈をしゃべり倒してしまったのだ。
こんなプライベートなことを、そんな赤裸々に話すなんて、本当はするべきじゃないのかもしれない。
でも、愚痴らずにはいられなかった。
このモヤモヤを、誰かに聞いてほしかった。 ずっとずっと、一人で抱えていたのだ。「ごめん、長々と愚痴って」
はあーと息を吐く。ずっと喋っていたから喉はカラカラだ。おかわりのビールをグビグビ飲むと、江藤くんが真剣な顔でこちらを見ていた。
「辻野さんさ、そんな男と結婚して大丈夫? 彼には失礼だけど、かなり自己中っぽいよ。辻野さんが苦労するのが目に見えるんだけど。辻野さん、本当にその男のこと、好きなの?」
「え……?」――本当に、好きかどうか。
江藤くんの言葉に、私は言葉が出てこなかった。
正広のことを好き、だったはず。
でも、今の私はどうなんだろうか?言われて初めて、私はその問いを自分に向けてみる。ずっと誤魔化していた自分の気持ち。避けていた本当の気持ち。
心の奥が揺れ動かされる。確かに、正広は自己中だ。思い当たる節なんて、数えきれないほどある。そのせいで、何度「もうっ!」と心の中で怒ったことか。それでも、結婚しようと思ったのは、正広を好きだから。……本当に? 本当に、好きなのかな?実は、ただ甘い言葉に惑わされただけなんじゃないだろうか。好きだよって言われて、キスされて、優い言葉に絆されて。それだけで、心が揺れてしまっただけなんじゃないか。考えれば考えるほど、自信がなくなっていく。 心が、簡単に揺らいでしまう。 その揺らぎが、良いものなのか悪いものなのか、判断ができない。いつの間にか、視線も俯きがちになっていた。グラスの表面についた水滴が、つーっとテーブルに落ちていくのを目で追う。「あのさ……」 「うん?」 「俺が結婚式に乗り込んで、ちょっと待ったーって奪いに行ってあげようか?」 「へ?」一瞬言われた意味が分からなかった。だけど顔を上げると、江藤くんがじっとこちらでを見ている。その真っ直ぐな瞳に、吸い込まれそうになった。江藤くんの言葉が、冗談なのか本気なのか、判断できなかった。でも、心臓がドクンと跳ねる。ドキドキと鼓動が早くなる。何だろう、この感覚。 停滞していた何かが動き出すような、そんな感覚に、ざわりと体が震えた。
「何かさ、わからなくなってきちゃったんだよね」 「結婚が?」 「うん。これでいいのかどうなのか。はっきり言って、彼氏、頼りないし、ツッコミ所が多すぎるんだ」冗談めかして笑い飛ばそうと思ったのに、気づいたら私の口は止まらなくなっていた。正広のこと、両親への挨拶のこと、長男だから実家をもらうと言われたときの衝撃、そして――なにより結婚という言葉に縛られて、身動きが取れなくなっている自分のこと。江藤くんは、黙って聞いてくれていた。うなずきも、相槌も、絶妙なタイミングで。その優しく聞き役に回ってくれる行為が、とんでもなく心地よくて、私の口は止まらず、思いの丈をしゃべり倒してしまったのだ。こんなプライベートなことを、そんな赤裸々に話すなんて、本当はするべきじゃないのかもしれない。でも、愚痴らずにはいられなかった。 このモヤモヤを、誰かに聞いてほしかった。 ずっとずっと、一人で抱えていたのだ。「ごめん、長々と愚痴って」はあーと息を吐く。ずっと喋っていたから喉はカラカラだ。おかわりのビールをグビグビ飲むと、江藤くんが真剣な顔でこちらを見ていた。「辻野さんさ、そんな男と結婚して大丈夫? 彼には失礼だけど、かなり自己中っぽいよ。辻野さんが苦労するのが目に見えるんだけど。辻野さん、本当にその男のこと、好きなの?」 「え……?」――本当に、好きかどうか。江藤くんの言葉に、私は言葉が出てこなかった。正広のことを好き、だったはず。 でも、今の私はどうなんだろうか?言われて初めて、私はその問いを自分に向けてみる。ずっと誤魔化していた自分の気持ち。避けていた本当の気持ち。 心の奥が揺れ動かされる。
そんな気持ちをごまかすように、ビールを一気飲みする。胸のモヤモヤは、少しも解消される気配がない。「何だろう? マリッジブルーかな?」そう言うと、江藤くんはグラスを傾けながら、ふーんと軽く相槌を打った。「そういうもの?」その言葉に、私は曖昧に笑うことしかできない。だって、自分でもよくわからないのだ。マリッジブルーで片付けていいものなのか、そんな言葉でごまかしているだけなのか。ただ、どうにもこうにも、心が晴れないのは確かだった。江藤くんが自分のお通しの中から、生麩の田楽をひとつ取り出して、私のお皿にちょこんとのせた。「……え?」驚いて江藤くんを見る。江藤くんは何でもないように「それ、好きでしょ」と笑う。以前も江藤くんとこの店に来たことがあった。その時にも生麩が出て、私が「美味しい! おかわりしたい!」とテンション高く騒いでいた。それを、覚えていてくれたんだ。そのことに気づいた瞬間、胸がぎゅと締めつけられる。それは、苦しいものではなくて、嬉しい感覚。生麩の田楽を見つめながら、私は思わず笑顔になった。江藤くんったら、本当に優しいんだから。 さりげなく譲ってくれるその行為に、心がふわっと軽くなる感じがする。江藤くんの優しさが、今の私には何よりも心に沁みた。
久しぶりに江藤くんから誘いがあって、仕事終わりに駅前の居酒屋へ向かった。たまにだけど、こうして一緒にご飯を食べて帰ることがある。気を遣わなくていい相手って、こういう人のことを言うんだろうな。店内はほどよく賑やかで、隣の席からは笑い声が聞こえる。運ばれてきたお通しをちびちびつつきながら、私はぼそりと呟いた。「私さ、結婚することになった」 「えっ。マジか!」江藤くんは、箸を止めて目を丸くした。 驚いたあと、すぐに「おめでとう」と言ってニコッと笑ってくれた。その声は、いつも通りの優しさに包まれていて、胸がぎゅっと詰まる。「それにしてはあんまり嬉しそうじゃないね?」 「そう、かな?」首を傾げながら答えたけれど、実際その通りだった。胸のモヤモヤがひどい。結婚の報告って、もっとドキドキしたり、キラキラしたりするものだと思っていた。でも、今の私はそんな気持ちにはなれない。――全然、嬉しくない。むしろ、心の奥がどんよりと重たい。江藤くんという他人に結婚の報告をしたことで、ようやくその重さに気づいた気がした。グラスの中の氷が溶けて、カランと音を立てる。その音がやけに虚しく感じられる。『飲み会は自由に行っていいのよ。そういう日は正広、うちでご飯食べさせるから』正広のお母さんの言葉が不意に思い出される。結婚したら、例えばこういう日、正広は実家に帰って母親の作ったご飯を食べるんだ。それを思うと、また胸の奥にモヤッとした感情が生まれた。
正広を家まで送り届けて、私は自分の家へ戻った。 ああ、どっと疲れた。ぐったりしながらリビングでだらける。すると、母が険しい顔をしながらやってくる。「ねえ、あなた、大丈夫?」 「え、なにが?」その声は、心配というよりも、確認のようだった。 あとから父も、こちらにやってくる。その表情も、なかなかに険しい。「正広くんよ。あれでいいの?」あれ呼ばわりされた正広。どうやら正広の印象は、よくなかったみたいだ。そりゃそうだろうと、私も深いため息を吐いてしまう。フリーズした挨拶、唐突な、長男だから実家をもらう宣言。私だって、正直言って戸惑っている。心の中は大荒れだ。だけど、それを考える気力すらなくなるほど、今はどっと疲れている。大丈夫かどうかなんて、わからない。 この結婚が正しいのかどうかも、わからない。 もしかしたら、大丈夫じゃないかもしれない。でも―― 動き出した事実は、もう止まらない。「結婚する」という言葉の魔法に、かかってしまったのかもしれない。 その響きが、足枷となっているのかもしれない。そう思うのに、今さら踏みとどまったり、何かを変えようという気にはなれなかった。その頃の私はもう、病んでいたのかもしれない。 不安定に揺れる気持ちをどうにか保とうと、平静を装っていただけだ。
少しばかり打ち解けてきた頃、母が少し柔らかな口調で尋ねる。「結婚したら、最初はアパートとかに住むとして、将来的には家を建てようと思ってるの?」マイホームなんて響き、憧れてしまう。私も正広も実家は一軒家だし、自分も将来一軒家に住むのかななんて漠然と思っている。白い壁に木のぬくもり、広いキッチンに小さな庭。 夢がふくらんで、頭の中に理想の間取りが浮かび始める。あれもいいな、これもいいな、なんて考えただけでわくわくしてしまう。そんな夢見がちな私をよそに、正広は何の曇りもなくさわやかな笑顔で、ハキハキと答えた。「いえ、買いません。自分は長男なので、いずれ実家をもらいます」「「「えっ?」」」私と両親の声が、見事にハモった。……え? 今、なんて言った?聞き間違いかと思ったけれど、正広は得意気な顔をしている。 そんな話、初耳ですけど……。将来的に家を買えるかどうかは別として、マイホームという夢が、一瞬で崩れ去った。描いていた理想や夢が、ガラガラと音を立てて崩れていく。しかも「長男なので」って。 今時そんな考え、まだあることに驚きだ。もちろん、それが悪いとは思わない。家柄や後継ぎなど、世の中にはいろいろ事情はあるのだろう。でも、それにしたって、この話は私には初耳すぎて、受け入れる準備がまったくできていなかった。理解すらも追いつかない。正広が、そんな考えの持ち主だったなんて思わなかった。ショックが大きすぎて、何も言葉が出てこない。両親も、ポカンとしたままだった。







