LOGIN思い立ったが吉日という言葉がある。
そんなわけでダンジョンクリーナー協会に訪れた。
クリーナー協会はいつでも新たな可能性の芽を待ってるぞ!
みんなも要チェックだ!
まぁそんな冗談はおいておくとして、実際クリーナー協会は来るもの拒まずの姿勢だ。
武術の有段者である必要もなければ、小難しい資格なども必要ない。
すべてはスキル覚醒するか否かということにかかっているわけだ。
一応俺の居住都市はそこそこ規模が大きいので、協会の規模もそれに比例して大きい。
道は姉さんが教えてくれた。
あと事前にある程度電話で話を通しておいてくれたらしい。
何から何まで姉さんに頼りきりである。
「しかし……ここがクリーナー協会の建物だったとは……」
見たことはあるが得体のしれない建物。
そういうのは誰しもあるものだろうが、ダンジョンクリーナーを志してその正体をはじめて知った。
姉さんに知らされた約束の時間はもう迫っている。
もちろん遅れるわけにはいかないので多少恐る恐るといった感じでビルの中に入っていった。
二重の自動ドアを抜けると、蛍光灯の無機的な光が俺を出迎える。
その白色の明かりと同じように、建物の内装もまた清潔感のある白色だった。
忙しそうに駆け回る人や、受付前の長椅子に腰かけて何かを待っている人。
やっていることは様々だがとにかくそこにはたくさんの人がいた。
雰囲気としてはなんだか病院のようですらある。
ダンジョンで出た怪我人の救護や応急処置なども協会で行われていると聞くし、あながちその印象は間違いでもないのかもしれない。
時間に余裕があるわけでもないのでさっさと受付に向かう。
窓口がいくつかあるが対応中のところが多く、とりあえず空いているところに向かった。
「あの、すみません」
「はい。どういったご用件でしょうか?」
俺が向かった窓口に居たのは若い男性の職員。
真っ白なスーツを一切の違和感なく着こなす真面目そうな人だ。
俺がスーツを着るとなぜだかどうしてもコスプレ感が否めない。
ここに来るのがある種の就職活動とはいえ、今この瞬間も俺は私服のままだ。
まあもともとスーツでするような仕事ではないし。
「あの、ダンジョンクリーナーの……研修?の方に申し込んだ者なんですけど……」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。水瀬、です。水瀬 優……」
しっかりした受付さんとは対照的に、しどろもどろになりながら受け答えする。
胸中が不安でいっぱいなのと、いまだこれといった社会における役割を持たない自分に負い目のようなものを感じているからだ。
「はい……はい。ただいま確認が取れました。担当の者が向かいますので、こちらを持ってお待ちください」
「あ……はい……」
そう言って渡されたのは一枚のカードだった。
特に何が印字されているわけでもなく、目印とかにはなりそうもないけれど……。
ひとまずそういう疑問はおいといて受付前に並ぶ長椅子の、一番端のやつに座る。
周囲を見渡せば他にも似たようなカードを持って座っている人がちらほら居た。
そうして待っているとすぐに別の通路から誰かがやってくる。
筋肉質で大柄な、短髪の男性だ。
捲った袖から出た丸太のような腕には銀色に一筋の青い光が走った腕輪を身に着けていた。
「あれって確か……」
その様をボケっと眺めていると、その男性はまっすぐにこちらに向かってくる。
あの人が担当者なのだろうかと緊張が強まった。
そして案の定、男性は俺の前で足を止める。
「君が、水瀬 優君……かい?」
四十代手前くらいだろうか。
俺の名を呼んだ男性は、俺の顔を見てニカッとさわやかな笑顔を浮かべた。
◇◇◇
男性……名を鹿間さんと言うらしいその人が、俺を別室に案内してくれた。
いわゆる応接間といったような部屋で柔らかいソファーに座らされている。
テーブルを挟んだ向かい側のソファーには鹿間さんが……というわけではなく、俺を座らせてから受付でもらったカードを回収すると「少し待ってて」と部屋を出て行ってしまった。
そうして数分も経たないうちに再びドアが開かれる。
「ハハ、お待たせ。悪いね、待たせちゃって。……あ、コーヒー飲める? 飲めるよね」
「あ、はい……すみません」
「ハハハ、何もそうかしこまらなくても。緊張してる? そりゃしてるか」
何をしに部屋を出たのかと思えば、どうやらコーヒーを持ってきてくれていたらしい。
それを俺の前に置くと、今度こそ鹿間さんは俺の向かい側に座った。
いまだにどんな人かつかみかねるが、よく喋るしよく笑う人だ。
少なくとも悪い人……というか変な人ではなさそうなので少し安心する。
鹿間さんは自分用のコーヒーを一口すすると、すぐに話し始めた。
「ではでは……改めまして、水瀬君を担当する鹿間です」
「あ、よろしくお願いします」
鹿間さんのお辞儀に合わせてこちらも軽く会釈する。
それを契機にとばかりに鹿間さんはまた話し出した。
「さてさてじゃあ早速本題に入っていこうと思うんだけど……あ、研修費の方は水瀬君もう支払い済んでるんだね。じゃその辺の費用周りの話はすっ飛ばしていいか」
「はい……はい? え、研修費!?」
お金かかるの!?
そしてもう支払われてるの!?
「ん? あれ……違った?」
「あ、いや……たぶんそうなんだと思います」
「……たぶん???」
鹿間さんはよく分かってないまま「まぁいいか」と頷いた。
それをよそに俺の脳内ではイマジナリー姉さんが「グッドラック!」と親指を立てていた。
本当に姉さんには頭が上がらない。
「じゃまぁ、その辺の話は飛ばすとして……明日からの一週間、水瀬君にはダンジョンに潜ってもらいます。一日一つね」
「ダンジョンに潜っ……て、いきなり!?」
「はい。いきなりです!」
俺のリアクションが新鮮なのか、楽しむように説明を始める。
「研修って言っても、要はスキル覚醒するかどうかってだけの話だからね。ダンジョンに潜らないと何も始まらないわけさ。ダンジョンですることなんて言うのは戦って勝つってことくらいだから、わざわざ教えることも特にないんだ。あ、もちろん最低限必要な知識は教えるからね!」
「はぁ……」
言われてみればその通りのことなのだけれど、やっぱり感覚としては不思議な感じだ。
「さて、と……まずは研修の大まかな流れを教えさせてもらうね」
「はい……」
「まず研修っていうのは一週間、七日にわたって七つのダンジョンを攻略してもらうんだけど……その際には指導役のクリーナーと、そして君を含めた十人の研修生で行うんだ。指導役は毎回変わるけど、どれも経験豊富なC級クリーナーだから安心して。君たちの安全は約束するよ。そして研修生は、今回ボクが担当することになった十人……つまり同じメンバーで行うんだ。時には連携が必要になるからね。もしスキル覚醒者がこのメンバーから複数人出たらできるだけ同じ攻略隊になるように手配することになるから、仲良くなっておいて損は無いよ。そして最後に……一番重要なこと、要はクリーナーになれるかどうかに関わることなんだけど……」
「…………」
「この七日間……この七日間のうちにスキル覚醒すれば、そのままウチ所属のダンジョンクリーナーになります。そして目覚めなかった場合……ダンジョンクリーナーになることは諦めてもらうことになります。再挑戦の機会も与えられません」
再挑戦の機会が無い、というところで息が詰まる。
以前いくつも経験してきた「試される場」。
この研修がそうだというのだ。
「えと……なんで七日、なんですか? 七日で目覚めない人はもうスキル覚醒はありえないってこと、なんでしょうか?」
俺の質問に鹿間さんは首を横に振る。
「いいや。実際はね、だれでもダンジョンに潜っていればスキルに目覚めるんだ」
「じゃあどうして……?」
「環境がある程度整っているとはいえ、それでもダンジョンは死がすぐ近くにあるということを忘れちゃならない。華々しい話題の方が記憶には残りやすいかもしれないが、毎年かなりの死者が出てるんだ」
「……」
「七日間のうちにスキルに目覚めない人、そういう人のダンジョンに対する適応力ではまず生き残れない。だからこの七日間のルールは厳しく設定されているんだ」
七日間……。
当然ダンジョンなどとは縁遠い生活をしてきたので、それがどのくらいの数値設定なのかわからない。
しかし、やっぱりどこか自信は持てないのだった。
「ま、そんな顔しないで! せっかくこうして足を運んでくれたんだから、今はもっと前向きでいよう。な? クリーナーになれるなれないは別にして、この研修自体いろいろ経験できるから! やっぱさ、ダンジョン内だからこそ味わえる達成感とか楽しさとかももちろんあるわけよ! これに関しちゃ気負っても仕方ないから……だからどうか、この七日間を楽しんでくれると嬉しい」
あちこちで、慰められたり励まされたりしてばかりだ。
やっぱり俺は情けない。
けど、この人が担当者でよかったと、心からそう思った。
重力から引き剝がされるように、異次元へと飲まれる。既に慣れ親しんだ感覚がいつもより重い。しかしそれは錯覚に過ぎず、ただ俺の心の不安が体さえも重く引きずっているだけだった。 一呼吸が終わらないうちに、光の奔流から吐き出され視界がひらける。次の瞬間、俺は体育館の床を踏みしめていた。「待っていましたよ」 俺が皐月の姿を捉えるよりも早く、冷たい声が耳元をかすめる。その確かに聞き覚えのある声に、内臓が縮み上がるかのようだった。この感覚は……恐怖に他ならない。 先生、俺たちができるだけ出会いたくない相手……。そして……きっと会うだろうという予感のあった相手……。 その声に呼吸は凍てつき、しかしこうなった今その顔を見上げるしかなかった。「今度は体育館に直通ね……。ま、何となくそんな気はしてたけど……まんまと私たちは誘われてきたわけだね」 皐月は先生と、それからその傍らに立つ春の方を見ながらため息を吐く。ただ、そのため息に絶望や失望の感情はこもっていなかった。「そういうわけだから、お誘い通りちゃんと来てあげたよ……先生……?」「ふふ……」 皐月の視線を受けて先生は笑う。春はただ縋り付くようにその腕に抱かれていた。「まぁ、わたしとしては別にどちらでもよかったのですが……手間が省けましたね。どのみちそこの忌々しい男は殺しますが……あなたはその限りではないのですよ?」 先生はこんな事態に至ってもまだ”慈悲深い指導者”を気取っているのか、皐月に憐れむような眼差しを注ぐ。それに皐月は言葉でなく、ただ中指を立てることで答えた。 決して臆さない皐月の姿に勇気づけられて、俺も先生と春の方へ一歩踏み出す。そして一目で作り物と分かる張り付いた微笑みを睨みつけた。「なぁ、今外で何が起こってるか……知らないってことはないよな? あんた、いったいみんなに、春に、何やったんだよ……先生……?」「先生……この立場と呼び名に関しては気に入っていましたが……あなたに呼ばれると不愉快極まりないですね。あなたが我が物顔で生きているだけで、今この瞬間わたしの聖域で呼吸をしているだけで気分が悪くて仕方がありません。ですが、あなたも所詮憐れな人形……わたしが何をしていたか、教えてあげましょう。そしてその上で全てを奪い去ってあげましょう」 先生もまた、こちらに一歩踏み出し
春の背中を追って凍り付いた地面の上を走る。自身の体重が足元に響く感覚が希薄で、妙な感触だった。ただもう流石に慣れても来たので足を滑らせるようなこともない。「春っ……!!」 交わした言葉も、共有した時間も少ない。それでも俺の声できっとその脚を止めてくれるだろうとその背中に呼びかけた。「……っ」 俺の声はその背中にしっかり届き、春をこちらに振り向かせる。その瞳は俺と、それからその隣に居る皐月を映した。「よかった……」 俺の声に反応してくれたことにひとまず安堵する。春の歩みも緩み、ややつまずくような形で氷の上を滑る。その前のめりになって転倒しそうになる背中に手を伸ばした。「春……見つけられてよかった。春も分かってると思うけど……今起きてることは普通じゃない……それで……」「それで、あの”教室”へ向かうのはやめて。黒幕はあそこの……先生だから」 焦りや感情が先行してしまっていた俺の言葉に、皐月が淡々と付け加える。春はアスファルト上に張った氷に踵を踏ん張らせてぎりぎり転倒を免れる。そして……。「分かってる。分かってるよ……そんなこと」 その肩に届こうとしていた俺の手を、春は振り払った。そしてすぐに、こちらから視線を外して再び走り出してしまう。「ちょ、春……!? だからダメだって……!」 とっさに引き留めようと言葉を吐き出すが、もう春は俺の声に応じない。どれだけ力を込めたとしても中学生の少女の腕力、しかしその明確な拒絶は物理的に伝わってくる衝撃以上の痛みをもたらした。「水瀬、悪いけど気遣ってられないから……ちょっと乱暴するよ……」 突然の拒絶に思考停止状態に陥ってしまっていた俺とは対照的に、皐月は冷静に手を下す。皐月は走り去ろうとしている春の背に手を伸ばすと、手のひらの中心から放出するように氷の結晶を撃ち出した。そのままの勢いで春を貫いてしまいそうな氷の結晶は、しかし命中する寸前で網のように広がり春に絡みつこうとする。が……。「……」 瞬間、鋭い光が氷に包まれた路地で跳ね返る。枯れ枝のように、血管のように大気を焼け焦がす、稲妻。それは一瞬だけ眩く輝くと、密度の薄い煙になった。電撃によって砕かれた結晶が、散らばって凍った地面を滑る。それは俺たちのつま先にこつりとぶつかって、役目を終えたようにすぐに溶けてしまっ
ビルの陰から、通路の奥から……人の背丈の1.5倍ほどの怪物が這い出して来る。それらは少し前までは確かにここにあったはずの日常を瞬く間にむしばんでいった。どこかで誰かの悲鳴がする。その声すら搔き消すように、クリーナーたちの放つ攻撃が迸った。 皐月はその状況に退屈そうにため息を吐く。「はぁ……どいつもこいつも大したことなさそうな奴ばっか。そんなに面白くなさそうだね」「お、おい……そんなこと言ってる場合かよ……」「大丈夫……。ただ、いくら元人間って言ったって……少しくらいは痛い目見てもらうけどね」 皐月は俺の言葉にそう答えると、眼前で繰り広げられる戦場へと一歩踏み出す。そのつま先がアスファルトを叩いた瞬間、そこを中心に花弁が開くかのように地面が凍結していった。「……っ」 初めてちゃんと見る皐月の能力に息をのむ。凍結、という点では俺の使えるものとも同じだが……その影響範囲はこの数秒にも満たない時間で俺のものを優に超えていた。 地表を伝って広がっていく凍結はその結晶を成長させながら都市全域に広がっていく。その氷の結晶は魔物たちの動きを制する檻となった。「ま、足止めするってだけならこれで十分でしょ。あとは撃ち漏らしを個別に処理するだけ……」 幾分か寒くなった廃都近縁で、あまりにもあっけなく場を収めて見せた皐月は悠々と残りの仕事を片付けるために歩き出す。先ほどまで魔物と交戦していたクリーナーたちも、突如凍結した魔物を前にその手を止め、その眼差しを皐月に注いだ。「おい、あれって……」「皐月無垢、だよな……?」 惨状が一転、瞬く間に静寂に包まれた都市にクリーナーたちが口々につぶやく声が響く。「水瀬、ほら行くよ。まだ自由に動けてる魔物も居るはず、それに……まだ魔物になってない人も、まだまだ居るはず。ここはまだ安全とは程遠いんだから、気を緩めないで」「あ、ああ……分かった……」 皐月は周囲の人々の注目にうんざりしたような表情を浮かべ、少し入り組んだ路地の方へ逃げるように駆けていく。俺も数センチの厚さの氷が張った地面の上で滑りかけながらもその後を追った。「なぁ、皐月……あの魔物たちって、その……戻れるのか?」 残党を探す皐月の後ろに続きながら、尋ねる。皐月はそれ自体にはさして興味なさそうに「さあね」と答えた。「……でも、あの先生が
「……外が……」 まだ鹿間さんとの電話途中だが、少し外が騒がしくなってくる。皐月もそれが気になったようで、窓際に寄り下の景色を眺めた。『……すまない、水瀬くん……。ちょっと、こっちの方でも……対応しなきゃいけない事態みたいだ……。ちょっ……』 鹿間さんの方でも何かが起き始めているのか、電話に鹿間さん以外の不明瞭な声が割り込んでくる。その後『済まない、とにかく二人は……今は念のため外に出ないでいてくれ』とだけ言って、電話が切れてしまった。「あっ……」 いったい何がどうなっているのか。もう誰ともつながっていない電話をポケットにしまい、窓際の皐月に歩み寄る。そしてその肩越しに街並みを見下ろすと……。「なんだ……これ……」 朝の静けさの中にあった街の状況は、一変していた。「魔物だ……。それも、一体や二体じゃない」 皐月はホテルの外に広がる光景を冷静に言い表す。あの教室を除けばゲートすら存在していなかったこの廃都近縁に、多数の魔物が現れていた。大きさや姿はまちまち、ダンジョン内部の魔物に見られるような一貫性が……ここに突如として現れた魔物たちにはなかった。「あ、おい……皐月……!」 この状況を見るなり、皐月は部屋の出口へ駆け出してしまう。その肩を引き寄せようと手を伸ばすが、俺の指先はぎりぎり届かなかった。「待って、皐月! 鹿間さんが待ってろって……!」「知ってる。聞こえてた。水瀬は……言うとおりにしたいって言うなら、ここで待ってればいい。けど……結局私たちが何のためにここに来てるのか、やらなきゃいけないことが何なのか……後悔しない選択をした方がいいよ」「それはっ……」 一度は足を止めた皐月だったが、俺を試すかのような一瞥をくれると……いよいよ外へ駆け出してしまった。「それは……そう、だけどさ……」 ホテルの部屋のドア。そこを潜り抜けてしまえば、俺はおそらく……この混沌の渦中に放り込まれる。鹿間さんの命に背いてだ。今思えば……こういう時の皐月を引き留めるのも、鹿間さんが俺に期待した役割だったのかもしれない。 あのドアの向こうへ俺も行きたい。一度踏み出してしまえば、ある意味では……楽になれるのだ。けれど……。「……ふっ」 うじうじと得意でもないのに色々と考える俺が、少しばかばかしくなってくる。そうだ、この期に及ん
鹿間さんには、部屋で皐月と一緒に居たときに連絡をした。電話をかけたのは俺だが……実のところ状況の説明はほとんど皐月が行った。鹿間さんは……正直俺たちの報告には終始半信半疑といった感じだったが、なんにしてもすぐに対先生に動けるわけでもないのでひとまず後日にということになった。そして現在……。「……」 現在朝七時、不規則な生活リズムを強いられる今回の任務では珍しく……まだ早いうちから勝手に目覚めていた。いまいち気が休まらなかったようで、感覚としてはまだ昨日と地続きで日付を跨いだ感覚が希薄だ。 あの少年が俺たちのホテルを知っていた以上、先生もここを知っている可能性は十分あったが……結局ここを襲撃されるようなことはなかった。まぁ別にそればかりを気にしていたわけでもない。俺の頭の中を占めていたほとんどのことは、これからどうなるかということよりこれまでのことだった。 あの不思議な教室、春との出会い、先生の見せる夢……。特にあの夢、今でも曖昧ながらその内容を覚えているが……あの光景に覚えはない。しかし不思議と、心を動かされたのだ。あの時の感覚が、未だ胸に微かな言葉にしがたい感情を残している。 いろいろと経験した俺たちに鹿間さんから下された指令は「一旦待機」だ。しかしこうして部屋で一人思いを巡らせるのもなんだか気が滅入る。まるで水中から息継ぎをするかのようにカーテンを少し開いて外の景色を眺めると、昼間の活気に少し疲れた心を元気づけられるような気がした。「なんだかなぁ……」 ここに来てからずっと、何かが心に引っかかっているような感覚がある。結局、少年少女たちは……何を求めてあの教室へ行っていたのだろう?先生の夢に一度落とされた今……彼らの乾きに近いものを少し理解してしまったようで、それが俺の心をかき乱しているのかもしれない。 窓の外を何を見るでもなく見つめていると……。ガチャリ……。俺の部屋の鍵が、一人でに開く音がした。「……!」 まさか先生が律儀に入り口から「お邪魔します」なんてことはないだろうが、少し身構える。当然この部屋の鍵を持っているのは俺しかいない。この場合考えられる可能性としては……ホテルの従業員とかなんだろうが、なんにせよ今は状況が状況だから少し過敏になっていた。それに……従業員ならいきなりノックもなく解錠って
ホテルまで戻ってきた俺と皐月は、とりあえず俺の部屋に集まって今後について相談していた。俺は備え付けの机の椅子に、皐月はベッドの上に腰かけている。「それで……皐月的には……実際、あいつってどうなんだ?」「どうって……?」 あの教室の主であり、不可解な力を操る”先生”。目まぐるしく変わる状況の中でも一応確認していたが……やはり先生にインベントリは見られなかった。皐月が言っていたように、彼女はクリーナーじゃない。「俺からすれば……その、皐月ほど練度が無いから……具体的にあの先生がどれだけの脅威なのか分からないんだ。皐月が焦ってるみたいだったからなんかやばいんだなとは思ってたけど……」「はぁ……大人のくせに情けない……」「う、ごめん……」「別に謝られても……。でも、何回も言ってるけど……あれは人じゃない。魔物でもない。本当だったら……」 皐月はこちらに顔を近づけるように少し身を乗り出す。「本当だったら……たぶん私たちが近づいちゃいけない存在。生物として……根底からレベルが違う……」 皐月の語り方もあって、それはまるで怪談のようだった。そして、と皐月は付け加える。「……あの、私たちをここまで送り届けた……白髪の男もね……」◇◇◇「どうして彼らを逃がしたのですか……?」 荒れに荒れた教室の中、恨めしそうな先生の声が響く。先生は机やいすの散乱した床の上、砕けたガラス片がその身を傷つけるのも気にせずへたり込んでいた。その瞳は虚ろで、何も映さず、ただ虚空を見つめている。その虚空に……音もなく突然白髪の少年が姿を現した。「あーあ、こんなに散らかしちゃって……。……よっと……」 少年は倒れている椅子を起こして、それに腰かける。そうして先生を見下ろした。「分かってるでしょ、えっと……白さん、だっけ? ま、なんでもいいけど。あれで君が手を出してたら……死ぬのは君だったよ? 協定を忘れたわけじゃないんでしょ? だったら君も……”人の理”に準ずるべきだと思うけど? 一度は……君だってその条件を飲んだはずだ」「……ふざけないでください。あんな形ばかりのもの……誰が気にかけるというのですか? あなただって……いえ、あなたは……そうでしたね……」「そ、僕はそんなのどうでもいい。最初からね。まあそれなら協定を気にかけてるってことにもならないのかも