Mag-log in一方、先に病院を出た三人は――病室を出て少し歩いたところで、明里が前を歩く大輔に声をかけた。「空港から直接来たって言ってたけど、自分で運転してきたわけじゃないよね?」「ああ、うちの運転手が迎えに来てくれてたから、今外で車で待ってるよ」「じゃあ、送らなくていいね」明里はほっとして言った。「ゆっくり休んでね。長旅の疲れが取れたら、また連絡して」「ああ」駐車場でそれぞれの車に乗り込み、彼らは帰路についた。走り出した車内で、潤は低い声で明里に尋ねた。「本当に、あいつと食事に行くつもりなのか?」「いけないの?」「俺に一言の相談もなく、か?」「ただの友達と食事するのに、いちいちあなたの許可がいるの?」明里は小さくため息をついた。「以前もこの話はちゃんと話し合ったでしょ。大輔は古くからの友達だし、ゆうちっちの大切な人でもあるし――」「なら、俺も一緒に行く」「別に行っていいと思ってるわよ」明里はあっさりと言った。「どうしても来たければ、どうぞ」潤は何も答えず、窓の外に目を向けた。その横顔は、明らかに不機嫌だった。「やめてよ、そういう態度。せっかく樹が目を覚まして、みんなすごく嬉しい気分だったのに。変なところで水を差さないで」「遠藤が帰ってきたことも、お前にとっては嬉しかったんじゃないのか?」「それ、どういう意味?」明里の声も冷たくなった。「昔からの友達が海外から戻ってきたら、普通は嬉しいに決まってるじゃない。何かおかしいこと?」「お前な……」潤はちらりと明里を睨みつけてから、苛立たしげにまた窓の外を向いた。前の運転席では、お抱えの運転手がなるべく自分の気配を消そうと必死に息を潜めていた。今すぐ仕切りガラスを上げたかったが、この険悪な空気の中ではそれすらためらわれた。明里は他人の前で、ましてや運転手の手前、これ以上言い争いたくなかった。彼女も無言で反対側の窓の外を見た。潤も黙って外を見ている。後部座席の両端でそれぞれが意固地に黙り込み、二人の間にはまるで見えない壁があるようだった。重苦しい空気のまま家に着くと、潤が運転手に向かって短く言った。「お疲れ様でした」運転手はこれ幸いとばかりにすぐさまエンジンを切り、静かにドアを閉めて足早に去っていった。車内に、夫婦ふたりきりが残された。明里が重い
久しぶり、か。潤は内心で冷ややかに毒づいた。お前なんかと一生顔を合わせなくたって、こちらは別に痛くも痒くもないんだけど。彼は口元だけに取り繕った笑みを作り、応じた。「本当に久しぶりですね。遠藤社長、最近はいかがですか」「おかげさまで」大輔は短く返し、視線を外さずに言った。「二宮社長こそ、お気遣いどうも」表向きはビジネスライクで穏やかな会話に聞こえるが、互いに交わす言葉の端々には、鋭い棘が隠されている。不穏な空気を感じ取った明里が潤の隣に身を寄せ、そっと彼の袖を引いた。「ほらほら、みんな行って行って」胡桃がパンパンと手を叩いて割って入った。「先生もちゃんと休ませろって言ってるんだから。彼、まだ目が覚めたばかりなんだし、これ以上無理させないでよ」「とりあえず、無事に起きた顔を確認できたから安心したよ」大輔は樹のほうを見て言った。「じゃあ、俺は今日はこれで先に失礼する」それから、大輔は明里に目を向けた。「アキ、近いうちに飯でも食わないか。しばらくは国内にいるから」「うん、いいよ」「ゆうちっちも連れてきてくれ。俺が会いたがってるって伝えて」「わかったわ」すると、潤がすっと手を伸ばして明里の肩を抱き寄せ、これ見よがしに言った。「ああ、実はまだ伝えてなかったんだが。近いうちに、ゆうちっちに妹ができそうなんだよ」大輔の視線が、一瞬だけ鋭く明里のお腹へと向けられた。明里が困ったように潤の脇腹をそっと肘で突いてから、慌ててフォローした。「まだ月数が浅くて、男の子か女の子かも全然わからないのよ」大輔は再び明里の顔を見た。「……おめでとう」ベッドの上の樹も、かすれた声で口を開いた。「本当か?いいな、もし女の子だったら、将来はうちのさっちゃんのお嫁さんに――」「余計なこと言わないの」胡桃がぴしゃりと遮った。それから三人のほうを振り向いた。「はいはい、解散、解散!」三人は連れ立って、ようやく病室を後にした。広いスイートルームの病室に残されたのは、胡桃と樹のふたりきりだった。「疲れたでしょ」胡桃は背後のクッションを取り、「少し寝なさいよ」と彼を促した。樹は胡桃の顔を食い入るように見つめ、瞬きも惜しむようにその姿を見つめていた。「眠くない。あんなに長いこと寝てたんだから、もう一秒だって寝たくない」
でも主治医によれば、目を覚ましさえすれば、あとは食事と適切なリハビリで徐々に元の体に戻っていくという。そこまで大した時間はかからないだろうとのことだった。潤は奥の病室に残り、樹と男同士で話をしている。明里は胡桃を廊下に連れ出すと、気がついたときには彼女を強く抱きしめていた。そして、そのまままたぼろぼろと泣き出した。胡桃がこの百日間、どんな地獄のような日々を過ごしてきたか。口ではいくら強がって何と言おうと、心の中ではどれほど胸を痛めていたか――他の人には見えなくても、親友の明里には痛いほどわかっていた。胡桃という人間のことを、誰より深く知っているから。朔都に新しいパパを探すなんて、絶対にただの嘘だ。もしもそのまま目を覚まさなかったとしても、胡桃は一生彼のそばにいただろう。決して離れることなく。樹が胡桃を守ろうとして傷ついたから、という理由がなかったとしても、胡桃は絶対に彼を裏切れない人なのだ。胡桃が樹をどれほど深く愛しているか、明里にはわかりすぎるほどわかっていた。だからこそ、ずっと心が締め付けられるように痛かった。もしも樹が目を覚まさなかったら、大切な親友の人生がこの先どうなってしまうのかと、想像することさえ恐ろしかった。「もう大丈夫よ」胡桃が明里の背中を、慰めるようにぽんぽんと叩いた。「なんであなたが泣いてるのよ、もう。たとえ彼が起きてこなくても……」「それ以上、変なこと言わないで!」明里は胡桃の体を少し突き放してから、ぐずりと鼻をすすった。「ほんとに強がりなんだから!」「はいはい」胡桃はそっと明里の鼻の頭を指で弾いた。「めでたしめでたし、でしょ?」そうして廊下で話していると、入口のほうで何やら気配がした。二人が同時に顔を向けると、明里は驚きに目を丸くした。胡桃も一瞬、信じられないように固まった。「なんで来たの?仕事で国外にいるんじゃなかったっけ?」そこに立っていた大輔は、長旅の疲れを滲ませながらも、相変わらず目を引く端正な佇まいだった。大輔の視線はまず最初、明里のほうへと流れた。でもすぐに胡桃へと移される。「今さっき飛行機を降りたら、母から泣きながら電話がかかってきて。目が覚めたって」「うん、さっき覚めたばかりよ」胡桃は言った。「入って、顔を見てあげて」大輔は短く頷き、それから再び明
話すペースはほぼ以前と同じに戻っていたが、まだ喉の奥がかすれていた。胡桃は気づけば、弾かれたようにベッドへ駆け寄っていた。崩れ落ちるようにベッドの縁に身を伏せ、まだ弱っている彼に直接触れるのはためらわれ、声を上げて激しく泣きじゃくった。事故直後のあの数日を除いて、胡桃は誰の前でも決して取り乱さなかった。一滴の涙を見せたことさえなかったのだ。でも、誰も見ていないところで、いったい何度泣き明かしただろう。樹がこん睡状態で眠り続ける中で、胡桃は初めて痛感した。自分がいかに弱く、彼なしでは生きていけない人間であるかを。「く、るみ……っ」今の樹の体には、すぐに動かせるほどの力が戻っていない。体中の筋肉が固まっており、自力で起き上がることすら困難だった。でも、胡桃が泣いている。すぐそばで、身を震わせて泣いている。そんな姿を見せられて、ただ横たわっていることなど耐えられるはずがなかった。彼女は、樹がこの世で誰よりも大切にしている人なのだ。先ほどの医師との短い会話から、自分が何ヶ月も意識を失っていたことを知った。百日以上もの長い間。その間ずっと、ひとりで傍に付き添ってくれていた胡桃が、どれほど恐ろしく、どれほど辛い思いをしてきたか。胡桃の頬に手を伸ばして触れると、指先に彼女の温かい涙がしっとりと馴染んだ。ベッドに手をついてどうにか起き上がろうと試みたが、体にはそれを支える力がほとんど残っていなかった。「胡桃」樹の胸がきゅうっと締め付けられた。「泣かないでくれ……」胡桃は彼の大きな手を両手で包み込み、自分の濡れた頬に押し当てた。「樹、樹……っ」「ここにいる、俺はずっとここにいるから」樹は胡桃の涙を指の腹で優しく拭いながら言った。「もう二度と離れない。本当だ、約束するよ」「この、人でなし……っ」胡桃の悪態は小さくなり、やがてしゃくり上げる泣き声の中へと完全に飲み込まれた。樹はどうにか体を横向きにすると、胡桃の体を腕の中に強く引き寄せた。もう、何も言葉は出てこなかった。あふれ出る涙が、胡桃の豊かな髪の上にぽたぽたと落ちていく。二人がそうしてどれくらい泣き続けていたのか。やがて連絡を受けて慌てて駆けつけた家族たちの声によって、その二人だけの時間は断ち切られることになった。黒崎家にとっても、胡桃の家族にとって
トイレから戻ってきた胡桃は、ベッドの縁に静かに腰を下ろすと、樹の指先をそっと握り、爪を切り始めた。前はあまり気に留めていなかったけれど、爪が伸びるスピードは意外と早い。一週間に一度は切ってやらなければならないくらいだった。「昔はこれ、あんたが私の爪を切ってくれてたのよね。やってるとき、内心で『手のかかる女だ』って悪態ついてたんじゃないの?ふふん、今は立場が完全に逆転したんだから、せいぜい王様気分でも味わいなさい」切り落とした爪をティッシュに包み、もう片方の手へ持ち替える。「ほんと、絶対に自分が損をしたくない人。昔は、私のこと、我が儘でひどい女だと思ってたでしょ。でも、今はわかったわ。あんたはずっと、私のことを待っていてくれたのよね。いい?いつまでも起きてこないなら、さっちゃんに別の男の人を『パパ』って呼ばせるんだから!」その時、胡桃が「あっ」と短い悲鳴を上げた。すぐに綿棒を取り出し、樹の指先にそっと当てる。切る角度がわずかにずれ、爪の横の皮膚を少しだけ切ってしまったのだ。数分間押さえてから綿棒を離すと、血はもう止まっていた。血のついた綿棒をゴミ箱へ捨てようとして、ふと顔を上げた胡桃は、はっとして視線を樹の手に戻した。――気のせいだろうか。今、樹の指先が、かすかに動いたような気がした。じっと、その手を見つめる。息を潜めてしばらく待ってみたが、何も起きなかった。やっぱり、単なる見間違いだ。でも、その一瞬の期待で、胡桃の目はすでに赤く潤んでいた。綿棒を投げ出し、ぐずりと鼻をすする。「黒崎樹、このバカ!起きてきたら、すぐに出ていってやるから!男の人を十人でも二十人でも……そうよ、いい男をずらっと侍らせてやるわ!私、お金ならいくらでも余ってるんだから!私と結婚したい?寝言言わないでよ!こうやって起きないでいれば、一生私を罪悪感で縛り付けておけると思ってるの?そんなこと、絶対にさせないからね!さっちゃんに新しいパパを作るって言ったの、冗談で言ったんじゃないんだから!もう帰る。あんたの顔見てるとイライラする!」口では憎まれ口を叩きながらも、胡桃は丁寧に布団を引き上げ、樹の肩までしっかりと掛けてやった。腕もしまってやろうと手を伸ばした瞬間――また、彼の指先が動いた。胡桃は大きく目を見開いた。声が震え
啓太が本気で優香を振り向かせようとするなら、それは並大抵の苦労ではないだろう。潤から優香の冷ややかな反応を聞かされた啓太は、静かに言った。「わかってる。俺が何をしても、なかなかあの子の心には届かないかもしれない。でも、何も試さないまま諦めるなんて絶対に嫌なんだ。三ヶ月の約束は、まだ二ヶ月以上も残ってる。その間にどうにもならなかったとしても、『やれるだけのことはすべてやった、もう悔いはない』って自分自身で思えれば、それで十分だよ」そうまで言われては、潤にもこれ以上かけられる言葉はなかった。「……まあ、頑張れよ」ここまで来ると、潤や明里の口添えを頼りにしてもどうにもならない。優香の心を動かせるのは、自分自身の行動しかないのだと、啓太は痛いほどわかっていた。その頃、明里は妊娠の初期症状で少し体調を崩していたが、親友の胡桃に会ってからはずいぶんと元気を取り戻していた。数日後、明里は学校での仕事を終えると、そのまま胡桃のいる病院へと向かった。しばらく彼女の顔を見ていなかったのが、気がかりだったのだ。毎日メッセージは送り合っていても、やはり直接顔を見て無事を確かめないと落ち着かない。「妊婦が気軽に来る場所じゃないでしょ」胡桃は病室に入るなり、明里の顔を見て小言を言った。「ここは病院なのよ?」「ちゃんとマスクしてるから大丈夫よ」「それでもダメなものはダメ」胡桃はきつく言う。「何か用があったら電話してくれればよかったのに、なんでわざわざ来るのよ」「直接顔を見ないと、心配なんだもん」明里は笑って言った。「樹の具合はどう?」「相変わらずよ」胡桃はベッドで眠る夫を見てため息をついた。「寝てるのがよっぽど気に入ったみたいで、まだ目を覚まさないの」「絶対に起きるよ。胡桃をこれ以上待たせすぎたくないって、樹だってきっと心の中で思ってるはずよ」「それが、もう何ヶ月も待たせてるじゃないの」胡桃は唇を噛んだ。「このまま起きなかったら、朔都が『パパ』って呼ぶ相手もいないまま終わっちゃうわ」「さっちゃん、もうおしゃべりできるの?」「無意識にだけど、ときどき『ママ』ってぐずったりはするようになったわ」胡桃はスマホを取り出した。「動画があるんだけど、見る?」胡桃が家を離れて病院につきっきりなため、明里は樹の親族など、よく知らない人た
陽菜はとある少女を見つめて言った。「あなたは、本当に彼女に言ったの?」「ええ、言ったよ。彼女、それを聞いてすごく怒って、はっきりさせ来るって言ってたよ!」とその少女は答えた。陽菜は黙り込んだ。どうやら明里の力量を少々見くびっていたようだ。まさか彼女がいとも簡単に優香を丸め込んでしまうとは。優香はセレブの間では、誰もがちやほやする令嬢のような存在である。自分がいくら取り入ろうとしても、相手にさえされないというのに。それなのに、明里が自分にはできないことをいとも簡単にやってのけたことに、陽菜は苛立ちを隠せなかった。陽菜の目には、嫉妬の炎がより一層燃え盛っていた。
明里は手を伸ばしてグラスを受け取った。喉の渇きを覚えて、無性に水が欲しくなった。ゴクゴクと半分ほど一気に飲み干す。すると潤が自然な動作でグラスを受け取り、残りの水を飲み干した。同じグラスを使う――間接キス。本来なら何でもないことだ。これまで夫婦として、もっと親密なことを数え切れないほどしてきたのだから。でも今の二人は、長い間「あのこと」をしていない。しかも目の前には、上半身裸の潤がいる。明里には、彼がわざとなのか、わからなかった。視線をどこに向ければいいのかわからず、目が泳ぐ。潤は水を飲み干しても立ち去らず、なぜかソファの脇に佇んでいる。明里は堪えきれず
電話を切ると、湊は弁護士に連絡を入れた。手配を済ませ、ふと振り返ると、そこに潤が立っていた。一方、明里はタクシーを拾ったものの、心は焦燥感でいっぱいだった。彼女が慎吾に電話をかけても、向こうは一向に出る気配がなかった。向こうがどんな状況かは分からないが、女一人で乗り込むのは危険に決まっている。だからこそ、湊に電話をかけたのだ。幸いなことに湊は頼りになり、移動中に弁護士から連絡が入った。明里が慌てて住所を伝えると、相手からすぐに向かうとの返事があった。それを聞いて、彼女はようやく少し落ち着きを取り戻した。そして、すぐに目的地に着いた。以前、慎吾を訪ねて来たことのあ
「お姉さん、早く!潤さんが、お土産をたくさん持ってきてくれたんだ!それに……」慎吾は興奮した面持ちで言った。しかし、明里はそんな慎吾を冷たく一瞥した。すると彼ははっと息をのみ、言葉を失った。陽菜が立ち上がってこちらを見た。「あら、明里さん、いらしたの?お忙しいから、帰って来られないかと思ってた。明日からお正月でしょ?だから、潤さんと実家に寄った帰りに、ついでにおじさんとおばさんにもご挨拶しようと思って来たの」潤が、陽菜の実家まで付き添って行っただと?隼人はどうしたんだ?それに、陽菜は一体どんなつもりで、自分の実家まで押しかけてきたのだろう?明里にその答えは分からなかった