LOGIN一冊の絵本が、なぜか成功者たちの人生を繋いでいた。 ノーベル賞受賞者、世界的な芸術家、著名な小説家——出身も年齢もバラバラなはずの彼らが、口を揃えて同じ絵本の名を挙げる。無名の作家・御厨透が遺した一冊。絵本に仕込まれた意図的な矛盾と、「試験」と呼ばれていた不穏な実験の痕跡だった。そこに名を連ねていたのは著名人だけではなかった。 疑うことを教えられた子供たちは大人になり、それぞ れ違う場所へたどり着いた。花になった者。棘になった者。そして記者は自分の名前もまた、その名簿にあったことを知る。 これは種を蒔かれた人間たちの、逃れられない記録だ。 ※先に短編集収録しているリンゴの童話を読んで下さい。
View More記事は、大きな反響を呼んだ。 埋もれていた研究者の存在。子供に矛盾を見せることで才能を引き出そうとした、風変わりな試み。 成功者たちの証言。 そして、光の当たらない場所で育った才能。 ――裏社会の男たちの存在。 倫理的な問題も含めて、記者は事実をありのままに書いた。美談としてではなく、功罪の両方を併記する形で。 記事は、感動的な発掘物語として、多くの媒体に転載された。 皮肉なことに、記者が最も書きたかった「功罪の両方」のうち、「功」の部分だけが切り取られ、拡散していった。ある番組は、御厨を「無名の天才教育者」として紹介し、記者を「その功績を発掘したジャーナリスト」として持ち上げた。 記者のもとには、取材依頼が相次いだ。 テレビ、雑誌、講演。これまで裏社会だけを追ってきた記者にとって、初めて浴びる種類の注目だった。かつて取材した化学者や芸術家からは、労いのメッセージも届いた。 誰もが、記者の仕事を称賛した。 ある夜、記者は自分の部屋で子供の頃の絵本を開いた。表紙の隅の、幼い自分の字。 「なんで四こなの?」 記者はその文字を、指でなぞった。 御厨は、疑うことを教えようとした。 だが、記者が今浴びているこの称賛は、疑いようのない成功の証として、世間に受け取られている。 誰も、記者自身が御厨の記録にあった人間だということには気づいていない。 それを記事の中に書かなかったのは、記者自身の判断だった。 自分は、御厨の記録の中で、どちらに分類されていたのだろう。 「丸」か。 「四角」か。 「三角」か。 それとも、「潜在」か。 答えは、もう誰にも分からない。 御厨は死に、記録の一部は失われ、確かめる術はどこにもない。 あの裏社会の大物も、詐欺グループの元幹部も、記者と同じように、自分がどこに分類されていたのかを知らないまま生きてきた。 だが、記者は気づいていた。 この記事を書き、世に問い、注目を浴びることができたこと自体が――疑うことを教えられた子供が、その疑いの力を使って何かを成し遂げるという、御厨の描いた筋書きそのものだったのではないか、ということに。 自分が暴いたはずの構造の中に、自分自身が、最後の証明として組み込まれていたのではないか。 私も、成功者になりえ
御厨透の晩年を知る人物は、もうほとんど残っていなかった。 記者は御厨が最後に暮らしていたという四国の小さな町を訪ねた。 海に近い、静かな町だった。 潮の匂いが路地の奥まで漂っている。 図書館は今も残っていたが、建て替えられ、当時の面影はほとんどなかった。町の空気には、記者自身の記憶の底にあるものと、どこか重なるものがあった。 当時を知る司書は、すでに亡くなっていた。 だが、その娘が近くに住んでいた。記者は彼女を訪ねた。 「父から、あの人の話は聞いたことがあります」 「どんな話でしたか」 「先生は、最後まで確信が持てなかったそうです」 「何にです?」 「自分がしていることが、正しいことなのかどうか」 彼女は、古いノートを見せてくれた。父が書き残していた、御厨との会話の記録だった。 『先生は、こう言っていました。私は子供たちに種を蒔いた。だが、その種がどんな花を咲かせるかは、私が決めることではない。ただ、何かが生まれることだけは分かっていた』 『先生は、それが恐ろしいとも言っていました。花か、それとも棘か。自分には見分けがつかない、と』 『晩年、先生は「潜在」に分類した子供たちを、特によく気にかけていました。他の子供たちには声をかけなくなっても、その子たちの消息だけは、最後まで調べ続けていました』 記者はノートを閉じた。 「先生は、後悔していたんでしょうか」 「分かりません。ただ、父の記憶では、最後の頃、先生はずっと同じことを呟いていたそうです」 「何と?」 「『疑うことを教えたつもりだったが、私自身が一番信じてしまっていたのかもしれない』」 その言葉を、記者は何度も反芻した。 御厨は、子供たちに型を疑うことを教えた。 だが、その行為自体が、彼自身の作った、もう一つの大きな型だったのかもしれない。 選ばれた子供たちは、疑うことを覚えたはずなのに、誰一人として「なぜ自分が選ばれたのか」を最後まで疑わなかった。 記者は、自分自身がそうだったことに気づいた。 彼女は最後に、もう一つのことを教えてくれた。 「先生の遺品の中に、最後まで完成しなかった原稿があったそうです」 「何の原稿です?」 「もう一冊の絵本の原稿です。タイトルだけが決まっていて、中身は白紙のまま
その夜、記者は実家に電話をかけた。数年ぶりの連絡だった。 母は最初、用件を聞いて戸惑っていたが、絵本の話をすると、しばらく沈黙した。 「……あの絵本、覚えてるの?」 「覚えてない。だから聞いてる」 「あなた、小さい頃、図書館によく通ってたでしょう」 「そうだったか」 「うん。近所のおばさんに勧められて。あの頃はよく分からなかったけど、作者が変わった人だったって聞いた」 「変わった人?」 「本を配って歩いてる人。近所じゃちょっとした噂になってた」 記者は受話器を握り直した。 「その人の名前、覚えてる?」 「みくり、さん……だったかな」 記者は目を閉じた。予感が、確信に変わっていく音がした。 「お母さん、俺、その人に会ったことある?」 「一度だけね。図書館の帰りに、声をかけられたことがあった気がする」 「何を話したか、覚えてる?」 「覚えてないわ。でも、あなた、その日から急に絵本の話ばかりするようになったのよね」 実家の押し入れを母に頼んで探してもらった。 数日後、宅配便で古い箱が届いた。中には子供の頃の作文やノートに混じって、一冊の絵本があった。 『まあるいリンゴ しかくいリンゴ さんかくのリンゴ』 初版本だった。表紙の隅に、幼い自分の字で、何かが書き込まれている。 「なんで四こなの?」 その一行を、記者は何度も読み返した。 自分もまた、あの矛盾に気づいた子供の一人だった。 そのことを、これまで完全に忘れていた。 ノートを繰ると、当時の作文が出てきた。 「しょうらいのゆめ」という題の作文だった。 「ぼくは、しんぶんきしゃになりたいです。うそをみつけるしごとがしたいです。えほんのりんごが、ほんとうはいくつあるのか、しらべるひとになりたいです」 拙い字だったが、記者はそれを読んで、しばらく動けなかった。 自分がこの仕事を選んだ理由の、いちばん奥にあったものが、そこに書かれていた。 記者は編集長に、これまで調べたことのすべてを報告した。 編集長は黙って聞いていたが、最後まで話し終えると、静かに言った。 「お前がこの取材の担当になったのは、偶然じゃない」 「知っていたんですか」 「お前の名前も、御厨の記録にあった」 「なぜ、最初に教えて
メモに書かれていた名前の一つを、記者は追った。 かつて摘発された広域詐欺グループの元幹部で、今は服役を終え、地方都市でひっそりと暮らしているという情報があった。 接触までにはさらに時間がかかった。 何度も断られ、ようやく会えたのは、場末の喫茶店だった。 男はやつれた顔で、記者の向かいに座った。 「新聞に、また何か書かれるのか」 「今日は違う記事です」 記者は絵本を出した。 男の表情が変わった。あの裏社会の大物と同じ、あの瞬間だけの変化だった。 「……懐かしいな」 「読んだことがあるんですね」 「図書館で、何度も」 男はしばらく黙って、表紙を見つめていた。 「俺は、影が…」 「影ですか?」 「母親と同じと思ったからだ」 「母親?」 「外面は良い母親だったよ、家の中では毎日罵声と暴力を振るう毎日だった、見た目と中身の違う様はリンゴの影と同じだろ。」 絵本の表紙には形が違う影が並んでいた。指で表紙の影に触れながら 「この影は人間性を描いてたのだろう」 記者はその言葉を書き留めた。 「あなたも、御厨先生に会ったことが?」 「一度だけな」 「何を話したんです」 「お前は、これからどうなりたいか、と聞かれた」 「答えは?」 「一人で生きていきたい、と言った」 男は笑った。自嘲のこもった笑いだった。 「先生は、それはいい、と言った。だが、どう生きるかではない、生き抜く方法を間違えるなよ、とも言われた」 「間違えた、と思いますか」 男は長い沈黙のあと、答えた。 「生き抜く方法、それが詐欺だった」 「後悔していますか」 「後悔はしていない。ただ、時々思う。もし、あの絵本を読んでいなかったら、俺はもっと平凡な人間になれたんじゃないかと」 記者はその言葉に、返す言葉がなかった。 「先生の記録に、『潜在』という言葉があるのを知っていますか」 「聞いたことがある」 「意味を?」 「先生は、こう言っていたそうだ。誰から聞いたかは忘れたが」 男は記者を見た。 「花が咲くとは限らない種でも、蒔かないよりはましだ、と」 「それだけですか」 「それだけだ。だが、蒔かれた種は、自分がどんな花になるかを選べない」 記者はその言葉を、何