潜在

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By:  森村征爾Updated just now
Language: Japanese
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一冊の絵本が、なぜか成功者たちの人生を繋いでいた。 ノーベル賞受賞者、世界的な芸術家、著名な小説家——出身も年齢もバラバラなはずの彼らが、口を揃えて同じ絵本の名を挙げる。無名の作家・御厨透が遺した一冊。絵本に仕込まれた意図的な矛盾と、「試験」と呼ばれていた不穏な実験の痕跡だった。そこに名を連ねていたのは著名人だけではなかった。 疑うことを教えられた子供たちは大人になり、それぞ れ違う場所へたどり着いた。花になった者。棘になった者。そして記者は自分の名前もまた、その名簿にあったことを知る。 これは種を蒔かれた人間たちの、逃れられない記録だ。 ※先に短編集収録しているリンゴの童話を読んで下さい。

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Chapter 1

第一話 奇妙な依頼

雨が降っていた。

夜の繁華街は、雨が降ると少しだけ静かになる。

人の声も、車の音も、水音に溶けて丸くなる。酔った客を乗せたタクシーが水たまりを跳ね、古びた雑居ビルの看板が濡れた路面に赤や青の光を落としている。ネオンの色は、水面の上でだけ本物より鮮やかに見えた。

記者は、その光の中を歩いていた。傘は差していない。差すのが面倒だったというより、雨に濡れることに慣れすぎていた。

この街を十年近く歩き続けていると、雨も夜も仕事道具の一部のように思えてくる。

今夜の取材相手は、表向きには飲食店をいくつか経営する実業家だった。市内に三軒の焼肉店と、二軒のバーを持っている。

地元の経済誌には「若手成功者」として何度か紹介されたこともある男だ。

しかし記者が追っているのは飲食店ではない。男が裏で動かしている違法賭博と、土地の買収、それに絡んだ政治家への裏金だった。

半年かけて集めた証言と資料は、すでに記者の中で一本の線としてつながっていた。あとは本人の口から、決定的な一言を引き出すだけだった。

事務所に入ると、男は一人で待っていた。応接セットのソファに深く腰かけ、テーブルの上には水割りのグラスが一つ。氷はもう半分溶けていた。壁には賞状めいた額がいくつも並び、どれも地元の商工会や青年会議所から贈られたものだった。

「遅かったな」

「時間通りです」

「新聞記者ってのは、もっと偉そうな顔をしてくるもんだと思ってた」

「偉そうにしたら、話してくれますか?」

男が笑った。

こういう笑い方をする人間を、記者は何人も見てきた。

相手を馬鹿にしているわけでもない。かといって親しみを持っているわけでもない。

ただ、こちらがどこまで踏み込んでくる人間なのかを測っている。

値踏みの笑いだ。長年この業界にいると、その笑いの奥にある計算まで見えるようになる。

「三年前の土地買収について聞きたい」

「何のことだ?」

「あなたの会社が買った土地のことです」

「合法だろ」

「土地を売った会社の社長は、翌月に海外へ逃げています」

「知らないな」

「その社長の借金を肩代わりしたのは、あなたのところでしょう」

男の笑顔が消えた。

ほんの一瞬だったが、記者はその変化を見逃さなかった。

記者は録音機をテーブルの上に置いた。

「質問を変えます。あなたは、あの土地に何を作ろうとしていたんです?」

「何も」

「では、なぜ警察官僚の親族が経営する会社を間に入れたんです?」

男はしばらく黙っていた。

やがて煙草に火をつける。紫煙が蛍光灯の光の中でゆっくりとほどけていった。

「新聞ってのは面白いな」

「何がです?」

「表に出ていることしか書けないくせに、裏にあるものを知ったような顔をする」

「だから調べています」

「調べても、分からないことはある」

「ありますね」

男は煙を吐いた。

「人間のことだよ」

その言葉の意味を、記者は深く考えなかった。

今夜のところは、証言と資料の裏付けが取れればそれでよかった。

人間の本質を語る男の台詞は、こういう場所ではよくある芝居のひとつだと思っていた。

取材相手はしばしば、こうした哲学めいた台詞で場を煙に巻こうとする。記者はそれに付き合わず、質問を重ねた。一時間ほどのやり取りの末、男はいくつかの重要な事実を、自分でも気づかぬうちに認めてしまっていた。

その夜の記事は、翌週の紙面に掲載された。

大きなスクープだった。

土地買収の裏に流れた金の流れが、政治家の名前まで浮かび上がらせた。編集部は色めき立ち、記者の机には祝いの缶コーヒーがいくつも置かれた。同僚の何人かは、次はどこまで踏み込むのかと期待を口にした。

しかし記者にとっては、いつもの仕事だった。

裏側を探る、嘘を見つける、表に出ていない事実を記事にする。

それが自分の仕事だと思っていた。十年近くこの業界にいて、そのやり方以外を知らなかった。人の善意を疑い、証言の矛盾を探し、資料の隙間を埋める。

それだけが、自分の得意なことだと思っていた。

だから翌朝、編集長に呼ばれたときも、次の事件の話だと思っていた。

「座れ」

編集長は机の前に一冊の本を置いた。

古びた絵本だった。表紙の端が擦り切れ、背表紙にはセロハンテープの黄ばんだ跡が残っている。

図書館の除籍本のようだった。

角には、かすかに子供の指の脂が染み込んだような艶がある。

記者は本を見て、それから編集長を見た。

「……何ですか、これ」

「見れば分かるだろ」

「絵本ですね」

「そうだ」

「俺、児童書担当じゃないですよ」

「知ってる」

「それに、昨日の記事の続きがあるでしょう。あの土地買収もう一段掘れば政治家本人まで届きます」

「他の記者がやる、お前はこの件を担当しろ」

編集長は一枚の紙を差し出した。そこには何人もの名前が並んでいた。

ノーベル賞受賞者。

著名な芸術家。

受賞歴の小説家。

建築家。

数学者。

音楽家。

宇宙工学の研究者。

記者は紙をめくった。錚々たる肩書きが並ぶ中、共通点を探そうとした。

「これ、何のリストです?」

「全員、出身が四国、年齢的にも皆が四十歳前後」

「……同じ出身地で、同じ世代?」

「そう」

「偶然でしょう」

「俺もそう思った、お前の出身と同じ四国ばかりだ」

編集長は絵本を指で叩いた。乾いた音が部屋に響いた。

「だから調べろ」

記者は表紙を見た、そこには三つのリンゴが描かれていた。

一つは丸い。一つは四角。一つは三角。

文字は幼児向けらしい丸みを帯びた字体だった。

タイトル。

『まあるいリンゴ しかくいリンゴ さんかくのリンゴ』

「売れた本なんですか?」

「いや」

「じゃあ、なぜ?」

「そこを調べろ」

「作者は?」

「御厨透」

「今は?」

「分からない」

記者は顔を上げた。

「分からない?」

「出版したあと、ほとんど表舞台から消えている」

「絵本作家なら珍しくないでしょう」

「この本しか出していない」

「一冊だけ?」

「ああ」

編集長は別の資料を出した。取材対象者の連絡先らしきものが並んでいる。

「この人たちにも聞いてこい」

「全員?」

「できるだけ」

記者はため息をついた。

「俺が聞くんですか?」

「そうだ」

「なぜ」

編集長は少しだけ考えた。

「お前は、人間の嘘を見るのが得意だからだ」

その言葉に、記者は黙った。

裏社会を十年取材してきた自分に対する、皮肉とも本音ともつかない評価だった。

編集長は続けた。

「ただし、今回は嘘だけを見るな」

「何を見るんです?」

「その人間が、何を見ているかだ」

意味の分からない指示だった。だが編集長の目は、いつもの取材依頼のときとは違う色をしていた。

何か具体的なものを知っていて、それをまだ言葉にしていない目だった。

記者は長年の付き合いで、編集長がそういう目をするときは、必ず何かを隠していることを知っていた。

その日の午後、記者は資料室にこもり、名簿の裏を取り始めた。

地元紙のデータベース、学会の記録、受賞者インタビューの過去の記事。名前を一つずつ潰していくうちに、共通点はもう一つ増えた。

全員が子供の頃に地元の図書館でこの絵本を読んだと、どこかのインタビューで一度だけ触れていることだった。

多くの場合、それはほんの一行、あるいは半行の言及に過ぎない。だからこそ、これまで誰も気に留めなかったのだろう。

最初の取材相手は、ノーベル化学賞を受賞した化学者だった。

大学近くの研究施設にある応接室で会った中年男性は、記者が絵本を取り出した瞬間、表情を変えた。それまでの、外部からの取材にありがちな儀礼的な微笑が、一瞬にして消えた。

「ああ……」

男性は絵本を手に取った。指先が、擦り切れた表紙の角をなぞる。

「まだ残っていたんですね」

「ご存じなんですか?」

「もちろん」

「この本が、先生の人生に影響を与えたと伺いました」

男性は笑った。どこか力の抜けた笑い方だった。

「少し違います」

「何がです?」

「この本は、人生を変えたわけじゃない」

男性は表紙を撫でた。

「自分の中にあったものを、見つけさせてくれたんです」

「自分の中に?」

「ええ」

記者は録音機を確認した。

「それは何です?」

男性は答えなかった。窓の外の中庭に目をやり、しばらく黙っていた。

「先生は、子供の頃にこの絵本を読んで、何を感じたんですか?」

「おかしいと思った」

「どこが?」

「全部です」

「全部?」

男性はページを開いた。

丸いリンゴ。

四角いリンゴ。

三角のリンゴ。

「あなたは、これを見て何を思います?」

「普通の絵本だと思います」

「そうでしょうね」

笑いながら、

「私も最初はそうでした」

男性はページをめくった。

「でも、ここを見てください」

文章には、

『リンゴが三つあります』

と書いてある。

絵には四つのリンゴが描かれていた。

記者は眉を寄せた。

「……間違いですね」

「そうです」

「印刷ミス?」

「当時の編集者もそう思ったでしょう」

「違うんですか?」

「違います」

ページを戻した。

「もう一度、見てください」

記者は絵を見る。

丸いリンゴ。

四角いリンゴ。

三角のリンゴ。

そして、もう一つ。

普通のリンゴ。

「この四つ目は、文章にはありません」

「ええ」

「でも、絵にはある」

「そう」

男性は絵本を閉じた。

「それを、私は子供の頃に見つけました」

「それが科学者になったきっかけですか?」

「いいえ」

男性は静かに笑った。

「それを見つけたあと、父に聞いたんです」

「何と?」

「なぜ、絵本の作者は四つ目のリンゴを描いたのか、と」

「お父さんは?」

「分からないと言いました」

「それで?」

「私は、それが悔しかった」

窓の外を見る男性。雨はまだ降り続いていた。

「何故作者がリンゴのタイトル通り三つではなく四つ書いたのか」

「だから作者と会う機会があった時に質問したんだ。ただ褒めてくれただけだったよ」

記者はそこで質問を止めた。

この人が言っていることは、あまりに単純だった。

子供が絵本の矛盾に気づき、それを追いかけて研究者になった。

よくある偉人伝の一節のようにも聞こえる。しかし何かが引っかかる。

あまりにも整いすぎている、という違和感だった。

取材を終えようとしたとき、男性が言った。

「あなたは、もう四つ見つけましたか?」

「何をです?」

「この本に隠されているものです」

記者は答えられなかった。

男性は笑った。

「別の人に聞いてみなさい」

「別の人?」

「きっと、違うものを見つけたと言うでしょう」

その日から、記者の奇妙な取材が始まった。

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第一話 奇妙な依頼
雨が降っていた。 夜の繁華街は、雨が降ると少しだけ静かになる。 人の声も、車の音も、水音に溶けて丸くなる。酔った客を乗せたタクシーが水たまりを跳ね、古びた雑居ビルの看板が濡れた路面に赤や青の光を落としている。ネオンの色は、水面の上でだけ本物より鮮やかに見えた。 記者は、その光の中を歩いていた。傘は差していない。差すのが面倒だったというより、雨に濡れることに慣れすぎていた。 この街を十年近く歩き続けていると、雨も夜も仕事道具の一部のように思えてくる。 今夜の取材相手は、表向きには飲食店をいくつか経営する実業家だった。市内に三軒の焼肉店と、二軒のバーを持っている。 地元の経済誌には「若手成功者」として何度か紹介されたこともある男だ。 しかし記者が追っているのは飲食店ではない。男が裏で動かしている違法賭博と、土地の買収、それに絡んだ政治家への裏金だった。 半年かけて集めた証言と資料は、すでに記者の中で一本の線としてつながっていた。あとは本人の口から、決定的な一言を引き出すだけだった。 事務所に入ると、男は一人で待っていた。応接セットのソファに深く腰かけ、テーブルの上には水割りのグラスが一つ。氷はもう半分溶けていた。壁には賞状めいた額がいくつも並び、どれも地元の商工会や青年会議所から贈られたものだった。 「遅かったな」 「時間通りです」 「新聞記者ってのは、もっと偉そうな顔をしてくるもんだと思ってた」 「偉そうにしたら、話してくれますか?」 男が笑った。 こういう笑い方をする人間を、記者は何人も見てきた。 相手を馬鹿にしているわけでもない。かといって親しみを持っているわけでもない。 ただ、こちらがどこまで踏み込んでくる人間なのかを測っている。 値踏みの笑いだ。長年この業界にいると、その笑いの奥にある計算まで見えるようになる。 「三年前の土地買収について聞きたい」 「何のことだ?」 「あなたの会社が買った土地のことです」 「合法だろ」 「土地を売った会社の社長は、翌月に海外へ逃げています」 「知らないな」 「その社長の借金を肩代わりしたのは、あなたのところでしょう」 男の笑顔が消えた。 ほんの一瞬だったが、記者はその変化を見逃さなかった。 記者は録音機をテーブルの上に置いた。 「質問を変えます。あなたは、あの土地に
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第二話 成功者たち
二人目の取材相手は世界的な芸術活動で有名な女性だった。 国際的な賞をいくつも受賞し彼女の作品は美術館の常設展示になっている。 取材場所として指定されたのは、都心のホテルのラウンジだった。 窓の外には夕暮れの街並みが広がっていたが、彼女はそちらを見ようとせず、記者の持参した絵本にだけ視線を注いでいた。 彼女は絵本を見せられると、すぐに四角いリンゴを指差した。 「これです」 「四角いリンゴ?」 「はい」 「何が印象に残ったんです?」 「ありえないと思いました」 「子供なら普通でしょう」 「そうです。でも父親に言ったんです」 彼女は笑った。長い指がページの端をなぞる。 「これはリンゴじゃない、と」 「お父さんは?」 「では、リンゴとは何だ?と聞かれました」 記者は少し考えた。 「形?」 「そう思いますよね」 「違うんですか?」 「私もそう思っていました」 彼女は絵本を閉じた。 「でも、父はリンゴを四角く切ったら、それはリンゴではなくなるのか、と……」 「あっ……」 記者は思わず声が出た。つまり発想か、と。 形そのものを疑うのではなく、形と本質のあいだにある境界線を疑う。それは芸術家の発想そのものだった。 「その問いに、答えは出たんですか」 「いいえ」 「今も?」 「今も」 彼女は静かに笑った。 「答えが出ないまま、作品を作り続けています。それが仕事になりました」 取材を重ねると、不思議なことに誰も「感動した」とは言わない。「面白かった」とも言わない。 必ず、「おかしいと思った」 と言う。 まるで、示し合わせたかのように同じ言葉が返ってくる。 文学賞を受賞した小説家は「文法が変だと思った」と言い、建築家は「影の向きがおかしいと思った」と言った。 数学者は「三角なのに角が四つあるように見えるページがあった」と語り、音楽家は「言葉のリズムが不自然だと思った」と語った。 記者は編集長に報告した。 「全員、何かしらの矛盾を覚えています」 「そうか」 「ただの偶然じゃない」 「だろうな」 「この本は、子供に違和感を持たせるために作られた」 「そこまで分かったか」 「編集長は知っていたんですか?」 編集長は答えなかった。 記者は質問を変えた。 「作者の御厨透について、何か知っていますね」
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第三話 御厨透
御厨透は、絵本作家ではなかった。 その事実を知るまでに、記者は一週間かかった。 大学の古い紀要。研究者名簿。廃刊になった学術雑誌。御厨の名前は、あちこちに残っていた。 専門は認知科学。特に研究していたのは、 「人間が見えているものを見落とす理由」だった。 御厨は、幼児と成人に同じ絵を見せる実験をしていた。 大人は、知識がある。 だから知っているものを見つける。子供は知らない。だから見たものを、そのまま受け取る。 しかし、成長するにつれて人間は、 「こういうものだ」 という枠を作る。 御厨はそれを、認識の型と呼んでいた。 丸いものはリンゴ。 青いものは空。 四角いものは箱。 そういう分類が、世界を理解するために必要になる。しかし同時に、それは世界を見る目を狭くする。 御厨はある論文にこう書いていた。 人間は世界を見ているのではない。世界について自分が知っていることを見ている。 記者はその一文を何度も読んだ。そして、絵本とのつながりに気づいた。 『まあるいリンゴ しかくいリンゴ さんかくのリンゴ』 つまり、この絵本は子供に、 「リンゴとは何か」 を考えさせる装置だった。だが、御厨の研究はさらに進んでいた。 四国の図書館に出向き、子供たちに絵本を読ませる。 その後、「何か変だと思った?」 と聞く。 答えを記録する。 ある子は、「丸くない」と言う。 さらに別の子は、「どうしてこの絵本を描いたの?」と聞く。 御厨が注目したのは、最後の子供たちだった。 矛盾を見つけるだけではない。問いそのものを作り直している。 その子供たちを、御厨は長年追跡していた。 記者は、当時の学会発表の抄録を見つけた。 タイトルは「認識の型からの逸脱と、その後の追跡調査について」 要旨には、こう書かれていた。 被験児のうち、単なる誤りの指摘にとどまらず、制作者の意図を問い直す発話をした者を「型逸脱群」とし、十年単位で追跡した。 型逸脱群のうち、一定数が既存の学問領域や芸術領域において、従来の枠組みを更新するような業績を残したことが確認された。 その後、この研究は学会からほとんど注目されなかった。倫理審査の記録が見当たらないことも、記者は気になった。子供を長年にわたって無断で追跡していたとすれば、それ自体が問題になりかねない
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第4話 まあるいリンゴしかくいリンゴさんかくのリンゴ(初版)
ある島にしか育たない世界でたった一本のリンゴの木がありました。 その島には、頭のいい人がたくさん住んでいました。 文章を書くのが上手な人。 計算が得意な人。 絵を描くのが上手な人。 音楽をつくる人。 まだ誰も見たことのないものを想像できる人。 人の悲しみや喜びを、自分のことのように考えられる人。 島の人たちは、どうして自分たちの島にはこんなに頭のいい人が多いのか知っていました。 あのリンゴの木のおかげです。 リンゴの木には、不思議な実がなりました。 まあるいリンゴ。 しかくいリンゴ。 さんかくのリンゴ。 ふつうのリンゴ。 形が違えば、味も違いました。 まあるいリンゴは、やさしく甘い味。 しかくいリンゴは、少し酸っぱく、しゃきっとした味。 さんかくのリンゴは、甘酸っぱく、不思議な香りのする味。 島の人たちは、毎日いろいろなリンゴを食べました。 まあるいリンゴを食べると、言葉や人の気持ちを考えるのが得意になりました。 しかくいリンゴを食べると、数字や仕組みを考えるのが得意になりました。 さんかくのリンゴを食べると、想像することや、絵や音楽をつくることが得意になりました。 けれど、一番大切なことがありました。 違う形のリンゴを食べると、今まで知らなかった考え方を知ることができたのです。 文章を書くのが得意な人が、しかくいリンゴを食べれば、物語の中に数字や仕組みを取り入れられるようになりました。 計算が得意な人が、さんかくのリンゴを食べれば、数字から美しいものを想像できるようになりました。 絵を描く人が、まあるいリンゴを食べれば、人の心まで描けるようになりました。 だから島の人たちは、同じリンゴばかり食べませんでした。 「今日は、どのリンゴを食べようか」 それが島の人たちの楽しみでした。 ある日、海の向こうから、一人の旅人がやってきました。 旅人は島の人たちを見て、驚きました。 「どうして、みんなそんなに頭がいいのですか?」 島の人たちは、リンゴの木を指さしました。 旅人がリンゴを一つ食べてみると、目を丸くしました。 「すごい……」 旅人は帰ると、世界中の人に話しました。 「あの島には、不思議なリンゴの木がある」 「食
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第五話 訪問者
大物の名は、界隈では知らぬ者のない男だった。 表向きは複数の企業を傘下に持つ投資家として振る舞っているが、その資金の出所を辿れば、必ずどこかで裏の世界に行き着く。 記者は過去に二度、彼の周辺を取材したことがあったが、本人と直接会うのは初めてだった。 接触を取り付けるだけで二週間かかった。かつての情報源をいくつも頼り、ようやく指定されたのは、都心から離れた古い日本家屋だった。庭に面した座敷に通され待つあいだ、記者は庭の松の木を眺めていた。 手入れの行き届いた枝ぶりが、雨に濡れて黒く光っている。 「珍しい客だな」 男は静かに現れた。年齢は六十を過ぎているはずだが、姿勢に緩みがない。 座布団に腰を下ろすと、まず茶を勧めた。 所作の一つひとつに、長年権力の中枢に近い場所で生きてきた人間特有の、静かな威圧感があった。 「今日は事件の話じゃないのか」 「違います」 「なら、何の用だ」 記者は絵本をテーブルに置いた。 男の視線が、一瞬だけ止まった。 長年、人の表情の変化を職業として見てきた記者には、それが分かった。 ほんの一瞬、瞳の奥に何かが灯り、すぐに消えた。 「懐かしいな」 「ご存じですか」 「知らないわけがないだろう」 男は絵本を手に取った。 ページをめくる指の動きは、驚くほど丁寧だった。まるで壊れ物を扱うようだった。 「四十年近く前だ。図書館で読んだ」 「四国の、ですか」 「そうだ」 男は目を閉じた。しばらく黙ったまま、記者の存在を忘れたかのようだった。座敷には、雨の音だけが響いていた。 「私は、施設育ちでな」 「施設……」 「親はいない。いや、いたが、いないのと同じだった」 男は目を開けた。 「図書館だけが、あの頃の逃げ場だった。誰も私を叱らない場所だ」 「そこでこの本に?」 「ああ。司書に勧められた」 「司書、ですか」 「今にして思えば、あの司書も御厨先生の協力者だったのだろうな」 記者はボイスレコーダーを確認する余裕もなく、ただ聞いていた。 「先生には、一度だけ会った」 「本当ですか」 「図書館の裏で、絵本の感想を聞かれた」 「何と答えたんです?」 男は笑った。あの実業家と同じ種類の、値踏みの笑いだった。しかし今は、そこに別の何かが混じっていた。 「君はえらばれた。と言った」 「な
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第六話 潜在の男
メモに書かれていた名前の一つを、記者は追った。 かつて摘発された広域詐欺グループの元幹部で、今は服役を終え、地方都市でひっそりと暮らしているという情報があった。 接触までにはさらに時間がかかった。 何度も断られ、ようやく会えたのは、場末の喫茶店だった。 男はやつれた顔で、記者の向かいに座った。 「新聞に、また何か書かれるのか」 「今日は違う記事です」 記者は絵本を出した。 男の表情が変わった。あの裏社会の大物と同じ、あの瞬間だけの変化だった。 「……懐かしいな」 「読んだことがあるんですね」 「図書館で、何度も」 男はしばらく黙って、表紙を見つめていた。 「俺は、影が…」 「影ですか?」 「母親と同じと思ったからだ」 「母親?」 「外面は良い母親だったよ、家の中では毎日罵声と暴力を振るう毎日だった、見た目と中身の違う様はリンゴの影と同じだろ。」 絵本の表紙には形が違う影が並んでいた。指で表紙の影に触れながら 「この影は人間性を描いてたのだろう」 記者はその言葉を書き留めた。 「あなたも、御厨先生に会ったことが?」 「一度だけな」 「何を話したんです」 「お前は、これからどうなりたいか、と聞かれた」 「答えは?」 「一人で生きていきたい、と言った」 男は笑った。自嘲のこもった笑いだった。 「先生は、それはいい、と言った。だが、どう生きるかではない、生き抜く方法を間違えるなよ、とも言われた」 「間違えた、と思いますか」 男は長い沈黙のあと、答えた。 「生き抜く方法、それが詐欺だった」 「後悔していますか」 「後悔はしていない。ただ、時々思う。もし、あの絵本を読んでいなかったら、俺はもっと平凡な人間になれたんじゃないかと」 記者はその言葉に、返す言葉がなかった。 「先生の記録に、『潜在』という言葉があるのを知っていますか」 「聞いたことがある」 「意味を?」 「先生は、こう言っていたそうだ。誰から聞いたかは忘れたが」 男は記者を見た。 「花が咲くとは限らない種でも、蒔かないよりはましだ、と」 「それだけですか」 「それだけだ。だが、蒔かれた種は、自分がどんな花になるかを選べない」 記者はその言葉を、何
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第七話 記憶の底
その夜、記者は実家に電話をかけた。数年ぶりの連絡だった。 母は最初、用件を聞いて戸惑っていたが、絵本の話をすると、しばらく沈黙した。 「……あの絵本、覚えてるの?」 「覚えてない。だから聞いてる」 「あなた、小さい頃、図書館によく通ってたでしょう」 「そうだったか」 「うん。近所のおばさんに勧められて。あの頃はよく分からなかったけど、作者が変わった人だったって聞いた」 「変わった人?」 「本を配って歩いてる人。近所じゃちょっとした噂になってた」 記者は受話器を握り直した。 「その人の名前、覚えてる?」 「みくり、さん……だったかな」 記者は目を閉じた。予感が、確信に変わっていく音がした。 「お母さん、俺、その人に会ったことある?」 「一度だけね。図書館の帰りに、声をかけられたことがあった気がする」 「何を話したか、覚えてる?」 「覚えてないわ。でも、あなた、その日から急に絵本の話ばかりするようになったのよね」 実家の押し入れを母に頼んで探してもらった。 数日後、宅配便で古い箱が届いた。中には子供の頃の作文やノートに混じって、一冊の絵本があった。 『まあるいリンゴ しかくいリンゴ さんかくのリンゴ』 初版本だった。表紙の隅に、幼い自分の字で、何かが書き込まれている。 「なんで四こなの?」 その一行を、記者は何度も読み返した。 自分もまた、あの矛盾に気づいた子供の一人だった。 そのことを、これまで完全に忘れていた。 ノートを繰ると、当時の作文が出てきた。 「しょうらいのゆめ」という題の作文だった。 「ぼくは、しんぶんきしゃになりたいです。うそをみつけるしごとがしたいです。えほんのりんごが、ほんとうはいくつあるのか、しらべるひとになりたいです」 拙い字だったが、記者はそれを読んで、しばらく動けなかった。 自分がこの仕事を選んだ理由の、いちばん奥にあったものが、そこに書かれていた。 記者は編集長に、これまで調べたことのすべてを報告した。 編集長は黙って聞いていたが、最後まで話し終えると、静かに言った。 「お前がこの取材の担当になったのは、偶然じゃない」 「知っていたんですか」 「お前の名前も、御厨の記録にあった」 「なぜ、最初に教えて
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第八話 最後の証言
御厨透の晩年を知る人物は、もうほとんど残っていなかった。 記者は御厨が最後に暮らしていたという四国の小さな町を訪ねた。 海に近い、静かな町だった。 潮の匂いが路地の奥まで漂っている。 図書館は今も残っていたが、建て替えられ、当時の面影はほとんどなかった。町の空気には、記者自身の記憶の底にあるものと、どこか重なるものがあった。 当時を知る司書は、すでに亡くなっていた。 だが、その娘が近くに住んでいた。記者は彼女を訪ねた。 「父から、あの人の話は聞いたことがあります」 「どんな話でしたか」 「先生は、最後まで確信が持てなかったそうです」 「何にです?」 「自分がしていることが、正しいことなのかどうか」 彼女は、古いノートを見せてくれた。父が書き残していた、御厨との会話の記録だった。 『先生は、こう言っていました。私は子供たちに種を蒔いた。だが、その種がどんな花を咲かせるかは、私が決めることではない。ただ、何かが生まれることだけは分かっていた』 『先生は、それが恐ろしいとも言っていました。花か、それとも棘か。自分には見分けがつかない、と』 『晩年、先生は「潜在」に分類した子供たちを、特によく気にかけていました。他の子供たちには声をかけなくなっても、その子たちの消息だけは、最後まで調べ続けていました』 記者はノートを閉じた。 「先生は、後悔していたんでしょうか」 「分かりません。ただ、父の記憶では、最後の頃、先生はずっと同じことを呟いていたそうです」 「何と?」 「『疑うことを教えたつもりだったが、私自身が一番信じてしまっていたのかもしれない』」 その言葉を、記者は何度も反芻した。 御厨は、子供たちに型を疑うことを教えた。 だが、その行為自体が、彼自身の作った、もう一つの大きな型だったのかもしれない。 選ばれた子供たちは、疑うことを覚えたはずなのに、誰一人として「なぜ自分が選ばれたのか」を最後まで疑わなかった。 記者は、自分自身がそうだったことに気づいた。 彼女は最後に、もう一つのことを教えてくれた。 「先生の遺品の中に、最後まで完成しなかった原稿があったそうです」 「何の原稿です?」 「もう一冊の絵本の原稿です。タイトルだけが決まっていて、中身は白紙のまま
last updateLast Updated : 2026-08-17
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最終話 潜在
記事は、大きな反響を呼んだ。 埋もれていた研究者の存在。子供に矛盾を見せることで才能を引き出そうとした、風変わりな試み。 成功者たちの証言。 そして、光の当たらない場所で育った才能。 ――裏社会の男たちの存在。 倫理的な問題も含めて、記者は事実をありのままに書いた。美談としてではなく、功罪の両方を併記する形で。 記事は、感動的な発掘物語として、多くの媒体に転載された。 皮肉なことに、記者が最も書きたかった「功罪の両方」のうち、「功」の部分だけが切り取られ、拡散していった。ある番組は、御厨を「無名の天才教育者」として紹介し、記者を「その功績を発掘したジャーナリスト」として持ち上げた。 記者のもとには、取材依頼が相次いだ。 テレビ、雑誌、講演。これまで裏社会だけを追ってきた記者にとって、初めて浴びる種類の注目だった。かつて取材した化学者や芸術家からは、労いのメッセージも届いた。 誰もが、記者の仕事を称賛した。 ある夜、記者は自分の部屋で子供の頃の絵本を開いた。表紙の隅の、幼い自分の字。 「なんで四こなの?」 記者はその文字を、指でなぞった。 御厨は、疑うことを教えようとした。 だが、記者が今浴びているこの称賛は、疑いようのない成功の証として、世間に受け取られている。 誰も、記者自身が御厨の記録にあった人間だということには気づいていない。 それを記事の中に書かなかったのは、記者自身の判断だった。 自分は、御厨の記録の中で、どちらに分類されていたのだろう。 「丸」か。 「四角」か。 「三角」か。 それとも、「潜在」か。 答えは、もう誰にも分からない。 御厨は死に、記録の一部は失われ、確かめる術はどこにもない。 あの裏社会の大物も、詐欺グループの元幹部も、記者と同じように、自分がどこに分類されていたのかを知らないまま生きてきた。 だが、記者は気づいていた。 この記事を書き、世に問い、注目を浴びることができたこと自体が――疑うことを教えられた子供が、その疑いの力を使って何かを成し遂げるという、御厨の描いた筋書きそのものだったのではないか、ということに。 自分が暴いたはずの構造の中に、自分自身が、最後の証明として組み込まれていたのではないか。 私も、成功者になりえ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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