マーサ〜愛の老婆〜

マーサ〜愛の老婆〜

last updateLast Updated : 2026-06-07
By:  東雲桃矢Ongoing
Language: Japanese
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家庭の事情で母方の祖母の家に来た7歳のトニ。ショッピングモールのベンチで暇を持て余していると、優しい老婆、マーサに声をかけられる。トニは以前、従兄弟のアレクサンダーから「ショッピングモールの近くにある洋館に、孫を失っておかしくなった老婆が住んでる」と聞いた。マーサがその老婆だと思ったトニは、好奇心で彼女の家に足を踏み入れてしまう……

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Chapter 1

1話

如月透子(きさらぎ とうこ)が離婚を決めた日、二つの出来事があった。

一つ目は、新井蓮司(あらい れんじ)の初恋の人が海外から帰国したこと。

蓮司は億単位の金を注ぎ込んで、特注のクルーズ船で彼女を出迎え、二人きりで豪華な二日二晩を過ごした。

メディアはこぞって、二人がヨリを戻すと大騒ぎだった。

もう一つは、透子が大学時代の先輩の誘いを受けて、かつて二人で立ち上げた会社に戻ると決めたこと。

部長として、来月から新たなスタートを切る予定だった。

もちろん、彼女が何をしようと、誰も気にも留めない。

蓮司にとって、透子はただの「新井家に嫁いできた家政婦」に過ぎなかった。

彼女は誰にも知らせず、

ひっそりとこの二年間の痕跡を新井家から消し去り、

密かに旅立ちのチケットを手に入れた。

30日後には、

ここでのすべてと、蓮司との関係は完全に終わる。

――もう、赤の他人になるのだ。

【迎え酒のスープを届けろ、二人分】

突然スマホに届いた命令口調のメッセージに、透子は目を伏せ、指先が震えた。

今は夜の九時四十分。

蓮司はちょうど朝比奈美月(あさひな みづき)の帰国パーティーに出席している最中。

かつて彼は、決して透子に外へ酒のスープを持ってこさせなかった。

彼女の存在を世間に知られるのが恥ずかしいからだと、家の中だけで飲んでいた。

だからもし、前だったら――

「やっと自分を認めてくれたのかも」なんて、喜んでいたかもしれない。

でも今は違う。

視線は「二人分」の文字に留まる。

――そう、これは美月のためのスープだ。

本物の「愛」の前では、彼は堂々と「価値のない妻」を見下し、さらけ出すことを恐れなくなった。

透子は静かに手を下ろし、キッチンに向かってスープの準備を始めた。

蓮司の祖父との契約も、あと29日で終わる。

カウントダウンの画面を一瞥し、ため息が漏れる。

契約が切れたら、やっと自由になれる――

二年も傍にいたのに、愛は一片も手に入らなかった。

所詮、それが現実だった。

もう、愛する力すら残っていない。

最後の一ヶ月。

「妻」としての仕事だけは、きっちり終わらせるつもりだった。

鍋の中、ぐつぐつと煮立つスープは、彼女が最も得意とする料理。

なにせこの二年、何十回とその男のために煮込んできたのだから。

ふと目を奪われ、胸の奥がじんわりと冷えていく。

三十分後、きっちりと蓋を閉めた保温容器に、スープを二人分詰め、タクシーでホテルへ向かった。

車内で、透子は朝届いた見知らぬ番号からのメッセージを見返す。

【透子、覚えてる?私、美月だよ。帰国したの。また会えてうれしいな。蓮司を奪ったことは気にしてないよ。私たち、ずっと親友だったじゃない?今夜、ご飯でもどう?】

蓮司から歓迎会の話なんて一言もなかった。

透子がそれを知ったのは、美月からの「お誘い」があったからだった。

その文章の行間から滲む「寛大で気にしてないフリ」に、透子は皮肉に口元を歪めた。

奪った……?

違う。蓮司の祖父が反対したんだ。

美月は二億の慰謝料を受け取って、海外に行ったはずだ。どこが「奪った」?

確かに、彼に対する欲はあった。

でも自分から奪いにいったわけじゃない。流れに乗っただけ。

「寛大で善良な女」?ふん。

昔なら信じていたかもしれない。

でも高校に上がってから、全てが嘘だと知った。

遅すぎたけれど――

あのとき、自分はすべてを失った。

人間関係も、居場所も。孤立無援で、陰湿ないじめの標的だった。

……そしてその裏には、美月の影があった。

今日のパーティーには、当時の高校の「友達」も多数出席している。

当然、みんな美月の味方だ。

透子は、あのパーティーに出るつもりはなかった。

どうせ招かれた理由なんて、歓迎じゃなくて公開処刑。

あの頃の「同級生」と顔を合わせる気分にもなれない。胸の奥がざわつく、ただただ不快だった。

だから、スープだけ渡したらすぐ帰るつもりだった。

目的地に着き、個室の前で深呼吸。心を落ち着かせてから、扉をノックする。

数秒後――

扉が開くと、現れたのは蓮司じゃなく、純白のドレスを纏った美月だった。

「透子、来てくれたんだ!みんな待ってたよ〜」

満面の笑顔にきらびやかなメイク。まるでプリンセスのような装い。

首元には、あのネックレス――「ブルーオーシャン」。

一昨日、蓮司が落札したばかりのもの。やっぱり彼女に贈ったのね。

「いえ、スープを届けに来ただけ」

透子は感情のない声で、淡々と答えた。

「え〜、二年ぶりなのにそんなに他人行儀?私は蓮司を奪われたこと、もう気にしてないのに〜」

美月は唇を噛んで、先に「傷ついたフリ」を演じ始める。

……その猫かぶりな態度にはもう、うんざりだった。

透子はスープを置こうと身体をずらす。

だが、美月はさりげなく手を伸ばし、保温容器の蓋に指をかけた。

「来たくないなら、私が蓮司に渡しておくよ〜」

あくまで「優しげ」に申し出てくる。

透子は眉をひそめた。

すんなり引くような女じゃないのに、あまりに「親切」すぎる……

とはいえ、彼女自身もこれ以上関わりたくなかった。

だから、容器を渡そうと手を伸ばした――その瞬間。

「――っ!」

容器が受け止められず、真っ逆さまに床へ。

ガシャン!

蓋が外れ、熱々のスープが床にぶちまけられる。

そして美月はわざとらしく一歩後ろに下がりながら、甲高く叫んだ。

「きゃっ!痛っ……足が……!」

次の瞬間、個室の中からいっせいに視線が集まる。

蓮司がすでに立ち上がり、素早く駆け寄ってきた。

「透子、お前は……スープ一つもまともに持てないのか?」

彼は半身をかがめ、脱いだジャケットで美月の足を拭きながら、怒りに満ちた声で透子を叱りつけた。

「私……」

透子が言葉を紡ぐよりも早く、

「蓮司、透子を責めないで。私が受け取り損ねたの」

美月がしおらしく庇ってみせる。

蓮司は床に落ちた容器の蓋を拾い上げた。

割れてもいない、傷もない――完璧に無傷。

「これ、どう説明する?美月が手を滑らせた?それとも最初から蓋を開けて持ってきた?」

彼は鋭く睨みつける。

透子は驚きで言葉を失った。

この保温容器は頑丈そのもので、普通に落とした程度で蓋が外れるなんてありえない。

けれど、現に蓋は外れていて、しかも傷一つついていない。

「私は開けてない。じゃなきゃ道中こぼれてるはずでしょ」

必死に言い返す。

「言い訳は結構。やったことはやったことだろ」

蓮司の声は冷たく切り捨てるようだった。

彼にとって透子は――金目当てで祖父を丸め込み、

美月を追い出し、無理やり妻の座を奪った女。

信じる理由なんて、どこにもなかった。

蓋を放り捨て、蓮司は美月を抱き上げようと身を屈めた……

そのとき――

視線の端に、赤く腫れた透子の足が映る。

スープを浴びたのは、美月だけじゃなかった。

むしろ透子のほうが広い範囲をやられていた。

眉をわずかにひそめる。何かが一瞬、胸をよぎった。

……でも、それだけだった。

すぐに視線を逸らし、口をつぐんだまま立ち上がる。

透子がどれだけ火傷していようが、自業自得だ。

他人を傷つけようとした報いだと思えば、同情する理由なんてない。

美月を横抱きにすると、彼女は恥じらいながらも、心配そうに言った。

「蓮司、透子の足……」

「気にするな。死にゃしない。勝手に病院行くだろ」

吐き捨てるように答えた。

「お前はモデルなんだ。足が命だろ。そっちが優先だ」

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1話
 ここは誰もが憧れる大都会のイデアルにあるショッピングモール、イロイロ。誰もが楽しそうに買い物をしたり、食事やゲームをしている。 そんな中、浮かない顔をした少年がひとり。「つまーんなーい」 イロイロの外にあるベンチで、7歳の少年・トニが、足をブラブラさせていた。優しい風が、彼のブロンドの髪を揺らす。「はぁ、アレク兄ちゃんがいれば、こんなところ来なかったのに」 アレクというのは母方従兄弟のアレクサンダーのことだ。今年で11歳になった少年で、トニは彼を兄のように慕っている。  アレクサンダーは面倒見が良く、トニに様々なオカルトや噂話を聞かせてくれる。母はオカルトや都市伝説といった類の話が好きではないため、アレクサンダーとあまり関わってほしくなさそうだが、トニはアレクサンダーが大好きで、一緒に住めたらいいのにと思うほどだ。  今は母の都合で。母の実家であるイデアルに来ている。  トニの両親は離婚した。原因は父のDVで、トニも暴力を振るわれていた。母はそんなことがあったから街から離れたくて、トニとトニの姉であるキャロルを連れ、イデアルに来た。この街で暮らすことになるかもしれないし、別の場所になるかもしれない。  どちらにせよ、元いた街、マレディグには戻らないと言っていた。父を思い出すものがあるから、離れたいらしい。幸い、慰謝料で2,3年は働かなくても済むと話していたのを聞いた。  けど、そんなことはトニにとってどうでもよかった。退屈で死にそうな今をどうにかしたい。ただ、それだけ。まだ7歳のトニには、離婚問題は難しすぎた。  今日イロイロに来たのは、母と姉のキャロルが買い物をしたいと言ったからだ。トニは行きたくなかったが、祖母が「ずっと家にいたら体に悪いでしょ」と言い、お小遣いを握らせて無理やり同行させたのだ。  トニも最初はイロイロを楽しんでいた。玩具屋、ゲームセンター、子供向けの雑貨屋やお菓子屋など、気を引くような店はたくさんあるから。  けど、イロイロは平日も休日も人がわんさかいて息苦しい。人混みが苦手なトニは、2,3回行った頃にはうんざりしていた。  父方の祖母が住むフロイデにいたほうが楽しい。フロイデはかろうじて最低限の生活必需品が揃うような不便な田舎町だ。  その代わり、畑と自然が多い。イデアルのような都会にいるよりも、フロイデで祖
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2話
「坊や、ちょっといいかしら?」 優しい声が、トニを思考の渦から引き上げた。顔を上げると、サングラスに手袋をし、日傘をさした老婆がいた。片手にはチョコアイスを持っている。「さっき、あそこでアイスを買ったんだけど、店員さんが間違えちゃったみたいで。指摘するのも可哀想だから、そのまま買っちゃったの。よかったらもらってくれない?」 老婆はアイスを販売しているキッチンカーを指さしながら言う。それはトニも食べたがっていたアイスクリームを販売しているキッチンカーだった。だが、祖母からのお小遣いでは足りず、諦めていたのだ。「いいの?」「もちろんよ。坊や、ストロベリーアイスは大丈夫かしら? 味見用にスプーン1杯ぶんついてきてるのよ」「大好き!」「よかった。はい、どうぞ」 アイスを受け取ると、彼女が言った通り、チョコアイスに軽く刺さったスプーンには、ストロベリーアイスがあった。 さっそくストロベリーアイスを口に含むと、酸味と甘味が合わさった、愛らしいいたずらっ子のような味が口いっぱいに広がり、自然と笑顔になっていく。「美味しい! ありがとう、おばあちゃん」「ふふ、いいのよ。アイスを買い直すんだけど、隣に座ってもいいかしら?」「もちろん!」 最初はサングラスをして少し怖かったが、こんなに美味しいアイスをタダでくれたのだ。それにこの老婆の声はとても優しく、田舎町に住むマーサばあちゃんを思い出させた。「坊やは優しい子ね。買ってくるわ」 老婆は再びキッチンカーへ足を運ぶ。トニはチョコアイスを舐めながら、老婆を待つ。彼女はすぐにバニラアイスを片手に戻り、トニの隣に座ると、アイスをひと舐めして微笑んだ。「坊や、ひとりで来たの?」「坊やじゃなくてトニってんだ。ママとキャロルと来たんだけど、ふたりは服に夢中だよ。僕は人がいっぱいのところ好きじゃないから、ここに来ただけ。あ、キャロルっていうのはお姉ちゃんで、いばりんぼうなんだ」「可哀想に。こんな小さな坊やをひとりにするなんて」 心配そうな、けどちょっと怒ったような顔が、父方の祖母、マーサに似ている気がして、会ったばかりなのに安心する。「なんだかおばあちゃん、マーサばあちゃんみたい」「マーサばあちゃん?」「フロイデってところに住んでる、パパのおばあちゃん」「すごい偶然だ。私もマーサっていうのよ」「え、嘘!
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3話
「分かった、マーサばあちゃん。ばあちゃんはひとりでここに来たの?」 「そうだよ。孫と来れたら良かったんだけど」 そう言ってマーサは寂しそうに笑う。幼いトニには、ただの微笑に見えた。「孫? その子ってなんていうの? いくつなの?」 「トムっていってね。7つの可愛い男の子なんだよ」 「7つ? 僕も7つなんだ! すごいね」 トニは興奮気味で答える。会ったことはないが、自分と同い年で名前が似ているのは、なんだかとても特別な気がした。 「そうだったんだねぇ。名前も似てて、同い年の子に会えるなんて、少し面白いね」 「あはは、そうだね。びっくりしたよ」 「トニ、お母さん達は何時に戻ってくるんだい?」 マーサの問いに、トニの気が重くなる。彼女達の買い物はいつだってうんざりするほど長く、トニは永遠に待ち続ける覚悟を決めなくてはならない。暇つぶしにゲーム機を持っていっても、毎回先にゲーム機の充電が切れるのだから、たまったものではない。 「うーん、早くても夕方までじゃない? あのふたり、何よりもショッピングが好きなんだから。あそこまで行くと病気だよ」 トニが吐き捨てるように言うと、マーサは心配そうにトニの顔を覗き込む。 「それまでひとり? 可哀想に。よかったら、私の家に遊びに来ないかい?」 「マーサばあちゃんの家?」  トニは少し警戒した。まだ7歳だが、知らない人の家についていくなと言われている。今日だって、出かける前に祖母に何度も言い聞かされた。 「私の家は、ここのすぐ近くなんだ。歩いて5分もかからないよ」  家の場所を聞いて、トニは思い出す。アレクサンダーが前に話してくれた噂話について。  イロイロの近くに、古びた洋館があって、そこにひとりの老婆が住むという噂だ。その老婆は魔女と言われており、火事で孫を失い、怪しい儀式をしている。最愛の孫を蘇らせるために。孫を蘇らせるためなら、手段を選ばないらしく、イデアルでの子供の失踪事件は、魔女が儀式の生贄にするために誘拐したと思い込んでいる人もいる。 そしてその洋館は火事で半壊していると。  もしかしたら、目の前にいるマーサが、その老婆なのかもしれない。(もしその家に行ったって知ったら、アレク兄ちゃん驚くぞ)  好奇心旺盛なトニは、マーサの家に行くことにした。ここで退屈しながら家族を待つよりも、少し
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4話
 マーサの家に来て、トニはがっかりした。マーサの言う通り、彼女の家はイロイロのすぐ近くにあって、トニも何度か見かけたことがある。 彼女の家は洋館ではあったが、古びてもいなければ、火事の形跡もない。築10年も経っていないのではないだろうか。そう思うほど、比較的新しい建物だった。 もっと陰鬱で、洋館のまわりだけが薄暗く不気味で、今にもおばけが出てきそうな雰囲気を想像していたが、あまりにもかけ離れている。(なんだよ、アレク兄ちゃんの嘘か。帰ってきたら嘘つきって言ってやる)「ふふ、いつまでも見上げてないで、中にお入り」 マーサは玄関を開け、手招きをする。「はーい」(でも、知らないおうちの探検はできるし、いっか) トニは楽観的に考え、マーサの後を追って洋館に足を踏み入れる。中も綺麗で、やはり火事があったようには見えない。長い廊下には、いくつものドアがあって、壁には小さな絵画がいくつも飾ってある。 リビングに通されると、ふかふかそうな大きなソファがあった。「わぁ、すごい」「今、ジュースを持ってくるからね。座って待ってておくれ」「うん!」 ソファに座ってみると想像以上にふかふかで、体が半分近く沈む。それが心地よく、安心する。「お待たせ。好きなだけお食べ」 マーサはテーブルの上にオレンジジュース、クッキー、ポテトチップスを並べてくれた。トニの家は母子家庭であまり裕福ではないため、お菓子は一袋をキャロルとはんぶんこだ。ちゃんと半分分けてくれればいいのに、意地悪キャロルはいつも多めに食べてしまう。母に訴えても、気の所為だと言われるか、「どうせ大した差はないんだから」と飽きられるだけで、助けてくれない。「こんなに食べていいの?」「あぁ、好きなだけお食べ」「ありがとう、マーサばあちゃん!」 トニは片手でポテトチップスを鷲掴みして食べ、ジュースを勢いよく飲む。しばらく放置されていたせいで、お腹はぺこぺこで、喉もからからだった。「あらあら、そんなに勢いよく食べたら、つまっちゃうよ」「だって、朝に食べた後に食べたのなんて、小さいクロワッサンひとつと、マーサばあちゃんにもらったアイスくらいなんだもん。僕、お腹ぺこぺこ」「可哀想に……。パンケーキ食べるかい?」「いいの!?」「あぁ、いいとも。待ってておくれ」 マーサはキッチンに引っ込む。トニはお菓子
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5話
 トニはなんとなく室内を見回す。収納棚があって、その上には写真立てがあった。どこかの公園を背景に、マーサと小さな男の子が写っていて、ふたり共幸せそうに笑っている。きっと、この子がトムなのだろう。 何故か写真立てが割れているのが気になった。「この写真が気になるのかい?」 トムの目線に気づいたマーサは、写真立てを持ってトニの隣に座った。近くで見ると、イロイロの外にある公園だと分かった。 「その子がトム?」 「そうだよ、トムだよ。可愛い孫でねぇ。優しくていい子だったんだ」 「へぇ、今どこにいるの?」  その質問に、マーサの表情が一瞬険しくなるが、すぐ穏やかな笑みに戻る。 「今は、田舎町にいるのさ。この辺は車が多いでしょう? トム坊やは体が弱いから、空気が綺麗な田舎に引っ越したのさ。前はここで、トムと、娘と、娘の旦那が暮らして、それはもうにぎやかだったんだけどねぇ」 マーサは寂しそうに目を細め、写真を見つめる。だから分からなかった。どうしてそんなボロボロの写真立てを使い続けているのか。「そうだったんだね。そんなに大事な写真なら、綺麗な写真立てに入れてあげないと。割れてるから、怪我しちゃうよ。マーサばあちゃんが怪我したら、トムも悲しむだろうし、僕もいやだ」 「あぁ、そうだね。私もそう思って、イロイロで探すんだけどねぇ。あそこは広いだろう? だから、写真立てを見つける前に、疲れちゃってねぇ」 マーサは諦めたように目を伏せ、ため息をつく。トニはどうにか力になりたくて、彼女の手を握った。 「それなら今度、僕が一緒に探してあげる」 「いいのかい?」 トニの言葉にマーサは顔を上げ、目を丸くして彼を見つめる。 「うん。僕、しばらくはイデアルにいるから」 「いい子だねぇ、トム」 「僕はトニだよ」 「そうだったそうだった。ごめんね、名前が似てるから」 「ううん、いいよ」 「トムは優しい子だね」 トニは訂正しようと口を開きかけたが、やめた。きっとこの老婆は、大好きなトムと離れ離れになって寂しいのだ。自分だって彼女を、マーサばあちゃんと呼ばせてもらっている。それなら、自分もトムと呼ばせてあげよう。
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6話
 ふたりは雑談を楽しんだ。学校や家族のこと。好きなアニメだって。マーサがアニメに詳しいのは意外だったが、トムとよく見ていたらしい。今もトムの会った時のために、彼が好きそうなアニメの視聴を欠かせないと言っていた。 トニが父方の祖母であるマーサばあちゃんや、田舎町の話をすると、マーサは目を細めた。「私も、今はこんな都会に住んでるけどね。昔は田舎町に住んでたよ」「そうなの?」「あぁ、そうとも。トムくらいの頃は、私の野兎を追いかけ回したものさ。仕事をするために田舎町を離れて、結婚して、イデアルに来たんだよ」「へぇ……。僕にはよく分かんないけど、大変そうだね」 トニなりに想像してみるが、労働の大変さも結婚の喜びも知らないからか、イマイチピンと来ない。ただ、引っ越しはすごく大変だということは分かる。 マレディグからイデアルに来た時点で、すべての荷物をまとめ、今は祖母の家の屋根裏部屋に押し込んでいる。別の街に引っ越しが決まればそのまま持って行くし、イデアルに住むと決まれば、そのまま祖母の家に住むことになっている。 なんにせよ、トニはもう、引っ越しなんかしたくないと思っている。片付けだけでも一苦労なのに、その後掃除をしないといけないのだから。しかも母もキャロルも、トニがまだ7歳だと言うのに、「男の子でしょ」と言ってやたら荷物を運ばせるのだから、うんざりする。明らかに母の方が力と体力もあるというのに。「そうねぇ。新しい場所に慣れるのも、引っ越しをするのも、大変だったよ。けどね、それ以上に楽しかった」「げー、楽しい? マーサばあちゃんって、変なの」「あはは、私だって、引っ越しで荷物をまとめたりするのは好きじゃないよ。新しい町で、色んな人と会うのが楽しいのさ。もし、トムがここに引っ越すのが決まったら、新しいお友達作りを楽しむといい」「へぇ、そういうものなんだ」 相槌を打ったものの、やはりイマイチ理解できない。「トム、ボードゲームは好きかい?」 どう言葉を続けるか迷っていると、マーサが聞いてきた。オセロならトニの得意分野だ。何度もやったことがあるが、母にもキャロルにも負けたことがない。「うん、オセロなら得意だよ! ママにもキャロルにも負けないんだ!」 トニが誇らしげに胸を張りながら言うと、マーサは微笑み、トニの頭を撫でてくれた。「おばあちゃんとオセロや
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7話
「うぅん……」 トニは独特な匂いで目を覚ました。お香のような、どことなく薬っぽいような、そんな匂い。 マーサの声が聞こえる。あの優しい声ではなく、地を這うような、おぞましい声。(この声、本当にマーサばあちゃんかな? 何が、どうなってるの?) ぼんやりした頭で考えていると、顔になにかが当たる。その何かから、独特な匂いがした。「何してるの、マーサばあちゃん」 「もう起きたのかい? まだかかるから寝てなさい」 寝てろと言われても、こんな匂いの中で眠れそうにない。それに床が固い。体を起こしてみると、乾燥した草が体から落ちる。これが匂いの原因だったようだ。見回すと自分がいる場所を中心に、魔法陣が描かれていた。 (アレク兄ちゃんが言ってたことは本当だったんだ!) 噂通りなら、このままここにいたら殺されてしまう。そんなのはごめんだ。 トニは力いっぱいマーサを押した。「ぎゃあ!」 彼女は尻餅をつき、腰をさする。トニはざっと室内を見回し、階段を見つけると、急いで駆け下りた。 「待てぇ! お前はトムになるんだ! その体はトムのものだ!」 声は聞こえるが、まだ追ってきてない。階段を降りてすぐのところにドアがあったが、その隣は廊下だ。あまり大きさがないことから、トイレだと推測できる。そうでなかったとしても、こんなに小さな部屋では、すぐに見つかってしまう。「待てぇ! トム、待つんだよ! トムと呼んだら返事をしたじゃないか! お前はもう、トムになるんだよ!」 よたよたとした足音と声が聞こえてくる。音からして、まだ階段にはついていないようだが、このままでは見つかる。一か八かで廊下を挟んで隣の部屋に入った。 どうやらクローゼットルームらしく、たくさんの服が並んでいる。ほとんどが女性ものだが、若い女性が好むデザインばかりで、マーサのものとは思えない。 奥にはボリューミーなドレスが並んでいた。(隠れるならここだ) トニはドレスの裏に隠れた。揺れたらバレてしまうから、迅速に、かつ慎重に。 ドレスの中に隠れた後に耳を澄ませると、マーサの声と足音が聞こえる。音からして、階段を降りているところだ。トニは自分の口を両手で押さえ、じっとする。「トム、どこにいるんだい? 顔を見せておくれ」 声も足音も近づいてきて、いよいよクローゼットルームに入ってきた。 「どこだい
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8話
 ドレスが落ちていく音は徐々に近づき、ついに隣のドレスも落とされてしまった。「どこだい、トム坊や」 そして、トニが隠れていたドレスも落とされた……。 だが、そこには誰もいない。マーサは次々とドレスを落としていき、すべてのドレスを落としきると、最後に落としたドレスを蹴り飛ばし、クローゼットルームから出ていった。 足音が遠ざかると、トニはドレスの山から顔を出す。「あ、危なかった……」 今になって恐怖が押し寄せ、体が震える。深呼吸して気持ちを落ち着かせようとする。 実は、トニのすぐ近くに、ハンガーから外れかかっていたドレスがあったのだ。胸元が大きく開いたデザインで、透明なストラップを肩に引っ掛けるタイプのドレスだ。ハンガーから外れかかったストラップ外し、ドレスのスカートの中に隠れ、マーサがすぐ近くのドレスを落とすのと同時に倒れ、ドレスの山み紛れ込んだというわけだ。体が小さいトニだからこそ出来た隠れ方だろう、「どうしよう……。こういう時は、とにかく落ち着かないと」 トニはもう一度深呼吸をしながら、アレクサンダーの言葉を思い出す。 「冒険者の心得その1。息と足音は殺せ。些細な音も立てるな、命取りになるぞ」 靴を脱ぐと、ドレスの下に隠した。これで足音は軽減されるだろう。「冒険者の心得その2。においをおさえろ。自然の中で匂いで目立つのは自殺行為だ。人間だって、匂いに敏感な奴もいるんだからな」 トニは自分の服を嗅いだ。微かにだが、あの薬草の匂いがする。音をできるだけ立てないように、慎重に脱ぐと、ハンガーのひとつからTシャツを1枚取る。女性ものとはいえ、大人のシャツを着ると、ワンピースのようになった。こんな恥ずかしい格好はできればしたくなかったが、今はそんなこと言ってられない。 生き延びるためには手段を選ぶなと、アレクサンダーもよく言っていた。「えぇと、他には……」 深呼吸をしながら、必死にアレクサンダーの言葉を記憶の海から手繰り寄せる。「冒険者の心得その3。情報収集をしろ。どんなに小さくてもいい。俺達みたいな力のない子供は、頭を使え」 トニは今の状況を整理し始める。イロイロでマーサに出会い、彼女の洋館に来た。お菓子やジュースをごちそうになったら、眠くなってしまい、起きたら魔法陣の上にいた。 きっと、マーサはジュースに睡眠薬を混ぜたのだろう。あ
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9話
 とにかく、このままここにいては危険だ。じっとしていても現状は変わらない。それどころか、悪化する可能性だってある。ずっとクローゼットルームにいても、すべての部屋を探し終えたマーサが戻って来るだろう。そうなったら、今度は隠れられる場所などない。 今のトニに必要なのは洋館の情報。アレクサンダーの噂も大事な情報ではあるが、まずは洋館の間取りをある程度把握しておきたい。何も全部把握する必要などないのだ。階段と隠れるのにいい部屋さえ分かればいい。 トニは耳を澄ませた。向かいの部屋、屋根裏部屋の階段近くから物音がする。今出るのは危険だ。 音を聞くのに集中していると、マーサが何かぶつぶつ言いながら、クローゼットルームとトイレと思われる小部屋の間にある廊下を通る。 数秒後、後ろの部屋のドアが閉まる音がした。慎重に廊下に出ると、向かいにはドアが3つ並んでいる。近いのは真ん中と、トニから見て左側のドア。左のドアは、屋根裏部屋に繋がる階段の隣にあった。(さっきマーサばあちゃんが入った部屋は、たぶん左だ) トニは左側の部屋に入る。1度入った部屋にすぐ戻ることはないと思ったからだ。なんとか見つからずに部屋に入れたのはいいが、室内はベッド、デスク、クローゼットのみのシンプルな部屋だ。 生活感も感じられないことから、客室だと思われる。 トニは渋い顔をして室内をもう一度見回す。これではマーサが来た時に、対処できる自信がない。 隠れられる場所など、ベッドの下か、クローゼットの中くらいだろう。 一応デスクの下にはスペースがあるが、椅子が収まりきらずにバレるだろう。「冒険者の心得その4。武器は現地調達。なんでも使え」 アレクサンダーの言葉を胸に、トニは1番上の引き出しを開けた。中にあるのはペンとノートのみ。  トニはそれらを手に取ると、ベッドの下に隠れた。このままノートを持ち歩くのは危険だ。片手が塞がるし、落としたら見つかってしまう。できるだけ音を出さないように何枚か破くと、折りたたんで胸ポケットに入れる。 紙とペンがあれば、外部に助けを求めることができるかもしれない。 ノートを奥に押しやると、もう一度デスクに近づく。2段目の引き出しを開けると、ヘアスプレー、コーム、手鏡が置いてある。できればこれらを持ち歩きたいが、今の服は胸ポケットしかないし、胸ポケットにはペンと紙が入
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10話
 真ん中の部屋は、先程と違い、生活感がある。というより、溢れかえっている。 壁際には本棚が並んでいるが、本は数冊程度しかなく、船などの模型が並んでいる。どれもホコリを被っていることから、長らく掃除されていないのだろう。 マーサは以前、自分、娘、娘婿、そしてトムと暮らしていたと言っていた。それが真実だと課程して考えると、ここはトムの父親の部屋だろう。 男物の服が床やソファに散乱しているし、テーブルの上にはウイスキー、葉巻、ライターなどが転がっている。 隅にあるコート掛けの1番上には帽子がかけられ、よれたコートも何着かかかっていた。 手前にテーブル、奥にデスクがあるが、デスクには何も置かれていない。この部屋の持ち主が、不真面目でだらしない性格だったことは、7歳のトニにも察することができた。 部屋の奥に進んでみると、様々な資格の本が並んでいる。教師、電気工、会計士と、バラバラだ。本棚を見上げながら歩いていると、何かを踏んづけた。足元を見てみると、1冊の古びたノートが落ちていた。ノートには乱雑な字で日記と書かれており、右端にはテッドと書かれていた。トムの父は、テッドと言うらしい。(何か分かるかも) トニはノートを手に取ると、乱雑なテーブルの下に隠れた。散らばっている服やクッションなどをいくつか拝借し、簡単な壁を作る。全体を覆わず、自然に見えるように置くことを心がけた。服はテーブルの上に置いてカーテンのようにといった具合に。 ノートをめくると、表紙同様、乱雑な文字が並んでいる。『ノーマの婆さんに言われて、婆さんの家に引っ越した。俺はイデアルにある支社に異動した。イデアルの方が給料がいい。田舎町より店も充実してる。ノーマが来たがっていたのも納得だ。トムも喜んでいた』 どうやら引っ越した直後から書き始めたようだ。しばらくは新しい生活について書かれていた。現時点で得られた証拠は、マーサの娘であり、トムの母親である女性の名前はノーマであることと、テッドは学歴にコンプレックスを持っていたこと。それと、彼はマーサに苦手意識があったことくらいだ。 冒頭ではイデアルの給料はいいと書いてあったが、日記の内容からして、そこまで高いというわけでもなさそうだ。『トムは遊園地に行きたい、動物園に行きたいなんて、ワガママ言いやがる。クソ、何も知らない子供はお気楽でいいよな。イ
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