LOGIN南イタリアにおいて、ロレンツォ・モレッティが私に狂うほど惚れていることは、誰もが知る事実だった。 それなのに彼は、ナポリでずっと若い愛人を囲っていた。 昔の私によく似た女。 そんな噂を、あとになって耳にした。 ロレンツォは周囲にこう話していたらしい。「あの子は、かつて一番愛した女を思い出させるだけだ」と。同時に、私の耳には絶対入れるなとも命じていた。 全部を知ったのは、妊娠が分かった日のことだった。 私は自分の口で伝えたくて、彼のオフィスへ向かった。けれどドアの前まで来た時、中から若い女の声が聞こえてきて、足が止まる。 「ロレンツォ……私を傍におくのは、あの人に似てるから?」 ドアは少しだけ開いていた。 隙間から見えたのは、昔の私によく似た若い女。彼女は彼のジャケットを羽織り、ロレンツォのグラスを手にしていた。 息の仕方すら分からなくなった。 その時、彼の声が聞こえる。 「お前をあいつと比べるな」 低く、迷いのない声だった。 「ソフィアには、決してお前の代わりはできない」 私は何も言わず、その場を離れた。 足音も立てずに。 その夜、私は母に電話をかけた。 「お母さん。もう決めたわ」 母はしばらく黙っていた。 私は静かに続ける。 「火事を起こしてほしいの。 誰も生き残れないような、大火事に」 そして、ゆっくり目を閉じた。 「全部終わる頃には、ソフィア・モレッティは、この世から消えたことになるの」
View Moreロレンツォは、まるで私が結局は折れるとでも思っているみたいな顔で、黙ってこちらを見ていた。でも、そんなことはなかった。「ロレンツォ」私は静かに言う。「それを愛だなんて呼ばないで」彼の表情がわずかに動く。「あなたは、自分の所有物を失うのが嫌なだけ。自分の思い通りにならなくなるのが耐えられないだけよ」ロレンツォの顎がぴくりと強張った。「謝れば許されると思ってた? 追いかければ、また昔みたいに私が待ってるって?」私は小さく首を振る。「もう、あの頃には戻れない」声は驚くほど落ち着いていた。「戻る気もないし、気持ちが変わることもないわ」ロレンツォは何かを堪えるみたいに息を吐いた。「そんな簡単に俺から離れられると思うな」その言い方が、少し可笑しかった。「じゃあ見てて」そう返した頃には、クラブの支配人が警備を連れてこちらへ向かってきていた。私はロレンツォから目を逸らさないまま言う。「ここで終わりにして。じゃないと警察を呼ぶわ」彼は動かなかった。だから私は支配人へ向き直る。「お願いします」ここはナポリじゃない。ロレンツォが一言で全部揉み消せる場所ではなかった。警察が来て、防犯カメラの映像を確認して、そこでようやく騒ぎは収まった。拘束された時間は長くなかったけれど、口元に血を滲ませたまま連れて行かれる姿は十分みじめだった。去り際、ロレンツォが振り返る。その目に浮かんでいたのは、後悔なのか焦りなのか、自分でも分からないような色だった。「ソフィア」掠れた声だった。「言い方を間違えたのかもしれない。全部俺のせいだ。でも、お前を愛してたのは本当なんだ。ビアンカが好きだったわけじゃない、あれはただの過ちだった。お前を失うつもりなんてなかった」私はただ静かに彼を見た。昔なら、その言葉だけで胸が潰れていたと思う。だが今、私の心には彼に差し出すべき感情が、ただの欠片も残っていなかった。遅すぎたのだ。「もう終わったことよ」私はまっすぐ彼を見る。「感情で決めたわけじゃない。ちゃんと考えて、それで離れるって決めたの」少しだけ間を置く。「だから、あなたも受け入れて」そう言って背を向けた。後ろで最後に一度だけ名前を呼ばれたけれど、私は振り返
差し出されたマッテオの手を、私は少しだけ迷ってから握った。「じゃあ改めて」彼は小さく笑う。「マッテオ・フェッリです」「ほんと、久しぶりね」思っていたより、食事はずっと気楽だった。上司が電話で席を外した時、マッテオがふと真面目な顔になる。「ちゃんと言っておきたかったんだ」私は顔を上げた。「子供の頃、俺ずっと君のこと好きだった」少し照れたように笑う。「……今もだけど」私は返事に困って、少し黙った。それから正直に言う。「今はまだ、誰かとどうこうなる気にはなれない」新しい恋愛をするつもりなんてなかった。お腹の子のこともある。これ以上、誰かに心を振り回されるのも嫌だった。マッテオは無理に笑わなかった。ただ静かに頷く。「分かってる」落ち着いた声だった。「今すぐどうこうしたいわけじゃない。ただ、もし……いつかそういう気持ちになれる日が来たら、その時の最初の選択肢に、俺を入れておいてほしい」私は何か返そうとして――その瞬間、聞き慣れた声が割って入った。「そんな日は来ない」空気が止まる。振り返ると、数歩先にロレンツォが立っていた。前に会った時よりさらに痩せていて、顔色も悪い。なのに、私を見る目だけは異様なほどはっきりしていた。マッテオがすぐ立ち上がる。私は感情を抑えたまま聞いた。「何してるの?」「お前に会いに来た」答えは早かった。「ソフィア、五分だけでいい。話を――」「嫌よ」即答だった。マッテオが半歩前へ出る。「聞こえましたよね」ロレンツォはようやく彼を見た。「どけ」マッテオは動かなかった。次の瞬間、前触れもなくロレンツォの拳が飛んだ。避ける暇すら与えない、重く、容赦のない一撃だった。マッテオも即座に殴り返す。椅子がなぎ倒され、グラスが砕け散る音が店内に響き渡った。「やめて!」私は立ち上がって叫ぶ。ロレンツォの部下が二人がかりでようやく二人を引き離した。マッテオは口元の血を拭って苦笑する。「平気だ」私はそちらへ向かおうとした。けれどロレンツォに腕を掴まれる。「そいつと行くのか?」「あなたが殴ったんでしょう」私は冷たく言い返した。「当たり前じゃない」ロレンツォの指先に力
私は会社の社宅に入った。上司が北部の新規プロジェクトに入ることになって、「現場を覚えるいい機会だから」と私も連れていってくれたのだ。ホテルでチェックインを済ませた直後、母から電話が来た。「あの子、うちに来たわよ」私はカードキーを手にしたまま、廊下で足を止める。「居場所を聞かれたわけじゃないの。そこは一線引いてた。でも……火事のこととか、その前のあなたの様子とか、ナポリを出たがってた覚えはないとか、色々探るような聞き方をしてきたわ」母は少し黙ってから続けた。「まだ諦めてないみたいね」私は手の中のカードキーをぼんやり見下ろした。今さら、と思う。永遠に失って初めて、自分の手の中にあったものの価値を知るなんて、遅すぎるのよ。母には、しばらく目立たないようにしなさいと言われた。私は「分かってる」とだけ返した。その日の夜、上司に連れられて湖畔のホテルへ向かった。プロジェクトチームとの顔合わせらしい。会場へ入る前、少し息苦しくてテラスへ出た。湖から吹く風が思ったより冷たい。髪を耳にかけた時だった。「……まだ何も出てないのか」背後から聞こえた声に、身体が固まる。ゆっくり振り返ると、そこにいたのはロレンツォだった。少し痩せていた。前よりずっと鋭い顔をしていて、まともに眠れていないのが一目で分かる。私は反射的にその場を離れようとした。でも、向こうも同じタイミングで私に気づく。ロレンツォの動きが止まった。それから次の瞬間には、迷う暇もないくらいの勢いでこちらへ歩いてくる。目の前まで来ても、彼は何も言わなかった。ただ信じられないものを見るみたいに、私を見つめている。「……ソフィア」掠れた声だった。私はできるだけ表情を変えずに答える。「人違いです」ロレンツォは動かない。「生きてたのか……」「あなたのこと、知りません」その時、彼の視線がふっと私の耳元へ落ちた。左耳の後ろ。髪を上げないと見えない、小さな傷跡。昔、海辺で船を降りる時に足を滑らせたことがあった。倒れかけた私を咄嗟に引き寄せようとした彼の手が、彼自身が贈ってくれたパールのピアスに引っかかり、耳の後ろを深く裂いたのだ。縫った跡は今ではほとんど目立たない。でも、ロレンツォは
それから数日間、ロレンツォはまともに眠らなかった。昼は書斎に籠もって火災報告書を読み返し、夜になるとファミリーのプライベートクラブへ向かった。誰かと夜を過ごしたいわけではない。ただ、余計な音も気配もない場所で、一人で考えていたかった。酒の量だけが増えていく。昔から彼を知る男たちは少し離れた場所に座り、必要以上に話しかけなかった。そのうちの一人が、ある夜ひっそりビアンカへ連絡を入れた。彼女が来たのは、それから三十分もしない頃だった。ロレンツォはソファに深く沈み込み、開いた襟元のまま片手にグラスをぶら下げていた。入口に立つビアンカの姿を捉えた瞬間、彼の表情が縋るように揺れた。次の瞬間には、弾かれたように立ち上がっていた。そのまま真っ直ぐ彼女のもとへ歩み寄り、強く抱き締める。肩へ顔を埋め、掠れた声で呟いた。「……ソフィア」ビアンカの身体が硬直した。けれどロレンツォは気づかない。「戻ってきてくれたのか……」酔いと疲労で震える声のまま、さらに腕へ力を込める。「もう、いなくなるな……」その瞬間、ビアンカの顔色が変わった。彼女は勢いよくロレンツォを突き飛ばす。「ちゃんと見てよ!」涙を滲ませたまま声を荒げた。「私はソフィアじゃない」部屋の空気が止まる。ビアンカは肩を震わせながら笑った。「……そういうことだったんだ」声が掠れていた。「結局、私はあの人に似ていたから傍に置いてただけなのね。薄暗い部屋で酔っていれば、間違えて抱ける程度の身代わりだったってこと?」ロレンツォは何も言わなかった。ビアンカは乱暴に涙を拭い、今度は少しだけ声を落とす。「食事もしてないって、眠ってないって聞いたの。だから来たのに」苦しそうに息を吐く。「少しくらい、私を必要としてるのかと思った……」ロレンツォは手の中のグラスをテーブルへ置いた。ほとんど減っていない酒だった。「呼んでない」低い声だった。「帰れ」怒鳴りもしない。それなのに、拒絶だけははっきり伝わる。ビアンカはしばらく彼を見つめていた。何か変わるのを待つみたいに。でも最後まで、ロレンツォの表情は動かなかった。やがて彼女は唇を噛み、そのまま部屋を出ていく。誰も止めなかった。古参の部