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モレッティの名は燃え落ちた

モレッティの名は燃え落ちた

By:  アナ・スミスCompleted
Language: Japanese
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南イタリアにおいて、ロレンツォ・モレッティが私に狂うほど惚れていることは、誰もが知る事実だった。 それなのに彼は、ナポリでずっと若い愛人を囲っていた。 昔の私によく似た女。 そんな噂を、あとになって耳にした。 ロレンツォは周囲にこう話していたらしい。「あの子は、かつて一番愛した女を思い出させるだけだ」と。同時に、私の耳には絶対入れるなとも命じていた。 全部を知ったのは、妊娠が分かった日のことだった。 私は自分の口で伝えたくて、彼のオフィスへ向かった。けれどドアの前まで来た時、中から若い女の声が聞こえてきて、足が止まる。 「ロレンツォ……私を傍におくのは、あの人に似てるから?」 ドアは少しだけ開いていた。 隙間から見えたのは、昔の私によく似た若い女。彼女は彼のジャケットを羽織り、ロレンツォのグラスを手にしていた。 息の仕方すら分からなくなった。 その時、彼の声が聞こえる。 「お前をあいつと比べるな」 低く、迷いのない声だった。 「ソフィアには、決してお前の代わりはできない」 私は何も言わず、その場を離れた。 足音も立てずに。 その夜、私は母に電話をかけた。 「お母さん。もう決めたわ」 母はしばらく黙っていた。 私は静かに続ける。 「火事を起こしてほしいの。 誰も生き残れないような、大火事に」 そして、ゆっくり目を閉じた。 「全部終わる頃には、ソフィア・モレッティは、この世から消えたことになるの」

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Chapter 1

第1話

南イタリアにおいて、ロレンツォ・モレッティが私に狂うほど惚れていることは、誰もが知る事実だった。

それなのに彼は、ナポリでずっと若い愛人を囲っていた。

昔の私によく似た女。

そんな噂を、あとになって耳にした。

ロレンツォは周囲にこう話していたらしい。「あの子は、かつて一番愛した女を思い出させるだけだ」と。同時に、私の耳には絶対入れるなとも命じていた。

全部を知ったのは、妊娠が分かった日のことだった。

私は自分の口で伝えたくて、彼のオフィスへ向かった。けれどドアの前まで来た時、中から若い女の声が聞こえてきて、足が止まる。

「ロレンツォ……私を傍におくのは、あの人に似てるから?」

ドアは少しだけ開いていた。

隙間から見えたのは、昔の私によく似た若い女。彼女は彼のジャケットを羽織り、ロレンツォのグラスを手にしていた。

息の仕方すら分からなくなった。

その時、彼の声が聞こえる。

「お前をあいつと比べるな」

低く、迷いのない声だった。

「ソフィアには、決してお前の代わりはできない」

私は何も言わず、その場を離れた。

足音も立てずに。

その夜、私は母に電話をかけた。

「お母さん。もう決めたわ」

母はしばらく黙っていた。

私は静かに続ける。

「火事を起こしてほしいの。

誰も生き残れないような、大火事に」

そして、ゆっくり目を閉じた。

「全部終わる頃には、ソフィア・モレッティは、この世から消えたことになるの」

電話の向こうで、母は一瞬言葉を失った。けれど次に聞こえてきた声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。

「ソフィア……やっと決めたのね」

ほっとしたように、母が小さく笑う。

「今夜のうちに、お父様に手続きを進めてもらうわ。十日もあれば終わるはず。連絡するまで待ってなさい」

通話を終えたあと、私は家へ戻った。

ヴィラに入ると、ロレンツォはすでにリビングで待っていた。

どこか落ち着かない顔をしている。こんな表情を見せるのは珍しかった。

「遅かったな」

視線だけをこちらに向けたまま、低く言う。

「どこ行ってた?」

私は手にしていた薬袋を軽く持ち上げた。

「ちょっと病院。胃の調子悪くて。検査して、薬もらってきただけ」

昔から身体は強いほうじゃない。今回の妊娠も楽ではなく、医者からは無理をしないよう何度も念を押されていた。

私の顔色を探るように見ていたロレンツォは、ようやく本当に聞きたかったことを口にする。

「今日、会社に来ただろ。

なのに、なんでそのまま帰った?」

誰かに見られていたんだ。

私が彼のオフィス前にいたことを。

ただ、ロレンツォはまだ私が「あの場面」を見たかどうかまでは分かっていない。

本当に、一瞬だった。

ビアンカは彼のすぐ隣に座っていて、ロレンツォのジャケットを肩に羽織りながら、彼のグラスに触れていた。

でも、私がもう一度目を向けた時には、彼女はすでに離れていた。

「近くまで行っただけよ」

私は何でもないように答える。

「話してる最中みたいだったし、邪魔しないで帰ったの」

その瞬間、彼の身体からわずかに力が抜けた。さっきまでずっと張り詰めていたのだろう。

胸の奥が、嫌なふうに軋んだ。

結婚して七年。

周囲から見れば、私たちは理想の夫婦だった。

長い時間を一緒に過ごして、それでも変わらず愛し合っている二人。そう思われていたし、私自身も疑ったことなんてなかった。

このまま一生、彼と生きていくんだと信じていた。

でもまさか、こんなにあっさり心が離れていくなんて。

「ただ報告を聞いてただけだ」

ロレンツォはすぐに言った。

「お前も知ってるだろ。あいつ、まだ若いし距離感がおかしいんだよ。少し近かっただけだ」

そう言いながら、自然に私の肩を抱き寄せる。

「ここ最近、ラヴェッロ行ってないな」

声色が少し柔らかくなった。

「明日なら時間取れる。海までドライブして、テラスで飯でも食おう。最初に会ったあのヴィラ、久しぶりに行かないか?」

その場所の話になると、彼はいつも少しだけ優しい顔をする。

私たちが出会ったのは、アマルフィ海岸の名家が開いたサマーパーティーだった。

あの夜、ロレンツォは人混みから私を連れ出して、月明かりのテラスでキスをした。

それ以来、お互いの目に映るのは互いの存在だけになった。

毎年、結婚記念日になると、私たちは必ずあの崖の上のヴィラへ戻った。

恋に落ちた場所へ帰れば、あの日の気持ちも変わらないままでいられる――本気でそう思っていた。

でも今年、記念日が近づいた時、ロレンツォは「忙しい」と言って来なかった。

今なら分かる。

きっと、ビアンカと過ごしていたんだ。

私は小さく息を吐いて、首を横に振った。

「今はやめとくわ。先生に、しばらく安静にしてろって言われてるから」

ロレンツォは「そっか」と頷き、私の髪を撫でようと手を伸ばしてきた。

私が傷つくのはもうどうでもよかった。でも、この子だけは守らなきゃいけない。

私は気づかれない程度にそっと身を引く。

彼の手が途中で止まった。

「ソフィア」

私の顔を覗き込みながら、ロレンツォが静かに言う。

「……なんか怒ってるのか?」

少し間を置いてから、探るように続けた。

「ビアンカが寄りすぎていたこと、まだ気にしてるのか?」

そして困ったように笑う。

「あの子はまだ子どもみたいな歳だぞ。そんな本気で張り合うことないだろ?」

胸がひどく痛んだ。

昔の私も、あのくらい若かった。

けれど顔を上げた時には、もう何も口に出さないようにしていた。

「別に気にしてないわ」

そう答えると、彼はようやく安心したように息を吐いた。

「ならよかった。

来週、クリスティーズのオークションがあるんだ。欲しいものあったら言えよ。買ってくる」

一時間くらい前、私はビアンカのSNSを見ていた。

【来週、初めてのクリスティーズ】

【彼が、「最後の一点はもうお前のものだ」って。】

そんなコメントと一緒に載っていたのは、二人で撮った写真だった。彼の左手にある結婚指輪だけが、妙に目についた。

私はロレンツォを見て、静かに言う。

「私はいいよ。別の人に買ってあげれば?」

彼の目がわずかに曇った。何か言いかけたその時、スマホが震えた。

ビアンカからだった。

送られてきたのは写真一枚。

クラブの上階にあるプライベートスイート。乱れた黒いシーツ。

ベッド脇には女物のガーターが落ちていて、ナイトテーブルには彼のカフスとシグネットリング。

ロレンツォは一瞬画面を見ただけだった。

それでも、その喉仏が緊張で動くのを、私は見逃さなかった。

「ちょっと片づけないといけない仕事ができた」

平静を装った声でそう言う。

「数日は戻らない」

そして彼は、急ぐように部屋を出ていった。平気なふりをしていたけれど、隠しきれない高揚が背中に出ていた。

思い返せば、前にもこんなことは何度もあった。

仕事だと言って、慌てて出て行く夜。

増えていく出張。

長くなる不在。

全部、最初から繋がっていたのかもしれない。

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第1話
南イタリアにおいて、ロレンツォ・モレッティが私に狂うほど惚れていることは、誰もが知る事実だった。それなのに彼は、ナポリでずっと若い愛人を囲っていた。昔の私によく似た女。そんな噂を、あとになって耳にした。ロレンツォは周囲にこう話していたらしい。「あの子は、かつて一番愛した女を思い出させるだけだ」と。同時に、私の耳には絶対入れるなとも命じていた。全部を知ったのは、妊娠が分かった日のことだった。私は自分の口で伝えたくて、彼のオフィスへ向かった。けれどドアの前まで来た時、中から若い女の声が聞こえてきて、足が止まる。「ロレンツォ……私を傍におくのは、あの人に似てるから?」ドアは少しだけ開いていた。隙間から見えたのは、昔の私によく似た若い女。彼女は彼のジャケットを羽織り、ロレンツォのグラスを手にしていた。息の仕方すら分からなくなった。その時、彼の声が聞こえる。「お前をあいつと比べるな」低く、迷いのない声だった。「ソフィアには、決してお前の代わりはできない」私は何も言わず、その場を離れた。足音も立てずに。その夜、私は母に電話をかけた。「お母さん。もう決めたわ」母はしばらく黙っていた。私は静かに続ける。「火事を起こしてほしいの。誰も生き残れないような、大火事に」そして、ゆっくり目を閉じた。「全部終わる頃には、ソフィア・モレッティは、この世から消えたことになるの」電話の向こうで、母は一瞬言葉を失った。けれど次に聞こえてきた声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。「ソフィア……やっと決めたのね」ほっとしたように、母が小さく笑う。「今夜のうちに、お父様に手続きを進めてもらうわ。十日もあれば終わるはず。連絡するまで待ってなさい」通話を終えたあと、私は家へ戻った。ヴィラに入ると、ロレンツォはすでにリビングで待っていた。どこか落ち着かない顔をしている。こんな表情を見せるのは珍しかった。「遅かったな」視線だけをこちらに向けたまま、低く言う。「どこ行ってた?」私は手にしていた薬袋を軽く持ち上げた。「ちょっと病院。胃の調子悪くて。検査して、薬もらってきただけ」昔から身体は強いほうじゃない。今回の妊娠も楽ではなく、医者からは無理をしないよう何度も念を押されて
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第2話
その夜、母から短いメッセージが届いた。【来週、迎えを出すわ。】私はしばらく画面を見つめ、それから静かにスマホを伏せた。その後の数日間、ビアンカはSNSを更新し続けた。ロレンツォが戻ってきたのは、一週間後。――私が痕跡を消すまで、残りあと三日。私は当然、彼ならそのままオフィスへ向かうものだと思っていた。けれど彼は珍しく、先に家へ帰ってきた。彼が戻る前日の夜、私はビアンカの最新のストーリーを見ていた。白いスリップドレス姿の彼女が、高級ホテルのスイートに立っている。後ろのベッドは乱れたまま。テーブルには開けかけのシャンパン。そこに添えられていた言葉はこうだった。【彼氏が、今夜クリスティーズで指輪を買ってくれるんだって、そのままはめてくれたりして】吐き気がした。でも、一番目に刺さったのは部屋でも指輪でもない。黒い髪に、白いドレス。「昔の私」をなぞるような、ビアンカのその姿だった。もちろん、私に見せるために載せたのだろう。最初から、そのつもりで。だから私は、コメントを一つだけ残した。【ほんと、あの人の好みそのままね。】一分もしないうちに、ストーリーは消えた。ロレンツォが家に入ってきた時には、すでに機嫌が悪かった。「ソフィア」ネクタイを緩めながら、苛立った声で言う。「この前のことなら、もう説明しただろ。ビアンカはまだ若いんだ。変に話を大きくする必要ないだろう」私は一瞬だけ黙り、それですべて理解した。削除されたストーリーの件なのね。案の定、私の顔を見た彼の表情がさらに険しくなる。「守ってくれる人がいて幸せって書いただけだろ。それに対して、あんな返し方する必要あったのか?」呆れたように息を吐き、彼は続けた。「お前らしくなぞ、ソフィア。あんな小娘を相手に張り合って、自分を貶めるような真似はするな」私は唇を軽く噛んだまま、何も言わなかった。弁解する気にもなれない。ビアンカが都合よく話を変えたなら、それでいい。あと三日。三日だけ耐えればいい。その頃には、この子と私は、もう彼の手の届かない場所にいるだろう。私が昔みたいに言い返さなかったからか、ロレンツォの表情から少しだけ強気が消えた。声も、今度は慎重なくらい柔らかくなる。「……最近、変だぞ」探
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第3話
三日後。七年間暮らしたヴィラの中で、私はついに、心のどこかが静かに死んでいくのを感じていた。壁一面には、私たちの写真が飾られている。全部私たちが愛し合った痕跡だった。私はそれを一枚ずつ外し、全部の写真から自分だけを切り取った。それから、自分の荷物をまとめる。二人で使っていたものは、きっちり半分に分けて残した。同時に、ビアンカとのメッセージやSNSのスクリーンショットも、指定した時間にロレンツォのメールへ送られるよう設定しておいた。ひと息ついた頃、また通知が入る。ビアンカだった。送られてきたのは、クリスティーズの開始時間と場所。その下に、一文だけ。【来る勇気、ある?モレッティ夫人。今夜ロレンツォがね、「最後の一点」を絶対に私のために落とすって。】その夜、私は時間通りに会場へ向かった。本当は行くつもりなんてなかった。日付が変わる頃には、母の手配した「火事」が始まっている。ほどなくして、ソフィア・モレッティは死ぬ。だったら、若い愛人の挑発に付き合う意味なんてないはずだった。でも、ビアンカが送ってきたカタログの中に、一つだけ気になるものがあった。最後の目玉商品は、目が眩むほど高価なイエローダイヤのネックレス。けれど私の目を引いたのは、もっと控えめなペンダントだった。上品で静かなデザイン、母が好きそうだと思った。それを買いに行くだけ。そう自分に言い聞かせた。けれど本当は、まだ見たかったのだ。ロレンツォが、彼女のためにどこまで変わってしまったのかを。たった七年で。あれほど私を愛していた男が、別の女を愛するようになるなんて。会場へ入る頃には、前方の席はほとんど埋まっていた。私は最後列に座る。ペンダントだけ落として、すぐ帰るつもりだった。ロレンツォとビアンカは中央付近に並んで座っていた。身体を寄せ合い、親密そうに話している。時折、ビアンカが後ろを振り返っていた。そして私を見つけた瞬間、口元がゆっくり歪む。――勝った。そう信じ切っている女の顔だった。目玉商品は最後に回される。私の狙っていたペンダントは予想通り早い段階で出品された。まだ無名に近いデザイナーだったせいで競る人も少なく、私は相場よりかなり安く手に入れることができた。そのまま立ち
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第4話
ビアンカのペントハウスへ向かう車の中で、ロレンツォは突然、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。一瞬で消えた痛みだった。けれど、妙な胸騒ぎだけが残る。何か大切なものが、自分の手の届かないところへすり抜けていくような感覚。それがどうしても拭えなかった。何度も頭に浮かぶのは、オークション会場で最後に見たソフィアの顔だった。あまりにも落ち着いていて、どこか遠い顔だった。昔の彼女は、あんな目で自分を見たりしなかった。何がおかしいのか、うまく言葉にはできない。ただ、あの表情が妙に引っかかって離れない。ビアンカのマンションへ着いても、その違和感は消えなかった。当然、ビアンカはまだ機嫌を損ねていた。普段なら、そういうところも可愛いと思えたかもしれない。気が強くて、自分を曲げないところ。真っ直ぐ感情をぶつけてくるところ。最初に惹かれたのも、そういうところだったから。でも今夜は、ただ疲れる。ロレンツォは何も言わず、ベルベットのケースを彼女へ差し出した。その瞬間、ビアンカの顔がぱっと明るくなる。「やっぱり、ちゃんとくれるんじゃない」嬉しそうにケースを抱きしめながら笑った。「先に着替えてくるわ。せっかくだし、ちゃんと似合う格好で見せたいの」その無邪気な喜び方を見て、ロレンツォはなぜか微かに居心地の悪さを覚えた。彼女にものを贈るのは、これが初めてじゃない。このペントハウスも、クローゼットを埋めるドレスも、ジュエリーもバッグも。彼女が当然のように身につけている贅沢のほとんどは、自分が与えたものだった。それなのに、オークション会場でイエローダイヤを見つめていた彼女の眼差しを思い出すと、ひどく後味が悪かった。あまりにも分かりやすかった。欲しい、と。全部顔に出ていた。ビアンカはまだ若いゆえ、欲望を隠すのが下手だ。だからこそ、見えてしまうものがある。高価なものを前にした時の、あの露骨な目の輝き。ソフィアは違った。もちろん、ソフィアがプレゼントを喜ばなかったわけじゃない。でも彼女が本当に嬉しそうな顔を見せたのは、値段の高いものを貰った時じゃなかった。ふとした時に買った小さなもの、彼女が前に欲しいと言っていたものを覚えていて渡した時。ちゃんと見ていてくれた、と分かるもの。そんな時の
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第5話
ビアンカの部屋を出たあと、不意にロレンツォの脳裏へ、十八歳の頃のソフィアが浮かんだ。あの頃の彼女もビアンカと同じように頑固だった。けれど、自分に対してだけは違った。ロレンツォが荒れている時は、何も言わず隣にいてくれた。怒りをぶつけても受け流し、気分が悪い日は空気を変え、機嫌が悪い時は黙って寄り添った。何かを求められた記憶はほとんどない。あれほど無条件に愛されていたのだと、今さら気づく。ロレンツォは振り返ることなく車へ乗り込んだ。帰ろう。ソフィアに会って、ちゃんと話をしよう。最近自分が彼女を蔑ろにしていたことくらい、分かっている。でも、まだ遅くないはずだと思った。彼女がまだ自分を受け入れてくれるなら、やり直せる気がした。もっと時間を作ればいい。もっと彼女を優先すればいい。ビアンカのことは遠ざける。パリでも、ジュネーブでも。どこか遠くへ行かせて、適切な距離を取り戻す。学校に通わせ、大人になるまで待たせればいい。それでも将来、彼女がまだ自分を望むなら、その時は望むものを与えればいいし、そうじゃなくても不自由なく生きていけるよう面倒は見ればいい。そんなふうに考えを整理しているうちに、車はもう屋敷の門をくぐっていた。なのに胸のざわつきだけは、なぜか消えない。ロレンツォはそのまま玄関のドアを押し開けた。「ソフィア」返事はない。静かすぎた。胸騒ぎが、ゆっくり背筋を這い上がる。そのまま奥へ進みかけた時、ロレンツォの足が止まった。壁に飾られていた写真だった。全部、切り取られている。初めて二人で撮った写真も、結婚式の写真も、その後の記念日の写真も。どのフレームからも、ソフィアだけが見事に切り抜かれている。胸の奥で、何かが重く沈んだ。ロレンツォは弾かれたように寝室へ向かい、クローゼットを開ける。空だった。ソフィアの服も、ジュエリーも、旅行鞄も、何ひとつ残っていない。すぐにスマホを取り出し、彼女へ電話をかけた。けれど呼び出し音すら鳴らない。電源が切られている。もう一度かけるが、繋がらない。何度試しても、返ってくるのは無機質なアナウンスだけだった。ロレンツォは強くスマホを握り締める。信じたくなかった。ソフィアが何も言わず消えるなんて。まし
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第6話
あのあと何週間も、ソフィアはほとんどロレンツォのそばを離れなかった。熱が下がってからも、薬の時間を気にして、傷の具合を確かめて、痛みで眠れない夜には黙って隣に座っていた。回復してからですら、彼女はどこか安心できない様子だった。ちゃんと休んでいるか、身体が冷えていないか、無理をしていないか。まるで少しでも目を離したら、また彼を失ってしまうみたいに。ロレンツォの脳裏に、ある光景が鮮明に蘇る。撃たれたあと、まだ顔色も悪く、まともに立っているのも辛かった頃。テラスに出ていた彼の背後から、ソフィアが静かに歩いてきて、肩に掛けたコートをそっと直してくれた。その時、ロレンツォは心の中で誓ったのだ。もし生き延びられたなら、一生この女を大事にしようと。――なのに、いつから忘れた?ソフィアがあまりにも深く、疑いなく愛してくれたから、自分から離れるはずがないと思い込んだのか。それとも、彼女の献身にあまりにも慣れきってしまい、その存在自体が目に入らなくなっていたのか。ロレンツォは目を閉じた。ビアンカに惹かれたのは事実だった。眩しくて、向こう見ずで、危ういほど生き生きしていて。あの無防備な若さが、昔のソフィアを思い出させた。けれど、それでも。ソフィアを失う未来なんて、一度だって考えたことはなかった。なのに、どうして彼女はいなくなったのだろう?ロレンツォは箱の中の結婚指輪を見つめ、苦しげに息を吐いた。その時、スマホが震える。日付は、ちょうど零時を回ったところだった。ロレンツォはすぐ電話に出る。「どうした」「火事です」部下の声だった。ロレンツォの動きが止まる。「どこだ」「海沿いのマンションです。ソフィア様が使っていた――」最後まで聞く前に、胸が嫌な音を立てた。「……ソフィアは?」短い沈黙。「中にいた可能性が高いと」その瞬間、呼吸の仕方を忘れた。気づけばロレンツォは走り出していた。海沿いへ着いた頃には、建物はすでに半分以上が煙に包まれ、赤い警告灯が夜を染めていた。車を降りた瞬間、誰かが腕を掴む。「入らないでください!」「ソフィアはどこだ!」ロレンツォが怒鳴る。誰も答えない。その時、視界の端に見慣れた車が映った。ソフィアの車だった。
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第7話
ロレンツォは海沿いのマンションを出ると、そのままビアンカのペントハウスへ向かった。ドアが開いた瞬間、ビアンカの顔に安堵が広がる。「ロレンツォ……戻ってきてくれたんだ」次の瞬間、彼は彼女を壁へ叩きつけていた。ビアンカの笑顔が消える。「……ロレンツォ?」「どうしてだ」声は低かった。ビアンカは一瞬だけ意味が分からない顔をして、それから徐々に青ざめていく。「どうしてあそこまでソフィアを追い詰めた」ロレンツォは彼女を見下ろしたまま言った。「オークションでの視線。あの挑発。わざと見せつけるような投稿……全部だ。なんであんな真似をした?」ビアンカの目に一気に涙が浮かぶ。ロレンツォは彼女のスマホを奪い取り、そのまま操作した。保存されたストーリー、公開範囲の設定、誰にだけ見せていたのか。数分もしないうちに、全部繋がった。ソフィアの思い込みなんかじゃなかった。すべて、ビアンカが彼女を追い詰めるために、周到に選び抜いて見せつけていたのだ。ロレンツォが顔を上げた時、その目にはもう何の感情も残っていなかった。「ソフィアを傷つけたかったんだな」静かに言う。「惨めな気分にさせて、居場所を奪いたかった」ビアンカは泣きながら首を振った。何か言おうとして、言葉がうまく出てこない。「嫉妬してただけよ」震える声で言う。「だって好きだったから。 あなたがあの人のところへ帰るたびに、まだ一番大事なのはソフィアなんだって思い知らされて、耐えられなかった」ロレンツォは何も言わない。その沈黙を許された気がして、ビアンカは必死に言葉を重ねた。「やりすぎたのは分かってる。でも、私はただ……選んでほしかっただけなの」涙で声が途切れる。「私は、こんなことになるとは――」ロレンツォが冷たく笑った。「選ぶ?」ビアンカが怯えたように肩を震わせる。「勘違いしてたようだな」彼の声はどこまでも冷え切っていた。「甘やかされてることと、大切にされてることの区別もつかないままな」ビアンカの涙がさらに溢れる。「お願い、ロレンツォ……」今度は縋るような声だった。「私がバカだったわ。ソフィアが気に食わなかったよ……でも本当にあなたを愛してるの」「じゃあソフィアは?」ロレンツォが
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第8話
それから数日間、ロレンツォはまともに眠らなかった。昼は書斎に籠もって火災報告書を読み返し、夜になるとファミリーのプライベートクラブへ向かった。誰かと夜を過ごしたいわけではない。ただ、余計な音も気配もない場所で、一人で考えていたかった。酒の量だけが増えていく。昔から彼を知る男たちは少し離れた場所に座り、必要以上に話しかけなかった。そのうちの一人が、ある夜ひっそりビアンカへ連絡を入れた。彼女が来たのは、それから三十分もしない頃だった。ロレンツォはソファに深く沈み込み、開いた襟元のまま片手にグラスをぶら下げていた。入口に立つビアンカの姿を捉えた瞬間、彼の表情が縋るように揺れた。次の瞬間には、弾かれたように立ち上がっていた。そのまま真っ直ぐ彼女のもとへ歩み寄り、強く抱き締める。肩へ顔を埋め、掠れた声で呟いた。「……ソフィア」ビアンカの身体が硬直した。けれどロレンツォは気づかない。「戻ってきてくれたのか……」酔いと疲労で震える声のまま、さらに腕へ力を込める。「もう、いなくなるな……」その瞬間、ビアンカの顔色が変わった。彼女は勢いよくロレンツォを突き飛ばす。「ちゃんと見てよ!」涙を滲ませたまま声を荒げた。「私はソフィアじゃない」部屋の空気が止まる。ビアンカは肩を震わせながら笑った。「……そういうことだったんだ」声が掠れていた。「結局、私はあの人に似ていたから傍に置いてただけなのね。薄暗い部屋で酔っていれば、間違えて抱ける程度の身代わりだったってこと?」ロレンツォは何も言わなかった。ビアンカは乱暴に涙を拭い、今度は少しだけ声を落とす。「食事もしてないって、眠ってないって聞いたの。だから来たのに」苦しそうに息を吐く。「少しくらい、私を必要としてるのかと思った……」ロレンツォは手の中のグラスをテーブルへ置いた。ほとんど減っていない酒だった。「呼んでない」低い声だった。「帰れ」怒鳴りもしない。それなのに、拒絶だけははっきり伝わる。ビアンカはしばらく彼を見つめていた。何か変わるのを待つみたいに。でも最後まで、ロレンツォの表情は動かなかった。やがて彼女は唇を噛み、そのまま部屋を出ていく。誰も止めなかった。古参の部
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第9話
私は会社の社宅に入った。上司が北部の新規プロジェクトに入ることになって、「現場を覚えるいい機会だから」と私も連れていってくれたのだ。ホテルでチェックインを済ませた直後、母から電話が来た。「あの子、うちに来たわよ」私はカードキーを手にしたまま、廊下で足を止める。「居場所を聞かれたわけじゃないの。そこは一線引いてた。でも……火事のこととか、その前のあなたの様子とか、ナポリを出たがってた覚えはないとか、色々探るような聞き方をしてきたわ」母は少し黙ってから続けた。「まだ諦めてないみたいね」私は手の中のカードキーをぼんやり見下ろした。今さら、と思う。永遠に失って初めて、自分の手の中にあったものの価値を知るなんて、遅すぎるのよ。母には、しばらく目立たないようにしなさいと言われた。私は「分かってる」とだけ返した。その日の夜、上司に連れられて湖畔のホテルへ向かった。プロジェクトチームとの顔合わせらしい。会場へ入る前、少し息苦しくてテラスへ出た。湖から吹く風が思ったより冷たい。髪を耳にかけた時だった。「……まだ何も出てないのか」背後から聞こえた声に、身体が固まる。ゆっくり振り返ると、そこにいたのはロレンツォだった。少し痩せていた。前よりずっと鋭い顔をしていて、まともに眠れていないのが一目で分かる。私は反射的にその場を離れようとした。でも、向こうも同じタイミングで私に気づく。ロレンツォの動きが止まった。それから次の瞬間には、迷う暇もないくらいの勢いでこちらへ歩いてくる。目の前まで来ても、彼は何も言わなかった。ただ信じられないものを見るみたいに、私を見つめている。「……ソフィア」掠れた声だった。私はできるだけ表情を変えずに答える。「人違いです」ロレンツォは動かない。「生きてたのか……」「あなたのこと、知りません」その時、彼の視線がふっと私の耳元へ落ちた。左耳の後ろ。髪を上げないと見えない、小さな傷跡。昔、海辺で船を降りる時に足を滑らせたことがあった。倒れかけた私を咄嗟に引き寄せようとした彼の手が、彼自身が贈ってくれたパールのピアスに引っかかり、耳の後ろを深く裂いたのだ。縫った跡は今ではほとんど目立たない。でも、ロレンツォは
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第10話
差し出されたマッテオの手を、私は少しだけ迷ってから握った。「じゃあ改めて」彼は小さく笑う。「マッテオ・フェッリです」「ほんと、久しぶりね」思っていたより、食事はずっと気楽だった。上司が電話で席を外した時、マッテオがふと真面目な顔になる。「ちゃんと言っておきたかったんだ」私は顔を上げた。「子供の頃、俺ずっと君のこと好きだった」少し照れたように笑う。「……今もだけど」私は返事に困って、少し黙った。それから正直に言う。「今はまだ、誰かとどうこうなる気にはなれない」新しい恋愛をするつもりなんてなかった。お腹の子のこともある。これ以上、誰かに心を振り回されるのも嫌だった。マッテオは無理に笑わなかった。ただ静かに頷く。「分かってる」落ち着いた声だった。「今すぐどうこうしたいわけじゃない。ただ、もし……いつかそういう気持ちになれる日が来たら、その時の最初の選択肢に、俺を入れておいてほしい」私は何か返そうとして――その瞬間、聞き慣れた声が割って入った。「そんな日は来ない」空気が止まる。振り返ると、数歩先にロレンツォが立っていた。前に会った時よりさらに痩せていて、顔色も悪い。なのに、私を見る目だけは異様なほどはっきりしていた。マッテオがすぐ立ち上がる。私は感情を抑えたまま聞いた。「何してるの?」「お前に会いに来た」答えは早かった。「ソフィア、五分だけでいい。話を――」「嫌よ」即答だった。マッテオが半歩前へ出る。「聞こえましたよね」ロレンツォはようやく彼を見た。「どけ」マッテオは動かなかった。次の瞬間、前触れもなくロレンツォの拳が飛んだ。避ける暇すら与えない、重く、容赦のない一撃だった。マッテオも即座に殴り返す。椅子がなぎ倒され、グラスが砕け散る音が店内に響き渡った。「やめて!」私は立ち上がって叫ぶ。ロレンツォの部下が二人がかりでようやく二人を引き離した。マッテオは口元の血を拭って苦笑する。「平気だ」私はそちらへ向かおうとした。けれどロレンツォに腕を掴まれる。「そいつと行くのか?」「あなたが殴ったんでしょう」私は冷たく言い返した。「当たり前じゃない」ロレンツォの指先に力
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