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よくある光景・・・

last update Last Updated: 2025-05-16 18:10:02

戦は、終わった。

血と灰と、燃え残った焦げた布の匂いだけが、まだ重たく空気を押し潰している。

ロホは剣を鞘に収め、

泥と煤で黒くなった手袋を外した。

ぺガスは静かに地を踏みしめ、ファドも無言でロホの後ろにぴたりとついていた。

今、この場でなすべきはただひとつ――

終わったものたちを、きちんと弔うこと。

ロホは、倒れたまま動かない人影に近づいた。

それは、布を巻き付けただけの粗末な防具を着た、若い女だった。

顔に、苦悶の色はない。

まるで、眠るような静けさだった。

ロホはそっとしゃがみ、彼女を抱え、静かな場所へ運ぼうと手を伸ばした――

その瞬間。

小さな影が、ロホの手を遮った。

女の子だった。

年のころは七つか八つ。

服はぼろぼろで、顔も手も煤にまみれていた。

それでも、彼は必死にロホの腕をつかみ、首を横に振った。

声は出ない。

ただ、泣きそうな顔で、必死に首を振り続けた。

ロホは手を止めた。

その子にとって――

この女性は、まだ"ここにいる"存在だった。

たとえ、息をしていなくても。

たとえ、冷たくなっていても。

それでも、まだ――“お母さん”だった。

ロホは、ゆっくりと膝をつき、目線を合わせる。

そして、そっと手を引いた。

女の遺体に触れず、何も言わず、ただその場にひざまずき、祈った。

風が、すすり泣くように草を揺らしていく。

ファドが、何も言えずに肩を震わせた。

ぺガスは、鼻先を低く鳴らして、そっと少女の背を押した。

ロホは、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。

「……ごめんね。それでも、あなたが、また歩ける日が来ることを願うよ。」

彼女は、少女の背中に手を伸ばしはしなかった。

慰めることも、約束することも、今はまだできなかった。

できることは、ただ一つ。

そっと、そこにいてあげること。

少女は、ずっと、母親の手を握りしめたまま、空を見上げていた。

ロホは、少女の必死の抵抗に触れながら、しばらくその場に留まっていた。

だが、時間だけは無情に過ぎていく。

吹きつける風は冷たく、夜が来れば獣たちが遺体を汚すかもしれない。

放置することは、できなかった。

ロホはそっと立ち上がり、小さく呟いた。

「……でも、このままにしてはおけない。」

少女は、母親の冷たい手を握りしめたまま、か細く呟いた。

「……お母さん……」

その声には、わずかに、

ほんのわずかに、母が目を開き、自分を抱きしめてくれる奇跡を期待する響きがあった。

ロホは胸の奥をきつく締めつけられる思いで、ただ、隣に立っていた。

――そのとき。

「どうかしましたか?」

穏やかな声がした。

振り向くと、上質な衣をまとった若い男が馬にまたがっていた。

その背後には、甲冑を着た数人の護衛も控えている。

高貴な家の者だろう。

ロホが簡潔に事情を話すと、青年は小さく頷き、護衛たちに命じた。

「遺体を荷台に積め。できるだけ早く、集めて処理する。」

護衛たちは、無遠慮に、女の遺体に手をかけた。

少女が、身を固くした。

そして次の瞬間、火がついたように叫んだ。

「おかあさああああああああああああああああああああん!!」

絶叫だった。

声にならない嗚咽と、魂を引き裂くような悲鳴が、焼けた空に響いた。

だが、護衛たちは構わず女の遺体を荷台に放り込む。

青年はわずかに顔をしかめ、

それでも手際よくスカーフを拾い上げ、少女に握らせた。

「お母さんの形見です!

あなたは、強く生きなければいけません!」

――立派な言葉だった。

正しい励ましだった。

だが、その言葉は、

少女の痛みに届くことはなかった。

少女は、スカーフを握りしめたまま、

いつまでも、いつまでも、

喉が裂けるように泣き続けた。

泣いて、泣いて、世界のすべてを呪うかのように、それでもまだ、泣き続けた。

ロホは、その場に立っていた。

剣を抜くでもなく、何かを叫ぶでもなく、ただ、静かに、怒りと悲しみを胸に抱いて。

これが――

これが、戦の後には、本当によくある光景だった。

誰もが正しく、誰もが間違っていて、誰もが傷つき、誰もが何もできない。

「私は神様ではない。でも……神様も、きっと泣いていただろう。」

ロホは、ゆっくりと目を閉じた。

そして、また歩き出した。

少女の絶叫を背に受けながら。

前へ。

歩き続ける者として。

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