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賢者の最期にて

last update Dernière mise à jour: 2025-05-16 18:11:01

夜は、静かだった。

焚火も絶え、月だけが、冷たく白く照らしている。

小さな庵の中、藁の上に寝かされた老人――賢者ルヴェールは、

既にその手足に力がなく、呼吸も細く、かすかなものになっていた。

ロホは、ただ静かに、彼の枕元に座っていた。

ファドもぺガスも、遠くで気配を消している。

ここに必要なのは、ただ“聞く耳”だけだった。

賢者は、乾いた唇を微かに動かした。

ロホは水を含ませた布で、そっと彼の口元を拭った。

それから――賢者は、ゆっくりと、語り始めた。

「生と死はね、誰にでも訪れるもの……

不吉でも、悲劇でもないのですよ。」

「精一杯生きた人生はね、

お腹いっぱいにご馳走を食べたようなものなの。」

「だから私は、満足してる。」

賢者の声は、掠れていたが、どこまでも澄んでいた。

ロホはただ、黙って聞いていた。

「でもね――

精一杯生きなかった人の人生は、

飢えに苦しむようなものだから、

死が、怖くなるんだ。」

ロホは目を閉じた。

誰よりも多くの生と死を見てきた彼女には、

その言葉の重みが、痛いほどわかった。

賢者は、にじむような微笑みを浮かべ、

小さく、こう続けた。

「だからね……

私にとって、死は――

ご褒美みたいなものなの。」

しばらく、静寂が流れた。

ロホは、ゆっくりと賢者の手を取った。

冷たく、しかし、確かに生きていた手。

「……お疲れさまでした。」

ロホは、それだけを告げた。

賢者は、小さく、小さく頷いて、

まるで眠るように、息を引き取った。

夜風が、庵の隙間を通り抜け、

星々が、静かにまたたいた。

ロホは目を閉じ、

一言だけ、心の中で祈った。

「どうか、あなたの旅が、

もう飢えることのないものになりますように。」

そして、また、歩き出す。

新しい朝に向かって。
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