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ロホ ~歩き続ける者~
ロホ ~歩き続ける者~
Author: あもい せい

僅かな希望で前に向かう人

last update Last Updated: 2025-05-16 17:53:34

雪が舞っていた。「ロホ!もう少しで町だよー!」

前を飛ぶ小さなドラゴンがくるくると宙を回る。だが、その羽ばたきも少し重たそうだった。ロホと呼ばれた女性は

「……飛ばなくていい。疲れるから歩きなさい、ファド」

「えー、でも、空のほうが見通し良いんだもん」

「おまえの羽、濡れてる。羽風で雪を巻き込んでるよ。歩く方が賢明」

「……はーい……」

不服そうにファドと呼ばれたドラゴンがロホの肩に乗った。流麗な白い鬣を持つ馬は鼻をふん、と鳴らして雪を蹴る。

細い道を縫うように進むぺガスの背中で、ロホは空を見上げた。空は白く、どこまでも遠かった。

銀髪は腰まで伸び、今日は気まぐれに編み込んである。翠の瞳の奥に炎のような静けさを宿し、ロホは雪を踏みしめていた。左に剣、右に小剣、太ももにはナイフ。背には弓。フードを被り皮鎧とローブを重ね、常に“戦い”と“日常”の狭間にいる魔法戦士。

その隣を、翼を小刻みに揺らしながら飛ぶのはドラゴンの子供・ファド。中型犬ほどの体躯で、おしゃべりといたずらが大好きな旅の相棒。

そして、ロホの背に静かに寄り添うのは、流麗な白い鬣を持つ馬――ぺガス。言葉は話さないが、その瞳と言動で十分すぎるほど意志が伝わる、誇り高き旅の仲間。

「私がその人に出会ったのは、その町に入ってすぐのことです」

その町の名前は「カイレ」。 雪と霧に包まれる、小さな谷間の町だった。

町の宿屋は古びていたが、火の温もりがあった。

「……いらっしゃいませ。雪の旅、お疲れ様でした」

出迎えたのは、まだ十にも満たない少女だった。母親は病気らしく、代わりに受付をしているのだという。名をティレといった。

「お客様申し訳ございませんが、お馬のほうはご自身で小屋につないでいただけますでしょうか、一人しかいないので・・・」

 ロホは頷きペガスを馬小屋に連れていき、まぐさもたっぷり与えた。

「宿、空いてる?後お風呂も・・・」

ロホの問いに、ティレはこくりと頷く。

「一番奥の部屋です。……あの……ローブ、濡れてます」

「ありがとう。でも乾かすから、大丈夫」

ファドはストーブの前で大の字になって伸びていた。

「天国ぅ……」

「……こいつ、火があるといつもこうなるんだよね」

「……ふぅ……」

宿の共同浴場に音を立てず湯に沈む、湯殿にはロホしかおらず足を伸ばし、腕を伸ばして伸びをする。

湯気が舞い、ローブを脱いだロホの背があらわになる。

背筋はすらりと伸び、傷跡ひとつないように見えるが、その皮膚の奥には深い年月が刻まれている。

静かな湯音だけが、時を刻む。

ファドとぺガスは厩舎とストーブの近くでくつろぎ中。

今夜は誰にも邪魔されない──

湯から上がると、ティレが洗濯したローブをすでに干してくれていた。

気が利くどころではない。彼女の働きぶりは、大人顔負けだ。

「……ありがとう。早かったね」

「火のそばに干したから……あと、あったかいごはん、作ったんです。お口に合うかわからないけど……」

テーブルの上に並べられていたのは、この町の地のもの尽くしの料理だった。

• 雪下人参と鹿のシチュー

• 干し魚の炙りに、山菜の酢漬け

• 粟と蕎麦の雑炊風の一品

• そして、何より目を引いたのは──

「これは……?」

「ヤマリンドウのジャムを、麦粉のパンに……寒い時期にだけとれる、ちょっと甘酸っぱいの。お母さんのレシピで……」

ロホは、無言で一口。

「……」

咀嚼し、味を噛みしめる。

「──やさしい味だ」

ティレの顔がぱっと明るくなる。

「本当? 本当に? よかったぁ……!」

「お母さんの味、なんだね」

「うん。お母さん、あんまり起きられないけど、レシピだけはたくさん残してくれてて……。あたし、それを覚えようと思って」

ロホは、ふと視線を落とす。

誰もいないはずの食卓で、誰かの存在が残っている──そんな温もりに包まれていた。

「……おいしかったよ。ちゃんと、“届いた”。この料理」

「……へへへ……!」

ティレの頬は赤らみ、少し涙がにじんでいた。

その後ロホは一人、町の外れに足を運んだ。

雪の積もる丘に、木の十字架が並んでいた。

「墓地……?」

「この町、三年前に疫病で多くの人を失ったの」

声がして振り返ると、ティレがいた。手には小さなランタンを持っている。

「私のお父さんも、兄さんも、ここに……。それ以来、お母さんも体が弱くなっちゃって」

「……」

ロホは黙って雪の地面を見つめた。

「でも、お姉さんは旅をしてるんだよね? いいなぁ。私もいつか、外の世界を見てみたいなぁ」

「それは簡単なことじゃない」

「わかってる。……でも、今の毎日が変わらないまま終わっちゃうのも、ちょっと、怖い」

ロホは空を見上げた。

雪の夜空には、ひときわ強く光る星が一つあった。

「ティレ、空を見なさい」

「うん」

「人は上を向ける。どんなに足元が泥だらけでも、どんなに涙で顔がぐしゃぐしゃでも、上を見ることはできる。だから、歩ける」

ロホはそう言って、ティレの頭をそっと撫でた。

宿の奥の部屋に、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が静かに響いていた。

ストーブのそばで、ファドが丸くなって眠っている。

ベッドに横たわるティレの母は、浅く弱々しい息をしていた。

ロホはその隣に膝をつき、そっと手を額に当てた。

……体は冷えている。だが、それは病の根だ。

彼女の魔法では――治せない。

ティレは毛布の中から顔を覗かせ、ぽつりと聞いた。

「……もし、お母さんが死んだら……あたし、どうなるのかな……」

ロホは答えなかった。

言葉を選ぶ時間は、残されていなかった。

ただ暖炉の火を見つめ、その小さな炎のゆらぎに、意志を込めた。

夜が明けた。

ロホは早朝の誰もいない台所で、ゆっくりと膝をつくと、土間の中心に手をかざした。

 そこに、小さな火の種を生み出した。

拳ほどの大きさの、ゆらめく“炎の種”。

触れても熱くない。だが、確かに温かい。

風にも消えず、薪が尽きても灯り続ける、小さな命の光。

それは元素操作による“火”の魔法。

けれど、それは攻撃でも、照明でもない。

「これは……灯(ひ)だ」

そうロホは心の中でつぶやく。

“誰かの命が消えぬように”と、願いを込めた魔法。

ロホはそれだけを残し、部屋を出た。

支度を終え、ペガスの鞍に手をかける。

「ロホさん、行っちゃうの……?」

小さな声に振り返ると、ティレが玄関でじっと見つめていた。

「……お母さん、まだ苦しそうだよ……でも、昨日より……少し、あったかい気がするの、あとこれお弁当です。ヤマリンドウのジャムを麦粉のパンに挟んだサンドイッチ」

ロホは優しく頷き、こう告げた。

「寒さには負けない。そう願えば」

そう言って、ロホは再び旅立った。

歩き出すその背に、ティレは小さく手を振る。

「ありがとう……ロホさん!」

雪はまだ降っていた。

けれど、その町には、小さな光が灯っていた。

ぺガスの蹄が、凍った地面を静かに打つ。

ロホは口の中で、かすかに呟いた。

「……願わくば、この町に次の春が来るように」

「ゆっくりでもかまいません、前に」

町を離れる白い影は、雪の丘を超え、また歩き出した。

雪が深くなる山道の中腹。

白の景色の中に、ほんのわずか――“動いたもの”があった。

ロホはすぐに気配を察知し、低く告げた。

「……ファド、上」

「わっ、見つけた!? うわああっ、矢ッ!」

叫びと同時に、崖の上から飛び出してくる影。

毛皮に身を包んだ伏兵たちが、雪を蹴立てて襲いかかってくる。

「白い雪に白い服って、目立たないからって……こっちは馬がいるんだぞバーカ!」

ファドが吠え、ロホの頭上を跳ねるように飛びながら視線を釘付けにする。

ぺガスは、ロホの背に身を寄せるように滑らかに身を翻し、その巨体で斜面を塞いだ。

彼女は剣を抜いた。左手に握られた剣が、低く唸る。

――一瞬の静寂。

そこから、雪が跳ね上がるようにして、戦が始まった。

ロホの剣が、迫る山賊の刃を受ける。

反対の手には短剣――敵の腹を横に切り裂き、流れるように続く。

飛んできた投げ矢を、懐から取り出した短剣で受け流し、逆手にそのまま投擲。

短く鋭い音を立てて、敵の肩を貫く。

戦場に無駄はない。動きの一つ一つが、積み上げた修羅場の記憶だった。

一方――ファド

おいおいおい! なんでオレが“囮”!?

いやまぁ確かに飛べるし、炎もちょっと出せるし、可愛いし強いけど……

って、うわあっ!? また来た!何人いるんだよこの山!

ファドはぐんと地を蹴り、斜面に咆哮を響かせた。

その小さな咆哮が、木々に積もった雪を揺らす。

ずしん――という音と共に、小規模な雪崩が起こる。

見たか!? これが“力学の応用”ってやつだよ!さすがドラゴン、頭いい~!

……って、噛みついたら「やめなさい」って怒るくせに、今は褒めてよ、ロホ!

剣戟と咆哮のわずか数分――

戦闘は、短く、しかし鋭く、終わった。

血に染まる雪を踏み越え、ロホは最後の敵の前に立つ。

剣を収めず、静かに言った。

「人の弱みに付け込んで生きるな」

言葉よりも、瞳が全てを語っていた。

剣を鞘に戻すと、ぺガスが鼻を鳴らし、ふんと前足で雪を強く踏みしめた。

ロホは小声で呟く。

「朽ち果てなさい、誰にも知られずに」

白の静寂が、再び支配する。

次に進むとき、またあの言葉が頭に浮かぶ。

「倒すだけじゃダメ。全員、仕留めないと」

それは冷酷ではない。

それが“誰かを守る側”としての、ロホの覚悟。全員仕留めなければ次の犠牲者が出るだけ。

そして、ファドの声が聞こえてきた。

「なあロホ……今日のオレ、けっこう頑張ったよね? ご褒美って、あるの?」

ロホは笑わない。けれど、その無言のまなざしには、“ご褒美以上”の信頼がこもっていた。

雪の中に、血の跡だけが残っていた。

白は静かに赤を包み、やがてその痕跡さえ、風に消えていく。

ぺガスは前足で雪をならし、ファドは木の陰でぶるぶると体を揺すっていた。

だが、ロホだけは動かず、山賊たちが崖を転げ落ちた方向を、ずっと見つめていた。

誰もが沈黙していた。

だから、ロホは自分の心の声に――耳を傾けた。

ロホが崖下を見下ろすと、雪の斜面にはわずかながら、赤と黒の影が散らばっていた。

「……下に降りる」

ファドとペガスを待機させ、ロホは慎重に斜面を降りていく。

崖下のくぼみに、粗末な天幕がひとつ――山賊たちの仮設の野営地だった。

中には、干し肉と酒瓶、そして…くたびれた絵本が一冊だけ、炭袋の横に置かれていた。

ロホは、ふと立ち止まり、それを手に取る。

表紙は剥がれ、ページは濡れてふやけている。

だが中には、幼い筆致でなぐり書きされた言葉が、かろうじて残っていた。

「父ちゃん、帰ってきたらまたこれよんでね」

「あかりをけさないでね」

「さむくないようにしてね」

ロホの指先が、ほんの一瞬、止まった。

そして、そっとその本を天幕の中に戻す。

「……そう」

雪の音だけが、辺りを包んでいた。

「“誰かの父”だったかもしれないのね」

声は出さず、ただ心の中で告げる。

剣を握るということは、誰かの何かを奪うこと。

そしてそれは、己の命をも刻むこと。

やむを得ず奪うことを選んだのか安易に選んだのかはロホには分からない。

ロホは、雪をかぶせるようにして天幕を覆い、ひとつ深く息を吐いた。

ぺガスが静かに寄ってくる。

ファドが、不安げにロホの顔を覗き込む。

「……大丈夫、ロホ?」

ロホは首を振り、ただ短く告げた。

「行こう。“あの町”の上空に、まだ火は灯っているから」

ふたりと一頭は、再び北へと進み出す。

木々の間から、薄日が差し込む。

雪にわずかに反射して、まるで“灯”のように見えた。

ファドが、そっと聞く。

「ねぇロホ……“火”ってさ、どこまで届くの?」

ロホは答えず、ただ歩き続けた。

けれどその背中には、確かに“消えない灯”が揺れていた。

ティレは、目を覚ました。

朝の光が差し込む部屋。

静かに燃える薪ストーブ。

そして、ロホが残した“灯”の魔法が、まだ淡くゆらめいていた。

「……あったかい」

枕元の母が、微かに咳をして、唇を動かした。

「……ティレ……、ありがとう……あたたかいわね……」

その声を聞いた瞬間、ティレの目に、涙が浮かんだ。

そして彼女は小さく、つぶやいた。

「ロホさん……あなたは、神様じゃなくて、火のひと」

そう言って、胸元のペンダントに触れる。

そこには、小さなヤマリンドウの花びらが一片、押し花にしてあった。

ロホはそっと、剣の柄に指を沿わせた。

「わたしが憎むのは、剣を抜かせる“状況”そのもの。欲望や暴力よりも、“無関心”が生む凍てついた社会のほう」

そして、小さく呟く。

「……少し、歩こう」

その言葉で、ファドがぴょこっと顔を上げた。

ぺガスが雪を蹴り、ロホの傍へ歩み寄る。

白に染まる山道は、まだ続いている。

だが、そこにはもう、誰の足跡もなかった。

ロホはまた、歩き出す。

その背に残った静けさは、

誰かの祈りのように、雪の中に溶けていった。

雪山を越えたその先に、また別の町が見えてくる。

ロホはふと、昨夜のティレの言葉を思い出す。

「迷宮都市に行きたい」

「……叶えばいい」

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    その日は、小さな村に向かう途中の谷で野営していた。食料は底をつき、保存していた干し肉も、ぺガスの鞍袋で粉のようになっていた。ファドの尻尾が、くぅとしおれた。「……お腹、鳴った……」ロホは、無言で弓を取った。矢筒を背に、ぺガスを休ませ、草を踏まず、音を立てずに森の奥へと入っていく。森の空気は冷たく、静かだった。ロホは木々の間に身を潜め、足跡と風の匂いをたどる。やがて見つけたのは、小さな群れから外れた一頭の鹿だった。角の欠けた若い雄。傷を負っている。いずれ群れには戻れまい。ロホは、弓を引いた。けれど、その矢を放つ前に――鹿と、目が合った。一瞬。そのまなざしに、ロホは息を飲んだ。恐れではない。憎しみでもない。ただ、「知っている」という目。生きることと、死ぬことと。それを、この鹿は受け入れている。ロホは、矢を放った。心臓を外さず、苦しませることなく、静かに、確実に命を奪う。鹿は、音も立てずに崩れ落ちた。ロホは、近づき、地に膝をついた。そして――目を閉じて、祈った。「いただきます。あなたの命で、私たちはまた歩けます。」「この命、無駄にはしません。」やがて、ファドとぺガスがやってきた。ファドは、鹿の姿を見て、黙って座った。ロホは手早く解体し、必要な肉を切り出すと、骨のいくつかは丁寧に包んだ。その夜、焚火の上で鹿肉が香ばしく焼けていた。ファドは夢中で頬張り、ぺガスも耳をぴくりと動かしていた。ロホは、焼きあがった最後の一切れを手にし、それを火にかざした。そして、ぽつりと呟いた。「……あなたのこと、忘れません。」翌朝、ロホは残った骨を、小さな石の祠に埋めた。その上に、一輪の野花を添える。旅人には通じぬ儀式。でも、それがロホのやり方だった。ファドが聞いた。「ロホ、あの鹿に話しかけたの?」ロホは、空を見上げて答えた。「……話しかけたんじゃない。聞かせたの。」「ありがとう、って。」命を奪うたびに、彼女は生きることの重さを抱え直す。それが、歩き続ける者の“狩り”。生きるために殺し、殺すことで、生きることを、ますます大切にする――ロホの狩りは、いつも祈りに似ていた。

  • ロホ ~歩き続ける者~   記憶の灯火と語り継がれる人

    その夜、ロホたちは風のない丘の上で野営していた。火は小さく、音もなかった。ファドはすでに眠り、ぺガスも静かに草を噛んでいた。ロホは、焚火を見つめながら、ぽつりと呟いた。「……助けた人に、感謝を。」あの賢者の言葉が、胸の奥で、微かに響いていた。ロホは、目を閉じた。そして、過去の旅の中に消えていった“あの人たち”を、ひとり、またひとり、そっと思い浮かべていった。干上がった井戸の村で、希望をなくしかけていた少年とその母。彼女は、最後の水を、ロホに託そうとした。ロホは水を返し、代わりに村の古い石壁を壊して新たな泉を掘り当てた。少年が最後に言った。「“ロホ”って、光の名前みたいだね。」戦火の町で、焼け落ちた橋の手前で泣いていた片足の兵士。彼は、もう一歩が踏み出せなかった。ロホはその背に手を添え、一言だけ囁いた。「この道の先に、あなたの命がある。」彼は、翌年、戦を捨てて教師になったと、風の便りで知った。追放された王族の少女が、身を隠していた市場の片隅。ロホは、彼女の前に座り、何も聞かずに果物をひとつ差し出した。少女は震えながら、それを受け取った。「あなたにだけは、名を告げてもいい気がする。」今、彼女は“ただの市民”として、誰よりも幸せに暮らしているという。思い出は、淡くて、温かくて、それでいて、少しだけ寂しい。ロホは、そのすべての“命の重なり”を、静かに胸に受け止めていた。そして、ぽつりと呟いた。「……ありがとう。」「私の旅に、意味をくれて。」焚火の火が、ぱちりと鳴った。星は瞬き、夜の帳が、やさしく世界を包んでいた。ぺガスが、ロホの背に鼻先を寄せた。ファドが、寝言のように、ふにゃりと笑った。ロホは立ち上がり、夜空を見上げた。この旅の先に、また誰かが待っているのなら。自分の手が、その誰かを照らすことができるのなら。「……歩くわ。」「“私がここにいた”という灯を、次の誰かに繋ぐために。」そしてまた、歩き出す。静かに、けれど確かに。命の記憶を胸に抱いて。──それは、旅人の話だった。焚火を囲む若者たち。夜風が肌を撫で、星々が頭上で瞬く頃。ひとりの老女が、静かに語り出した。「その人はね……名も名乗らなかったのよ。」「でもね、あの目を、私は今でも忘れられない。」「冷たいようで、あたたかくて、遠いよ

  • ロホ ~歩き続ける者~   命をいただくこと

    森の中。焚火の残り香のする広場で、ロホは立ち止まった。血の匂いが、微かに漂っている。近づくと、そこには、皮を剥がれ、投げ捨てられた鹿たちの屍があった。三頭。どれも腹だけ裂かれ、肉も取らず、放置されている。そしてその傍で、数人の若い傭兵たちが笑いながら酒をあおっていた。「ったく、こんなクソ森で狩りごっこしかできねぇなんてな!」「ま、戦場までのヒマつぶしだろ!」ロホは、ただ静かに、彼らの前に歩み寄った。そして、何も言わず、足元の鹿を見下ろした。傭兵たちは、最初はロホを面白半分に眺めていた。「なんだよ、ババア。肉が欲しいのか?」その言葉に、ロホは一度も顔を上げず、ただ言った。「――おまえたちは、狩人ではない。」声は低く、抑えられていた。だが、その場の空気が、一瞬で冷えた。「命を、遊びに使うな。」一歩、踏み出す。剣にも、弓にも手は伸ばさない。だが、傭兵たちは、無意識に腰を引いた。翠の瞳が、夜の焚火よりも冷たく光っていた。「おまえたちには、もはや、剣を抜く価値もない。」静かな声だった。なのに、何よりも重たく、刺さった。傭兵たちは、バツの悪い顔をして、焚火の周りから逃げるように去っていった。ロホは、静かに屍たちに膝をつき、一頭一頭、目を閉じさせた。そして、短く、祈った。「……無駄にして、すまない。」風が吹いた。鹿たちの毛皮が、さらりと揺れた。ファドが、そっと背後に寄ってきた。「ロホ……怒ってる?」ロホは答えなかった。ただ、いつもより少し強く、ぺガスのたてがみに手を添えた。それは、声なき誓いだった。二度と、この森で、命が笑いものにされないように。ロホはまた、歩き出した。静かに。だが確かに、怒りと祈りを胸に抱きながら。その夜。焚火の灯りの向こうで、ファドは丸くなりながら、じっとロホを見上げていた。「ロホ……」「なんでさ、オレたちって、生きるために、誰かを食べなきゃいけないの?」問いは、小さな焚火の音にかき消されそうなくらい、か細かった。ロホは、薪をくべる手を止めた。しばらく、何も言わず、ただ火を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。「……生きるって、奪うことだから。」ファドは、少しだけ肩をすぼめた。ロホは続けた。「でもね。それは“悪いこと”じゃない。」「誰かが、土に還り、誰かが

  • ロホ ~歩き続ける者~   賢者の言葉

    夕暮れだった。旅の途中、古びた祠の前で、ロホは一人の老賢者と出会った。雪のように白い髪。深い皺に刻まれた穏やかな微笑み。その目には、幾多の時代を越えてきた者だけが持つ、静かな光が宿っていた。ロホは、ぺガスを休ませ、ファドとともに、その老人のそばで、しばし火を囲んだ。言葉は、少なかった。けれど、心地よい沈黙が続いた後、賢者はふと、ロホに語りかけた。「ロホさん。」「助けてもらった人以上に、自分が助けた人には感謝しなさい。」ロホは、少しだけ眉を寄せた。「……助けた側が、感謝する、のですか?」賢者は、頷いた。その動きは、夕暮れの光の中で、まるで大地そのものが微笑んだかのように見えた。「人を助ける……こんな素晴らしいことができたのですから。」ロホは、しばらく、言葉を失った。彼女の中には、無数の出会いと、無数の別れがあった。救った命も、見送った命も、すべて、心に静かに積もっていた。だが。自分が「助けた」ことに、誇りを持つという発想は――どこか遠いものだった。賢者は、続けた。「助けたということは、あなたが誰かの希望になったということです。」「それは、この世界に、一輪の花を咲かせるのと同じです。」ロホは、ゆっくりと、火を見つめた。ぱちり、と、小さな薪が弾ける音。その光の中に、かつて手を伸ばした子供たちの笑顔が、命をつないだ者たちの声が、静かに浮かんだ。「……ありがとう。」ロホは、小さな声で、そう呟いた。賢者は、何も言わなかった。ただ、その光に包まれたまま、目を閉じ、静かに頷いた。夜が深まったとき、ロホは再び、旅立った。背を押してくれる言葉を、胸に抱きながら。「人を助ける。こんな素晴らしいことができたのだから――私は、感謝しながら歩こう。」銀の髪を、夜風が優しく揺らした。歩き続ける者の旅は、また、静かに続いていく。今度は、少しだけ、誇りと感謝を胸に抱きながら。

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