「言いたい事より、古田さんに訊きたい事の方がいっぱいあるんですけど……」湿り気のあるため息を吐いた後、瑞穂はゆっくりと古田に顔を向けた。「俺に……、ですか?」「はい」瑞穂は頷くと、次の句を述べた。「古田さんは、いつ和田マネージャーとマイさんとの関係を知ったんですか?」「あぁ……」古田はビールジョッキをカウンターテーブルに置くと、思い出した答えを瑞穂に対して告げた。「付き合ってる、って知ったのは先月です。もっとも、マイさんが和田さんに好意を寄せている、と知ったのはそれより前ですけどね。あの……、例のチーズフォンデュの店で、俺がマイさんの代役で来た時があったじゃないですか。あの、次の日です。マイさんから、代役の件に関するお詫びと自分と和田さんが付き合いだした、ってLINEが俺宛に送られてきたんですね。『古田さん、昨日はありがとうございます!おかげで助かりました!あっ、ここで一つ報告があるんですけど、私、和田さんと付き合う事になったんですね。古田さんから、和田さんに関する事を色々と聞いたのが良かったのかもしれませんね。そのお礼は、また後日させていただきます。失礼しました』ってね。で、先週の土曜日に似たようなテンションで、『結婚する』って報告をLINEで送られてきたんですけど、あまりにも話が早いですよね。聞いた俺も、まだ半信半疑で……」「はぁ」「多分、もう諦めろって意味なんでしょうね。マイさんが、俺にあんなLINEを送ってきたのは」付け加えた古田は、ビールを一口飲んだ。「諦めろ?」主語を欠いた古田の言葉の意味を計りかねた瑞穂は、首を傾げる。「あっ……」答えにくいのか、古田は視線を逸らすと、照れ隠しとして鼻の頭を人差し指で掻きながら、たどたどしく言葉を述べた。「俺ね……、実はマイさんの事が好きだったんですよ」「あぁ」古田の言葉に、納得した瑞穂は首肯《しゅこう》した。古田にとっては勇気を振り絞った告白であったのだろうが、瑞穂にとっては何度も予期した展開であった為、その告白にはさほど驚く事はなかった。「多分、マイさん。俺の気持ちに、気付いてたんでしょうね。だから、付き合う気は一切ありません、って意味合いであんなLINEを俺に送ってきた、っていうか……」古田は自嘲気味に笑うと、ジョッキに残っていたビールを一息
「先に、お飲み物をお願いします」着席した瑞穂ら二人におしぼりを渡しながら、店主が訊く。「ウーロン茶一つ。高畑さんは?」注文を告げ終えた古田は、瑞穂にドリンクメニューを手渡した。「えっ、ビール飲まないんですか?」「残念な事に、今日は車なんですよ」くしゃりと、新聞紙を丸めたような苦笑を浮かばせながら、古田は続きを口にした。「だから、あの日本酒の店もどっちにしろ楽しめなかったんですよ。酒、今日は飲めないですからね。まっ、さっきも言いましたけど、あの店は今度連れていってください。その時は昼飯抜いてきたりとか、死ぬほど腹を空かせた状態でいきますから」「あはは、お手柔らかにお願いしますね」再びやらかしたミステイクに、瑞穂は乾いた笑い声を上げる事でごまかすと、「生ビール」と店主に告げた。「逆に高畑さんは、ビールなんですね」「あっ、すいません一人だけ飲んじゃって。けど、今日はどうしても飲みたい気分なんです、ゴメンナサイ」瑞穂は舌を出すと、ラミネート加工を施されているフードメニューを手に取った。「古田さん、何、食べます?」「そうですね、ねぎまが欲しいですね。後は、純けいが欲しいかな。この二つを、2本ずつばかし食えたら、俺はそれでいいです。高畑さんは?」「あっ、アタシはつくねが欲しいですね。で、皮とももと、後は古田さんと一緒でねぎまを全部、2本ずつ」「あの、あんまり頼まない方がいいですよ。もし、期待通りの味じゃなかったら食いきれなくなって、逆にノルマになるかもなので」「あっ……、確かにそうですね。スミマセン」古田の忠告に瑞穂は小声で返したのと同時に、店主がビールの入った中ジョッキと、ウーロン茶を二人の元へ持ってきた。「ご注文はお決まりですか?」先程の無愛想な口調で、店主は瑞穂ら二人に注文を促す。「えーと、ねぎまが4本で、後は純けいが2本。で……」古田は瑞穂に目をやった。「あっ、つくね2本下さい。以上で。もう、それでいいんで」「ごゆっくりどうぞ」店主は瑞穂ら二人の前から歩き去っていくと、冷蔵庫から串に刺さった鶏肉を取り出し、それらを次々と炭火の上に載せていった。·「さて、飲み物も来ましたし、乾杯しますか」古田はウーロン茶が入ったグラスを手に取り、顔の高さまで持ち上げた。「すいません。今日はビールに付き合えなく
地元の駅である「足塚」で、瑞穂は電車を降りると、くだりの人物からのレスポンスを、ドトールで文庫本を読みながら待っていた。9時過ぎに、件《くだん》の人物から駅付近に到着した、というメッセージがLINEを通じてあった。瑞穂はドトールを後にすると、待ち合わせ場所であるコンビニに入り、件の人物が来るのを待つ。「お待たせしました」二分程経った頃、件の人物がコンビニに来店し、瑞穂に対して頭を下げた。見慣れた水色の作業着、無精髭。古田の姿が、そこにはあった。「いえ、こっちこそ急にお呼び出ししてスミマセン」瑞穂はイヤホンを外すと、携帯オーディオプレーヤーをバッグに入れる。「しかし、ビックリしましたよ」古田は瑞穂と共にコンビニを後にすると、笑いながら続きの言葉を述べた。「『古田さん、お疲れさまです。突然なんですけど、晩ごはんを一緒に食べませんか?というのも、地元で気になるお店があるんですけど、女一人じゃちょっと入りにくいお店なんですね』なんてLINEが、いきなり入ってくるんですからね」「いえ、この間『もつ鍋』をおごっていただいたので、そのお礼も兼ねて……」瑞穂は取り繕いの微笑を浮かばせ、その場をやり過ごした。「……あの、もしかして、もう晩ごはん食べてました?」「いえ、まだでしたよ」返した古田は、周囲をキョロキョロと見回す。「ちょっと色々あって、メシ食ってなかったんです。そこに、高畑さんのあのLINEが入ったから、ちょうどいいかな、と思って」「お仕事ですか?」「いえ、違います」ここで古田の表情が、にわかに曇った。「ヤボ用ですよ、ちょっとしたね」続けて古田は述べると、再び辺りをキョロキョロと見回し、「店、どの辺りですか?」と、瑞穂に訊いた。「あっ……」瑞穂は、咄嗟に場繋ぎの言葉を吐くと、思考をフル回転させて次の句を述べた。「あ、あの、前にお肉を買った『のはら』があるじゃないですか。あそこの商店街を真っ直ぐ行ったら、日本酒の美味しそうな店があったんですね。LINEにも書きましたけど、女一人じゃ入りにくいお店ですし、古田さんお酒好きそうだから、ちょうどいいかなと思って」正直、気になっている店など瑞穂の中に無く、LINEの文言は完全に古田を誘い出す口実であった。「日本酒、ですか」瑞穂の言葉を聞き終えた古田は、苦笑を浮かばせた
会社の最寄り駅の改札をくぐり、電車へと乗ると、瑞穂は夜空の下で懸命に存在を鼓舞している街のネオンサインを、ボンヤリといった様子で窓から眺めていた。何も考えたくなかった。一つ何かを思考すると、恐らくそこから「ねずみ算」的に思考が広がっていき、感情の爆発を引き起こしてしまうのは目に見えている。帰宅時、瑞穂は大抵携帯オーディオプレーヤーで音楽を聴いているのだが、流れてくる音楽さえも思考の爆発の一端になり得ると思った瑞穂は、心を護るように腕を組み、ただ夜景を見るのみにとどめた。いつものように、一駅で電車を降りると、瑞穂は改札をくぐり、乗り換えの路線まで早足で歩を進めていく。駅ビル内を突っ切り、エスカレーターを上る。その時、思考が悪魔のささやきとばかりに不意に瑞穂を襲った。──そういえば、このエスカレーターを上りきったトコロにある改札で、自分と和田マネージャーの『あの夜』が始まったんだな。不覚とも言えるその思考は、瑞穂の中で感情の爆発を引き起こした。早送りにされたカビの増殖のように、瞬時に瑞穂の中で広がっていく、負の連鎖。臨界点を突破し、やがて破裂したその衝動は、瑞穂にはもはや抑える事が不可能なシロモノとなっていた。──慟哭。破裂し、粉々に散ったガラス玉の破片は、瑞穂の心をチクチクと執拗に攻撃し、その痛みに耐えかねた瑞穂は両目からとめどなく涙を流した。慌てて壁際へと緊急避難し、瑞穂は襲ってきた慟哭《どうこく》を通行人から隠すと、自身の中で暴威をふるっている感情の爆発が収まるのをただ待つ。家に帰りたくない、と瑞穂は思った。家に帰れば、独りだ。電気のついていない真っ暗な部屋に独りで帰宅し、静寂の中センチな気分を抱えたまま朝を迎える、という行為は自分が「孤独」だという事実を改めて認識するだけだ。でも、帰らなくてはいけない。自分はもう30歳の大人の女であり、公衆の面前で少女のようにただ泣いて、ヒロイックな感傷にひたる年齢ではないのだ。数分程、壁に向かって声を殺して泣き続け、やがて慟哭が収まりを見せ始めると、瑞穂は顔をうつむかせながらトイレへと入った。流れの一環として、瑞穂は便座へと腰掛けると、バッグからスマートフォンを取り出し、LINEのアイコンをクリックする。──『何が原因でそんな気持ちになってるかは分からないけど、本当にツラいと思ったら
「和田マネージャー。さっきの話で、今度結婚する人はお互い学生時代から知っている、って言ってたじゃないですか」「うん」「という事は、『昔からの知り合い』って事ですよね」「うん、そう」「あの、もしかしてなんですけど……」瑞穂は上目遣いで、うかがうように和田マネージャーに対して切り出した。「その人って、もしかして私の知っている人ですか?」「どうだろうね……」和田マネージャーは視線を上にやり、考え込んだ後、首をひねった。「今年の夏の始めにバーベキューをやって、そこに高畑さん達が来てくれたでしょ。そのバーベキューに、その子も呼んだんだ。その時は俺、その子と付き合う気は無かったんだけど、もし高畑さんがバーベキューの参加者を覚えているのなら『知っている』と言えるかもしれない。確か、高畑さんがその子と話しているのを俺、見た記憶があるしね」──やはり。和田マネージャーの言葉を聞き終えた瑞穂は、抱いた疑惑がほぼ確信へと変わった。同時に、憤りの炎が瞬時に全身にまで燃え広がったが、瑞穂は歯噛みする事でその憤りを抑え込む。「高畑さん、大丈夫……?」表情に現れてしまったのか、ただならぬ瑞穂の雰囲気に和田マネージャーは恐る恐るといった感じで尋ねてくる。「大丈夫です」瑞穂はカップの持ち手を力強く握り、込み上げてくる怒りを懸命に押し殺す。そして、ラッシュアワーのように口内に押し寄せてきた言葉を、瑞穂は唾棄するように和田マネージャーに対してぶつけた。「あの、和田マネージャー。もしかしてなんですけど、その結婚する人って、杉浦マイさんですか?」「えっ?」瑞穂がその名前を知り得ている事が予想外だったようで、和田マネージャーは表情を強ばらせると「う、うん。そう」と、小声で返答した。「金曜日の用事をキャンセルして自分と会ってくれた、って和田マネージャーは言ってましたけど、その金曜日の用事が何なのかを、マイさんからは一切聞いてないんですか?」瑞穂は射抜くように和田マネージャーを見据えると、言葉という名のナイフで、目の前の和田マネージャーをなます斬りにしていく。「いや、それは……」瑞穂の剣幕におののいた和田マネージャーは、音を立てて固唾を呑み込んだ後、たどたどしく言葉を続けた。「俺は、友達とご飯を食べに行く約束を断った、としか、彼女から聞いてないんだ。
火曜日以降の和田マネージャーの態度は、月曜と変わらぬままだった。あのアバンチュール以降、瑞穂に対して続けられていた「素っ気ない態度」はすっかりと鳴りを潜め、和田マネージャーのその対応は、かつてのフランクな対応を彷彿とさせるモノであった。──先週はまだ話せない、とか言ってたし、やっぱりこの間の土日辺りに、何か和田マネージャーの心境を一変させるような出来事があったんだな。結論付けた瑞穂はそれを聞き出したくて仕方なかったが、その衝動をどうにか抑え込み、指定された木曜日まで唇を閉ざす。やがて、木曜日を迎えた。6時前に退社した瑞穂は、駅までの帰り道をしばらく歩くと、自然な体《てい》を装いながら脇道へと逸れ、そこでひっそりと営業している純喫茶へと入った。『お疲れさまです。今、「コロンビア」って喫茶店でコーヒーを飲んでいます。駅に向かって真っ直ぐ歩いた後、百均を左に曲がってしばらく歩けば出てきます。分からなければ、また連絡下さい』和田マネージャーにLINEを送ると、瑞穂はスマートフォンをテーブルの上に置き、バッグから取り出した文庫本を読みながら、和田マネージャーからの次のアクションを待つ。果たしてLINEに書かれた簡単な説明だけで、件《くだん》の喫茶店へとたどり着く事が出来たのか。瑞穂が文庫本を20ページ程読み進めた辺りで、入口のカウベルが店内に鳴り響き、和田マネージャーは来店してきた。「ゴメンね、手間かけさせちゃって」和田マネージャーは眉尻を下げながら瑞穂に歩み寄ると、着ていたレザージャケットを脱ぐ。「話ってなんですか?」瑞穂は文庫本とスマートフォンをバッグへと戻すと、これまでの積もった思いから、抑揚を欠いた声で冷淡さを演出しながら和田マネージャーに対して問い掛ける。「まぁ、高畑さんには色々と報告しなきゃいけない事があるからね……」和田マネージャーは直接的な回答を避けると、レザージャケットを椅子の背もたれにかけ、瑞穂の真向かいに座った。「さて、何から切り出すべきかな」冷水を持ってきた老紳士に、アメリカンのホットを注文すると、和田マネージャーは陰鬱な表情でため息を吐く。まるで、ガン宣告を告げる医者のようだ。その表情から、自身にとって「good news」ではないな、と思った瑞穂は覚悟を決めた。「まず、高畑さんには一つの報告をさせても